社会党 (フランス)

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フランスの政党
社会党
Parti Socialiste
党首 マルティーヌ・オブリー
成立年月日 1969年
本部所在地 フランス パリ7区
国民議会(下院)議席数
186 / 577 (32%)
(2007年6月)
元老院(上院)議席数
111 /  343
2009年9月●日現在)
政治的思想・立場 中道左派
社会民主主義
民主社会主義
公式サイト www.parti-socialiste.fr
シンボル 赤いバラ
国際組織 社会主義インターナショナル
欧州社会党
  

社会党(しゃかいとう, Parti Socialiste)はフランス社会民主主義中道左派政党である。略称はPS2007年現在のサルコジ大統領の与党国民運動連合と対する主要二大政党の一つである。社会主義インターナショナル加盟政党。過去にミッテラン大統領ジョスパンら計6人の首相を輩出した。


目次

[編集] 歴史

現在のフランス社会党(PS)は、フランスの社会主義政党であったギー・モレが率いる第二インターナショナル・フランス支部(fr:SFIO)に、アラン・サヴァリとジャン・ポプランがそれぞれに率いる勢力が合流して1969年にひとまず誕生した。その後、1971年6月に開催されたエピネ大会[1]で、共和制度会議代表フランソワ・ミッテラン、マルクス主義のceres代表ジャン・ピエール・シュヴェーヌマン、北部出身の社会主義の闘士ピエール・モーロワ、中道社会主義者ガストン・ドフェ-ルらを中心にフランスの社会主義者が大同団結し、社会党に合流する形で現在至る組織が形成された。第一書記には旧社会党員ではなく、共産党との連携を主張するミッテランが新規合流組の結束により就任した。1972年6月、ミッテランはユーロコミュニズム路線を推し進めていたフランス共産党と左翼政府共同綱領を締結[2]し、1973年の国民議会選挙(総選挙)で復調を得た。1974年ジョルジュ・ポンピドゥー大統領が任期中に死亡し、大統領選挙に左翼統一候補として、再びミッテランが立ち、ヴァレリー・ジスカール・デスタンに敗北するも僅差まで迫った。

1974年の末に、かつてSFIOから分離したPSUからリーダーのミシェル・ロカールを含めた一部メンバーが再合流した。彼らは左翼キリスト教徒と非マルクス主義のグループを代表し、党内で最も保守的なメンバーとして、フランスの社会主義が市場経済を明確な受け入れたヨーロッパの社会民主主義路線であるべきことを主唱した。また、社会党の議席増加の勢いは共産党を恐れさせ、両党は共同綱領の更新に失敗した。

世論調査の前人気にもかかわらず、左翼連合は1978年の総選挙で敗北したが、1936年以来初めて社会党は共産党より多くの議席を獲得し、左翼第一党の地位を得た。この結果は党内部の危機を引き起こした。ミッテランの社共共闘路線に対して、ロカールは共同綱領が古めかしく非現実的であり捨てることを要求したのである。ミッテランは引き続き社会党と共産党の間の同盟なしで左翼が勝つことができないとして、ロカールに人気のあったにもかかわらず1979年の党大会で勝利し、1981年の大統領選挙の社会党候補に選ばれた。

1981年5月10日の大統領選挙でミッテランが現職のジスカール・デスタンを打ち破って当選して以降、主要政党として定着した。1981年の大統領選挙につづく6月の総選挙で第一党になり、社共連合政権が発足し、大統領職と首相職を社会党が独占した。首相には、ピエール・モーロワが就任。政権発足時より、国有化や積極的投資政策、労働時間の削減等の伝統的な社会主義政策を採ってきたが、インフレや国際情勢に押されて、1982年6月、一転、財政切りつめなどの緊縮政策に転換した。1984年7月、モーロワ内閣が退陣し、ローラン・ファビウスが首相に就任。共産党は連合政権から離脱した。

1986年3月の総選挙では、共和国連合(RPR)とフランス民主連合(UDF)の保守・中道連合に敗北して、社会党のミッテラン大統領と共和国連合のジャック・シラク首相の組み合わせで保革共存というねじれた第一次コアビタシオンが生まれた。 1988年5月、ミッテランがシラクを大差で破り大統領に再選し、直後の6月の総選挙でも第一党に返り咲いた。ミッテランはライバルの党内右派のミシェル・ロカールを首相に指名。ロカールは、社会民主主義混合経済を柱とする「新中道主義路線」を採用する。 ロカール退陣後、1991年5月、ミッテランはエディット・クレッソンを史上初の女性首相に指名するが、支持率が急降下し、地方選で大敗したため、1992年4月、クレッソンを更迭し、ピエール・ベレゴヴォワを首相にあてるが、1993年3月の総選挙では歴史的な大敗北を喫し、共和国連合(RPR)のエドアール・バラデュールが首相に就任し、第二次コアビタシオンとなる。

1995年5月の大統領選挙でシラクにジョスパンが敗北し下野したが、日程を繰り上げて行なわれた1997年6月の総選挙では、選挙前の予想に反して第一党となり、共産党や緑の党などとともに左翼連合政権を発足させ、リオネル・ジョスパンが首相に就任した(第三次コアビタシオン)。

2002年フランス大統領選挙、6月総選挙と連敗し下野。ジョスパンが引退し、彼に続くリーダーが不在であるが、2004年欧州議会選挙及び地方選で大勝し、党勢は回復。党首フランソワ・オランド (fr:François Hollande) の事実婚の妻セゴレーヌ・ロワイヤルは2006年4月7日2007年フランス大統領選挙への事実上のキャンペーンを開始。11月の党員投票により、同党の大統領候補に決定した。しかし、2007年の大統領選挙では、従来の社会民主主義を路線を主張した結果、中道層の支持を得られず、右派のニコラ・サルコジに敗北してしまった。これを受け、党内の右派からは伝統的な福祉国家路線の転換を求める声も挙がっている。サルコジ新大統領によるフィニョン内閣組閣でクシュネルが外務大臣として入閣するなど、党員や支持者中の有力者でサルコジに組するものが多数出た。

2007年国民議会議員選挙(6月10日、17日投票)では46議席増の186議席を獲得したものの、選挙後にオランドとロワイヤルが事実婚の解消を発表し、引き続き党勢は混沌としている。2008年3月の地方選挙ではサルコジ大統領の支持率低下などに助けられ、支持を伸ばしている。

2008年11月に行われた党首選では、ロワイヤルに対し左派色が強いリール市長のマルティーヌ・オブリーが立候補し、結果ロワイヤルは敗北する。その後、集計作業をめぐり双方が対立し、党員の中にはその混乱ぶりに呆れて離党希望者が続出した[3]。再集計により、オブリ陣営の勝利が確定したがオブリ本人には強固な支持層や人気には欠け、党運営で難しいかじ取りを迫られる可能性が強い。

[編集] 脚注

[編集] 歴代党首(第一書記)

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月6日 (金) 13:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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