石橋湛山
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| 石橋 湛山 (いしばし たんざん) ![]() |
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| 在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年2月25日 |
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| 生年月日 | 1884年9月25日 | |
| 出生地 | 東京市麻布区芝二本榎 (現・東京都港区) |
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| 出身校 | 早稲田大学 | |
| 学位・資格・称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 早稲田大学名誉博士(Doctor of Laws) |
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| 前職 | 衆議院議員 自由民主党総裁 |
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| 世襲の有無 | 世襲ではない | |
| 選挙区 | 静岡2区 | |
| 当選回数 | 衆 | |
| 党派 | 自由民主党
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石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年9月25日 - 1973年4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家。第55代内閣総理大臣。自由民主党総裁。従二位勲一等。早稲田大学名誉博士(Doctor of Laws)
戦前から一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱えて、日本の敗戦後は日中米ソ平和同盟を主張して政界で活躍する。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣する。幼名は、省三(せいぞう)[1]。実父は総本山身延山久遠寺第81世法主杉田日布。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれる。実父の湛誓は、当時東京大教院(現・立正大学)の助教補(助手→助教)を務めていた。母・きんは、江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女である。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた。故あって母方の姓である石橋を名乗った[2]、[3]。
1885年に父親の湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡増穂町)に在る昌福寺の住職へ転じる為に、母親のきんと共に甲府市稲門へと転居する。1889年に、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居する事になり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校する。
1894年に父親の湛誓が静岡市の日蓮宗本山青龍山本覚寺の住職に転じる事になり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村→若草町、現・南アルプス市)に在る長遠寺の住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)に預けられる。以来実質的な親子の関係は絶たれて、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。湛山自身は、「もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいはその余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。…望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と『湛山回想』に記している[4]。
中学生時代でのかつて札幌農学校(現・北海道大学)第一期生としてクラーク博士の薫陶を受けている大島正健校長との出会いは、湛山の人生観に大きな影響を与えており晩年に至る迄湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。
1902年3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、“湛山”と改名している[5]。翌月に、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)受験の為に上京する。その際に正則英語学校に通っている[6]。しかしながら同年7月の試験は不合格となる。翌年に再度受験するが又もや失敗して、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して9月に入学する。こうして、東京での下宿生活が始まっている[7]。
[編集] ジャーナリスト時代
早稲田大学を卒業して、更に一年間研究科で勉強する。1908年12月に、 島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は東京毎日新聞を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社する。
兵役を経て東洋経済新報社に入社する。大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。又三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張する等(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。 1924年12月に第五代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降。)に就任する。
部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては新平価での金本位制復帰を主張して、旧平価での復帰や財界整理を主張する勝田貞次や堀江帰一逹や大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。 行政面では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張する。
日中戦争勃発から日本の敗戦に至る迄、『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は署名記事を書く事が困難だった多くのリベラリスト逹(清沢洌等)にも匿名での論説の場を提供する。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいておりかつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていた為に、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが廃刊は免れる。
アジア・太平洋戦争では、息子の1人が召集先の戦地にて戦死してしまう。
日本敗戦直後の1945年8月25日には、論説「更正日本の進路~前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べている。
その2ヶ月後の10月13日(土曜日)附『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張している。(『石橋湛山評論選集』東洋経済新報社、1990年、391-392頁)
[編集] 政界へ
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、1946年に自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第1次吉田茂内閣の大蔵大臣として入閣する。
大蔵大臣在任時にはデフレーションを制える為のインフレーションを進めて、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進する。
しかし戦後補償打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げる様に、石橋は要求する。アメリカ合衆国は諸外国の評判を気にしたことと以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減すること。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われて、1947年に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令によりGHQによって公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。[[1951年の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山一郎派の幹部として打倒吉田に動いた。
1954年の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。石橋は中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。1955年11月、日中輸出入組合の結成を支援し中国との貿易が軌道に乗るようになる。
同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田を継承した緒方竹虎の自由党が合同して自由民主党が結成され、これに入党した。
[編集] 憲法と軍隊
日本国憲法と軍隊の在り方を語った発言は、時代や状況によりいくつかの変遷がある。
1946年3月に「憲法改正草案を評す」で、日本国憲法に関しては憲法九条に該当する草案第二章の戦争放棄を「最早日本は敗戦国でも、四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、予ねて日本に於て唱えられた真実の神国に転ずるものである。之れに勝った痛快事があろうか」と評価した。
だが1950年から1953年頃の論調には、自衛軍設置の主張や共産・社会主義との対決姿勢(後に自ら廃稿した「第三次世界大戦と世界国家」)が見受けられる。ただしこれが平和主義の否定といえるかについては、朝鮮戦争という危機状況や、自由・自民党の幹部としての公人の立場があった事は考慮に入れる必要はあるだろう。一方で私的に記した日記の中でも、1950年の記述で、「今日の世界に於て無軍備を誇るのは、病気に満ちた社会に於て医薬を排斥する或種の迷信」と非武装中立の主張を公的な発言以上に辛辣に評してもいる。
1953年の総選挙では、鳩山自由党の政策委員長として政策をまとめて「憲法を国情に適するように改正」「戦争否定の精神は国策として存置するが、戦争発生防止のため自衛軍を組織する」などを明記した。これは後年の「国としての軍備を持たず国際紛争を武力をもって解決していくのではないと、世界に宣言したことは…人類最高の宣言であると信じている。これが少し時勢に早かったというのであれば、修正の箇所だけあとに加える…『九条は現代の世代において論理通りにいかぬので、世界の国々が恒久平和の理想に燃え、同一精神、同一歩調のとれるまで、しばらく停止する』という具合」という主張(1966「中小企業」)にも合致する。
1957年、首相に就任した年の新春特大号の東洋経済「石橋湛山大いに語る」では「国連に対して義務を負うということは、軍備ということも考えられる」とし、同時期の「プレスクラブ演説草稿」では「世界の実情から判断して、国の独立安全を保つのに必要な最小限の防衛力はこれを備える国際義務を日本国民は負うものであると信じます」としている。但し同稿の中で「人類を救わんとするならば、われわれは軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません」と、冷戦の平和解決と軍縮を主張した。
米ソ日中平和同盟を提唱してからは再び平和憲法維持を強調(「池田外交路線へ望む」)し、各国の軍備でなく国際警察軍によって平和を守る「世界連邦」実現への努力を説いている(「日本防衛論」)。湛山は朝鮮戦争の時期にも「破局的な第三次世界大戦がいやだというなら、そこ(各国の軍備全廃)まで行かなきゃダメだ」と駄目を押し「その場合は国を亡ぼしてもいいという覚悟をしなければとてもできない」(1952東洋経済新報「問われるままに」)と現実と理想のギャップを示しながら、熟慮・覚悟の伴わない理想論を戒めている。
湛山は後年「私の戦争反対論には、理屈の外に、実はこの(軍隊時代の)実弾演習の実感が強く影響していたと思う」「もし世の人が皆戦争をさように身近に考えたら、軽率な戦争論は跡を絶つに違いない」(「湛山回想」)と振り返っている。戦争を嫌悪した湛山だが、彼にとっての軍隊体験は、平和についての思索や公共生活の訓練として実のあるものだったようだ。
憲法は国民に義務を負わせるべきか、という議論に関しては、専制独裁に対抗するために主権を抑えようとした「十九世紀の憲法」からの脱却を説き、民主主義国においては国民が権利を持つ以上は義務を自覚しなければいけないと主張。「義務の規定に周密でない憲法は、真に民主的なものとはいえない」 と憲法における義務規定の充実を望んだ。
[編集] 総理総裁
詳細は「石橋内閣」を参照
1956年10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退。これを受けてアメリカ追従を主張する岸信介が総裁選に立候補、これに対し石橋は社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ。1回目の投票では岸が1位であったが、決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかしながら前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り更に石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ足並みが乱れ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的にほぼ全ての閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足している(一人内閣)。親中派でもある石橋政権の樹立によって日本を反共の砦としたいアメリカのアイゼンハワー大統領は岸を望んでいたために狼狽したという。
内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れる。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると石橋は「政治的良心に従う」と潔く退陣した。石橋の病気療養には野党でさえも好意的であり、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたいもの」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王、羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸が任命された。
石橋はかつて『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃されて帝国議会への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して退陣を勧告する社説を書いたことがあった。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのである。
[編集] 退陣後
幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。
1959年9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中華人民共和国を訪問した。政府の一員ではない石橋は訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処はつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談を実現させた。冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張。この主張はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。
その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど自民党内ハト派の重鎮として活躍したが1963年の総選挙で落選し、そのまま政界を引退した。
[編集] その他の活動
1952年12月から1968年まで立正大学の学長を務めている。
[編集] 思想・評論
・大正元年(1912年)『東洋時論』 明治天皇と明治時代を記念した明治神宮建設計画に際して。
東京のどこかに一地を相して明治神宮を建つるなどということは実に愚な極みである。こんなことは、断じて先帝陛下(明治天皇)の御意志にもかなったことでないのみならず、また決して永遠に、 先帝陛下を記念しまつる所以でもない。真に、先帝陛下を記念しまつらんと欲すれば、まず何よりも先帝の残された事業(注:憲政や産業、民の福利)を完成するということを考えねばならぬ。 しかして、もし何らか形に現われた記念物を作らんと欲するならば、「明治賞金」の設定に越して適当なものはない。(注:ノーベル賞はアルフレッド・ノーベルがその資産を世界文明のために 賞金として遺したことにより、永遠に世界の人心に記念された。世界の人心を新たにし、その平和、文明に貢献するために、「明治賞金」こそ先帝陛下の御意志と最も合致する。)
・大正四年(1915年)『東洋経済』社説 第一次大戦参戦(ドイツへの開戦)と対支21ケ条要求について
吾輩は我が政府当局ならびに国民の外交に処する態度行動を見て憂慮に堪えないものがある。その一は、露骨なる領土侵略政策の敢行、その二は、軽薄なる挙国一致論である。 この二者は、世界を挙げて我が敵となすものであって、その結果は、帝国百年の禍根をのこすものといわねばならぬ。~英国がドイツに向かって戦を宣するや、我が国民は一斉に起って論じて曰く、 ドイツが青島に拠るは東洋の禍根である。日英同盟の義によってドイツを駆逐すべし、南洋の独領を奪取すべし、帝国の版図を拡げ大を成す、この時にありと。 当時吾輩はその不可を切言したけれども、朝野を挙げて吾輩の説に耳を仮すものなく、ついにドイツと開戦の不幸をとなり、幾千の人命を殺傷した上に、これらの領土を維持するために 相当大なる陸海軍の拡張が必要のみならず、独米の大反感を招けるは勿論、あるいは日英同盟さえ継続し得ぬ破目に陥りはせぬかを危ぶまれる。実に対独開戦は最近における我が外交第一着の そして取り返しのつかぬ大失策であって、しかしてこれ一に、考えざる領土侵略政策と、軽薄なる挙国一致論の生産物といわねばならぬ。 対支談判は、ドイツと開戦して青島を取ったことから糸を引いて出た失策ではあるが、その我が帝国にのこす禍根に至っては一層重大である。我が要求が多く貫徹すればするほど、世人はこれを 大成功として祝杯を挙げるだろうが、吾輩は全く所見を異にして、禍根のいよいよ重大を恐るるものである。~このたびの事件で、我が国が支那およびドイツの深恨を買えるは勿論、米国にも 不快を起こさせたは争えぬ事実である。かつて世界が日本の手を以て、ロシアの頭を叩かせたように、これらの諸国は日英同盟の破棄を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、日本の立場を 転覆せしむるか、それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。その場合は、今回得た物の喪失だけでは到底済まず、一切の獲物を元も子もなく、取り上げられるであろう。 これ吾輩の対支外交を以て、帝国百年の禍根をのこすものとして、痛憂おく能わざる所以である。
・大正十年(1921年) 『東洋経済』社説 一切を棄つるの覚悟
我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。 大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。 ~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる 一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、 世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の 列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に 置くものではないか。
・大正十三年(1924年)『東洋経済』社説 中央集権から分権主義へ
元来官僚が国民を指導するというが如きは、革命時代の一時的変態に過ぎない。国民一般が一人前に発達したる後おいては、政治は必然に国民によって行われるべきであり、役人は国民の公僕に 帰るべきである。政治が国民自らの手に帰するとは、一は最もよくその要求を達成しうる政治を行い、一は最もよくその政治を監督しうる意味にほかならない。 このため、政治はできるだけ地方分権でなくてはならぬ。できるだけその地方地方の要求に応じえるものでなくてはならぬ。現に活社会に敏腕をふるいつつある最も優秀の人材を自由に行政の中心 に立たしめえる制度でなくてはならぬ。ここに勢い、これまでの官僚的政治につきものの中央集権、画一主義、官僚万能主義(特に文官任用令)というが如き制度は根本的改革の必要にせまらざれる を得ない。今や我が国はあらゆる方面に行き詰まってきた。しかしてこの局面を打開して、、再び我が国運の進展を図るためには、吾輩がこれまで繰り返しいえる如く、いわゆる第二維新を 必要とする。第二維新の第一歩は、政治の中央集権、画一主義、官僚主義を破壊して、徹底せる分権主義を採用することである。この主義の下に行政の一大改革を行うことである。
[編集] エピソード
石橋が首相を退陣した時にその潔さを国民は高く評価しているが、弁護士の正木ひろしは私的な感情で「公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判している。
その後、石橋の全集が作られる事になる時に東洋経済新報社の編集者は全集に封入する月報のコラムの執筆を正木に依頼した。かつて石橋の部下であったその編集者は、石橋への賛美一色のコラムを集めたのでは一方の意見に偏らない言論の必要性を唱えて来た石橋の信念に反すると考えたのである。正木が書いた石橋への批判はそのまま掲載される事になった。
[編集] 年譜
- 1884年9月 - 東京市麻布区芝二本榎(現在の港区)にて、生まれる。
- 1885年3月 - 父親が山梨県南巨摩郡増穂村(現在の増穂町)に在る昌福寺の住職に転じた事に伴い、母親と共に甲府市稲門に転居する。
- 1894年9月 - 父親が静岡市(現在の静岡市駿河区)に在る青龍山本覚寺(日蓮宗本山の1つ・由緒寺院)住職就任の為に、山梨県中巨摩郡鏡中条村(若草村→若草町を経て、現在の南アルプス市)に在る長遠寺の住職を務めている望月日謙に預けられる。
- 1895年4月 - 山梨県立尋常中学校に、入学する。
- 1902年3月 - 省三を、湛山と改名する。 山梨県立第一中学校を、卒業する。
- 1903年9月 - 早稲田大学高等予科に、編入する。
- 1904年9月 - 早稲田大学大学部文学科(現在の文学部)哲学科へ進級する(当時の學校長は、鳩山和夫)。
- 1907年7月 - 早稲田大学大学部文学科を首席で卒業(英文科を含む)して、特待研究生として宗教研究科へ進級する。
- 1908年7月 - 宗教研究科を修了して、島村抱月の紹介で毎日新聞社(東京毎日新聞を出している方)に入社する。
- 1909年8月 - 毎日新聞社(経営は芳しくなく、この年に報知新聞社へ東京毎日新聞を身売りして報知新聞の傍系紙として存続する)を、退社する。
- 1909年12月 - 東京麻布の歩兵第3連隊に、入営する。
- 1910年11月 - 軍曹に昇進して、除隊する。
- 1911年1月 - 東洋経済新報社に入社して、『東洋時論』の編集を担当する。
- 1911年9月 - 見習い士官として、3ヶ月の召集を受ける。
- 1912年11月 - 福島県伊達郡保原町(現在の伊達市)生まれの岩井うめと結婚 する。岩井家は、旧藩時代、米沢藩士として家老職を務めた「名門の家柄」である。
- 1913年 - 陸軍の、歩兵少尉となる。
- 1915年11月 - 東洋経済新報社の合名社員に、選ばれる。
- 1924年9月 - 鎌倉町議会議員に当選する。(~1928年8月) 12月 - 東洋経済新報社第五代主幹に就任
- 1925年1月 - 東洋経済新報社代表取締役・専務取締役に、就任する。
- 1935年9月 - 内閣より、内閣調査局委員に任ぜられる。
- 1940年11月 - 東洋経済研究所を設立して、所長並びに理事に就任する。
- 1941年2月 - 東洋経済新報社の社長制新設に伴い、代表取締役社長に就任する。
- 1945年3月 - 早朝の大空襲で、芝の居宅が焼失してしまう。
- 1945年8月 - 連合国軍(アメリカ合衆国・中華民国・イギリス・ソビエト社会主義共和国連邦)に対して日本が、アジア・太平洋戦争に敗戦する。
- 1946年3月 - 山川均提唱の民主人民連盟世話人会に、参加する。
- 1946年4月 - 戦後初の総選挙に立候補して、落選する。
- 1946年5月 - 第1次吉田内閣の大蔵大臣に、就任する。
- 1947年4月 - 静岡県第二区より総選挙に立候補して、初当選する。
- 1947年5月 - GHQにより公職追放となる。
- 1951年6月 - 公職追放が解除されて、自由党に復党する。
- 1952年12月 - 立正大学学長に、就任する。
- 1953年3月 - 政策審議会会長に、就任する。
- 1954年11月 - 岸信介と共に、自由党より除名処分を受ける。
- 1954年12月 - 第一次鳩山一郎内閣の通商産業大臣に就任する。
- 1956年12月 - 自由民主党第二代総裁に当選して、その後の国会指名により内閣総理大臣に就任する。
- 1957年1月 - 脳梗塞を、発症してしまう(公式発表は、老人性急性肺炎。)。
- 1957年2月 - 自由民主党総裁と総理大臣とを、辞職する。
- 1959年9月 - 中華人民共和国を訪問して、周恩来と会談する。
- 1963年9月 - 日本工業展覧会総裁として、中華人民共和国を訪問する。
- 1963年11月 - 第30回衆議院議員総選挙で落選してしまい、政界を引退する。
- 1964年9月 - ソビエト連邦を、訪問する。
- 1968年3月 - 立正大学学長を、退任する。
- 1973年4月 - 88歳で、死去する。戒名は、謙徳院殿慈光湛山日省大居士。
[編集] 栄典
[編集] 家族・親族
- 実家(杉田家)
- 自家(石橋家)
- 他家
- その他の親戚
- 山梨勝之進(海軍大将)
- 本郷房太郎(陸軍大将)
- 伊藤忠兵衛 (二代)(伊藤忠財閥二代目当主)など
[編集] 系譜
- 石橋家
杉田湛誓 ┃ ┃ ┣━━石橋湛山 ┃ ┃ 石橋藤左衛門━━きん ┣━━━石橋湛一━━━久美子 ┃ ┃ 岩井尊記━━うめ ┃ ┃ 足立正━━━足立龍雄 ┃ ┃ ┏足立正晃 ┣━━━┫ ┃ ┗啓子 山梨勝之進━━━泰子 ┃ ┃ ┃ 伊藤忠兵衛━━伊藤恭一 ┃ ┃ ┃ ┃ ┏伊藤勲 ┣━━━━┫ ┃ ┗武子 ┃ ┃ 本郷房太郎━━━周子 ┃ ┃ ┃ ┏河野謙三 ┣━━━河野太郎 河野治平━━┫ ┃ ┗河野一郎 ┃ ┃ ┃ ┣━━━河野洋平 ┃ ┏照子 田川平三郎━━┫ ┗田川誠治━田川誠一
[編集] 脚注
- ^ 湛山は『私の履歴書』に「幼名は省三と呼ばれ、愛称はセイチャンであった」と書いている
- ^ 湛山は、『私の履歴書』に「母はきんと言い、芝二本榎の相当大きな畳屋の娘で代々熱心な日蓮宗の信者であった。この畳屋は私が幼年のころは相当繁盛していたようだが、主人である母の兄が死んだ後であったろう、つぶれてしまった。私は事情があってこの母方の姓を名乗って、石橋というのである。」と書いている
- ^ 『石橋湛山 リベラリストの真髄』3-4頁
- ^ 『石橋湛山 リベラリストの真髄』4-5頁
- ^ 湛山は『私の履歴書』の中で、「父が若くして弟子入りした山梨県の昌福寺という日蓮宗の寺院には古くから湛の字を名につけるならわしがあった。父は湛誓と称し、私もこの理由で中学を卒業するころ湛山と改名したのである。」と書いている
- ^ 湛山は『湛山回想』の中で、「明治三十五年三月、中学を卒業すると、東京に出た。六月か、七月かにある第一高等学校の入学試験を受けるためであった。…神田錦町の正則英語学校に通った。…ここで私は、入学試験の準備をすることにした。しかし私は、この学校に来てみて驚いた。…大きな教室に、生徒はげたばきのままで雑然と入り込み、出席簿をつけるでもない。人気のある先生の時間には、あふれて、立っている生徒もある。かと思えば、ある先生の時間には、数えるほどしか出席者がない。しかも講義の途中でさっさと持ち物をかたづけて帰って行く生徒もある。いなか者の私は、これでも学校かとあきれたのである。…入学試験準備のための、そのころの学校は回想してみても愉快なものではなかった」と書いている
- ^ 『石橋湛山 リベラリストの真髄』9頁
[編集] 著書
[編集] 評論集
- 石橋湛山評論集(松尾尊兌・編、岩波書店、岩波文庫:ISBN 4-00-331681-9、ワイド版岩波文庫:ISBN 4-00-007005-3)
- 小日本主義-石橋湛山外交論集(増田弘・編、1984年5月、草思社、ISBN 4-7942-0186-9)
- 石橋湛山評論選集(1990年6月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06052-9)
- リベラリストの警鐘 石橋湛山著作集1-経済論(長幸男・編、1995年11月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06081-2)
- エコノミストの面目 石橋湛山著作集2-経済論(中村隆英・編、1995年11月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06082-0)
- 大日本主義との闘争 石橋湛山著作集3-政治・外交論(鴨武彦・編、1996年1月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06083-9)
- 改造は心から 石橋湛山著作集4-文芸・社会評論(谷沢永一・編、1995年12月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06084-7)
- 石橋湛山全集(石橋湛山全集編纂委員会・編、全15巻、東洋経済新報社)
[編集] 回想録・日記
- 湛山回想 (1985年12月、岩波文庫・岩波書店、ISBN 4-00-331682-7)
- 湛山座談 (1994年2月、同時代ライブラリー・岩波書店、ISBN 4-00-260173-0)
- 人間の記録47・石橋湛山 湛山回想 (1997年12月、日本図書センター、ISBN 4-8205-4290-7)
- 石橋湛山日記(上下巻、石橋湛一ほか・編、2001年3月、みすず書房、ISBN 4-622-03676-2)
- 上巻:ISBN 4-622-03677-0、下巻:ISBN 4-622-03678-9であるが、箱入りセット売り。
[編集] 参考文献
- 『私の履歴書 石橋湛山ほか』 日本経済新聞社 1958年 37-96頁
- ※新版 『私の履歴書 反骨の言論人』 日経ビジネス人文庫 日本経済新聞出版社、2007年
- 増田弘『石橋湛山 リベラリストの真髄』 中公新書 1995年
- 姉妹書に『石橋湛山 占領政策への抵抗』 草思社
- 半藤一利 『戦う石橋湛山 昭和史に異彩を放つ屈伏なき言論』 中公文庫、東洋経済新報社。
- 小島直記 『気概の人石橋湛山』 新潮社、新潮文庫、新版東洋経済新報社 2004年
- 長幸男『石橋湛山の経済思想 日本経済思想史研究の視角』 東洋経済新報社 2009年
- 江宮隆之『政治的良心に従います 石橋湛山の生涯』 河出書房新社 1999年、※読みやすい伝記
- 筒井清忠『石橋湛山 一自由主義政治家の軌跡』 中公叢書:中央公論社 1986年
[編集] 関連項目
[編集] 関連人物
[編集] 外部リンク
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 鳩山一郎 |
第55代:1956年 - 1957年 |
次代: 岸信介 |
| 先代: 愛知揆一 |
第12・13・14代:1954年 - 1956年 |
次代: 水田三喜男 |
| 先代: 渋沢敬三 |
第51代:1946年 - 1947年 |
次代: 片山哲(臨時代理) |
| 先代: 村上勇 |
第9代:1956年(兼任) |
次代: 平井太郎 |
| 党職 | ||
| 先代: 鳩山一郎 |
自由民主党総裁 第2代 : 1956年 - 1957年 |
次代: 岸信介 |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第54代 鳩山一郎 |
第55代 1956年 - 1957年 |
第56代 岸信介 |
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最終更新 2009年11月12日 (木) 07:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【石橋湛山】変更履歴




