石川貞清
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石川貞清(いしかわ さだきよ、生年不詳 - 寛永3年4月8日(1626年5月3日))は、安土桃山時代の武将・大名。石川光重の子。犬山城城主。備前守。初名、光吉、三吉、とも。号は宗林。子に石川藤右衛門重正(宗雲)。
豊臣秀吉に使番、金切裂指物使番として仕え、小田原の役で功績を挙げ、天正18年(1590年)尾張犬山1万2千石(のち12万石)を領し、また、豊臣家の信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官としても活躍した。天正19年、文禄の役の拠点となる肥前国名護屋城の普請工事を担った。
関ヶ原の戦いにおいて西軍につき、居城の犬山城に稲葉貞通・典通父子、稲葉方通(稲葉一鉄4男)、加藤貞泰、関一政、竹中重門らと籠城。しかし、彼らは極秘に東軍の井伊直政に密書を送り、内応を約定して引き上げていったので、城を出て本戦に参加、宇喜多隊の右翼、口北野付近に陣した。敗戦後所領を没収されたが、犬山籠城中に東軍に加担した木曽郷士らの人質を解放したことが評価されたのと池田輝政の働きかけにより黄金千枚で助命され、剃髪して宗林と号し、京で隠棲し、茶人・商人(金融業)として余生を過ごした。また、慶長18年(1613年)、幕府に500石を給されて召抱えられたと「徳川除封録」にある。寛永3年(1626年)に没す。子孫は商人となった。
[編集] 真田信繁(幸村)との関係
石川貞清の妻(重正の妻との説もある)は、真田幸村として知られる真田信繁の七女おかね(於金殿)とされる。その縁で商人(金融業)として成功した宗林は、大阪の役で戦死した信繁の正妻(おかねの実母で、大谷吉継の娘あるいは養女)竹林院を生涯に渡って援助したと伝えられる。
最終更新 2009年8月6日 (木) 11:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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