神戸川崎財閥
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神戸川崎財閥(こうべかわさきざいばつ)は、男爵川崎正蔵によって設立された関西の財閥で15大財閥の1つ。単に「川崎財閥」と呼ばれることもあるが、同じく「川崎財閥」と呼ばれる東京川崎財閥とは無関係。創業者から「川崎正蔵財閥」とも、また正蔵は松方幸次郎を川崎造船所の社長に就任させて後継者にしたため「松方コンツェルン」とも呼ばれる。
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[編集] 川崎家の出自
正平3年に伊藤大和守祐重が京都から日向国に下向したとき、稲津、落合、湯地、川崎の四重臣が随行したが、この川崎氏が川崎財閥の創設者である川崎正蔵の祖先である。正蔵の曽祖父の時代に鹿児島に移住し、島津藩の御用商人として富裕な生活を送っていたが、父利右衛門の時代に没落して、木綿の行商を営んだ。正蔵は天保8年7月10日に、利右衛門の長男として鹿児島の大黒町で誕生した。父は正蔵に家運再興の希望を託して書道や国学を習わせたが、正蔵が15歳のときに死去した。嘉永6年、17歳になった正蔵は、わずかな資本をもって長崎に行き、外国商館から仕入れた洋品を鹿児島や大坂に送って貿易商として修行をつみ、夜は外国語の勉強に熱中した。鹿児島出身で長崎において貿易を営んでいた商人は数十人もいたが、正蔵はその中の有力者の1人である浜崎太平次の商店の店員をつとめたこともあり、中国へ樟脳を輸出する業務に習熟した。青年商人としての正蔵の評価は高くなってゆき、鹿児島の町方十人役に推挙されたが、中央舞台での活躍を夢見る正蔵はこれを断り、大坂向けの商業に打ち込んでいた。明治維新前後に財産を築いた多くの財閥創設者と同じように正蔵もまた勤勉な限界層出身者であった。
[編集] 貿易業
正蔵は幕末の騒然として雰囲気の中で、慶応3年から明治2年ごろまで、長崎で仕入れた洋品を大坂へ送ると同時に大坂で仕入れた商品を鹿児島その他へ回送して販売していた。この頃から彼は関西に経済活動の地盤を移し始め、大坂に家を借りて大坂店とした。大坂の豪商として高名であった稲西屋の花岡元七は正蔵にかなりの資本を融通してくれ、仕入の保証をしてくれた。しかし結局は正蔵の商業経営は失敗し、彼は薩摩藩の大坂下屋敷跡に藩士たちが設立した砂糖会社に入社し、明治5年までは砂糖の販売に従事していた。
[編集] 海運業
明治6年に正蔵は、大蔵省から琉球の国産品である砂糖と上布の調査を命じられ、現地調査から帰国した後、大蔵省駅逓頭の前島密にまず琉球-阪神間に定期航路を開く必要があることを進言し、正蔵個人で琉球航路を開く意思があると述べた。明治5年に日本国郵便蒸気船会社が設立され、政府は官船十数隻を無利息・長期年賦で同社に払い下げ、貢米輸送、郵便物運搬の特権をあたえて保護し、前島自身が主任官として全社を管理し、大坂-東京、横浜-石巻-函館を幹線航路としていた。このような情勢のため、前島は川崎独自の琉球航路開設を認めず、正蔵は前島のすすめにより副頭取として日本国郵便蒸気船会社に参加し、琉球航路を開設した。そして琉球航路を開設して琉球貢糖の内地輸送に成功したことが、正蔵が明治10年以後に官糖大阪販売所の特権的な取扱人に就任する前提になったのである。このころ日本国郵便蒸気船会社は三菱商会に圧倒されついに8年9月解散に追い込まれるが、正蔵は対等合併を主張したが岩崎は承知せず、逆に三菱会社の副社長に就任することを勧めた。正蔵はこれを拒否したが、9年4月には一時的に三菱会社の官事に就任した。川崎は三菱の海運独占が進んだ13年、渋沢栄一や益田孝と組んで三井資本を背景とした東京風帆船会社を創設したが、三菱の反撃にあって再び失敗した。大隈重信が失脚した後、政府と三井を主流として共同運輸会社が設立されると、川崎はこれにも参加して三度三菱に挑戦している。この過程は川崎の「かれが岩崎ならこちらも川崎じゃ」という意地によって支えられていた。その後、明治20年に官営長崎造船所が三菱に、官営兵庫造船所が川崎に、それぞれ払い下げられたことによって、両者の対抗は海運業から造船業に移行してゆくのである。
[編集] 築地造船所の開設
[編集] 造船業への関心
正蔵は明治2年9月、大阪-鹿児島間を西洋型帆船に乗って航海した時、土佐沖で暴風雨のため遭難しかけたが船は沈まず、西洋型船の耐久性を痛感し近代的造船業に関心をもった。また明治5年12月に彼の乗船が天草で座礁したが、その際志願して職工監督になり西洋型船の構造と機関を研究した。政府は明治3年に太政官布告で西洋型船の造船を奨励し、4年から岩倉使節団に参加して欧米から帰国した大久保利通は、西洋型蒸気船の建造が日本の殖産政策に急務であると主張していた。これまで海事産業に従事していた正蔵が造船業に関心を深めていく。正蔵は明治9年の時点で、100~400トンの船を年間20隻ほど製造できる造船所を東京と神戸に建設するため造船所資金賃下げ願を前島に提出したが大蔵省の勧業資金不足のため、川崎の従兄で同郷の中村喜作が神戸に所有する地所を抵当に、大蔵省から3万円の融資にとどまった。
[編集] 松方正義との関係
この頃から川崎の事業発展に重要な役割を演じたのは、川崎と同郷で当時大蔵大輔をつとめていた松方正義であった。松方と川崎は文久年間に鹿児島-大阪間の船の中で偶然言葉を交わしたのが最初の出会いであり、その後は格別の間柄となった。川崎が日本国郵便蒸気船会社で琉球航路の開発に努力していた頃、貢糖の運賃や航路の決定や、造船所資金賃下げ願について大蔵省から3万円の融資で援助をうけた。川崎はその代償として多額の政治献金を行っている。正蔵は明治6年から8年まで日本国郵便蒸気船会社の沖縄航路を開いて貢糖、貢布の輸送を行っているが、10年に大阪土佐堀に官糖取扱店を開き、これまでどおり沖縄から砂糖や布を輸送するとともに、この取扱店で販売しかなりの利益を得た。これによって経済的に安定した正蔵は取扱店を白井や肥後らの代理店に任せ、かねてから希望していた造船所の創設のため東京に移った。
[編集] 築地造船所と川崎兵庫造船所
川崎は明治11年に東京築地の官有地を借用し、築地造船所と付属の船具店を開設した。自己資金と大蔵省からの借用金3万円のほかに、前島密の斡旋で伊勢の諸戸清六(当時日本一の山林王)から十数万円を借り入れた。当時の造船業は技術基盤が非常に弱かったので幕府の主船技師、安井定保を200円という高給で雇い入れた。 しかし西洋型船の需要はきわめて少なく、しかも付近には明治9年10月に開業した平野富二の石川島造船所のほか日比谷の福沢造船所、南飯田町の大野造船所などライバル企業があり競争が厳しかった。また築地造船所を開設した直後から、築地には拡張の余地のないこともあって、自分の経済的基盤の強い関西、特に海運の要衝である神戸へ造船所の重点を移すことを考えていた。明治10年から神戸の土地を買い入れ始めていることもこれと関係を持っていた。築地造船所は造船業への参入に最も便利な東京での、仮の場所であった。正蔵は明治13年に神戸東出町の官有地を借り受け、14年に川崎兵庫造船所を開設した。これは湊川の対岸にある官営兵庫造船所の払下げをねらっての布石であった。これ以後は東京と神戸の2ヶ所に造船所を経営することになったが、市場が成熟していない造船業で、東西に分かれて経営を行って十分な利益を生むような状態ではなかった。
[編集] 明治10年代の初期的多角化
経営状態悪化のなかで正蔵のとった経営戦略は、造船業が利益を生むようになるまで、多角的な事業経営によって持ちこたえるということであった。築地造船所と川崎兵庫造船所のほかに、東京と函館の船具店、東京と神戸の機械所という関連事業、さらに大阪の官糖取扱所とそれに関係した白糖製作所と砂糖商社、風帆船会社と二ヶ所の貿易商社、さらに14年8月に浜崎太平次から買い取った旧薩摩藩の堺紡績所などを経営していた。そして出資した企業群の上に本店をおいて公債・地所、家屋を管理するとともに全体を統御するという初期的コンツェルンを形成していた。官糖販売の次に大きなウェイトを持っていたのは海運業であった。川崎は東京風帆船会社や共同運輸会社に参加して三菱汽船に挑戦したほかに、沖縄官糖の内地への輸送でも三菱と激しい競争を行っていた。官糖輸送以外にも、正蔵はかなりの船舶を所有して海運業を自営していた。このように官糖販売所と海運業を中心とした多角経営の利益によって、初期の両造船所の欠損を補い、さらに余った利益によって個人財産を蓄積した。そして明治10年代の多角経営は三井、三菱などのように、そのまま多角化が進行して財閥になったのではなく、20年代にはそのほとんどを中止して、造船業一本に集中していったところに、大きな特徴があった。
[編集] 官営兵庫造船所の賃下げと経営合理化
明治19年2月に農商務大臣の谷干城あてに官営兵庫造船所の賃下げ願を提出したが、平野富二というライバルがいたため簡単に許可されなかった。しかし平野にはすでに東京の石川島造船所が払下げられており、また川崎の方がわずかに先願であったという理由で、2ヵ月後に許可が下りた。正蔵は賃下げを受けた兵庫造船所で、事務員の削減、勤務時間の延長、分業の採用上架料の低減など徹底した合理化を断行し、さらに経営を確立するため19年9月に築地造船所の設備をすべて神戸の川崎兵庫造船所に移し、事業を神戸に集中した。つぎの目標は、巨大な船渠の建設であった。兵庫造船所に隣接する数千坪の陸軍用地の拝借を願い出て、明治21年8月に許可され、その後の発展に備えた。また堺紡績所を22年に新紡績会社に売却し、大阪官糖取扱所の経営にも23年から参加しなくなり、他の事業にも参加しなくなり20年以後は多角経営のすべてを売却して払下げに必要な抵当の資金とし、造船業に集中していった。20年から29年にいたる時期に、正蔵は個人経営の造船所の所長として、職員、職工600人の先頭に立ち、外国からの新技術を導入するとともに、自ら走り回って市場拡大の運動を行った。渋沢栄一との密接な関係を反映して、第一国立銀行との関係が最も深く、多額の預金を行うとともに、三井銀行や貿易銀行にも預金していた。そしてこの時期の企業者活動によって、造船業界における川崎正蔵の名は次第に高くなり、明治29年までに汽船80隻、器械91組、汽缶134個が製造された。正蔵の76年間の生涯において、もっとも革新的企業家の機能を発揮した時代であり、明治20年以前の政商の時代と29年以後の富豪の隠居時代にはさまれて、もっとも充実した企業者活動を行った時代であった。正蔵は明治23年には兵庫県多額納税者として貴族院議員に当選している。
[編集] 後継者問題
日清戦争をきっかけに、日本の海軍や海運業界は急激な発展をとげ、明治29年に公布された造船奨励法の影響もあって、川崎造船所の多くの古い設備は更新の必要が生じてきた。特に払下げの最初から船渠を持つ三菱長崎造船所に対抗するため、新しい大船渠の建設が至上命題であった。その莫大な資金を確保するため個人企業から株式会社への改組が課題になりまじめたが、そのころ大病をわずらい株式会社に組織変更するとともに、自らは第一線を引退する決意をした。ここで後継者を誰にするかという大きな問題が浮かび上がった。正蔵には3人の男子がいたが、長男、二男が急死し、三男の正治は文学に熱中し経営者になることを拒否したため、甥の芳太郎を後継者にと考えた。芳太郎は16年に正蔵を頼って上京し、正蔵の経営を手助けしていた。そして24年に養嗣子になることに内定した。しかし後継者として力不足であったので、24年7月から翌年9月までアメリカのイーストマン商業学校に留学し、帰国後の25年11月に正蔵の二女チカと結婚した。しかし大企業に発展しつつあった川崎造船所の総司令官として必要な統率力や意思決定力に欠けていた。そこで政治的援護者として関係の深かった松方正義総理大臣(当時)の三男松方幸次郎に、株式会社川崎造船所の初代社長に就任してくれるように依頼し、芳太郎は副社長として松方を補佐することになった。正蔵は造船所の家屋、土地、器械、船架、船渠地質調査費、貯蔵品、半製品総計103万円で新しい株式会社に譲渡し、その代わりに新会社の全株式4万株のうち2万株を取得した。松方新社長にとってまず着手しなければならなかったのは、船渠の築造で、すでに明治25年から川崎によって船渠建造のために地質調査が行われており、6年の歳月をかけて35年11月に竣工式を挙行し、最大修船能力6000総トンの乾船渠が完成して、三菱長崎造船所を急追することになった。正蔵は2万株の最大株主として、その配当によって富豪の生活を楽しむとともに、土地や証券に投資して財産を増大することに関心を移していった。革新的造船王の時代は明治29年で終止符を打ち、その後は富豪川崎正蔵の時代となる。
[編集] 正蔵の地主化
川崎造船所の経営が基盤に乗り始め、正蔵の個人財産が増大してゆくにつれて、土地投資は急速に増えていった。築地造船所設立1年前の明治10年を起点として、神戸を将来の本拠地と決めて土地を求めていたが、明治18年から23年にかけて神戸布引に豪壮な本邸と茶室や美術館が建築された背後の布引山には39年に川崎家の菩提寺の徳光院が創建された。また明治28年から35年の間に17回にわたって買い入れた土地は、兵庫県を中心に、鹿児島、鳥取、大阪、伊勢、京都、東京にまたがって、120町歩と6971坪におよんだ。このうち兵庫県須磨村には3年かけて別荘を新築し、伊勢二見浦、京都天竜寺には別荘を購入し、東京高輪南町は川崎の東京別邸であった。また静岡県興津にも別荘を買い入れ、引退した正蔵は土地や山林をあちこちに買い入れ5軒の別荘・別宅をかまえて富豪の隠居生活を享受し始めた。また39年に宮崎県東諸県郡綾町の松、杉、檜の山林1200町歩を買い入れ、この地方における有力な山林地主となった。この宮崎の山林は、正蔵の死後も川崎家の重要な財産であり、昭和26年に財産税支払いのために売却されるまで続いた。このような正蔵の地主化傾向は朝鮮が日本の植民地の性格を濃厚にすると、朝鮮半島にまで拡大されていった。明治39年に川崎開成社が創設され、朝鮮における小作地経営は順調にスタートし、正蔵の死後も昭和20年に敗戦まで増加し続けた。このような土地投資の拡大は寄生地主化の傾向を強くさせ、大正期以後に川崎家が財産を造船所に再投資するよりも、小作地や山林の経営に出資する結果となり、大正9年に成立した合資会社川崎総本店も、財閥の総司令部というよりも、川崎家の土地と有価証券の保有機関としての性格を強しくした大きな原因となった。
[編集] 神戸川崎銀行の設立
正蔵の土地投資とともに、明治20年代から30年代にかけての企業勃興期に新設された多くの株式会社の株式を大量取得するのに投資したが、その源泉は川崎造船所の配当金であった。正蔵と川崎家の持株比率は、増資のごとに減っていったが最大株主であることに変わりはなかった。正蔵は明治38年11月に、合資会社神戸川崎銀行を資本金100万円で開業した。頭取・川崎芳太郎、支配人・関口高次、監督・川崎正蔵という経営陣で、出資額は正蔵70万円、芳太郎10万円、正治10万円、愛之輔(正蔵の長女キクの二男)10万円であった。この川崎一族が出資した大部分は、正蔵がそれまでに買い込んだ株券による出資であった。神戸川崎銀行は、将来に造船所を中心に多角化を発展させて、財閥を形成する場合の機関銀行になるはずであった。正蔵が大正1年に死去すると、出資比率は遺言によって変更され、芳太郎が30万円、芳太郎の6人の子供のうち5人の男子が10万円ずつ出資して新たに参加した。そして第一次世界大戦の景気上昇とともに資本金500万円の株式会社になり、三支店を開設した。しかし大正9年3月に始まった戦後大恐慌は銀行をひとたまりもなく押しつぶし、同年8月に神戸川崎銀行は、浪速銀行や丁酉銀行とともに松方正義の長男である松方巌が頭取をしていた十五銀行に合併された。
[編集] 神戸新聞の経営
明治17年5月に創刊された「神戸又新日報」は経営不振に陥ると、正蔵は24年から出資し、築地造船所から子飼いの渡辺尚が明治30年10月に社長に就任した。そして川崎を説いて川崎系の資本を引き揚げさせ、独立した近代的新聞に発展させたが、やがて当時第2次松方内閣の財政政策や新聞弾圧政策を批判するに至った。これが松方正義総理大臣を父に持つ松方幸次郎・川崎造船所社長や、正蔵を刺激した。そこで正蔵は対抗できる新しい新聞社の創立を企図し、元神戸又新日報に在籍していた岩崎虔を創立準備責任者とし、明治31年1月に川崎芳太郎を社主とし、正蔵が10万円を出資して「神戸新聞」が創刊された。しかし大正7年の米騒動の際に社屋は焼打ちにあい全焼し、これをきっかけに川崎家の神戸新聞に対する批判が強くなり、神戸新聞は少しずつ自主独立路線をとって分離していった。
[編集] 川崎事業部の創設
川崎正蔵が死去した翌年の大正2年1月に、養嗣子の川崎芳太郎が遺産を相続し、それと同時に川崎事業部が設立され、川崎家の直営事業を統轄することになった。本店を神戸市西町34番地におき、川崎船舶部、川崎地所部、薩南鉱山合資会社、福徳生命保険株式会社神戸支部、川崎家関係の諸会社、財団を管理し、本店の指揮のもとにおくことを規定していた。内部組織として、庶務課、地所課、会計課、船舶課、調査課がおかれたが、船舶課と川崎船舶部は大正4年に廃止され、川崎造船所船舶部に引き継がれた。さらに大正8年6月に総務課と建築課が追加され、総務課が他の課を統轄する役割をになった。
[編集] 合資会社川崎総本店の設立
法人形態をとらない川崎総本店は、芳太郎が大正9年7月13日に死去して、長男の武之助が遺産を相続してから間もなく、9月1日に資本金1000万円の合資会社に再編された。出資者はすべて川崎家一族であった。設立の目的は川崎同族の所有する有価証券を有利に運用してその資産を保持することにあった。また純粋な持株会社の機能だけでなく、朝鮮における小作地経営、商事の布引商業、工業の布引鉱泉所の経営が行われたが、鉱業は川崎事業部の時代に薩南鉱山合資会社の経営に失敗したため、川崎総本店になってからは実際に経営されなかった。9月8日に合資会社川崎総本店の設立登記が行われ、川崎武之助が社長に就任したが、27歳であり、三代目らしく優柔不断な性格と、彼を助ける優秀な専門経営者がいなかったことが、その後の川崎財閥の運命に大きな関係をもつことになる。
[編集] 川崎家から松方家への資本移行
川崎正蔵から川崎造船所の経営を任された松方幸次郎は、明治末まで、有能な専門経営ではあったが、所有的経営者ではなく、川崎造船所の株式の大半は、川崎家が所有していた。しかし正蔵の死をきっかけに、幸次郎の持株は急激に増加し、逆に川崎家の持株は急激に減少した。大正10年には、川崎造船所の松方系の持株は17.9%に対し、川崎系は7.4%と松方一族の持株が川崎をはるかに抜き、この優勢は昭和金融恐慌後の昭和5年まで続いた。この持株率の逆転には、増資の払込金の負担にたえ得ない川崎家が、川崎造船所の新株式10万3000株を1株40円(評価額70円)の廉価で、大正10年3月に松方幸次郎ほか4名に売却したという事実があった。すなわち川崎造船所は大正10年を境として、松方家の資本的支配へと重心を移してゆくのであり、大正9年以降の松方家資本の増大は幸次郎の兄松方巌が頭取を務める十五銀行からの巨額の融資による株式取得が原因であった。松方兄弟の持株会社である松商会によって川崎造船所を資本的に支配するようになった幸次郎を中心とする松方兄弟の経営する企業の共通点は、兄弟たちが自己の株式にもとづく企業支配なしに、専門経営者として手腕を発揮し、また十五銀行や国際信託からの多額の借り入れであった。そして支配権が川崎総本店から松商会へ重心を移行してゆく川崎造船所を中心として、川崎系と松方系の資本と経営者資源が複雑に絡み合い、その周辺に松方兄弟の経営する企業群が十五銀行の融資を軸にして存在し、全体として薩州財閥と呼ばれた松方・川崎の複合財閥を形成していた。
[編集] 十五銀行と川崎造船所の破綻
大正9年から昭和6年までの約10年間の長期不況期に、中小財閥のほとんどは壊滅的打撃を受けたが、川崎財閥もその運命を免れることはできなかった。中心企業である川崎造船所の松方幸次郎社長は、慎重な不況対策などは一切採用せず、無謀ともいえる多角化戦略、すなわちストックボートの建造の続行と海運業への進出、さらに航空機製造と製鉄という新部門への進出を強行し、このため増大する資金のほとんどは十五銀行からの借り入れに依存していた。十五銀行は、松方兄弟の経営する諸企業、兄弟個人へ巨額の貸付を行っていた。「松方一派の機関銀行」と呼ばれていたが、当時の貸し出しの40%近くは薩州系企業に貸し出され、しかも無担保が50%をこえ、保有有価証券も薩州系企業が大部分で、しかもこれらの企業の大部分が重工業で、大戦中の戦時ブームの時は高収入益に酔ったが、連続不況期に入るといずれも業績が極端に低迷し、これが引金となって金融恐慌期に十五銀行は一度は壊滅の危機に追いやられ、その作用によって川崎造船所も破綻した。川崎総本店の収入の90%は株式配当であったが、関係企業は無配に転落し、持株会社としての機能は崩壊した。しかし川崎家の財産管理機関としての同社は、敗戦後の昭和23年まで存続した。
[編集] 川崎財閥の支配企業
- 川崎造船所
- 神戸川崎銀行
- 福徳生命保険株式会社
- 大福海上火災保険株式会社
- 神戸新聞社
- 川崎汽船株式会社
- 布引鉱泉所
- 布引商業
- 朝鮮農事部
昭和2年の金融恐慌後、川崎造船所は独自の重工業企業として再生し、昭和13年に名称を変更して川崎重工業となるが財閥解体において集中排除の対象となり、川崎製鉄(現在のJFEスチール)が分離した。川崎造船所の系列会社として設立された川崎汽船、川崎重工業の製鉄部門が分離独立した川崎製鉄がそれぞれ系列会社を従えてグループを作った。それらの3グループから旧神戸川崎財閥系企業集団としての川崎グループが形成された。
[編集] 川崎グループ
[編集] 川崎重工業グループ
三菱重工業とともに日本の総合重工業の双璧である川崎重工業を中心に、川崎商事をはじめ10社の系列会社が川重グループを形成し、これらの系列会社はすべて、川崎重工業が全株を所有するか、首位株主となった。
[編集] 川崎製鉄グループ
大正時代の川崎造船所の製鉄工場に源流をもつ川崎製鉄(昭和15年創設)は高度経済成長の波にのって急成長した。その系列会社は、川崎鋼板、川崎物産をはじめ19社に達した。これらの系列会社は、川崎製鉄が首位株主であり、系列会社同士の株式の持ち合いも進んだ。
[編集] 川崎汽船グループ
大正8年に川崎造船所の子会社として設立された川崎汽船は、川崎航空サービス、川崎近海汽船の2社を系列会社としてグループを形成した。
[編集] その他の川崎グループ
以上で述べた川崎重工業、川崎製鉄、川崎汽船の3社は川崎グループを形成し、「川崎睦会」という名称で第一勧業銀行(現在のみずほコーポレート銀行に相当)グループの有力メンバーになった。第一勧銀グループに入っているのは、神戸川崎銀行-十五銀行-第一銀行-第一勧業銀行という歴史的因縁のためである。
上記会社の他、関係会社として神戸新聞社、昭和シェル石油(母体の旭石油が川崎造船所系)、富士電機ホールディングス(母体の川崎電機製造が川崎造船所系)等がある。
[編集] 参考文献
- 「阪神財閥」三島康雄著 日本経済新聞社発行
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年8月18日 (火) 06:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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