石虎

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武帝 石虎
後趙
3代皇帝
王朝 後趙
在位期間 334年 - 349年
姓・諱 石虎
季龍
諡号 武皇帝
廟号 太祖
生年 295年
没年 349年
寇覓
陵墓 顕原陵
年号 建武 : 335年 - 348年
太寧 : 349年

石虎(せきこ)は五胡十六国時代後趙の第3代の皇帝。初代の石勒の従子(おいもしくは一世代下の親族)に当たるが、早く両親を失い、石勒の両親に養育された、そのため弟ともされた。

[編集] 経歴

312年から石勒の手足となり、前線で戦った。段部と講和の際に、盟約に派遣させた。313年、桃豹に代わり、魏郡太守となって、鄴を任された。319年、石勒が趙王 を称すると、単于元輔・都督禁衛諸軍事となった。321年、幽州の段部を打ち破った。その後車騎将軍になり、離石の鮮卑を討った。323年青州の曹嶷を滅ぼした。325年、洛陽から前趙の勢力を駆逐した。326年、石弘が鄴を任されると禁兵と車騎将軍の全てが石弘の配下に移された。王陽が非漢族の統率者にされた。328年8月、劉曜と戦い大敗した、12月に石勒と共に洛陽を攻撃した。329年9月、前趙を滅ぼした。伝国璽を石勒に 送った。330年、太尉・守尚書令・中山王とされ文官の首位に立ち、子の石邃が冀州刺史・斉公となった。332年、石弘が政務を見るようになると、権力を失った。しかし、石勒が病床に就くと、石勒の代理の様になった。石勒は石虎に、「周公や霍光がどうだったか、よく考えろ」と遺言した。

333年に石勒が没すると、太子の石弘に帝位は継承されたが、石虎は魏王・丞相となって権力を掌握し、石邃が魏太子となった。334年には、石虎は新帝を廃してしまい、自ら居摂趙天王となった。翌年には、襄国からに遷都した。337年大趙天王となり、石邃が天王皇太子となった。石邃は石虎の理不尽な対応から、「父を殺したい」と口走り、政務を見なくなった、石虎は石邃の側近を殺し、石邃を幽閉した。石邃は謝罪せず妻の張氏と共に殺された。石宣が天王皇太子となった。338年幽州で前燕に大敗した。339年荊州と揚州で東晋に勝利した。341年石韜を太尉とし、石宣と共に政務を見させた。

石虎の統治した時代は、石虎自身の暴虐非道な性格をうつして、乱世であるこの時代の中でも最も非道が罷り通る時代と評されている。中でも、次々に大宮殿を造営したり、統治下の漢人から、馬、美女、物資などありとあらゆるものを徴発し続けた結果、漢人のうち10に7が破産し、また妻を取られて自殺するものも後を絶たなかったという。

348年、石虎がとくに寵愛していた石韜を、石宣が地位を奪われることを恐れて殺害した。石宣が石虎も殺そうとしていた事が判明すると、石虎は怒り狂って石宣を惨殺し、他の宗族や臣下まで多数虐殺した。この事件後に発病した。新たに太子を立てる事になり、燕王石斌(石勒の子)彭城公石遵(石邃の同母弟)斉公石世(劉曜の娘の子)の内から石世が選ばれ、劉氏が皇后に立てられた。

349年に「天王」位の称号を廃して、皇帝の位についた。病状が悪化すると、石遵を大将軍、石斌を丞相にして、石世を補佐させようとした。劉皇后は石斌が石世の害になると考え、石虎が危篤になると石斌を殺した。没後、太子の石世が跡を継いだ。

また、凶暴な性格ではあるが、仏教に対しては寛容であり、仏図澄を国師待遇していた。

[編集] 伝記資料

  • 晋書』巻104、105「石勒載記」巻106、107「石季龍載記」
先代:
廃帝海陽王(石弘)
後趙天王・皇帝
第3代:333年 - 349年
次代:
廃帝斉公(石世)

最終更新 2009年8月5日 (水) 12:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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