碓氷峠
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碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある日本の峠である。標高は約960m。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。
古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。近世以降は碓氷峠で統一されている。
目次 |
[編集] 地理
1200万年ほど前には現在の碓氷峠は海中にあり、クジラやサメなどが生息していた。700万〜200万年前には碓氷川上流地域で噴火活動があり、110万〜65万年前の溶岩噴出で碓氷峠付近は平地となった。その後、30万〜20万年前に霧積川によって東部で侵食があり、急な崖が形成された。以上のような経緯から、地層は下部が第三紀中期の海生堆積岩類、上部が後期中新世から前期更新世の火山岩類で構成されている[1]。下部の堆積岩層は泥岩、砂岩、凝灰岩などで侵食されやすい。また、上部の火山岩層の厚みは数百mに達する。
東部が激しく侵食されたため現在の碓氷峠は直線距離で約10kmの間に標高差が500m以上に達する急峻な片勾配の峠となっていて、群馬県側の麓・横川の標高は387m、長野県側の軽井沢は標高939mである。特に、中仙道を例に取ると坂本宿から刎石山までの水平距離700mの間に標高差が300mもある[2]。山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる一般的な峠と異なり、通行には近代に至るまで数多くの困難を抱えた。
気象学的にも、碓氷峠は関東地方と中部地方の境界にあたる。日中、関東地方南岸では大規模な海風(太平洋海風)が生じて、およそ秒速5mほどで大気が内陸に向かって進む。一方で中部地方内陸部では上空に低圧部が現れ、谷から山頂に向かう風が生まれる。午前中は碓氷峠にこれら2つの流れが両側から向かってきて、峠では風が真上に向かって平衡状態となる。午後になると地表面の温度が高くなって双方の勢いが増すが、関東地方からの流れがより強くなるため南東風が吹き、関東地方の大気が中部地方に流入する経路となる。なお夜間には海風が支配的となって南東風が続く[3]。また、山を登る空気は気圧が低くなるとともに膨張して温度が下がり、飽和した水蒸気が霧となるため、関東平野から碓氷峠を登って流れ込む南東風が原因となって軽井沢では年間130日以上も霧が発生している[4]。
[編集] 自然環境
植生は付近にあって標高の近い浅間山山麓部分と似ており、ブナやコナラなどの落葉樹、およびモミやカラマツといった針葉樹が生えている。下草としてはゼンマイやススキ、リンドウ、ニッコウザサなどがある。浅間山との違いとしては、ムラサキやシモツケソウ、モウセンゴケが多いことが挙げられる[5]。
一帯には古くからニホンザルが生息しているが、1980年代から人里に降りてきて農作物などに被害が出るようになり、1984年には碓氷郡松井田町(当時)など3町で計2,000万円以上もの被害があった。その原因としては
などが指摘されている[6]。上信越自動車道の開通後は交通量の減った国道18号への出没も増え[7]、1990年代末以降は碓氷峠を拠点に軽井沢の中心部にも出現している[8]。
[編集] 歴史
[編集] 古代
古来より坂東と信濃国をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄坂だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する[9]。現在でも碓氷峠を境にして、東側が関東文化圏・関東方言に、西側が信越文化圏・信越方言に分かれている。
碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。7世紀後葉から8世紀前葉(飛鳥時代後期 - 奈良時代初期)にかけて、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世の中仙道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。なお、万葉集にみえるように防人たちにとっては故郷との別離の場となっていた[10]。
平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化した。これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。碓氷関は天慶3年(940年)に廃止され、中世に何度か復活した[11]。
古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。
[編集] 中世
中世には碓氷峠付近の主要道は現在の大字峠(地図中の旧碓氷峠)を通るようになった。この峠には熊野皇大神社(碓氷峠熊野神社)があり、同神社正応5年4月8日(1292年5月3日)紀の鐘銘から、この頃までには大字峠の道が開設されていたといわれる。入山峠を通る古道よりも坂本付近などが峻険で通りにくかったが、そのため防備に優れていたとされる[12]。
応永30年(1423年)の国人一揆や永享12年(1440年)の結城合戦では、碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた。永禄4年(1561年)に長尾景虎が小田原城の後北条氏を攻めた際に武田信玄が笛吹峠に出陣し、信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない、永禄9年(1566年)には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出した。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、豊臣秀吉は前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させている[12]。
[編集] 近世
江戸時代には中仙道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東と信濃国や北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた。峠の前後には坂本宿・軽井沢宿が置かれている。
ただし、古道はその後も活用されており、たとえば難所の碓氷峠を避けることができる鰐坂峠ルートは「姫街道」「女街道」と呼ばれていた。この道は本庄で中仙道本道から分かれて藤岡・富岡・下仁田を経由し、鰐坂峠(和美峠付近)を経て信州に入り、追分宿付近で本道と合流していた。しかし、こちらも難所であることに差はなかったといい、本道と同様に西牧関所が置かれていた。
天明3年(1783年)の浅間山噴火では3尺(90センチメートル)以上の砂が積り、碓氷峠往還は8日間にわたって通行不可能になっている[12]。碓氷峠は中仙道有数の難所であったため、幕末の文久元年(1861年)に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中仙道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。なお、約3万人の和宮一行は同年11月9日(1861年12月10日)に軽井沢を発って碓氷峠を越え、翌10日(1861年12月11日)に横川に宿泊している[13]。
[編集] 明治時代以降
明治に入ってもその重要性は変わらず、1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。「碓氷新道」と呼ばれたこの新道は国道18号(の旧道)にあたり、坂本宿からその後碓氷湖が作られたあたりまではおおむね和宮道を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中仙道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に3キロメートルほどの場所に移動した。この結果、碓氷峠越えの道は3km長くなったものの平均勾配が半分以下に低減された[14]。その後「旧軽井沢」と呼ばれるようになった地区は中仙道旧道に沿った場所で、軽井沢駅周辺は明治時代に開発された新道沿いにあたる。なお、1878年には明治天皇が北陸巡幸に出かけ、9月6日に碓氷峠を越えている。
大正以降はトラックなどの往来も盛んになり、失業対策も兼ねた公共事業の一環として1932年から翌年にかけて拡幅および一部舗装工事が行なわれ、これを記念した石碑が県境に残っている[14]。なお、第二次世界大戦中には牛や馬の峠越えによる物資の輸送も行なわれた[15]。国道18号の碓氷峠の区間は、1956年(昭和31年)から拡幅や改良・舗装工事が進められていたが、カーブが184個もある事などから限界があり、交通需要の高まりに応えるため1971年に国道18号のバイパスである有料道路の碓氷バイパス(入山峠を通る、かつての古東山道のルート)が開通した。碓氷バイパスは2001年11月11日より無料化され、かつての中仙道はハイキングコースとして整備された。1993年には上信越自動車道が開通したことから、1979年には交通量が2,000台/日あった明治時代の新道もその重要性は薄れつつある。なお上信越自動車道の建設に当たっては、同道路内で最長となる全長1,267メートルの碓氷橋が、碓氷川などをまたぐように架橋された。
[編集] 現在の交通量
2005年の上信越自動車道の碓氷峠付近(群馬・長野県境)の交通量は以下の通りである[16]
なお、2005年の国道18号の碓氷峠付近(安中市松井田町原甲)の交通量は平日が2,016台、休日が4,129台[17]、2001年の碓氷バイパスの1日当たりの交通量は平均10,235台だった[18]。1993年の予測では上信越自動車道、碓氷バイパスの交通量はそれぞれ8,000台、7,000台になると見込まれており[19]、実際の値はともにこれを上回っている。特に碓氷バイパスは1993年の交通量およそ15,000台からの半減が予想されたが、利用台数はそれほど減っていない。
[編集] 鉄道
[編集] 鉄道の建設
鉄道においても碓氷峠を越えることは早くから重要視され、上野駅-横川駅間が1885年に、さらに軽井沢駅-直江津駅間が1888年に開通すると当区間が輸送のネックとなり、東京と新潟の間の鉄道を全線開通させる事が強く望まれた[14]。なお、1888年から1893年にかけては碓氷馬車鉄道という馬車鉄道が国道18号上に敷設されていたが、輸送可能な量が少ない上に峠越えに2時間半もかかっていた[20]。スイッチバックやループ線などを設ける方法では対処できないため、視察したドイツのハルツ山鉄道を参考にしてアプト式(アブト式)ラックレールを用いる事を提案した仙石貢と吉川三次郎のプランが採用された。この案では中仙道沿いに線路を敷設するため資材や人員の運搬コストを低減できる一方で、最大で66.7‰(パーミル・千分率。1/15 = 約3.8度)という急な勾配になる。なお、この際に鉄道建築師長のボーナルは和美峠や入山峠を通る1/40程度の勾配の案を提示している[21]。
1891年3月24日に工事は起工したが、急勾配でアプト式のラックレールを用いる際には列車の推進力を十分に考慮する必要があった。ボーナルはその解決策として、大きなスパンに従来よく使われていた鋼桁ではなくレンガ製のアーチを用いている。また、工事中の1891年10月に濃尾地震が起きてレンガ造りの建造物が倒壊した事を受け、橋脚に石柱を組み合わせたりレンガを縦に積むなどの地震対策が採り入れられた[21]。このような技術が評価され、碓氷第三橋梁などの一連の橋梁、隧道などは1993年から翌年にかけて近代化遺産として国の重要文化財に指定されている[22]。ただしアーチ部分の耐震性については効果は限定され、完成後の1894年6月の東京湾北部地震(マグニチュード=7.0)ではアーチにひびが入り、同年から1896年にかけてレンガを巻き立てる補強が行なわれた[23]。
このような経緯を経て、延長11.2kmの間に18の橋梁と26のトンネルが建設され、着工から1年9ヵ月後の1892年12月22日に工事が完了し、翌1893年4月1日に官営鉄道中山道線(後の信越本線)として横川〜軽井沢間が開通した。碓氷峠を越えることから「碓氷線」、また横川と軽井沢から「横軽(よこかる)」とも呼ばれる。なお、当時の通常の蒸気機関車ではこの傾斜の登坂が困難であったが、その後技術の進歩により、京阪京津線や東急玉川線は碓氷峠と同じ66.7‰、さらに箱根登山鉄道は80‰の勾配をラックレールなしで登坂している。
[編集] アプト式鉄道
トンネルの連続による煤煙の問題から、乗務員の中には吐血や窒息する者も現れ[14]、1911年に横川駅付近に火力発電所が設けられて1912年には日本で最初の幹線電化が行われた。
電化により碓氷線の所要時間は80分から40分に半減して輸送力は若干増強された[20]が、輸送の隘路であることは変わらず、「東の碓氷」は「北の板谷」、「西の瀬野八」などと並び、名だたる鉄道の難所として称された。
1900年に大和田建樹によって作成された『鉄道唱歌』第4集北陸編では、碓氷峠の区間は以下のように歌われている。
- 19.これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし
- 20.くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ
更に『鉄道唱歌』と同じ年に作成された、現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。
- 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い
[編集] 粘着運転化
太平洋戦争後は輸送の隘路の解消のため最急勾配を22.5‰ とする迂回ルートも検討されたが、最大66.7‰ の急勾配は存置したまま一般的な車輪による粘着運転で登坂することになり、1961年に着工し1963年7月15日に旧線のやや北側をほぼ並行するルートで新線が1線で開通した。同年9月30日にアプト式は廃止され、さらに1966年7月2日には、旧アプト式線の一部を改修工事する形でもう1線が開通し複線となった。これによって当区間の所要時間は40分から下り列車は17分、上り列車は24分に短縮された[24]。
しかし通常の車両ではこの勾配に対応できず、登坂力、ブレーキ力を補うためEF63形を補助機関車として連結することとなった。電車や気動車についてもこの区間は力行せず、補助機関車の動力のみで走行することとした。また通過車両は車体の挫屈を防止するため台枠や連結器の強化を要し(通称「横軽対策」。対策施工車は識別のため車号の頭に「●(Gマーク)」が付された)、編成両数が最大8両に制限された。
1968年以降、EF63形との協調運転により最大12両編成での通過を可能とした電車(169系、489系、189系:識別として形式末尾番号が9)が投入され、輸送力の増強に寄与したが、抜本的な輸送改善には至らなかった。1985年(昭和60年)頃には余剰のサロ183形を改造した自力登坂可能な187系(第2案)も計画されたが、北陸新幹線(長野新幹線)建設決定にともない、計画は放棄された。
[編集] 長野新幹線開業に伴う廃止
碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の長野新幹線開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川 - 軽井沢間)は、県境を越えることもあってローカルの旅客流動が少なく、長距離旅客が新幹線に移動するとこの区間を維持できるだけの旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター鉄道などに転換されることなく廃止された。代替交通機関としてはJRバス関東による碓氷線の運行が始まり、軽井沢駅と横川駅を片道34分で結び1日7往復が運行されるようになった[25]。
なお、長野新幹線は碓氷峠北方にある碓氷峠トンネルを通っている[20]。新幹線開業後の1997年10月の高崎-軽井沢間の1日平均の乗車人員は上下方向で合計およそ3万人、乗車率は68%と、前年同期に同区間を走っていた信越線特急・あさまと比べて約1万2千人増加した[26]。この区間は30‰の勾配が連続しているため、E2系のように勾配対策を施した車両のみが入線できる。
この廃止の方針について、群馬県安中市の新島学園高等学校に長野県から通学する生徒の保護者を中心に廃止許可取消の行政訴訟が前橋地方裁判所に起こされたが、行政不服審査法による手続きを行わなかったため、内容に踏み込むことなく「原告不適格」の判決が下され、東京高等裁判所の控訴審、最高裁判所の上告審も前橋地方裁判所の決定を支持し、廃止の是非が司法の場で本格的に問われることはなかった。
旧碓氷線の廃線部分11.2kmのうち、群馬県側の約10kmは碓氷郡松井田町(現・安中市)が買収しており、残り約840mについても北佐久郡軽井沢町に買取を陳情する動きがあった[27]。廃線跡は廃止前と変わらない状態を保つように管理されており、かつての線路跡が遊歩道となっている以外にも線路部分が多く残されている(遊歩道区間は、横川駅〜旧線のめがね橋までとなっている)。また碓氷峠鉄道文化むらでは、横川駅側の廃線跡を利用して、かつて使われていた保守機関車500Aなどを走らせている[28]。
[編集] アプト式時代に使用された機関車
- 国鉄3900形蒸気機関車
- 国鉄3920形蒸気機関車
- 国鉄3950形蒸気機関車
- 国鉄3980形蒸気機関車
- 国鉄EC40形電気機関車
- 国鉄ED40形電気機関車
- 国鉄ED41形電気機関車
- 国鉄ED42形電気機関車
[編集] 粘着式(非アプト)時代に使用された機関車
[編集] 近代以降の事故
碓氷峠では明治以降だけでも多くの事故が起きている。1891年から1893年の線路の建設に当たっては、完成を急いだ事などから500名以上もの殉職者が生じている[14]。また、1950年には熊ノ平駅で数回にわたる土砂崩れが起きて50名が亡くなった。勾配が極めて急なことから列車脱線事故もしばしばあり、例えば1963年10月16日にトンネル内で貨車が[29]、1975年10月28日には電気機関車が脱線している[30]。特に1975年の事故では機関車4両が10m下の県道斜面まで転落し、乗員3名が重傷を負った。また、被災した機関車4両も復旧不能で全機廃車となった。
夏季は豪雨で国道18号が崩落することも多く、1979年8月12日には雷雨のため長さ15m、幅2.5mにわたって崩落して通行止めとなり[31]、1992年8月29日には長さ150m、幅6mにわたって道路北側の土砂が崩れた上に地盤が緩み、復旧に2ヶ月を要している[32]。この他、1969年には山火事で国道18号の3kmの区間が通行止めとなった事もある[33]。
[編集] 伝承・歌など
碓氷峠には、他の峠などと同様に豪傑の伝承などがある。古代では頼光四天王の一人、碓井貞光が有名であり、先祖が勅勘によって配流され碓氷峠に隠棲していたといわれる[34]。中世から近世にかけては「灘田の左太夫」(なだたのさだゆう)の話が伝わっている。実在した土豪の佐藤氏が左太夫のモデルになったとされ、具体的な内容としては
- 足が非常に速く、茶飲み話をしている間に信濃国まで行ってソバを刈ってきた[35]。
- 怪力の持ち主で、加賀藩主の駕籠を一人でかつぎ、反対側には巨石をぶら下げたまま休まずに峠を登りきった[36]。
- 力を利用して悪事を働いたため峠を追われ、裏妙義に隠れ住んで亡くなった[36]。
などがある。
近代に入ると多くの文学者が訪れ、正岡子規は1891年の『かけはしの記』[37]の中で、碓氷峠を馬車鉄道で越えた時の様子を描いている。
大正時代には、北原白秋が『碓氷の春』という一連の和歌を詠んでおり、その一首を刻んだ歌碑が横川駅下のドライブインに存在する[10]。また、頂上の熊野神社の境内には山口誓子や杉浦翠子が碓氷峠を詠んだ俳句の句碑がある[38]。西條八十の詩・『ぼくの帽子』の冒頭には碓氷峠が登場し、森村誠一の『人間の証明』はそれを引用している。
[編集] 見所
- 旧中山道 坂本宿
- 旧碓氷線 碓氷第三橋梁(めがね橋)
- 碓氷湖 : 碓氷川に建設されたダム湖であるが、周辺が整備され新緑や紅葉の名所である。
- 碓氷峠鉄道文化むら:付近の観光施設
- アプトの道 信越本線の横川を基点として、旧上り本線を経由し、丸山変電所、峠の湯を経て、現在は碓氷第三橋梁(通称めがね橋)までが通行可能となっている。熊ノ平(旧本線の信号所)までの遊歩道化が進捗中で、熊ノ平構内において本格的な工事が行われており、近い将来、計画区間の整備がようやく完成する。なお、熊ノ平から軽井沢の間は、アプト時代の物も残ってはいるものの、一部はトンネルがふさがれたりしており、現時点での整備計画はない。なお、横川から峠の湯までは旧上り本線をアスファルトで舗装しているが、急勾配のレールの重さによるずれにより、所々にアスファルトにひびが入っている(現在も年間に数ミリのレールのずれが起きている)。2005年(平成17年)に開通したトロッコを運転している旧下り本線は柵で分離し、立入出来ないようになっている。なお、トロッコは碓氷峠鉄道文化村の遊具という扱いとなっている為、同施設の入場券が必要で、さらに11月から3月中旬までは運休となる。運転は土曜・休日及び特定日の日中となっており、横川の鉄道文化村から峠の湯までの2.6キロを走る。
- 丸山変電所 アプト式鉄道電化の際に軽井沢の矢ケ崎変電所とともに建設された施設で、蓄電池室と機械室の2棟からなる。レンガ造りで丸山にある物は用途廃止後もそのまま放置される形となり残ったが、矢ケ崎の物は解体された。信越本線廃止後に遊歩道の整備にあわせて復元工事が行われ、2002年(平成14年)に完成した。この工事にあわせ、建物内部の一部のものが撤去されている。トロッコ開通により、丸山駅として停留所が新設されたが、アプト式時代には丸山信号所としていた場所となる。なお、廃線前から秋に咲くコスモスが絵になるとして有名ではあるが、このコスモスは付近の土地所有者が植えたもので、それが増えて現在のようになっている。
- 熊ノ平信号所 アプト式時代には駅として開業したもので、1968年(昭和38年)の粘着式運転の開始により、その後駅は廃止され信号所となる。駅としての機能があるときには玉屋(現在は坂本にある玉屋ドライブイン)が、峠の力餅を販売していた。1950年(昭和25年)に発生した土砂災害によって多くの犠牲者が発生し、殉難の碑が建立され、現在も毎年慰霊祭が行われている。慰霊碑に隣接して、熊ノ平神社もある。熊ノ平は現在は立入禁止となっている。
- アプト式時代のトンネルが3本、旧本線のトンネルが4本あるが、アプト式時代に作られた引き上げ線となるトンネルの1本が国道18号(旧道)に続いており、業務用の出入り口として使用されていた。現在も工事車両の出入り口となっており、入口の門は施錠されている。場内には変電所も放置されたまま残っており、そこに新たに気象観測の機器も設置されている。この他アプトの碑やホーム跡も残っており、廃線当時と状態は変わっていない。
- アプト式時代のトンネル・橋梁 国道18号(旧道)沿いで、至る所に見ることができる。トンネル・カルバート・橋梁に関して、熊ノ平から横川の方には案内看板が設置されているが、軽井沢に近い中尾橋やその近くのトンネルは特に案内板などは設置されていない。旧本線に関しても案内板などの設置はない。
- ゴルフ場付近 霧積温泉へ通じる道路で旧本線が観察できる。1975年(昭和50年)に発生した脱線転覆事故の際に出来たトンネル壁面の傷が、上り本線の第一トンネル出口に残されている。事故現場付近の植生が違っているが、旧本線から見ないとわからない状態となっている。なお、遊歩道化されていない部分の上り本線は草木が生い茂り、かなり荒れている。また、上り第一トンネル付近に出る所は吸血ヒルが生息している為、無用な立入は避けたい。
- 廃線区間の注意事項 遊歩道など開放された箇所以外の立入は禁止されており、許可がない立入は不法侵入罪となる。特にアプト式時代のトンネルなどは経年から危険である。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 野村、1996年、P.5-6
- ^ 野村、1996年、P.6
- ^ 鶴田、1985年、P.242
- ^ 朝日新聞 2006年6月14日付 夕刊、マリオン面、P.6
- ^ 本田、1988年、P.266
- ^ 朝日新聞 1988年12月10日付 朝刊、群馬地方面
- ^ 朝日新聞 1998年6月13日付 夕刊、娯楽面、P.7
- ^ 朝日新聞 2005年1月29日付 朝刊、オピニオン面、P.12
- ^ 倉田、1979年、P.65
- ^ い ろ 市川、1983年、P.190
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- ^ い ろ は 日本歴史地名大系
- ^ 倉田、1979年、P.67
- ^ い ろ は に ほ 倉田、1979年、P.68
- ^ 朝日新聞 1984年12月11日付 朝刊、解説面、P.4
- ^ 長野県 道路交通センサス
- ^ 国土交通省 群馬県の道路交通量一覧
- ^ 朝日新聞 2001年11月3日付 朝刊、群馬地方面、P.35
- ^ 朝日新聞 1993年3月8日付 夕刊、社会面、P.8
- ^ い ろ は 田島、1998年、P.11
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- ^ 文化遺産オンライン
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- ^ 朝日新聞 1997年11月5日付 朝刊、社会面、P.30
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- ^ 市川、1983年、P.191
[編集] 参考文献
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- 佐藤喜久一郎「歴史叙述のなかの正当と異端 碓氷峠における佐太夫伝説とその由緒」『日本民俗学 』240号、日本民俗学会、P.29-58、2004年
- 田島二郎「鉄路4代 - 碓氷峠を越えて」『土木学会誌』、83巻3号、P.10-11、1998年
- 野村哲「群馬県、碓氷川源流域にみる自然環境の形成要因 : 碓氷峠越えを困難にしている自然史的要因を探る」平成7年度版、『群馬県の地域情報に関する総合的研究:特定研究報告書』、群馬大学社会情報学部、P.3-10、1996年
- 本田正次「植物学のおもしろさ」朝日新聞社、P.262-267、1988年
- 鶴田治雄「光化学スモッグの碓氷峠越え 内陸域における大気汚染の動態」『科学』、55巻4号、岩波書店、P.239-243、1985年
- 市川潔「文学碑のある旅 -20-磯部温泉・碓氷峠(群馬県)」『俳句』、32巻3号、角川書店、P.188-191、1983年
- 倉田正「峠物語 碓氷峠」『道路』、464号、日本道路協会、P.65-70、1979年
- 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館 (『日本歴史地名大系』 平凡社、1979年〜2002年 を基にしたデータベース)



