神戸製鋼コベルコスティーラーズ
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| 神戸製鋼コベルコスティーラーズ | |
|---|---|
| 原語表記 | 神戸製鋼コベルコスティーラーズ |
| 愛称 | スティーラーズ |
| クラブカラー | 赤 |
| 創設年 | 1928年 |
| 所属リーグ | トップリーグ |
| 代表者 | 森下芳樹 |
| 監督 | 平尾誠二 |
| 公式サイト | 公式サイト |
神戸製鋼コベルコスティーラーズ(こうべせいこうコベルコスティーラーズ)は、兵庫県神戸市を本拠とするジャパンラグビートップリーグのチームの一つ。
目次 |
[編集] 略歴
1928年創部。1988年から1995年まで神戸製鋼所ラグビー部として関西社会人リーグ、全国社会人大会、日本選手権の3冠(7連覇)を独占した。
特に林敏之、大八木淳史、平尾誠二、元木由記雄、堀越正巳、萩本光威、大畑大介、武藤規夫、小村淳、冨岡洋、大西一平、伊藤剛臣、中道紀之ら日本代表級の主力選手を多数擁したほか、当時現役オーストラリア代表であったイアン・ウィリアムス、日本代表にも選出されたアンドリュー・ミラーなど、外国人選手を他チームに先んじて活用し、日本を代表する名門ラグビーチームに成長していった。 新日鐵釜石との相違点は地元の高校生を1から育成せず、体の出来上がった有望な大学生をリクルートし「勝ち方」を教え込んだところにある。
2003年-2004年シーズンに始まったジャパンラグビートップリーグでは最終節に逆転し、初代リーグチャンピオンとなった。しかし、トップリーグ上位8強によるトップ8トーナメント・マイクロソフトカップではNECグリーンロケッツに敗れる不覚を味わい、初代カップチャンピオン、2冠を逃した。
1995年に発生した阪神・淡路大震災では、練習場の灘浜グラウンドが液状化現象になる被害もあったが、本拠地・神戸の地域復興に全面的に協力。単なる企業内のチームとしてだけでなく地域密着型のチーム運営を目指している。
ホームゲームは御崎公園球技場などで行われる。
2007年-2008年シーズンは近畿地区唯一のトップリーグ所属となる。
[編集] チームの概要
[編集] 「歴史あれど伝統なし」の時代
当チームは1948年に創設された、全国社会人ラグビーフットボール大会(以下、全国社会人大会)の第2回大会に出場するなど、関西の社会人チームとしては近鉄と並んで歴史を有するチームであったが、長らく、全国社会人大会では『万年8強止まり』と言われる程度のチーム力しかなかった。
その原因として、社会人ラグビーの世界では長らく、強力なフォワード(以下、FW)力を武器とした、いわゆるテンマンラグビー[1]というプレースタイルが主流となり、創設以来FWが弱かった当チームは、関西リーグでは、近鉄やトヨタ自工といった強力なFW力を有するチームに最後は根負けするケースが多く、全国社会人大会ではさらに苦戦を強いられる結果が続いていた。
さらに後述の関連事項となるが、当チームはそのような時代に、ほぼ毎日欠かさず練習を行っていたが、その結果、けが人が毎回のように続出し、公式戦になると決まってベストメンバーが組めない状況にもしばし陥っていた。加えて、早稲田、慶應、同志社といった名門大学チームからの加入者が少なくないにもかかわらず、『いいチームだけど強くないチーム』というありがたくないレッテルも貼られていた。そんなチーム状態の流れを払拭するべく立ち上がった選手がいた。
[編集] 監督制を廃止
1985年に林敏之が主将に就任した際、当時のチーム事情として、監督制の下では『練習をやらされている』という意識が選手間に根強く残っており、そのため、試合で結果が出ないと結論付け、監督制を廃止した。林は、選手一人一人に自主性と、考える力を養わせるという意味合いも込めて、主将がチームのまとめ役となるが、練習方法や試合への戦略、さらに試合に出場するメンバー選出については、チーム全員で決めるという形に改めた。林はさらに、週の練習日数、時間が長すぎるとして、合同練習は基本的に週3回とし、加えて練習時間も、社業が全て終了した夕方から2時間程度という形に大幅に改めた。
1987年度に、林から主将を受け継いだ平尾誠二の下、当チームは初めて全国社会人大会、日本選手権を制覇。以後両大会で7連覇を達成し、平尾の後も大西一平、細川隆弘、堀越正巳が主将を歴任したが、萩本光威が1998年に当チームのヘッドコーチに就任するまで、主将が事実上の監督の代行を務めるといったシステムを踏襲した。したがってその間、大学ないし高校時代に主将を経験した選手が多く加入していた。
また、当チームが連勝街道を驀進していた頃、当チームに倣って監督制を廃止した社会人チームもいくつか出現し、社会人ラグビーの世界では、監督制の廃止が一種のブームになったこともあった。また後述するが、当チームが1987年度から1994年度までの7年間、日本選手権並びに全国社会人大会で優勝を果たした一番の要因は、監督制を廃止したことにあるという見方もできる。
[編集] 新日鉄釜石の8連覇を阻止
1985年度のシーズンに大八木淳史が加入したことや、主将である林が本職であるロック(LO)ではなく、FW第1列(プロップ。PR)にコンバートするなどしたことが功を奏し、近鉄花園ラグビー場で行われた同年度の社会人大会準決勝に進出。同大会8連覇を目指す新日鉄釜石と対戦。終盤まで一進一退の攻防戦が続いたが、ノーサイド直前に勝ち越して勝利し、釜石の8連覇を阻止した。しかし、決勝ではトヨタに敗戦。
1986年度、英国留学から帰国した平尾誠二が加入。秩父宮ラグビー場で開催された同年度の全国社会人大会準決勝で、再び新日鉄釜石と対戦。前年同様、一進一退の攻防戦が続き、結果は9-9の引き分け。抽選の結果、新日鉄釜石が決勝へと進出した。
1987年度の全国社会人大会(花園)の1回戦で、東芝府中と対戦。終盤までリードしながら、ノーサイド直前に逆転トライ&コンバージョンを許し、1点差で逆転負けした。
この頃の当チームは、『力はあるけど勝ちきれないチーム』と言われた。だが翌年度以降、黄金時代を築くことになる。
[編集] 「オープンラグビー」で初の日本一
1988年、林から主将を受け継ぐことになった平尾は、FWに固執せず、バックス(以下、BK)をどんどん多用するという、大学のラグビーチームが志向している『オープンラグビー』(展開ラグビー)にチームスタイルを改めた。そのことは、社会人ラグビーの長年に亘る風習ともなっていた、「テンマンラグビー」の決別を意味することにもなった。
しかし、同年の関西社会人リーグでは、近鉄、ワールドといった強力なFW力を持つチームに敗れ、平尾のチーム作りに疑問を呈するラグビー関係者もいたが、全国社会人大会(秩父宮)では、平尾が当初から目指してきたオープンラグビーが開花し、決勝の東芝府中戦ではことごとく横展開からBKのトライが決まって快勝。初の社会人大会優勝を果たした。また1989年1月15日に行われた日本選手権(国立競技場。以下、日本選手権は国立開催のため表記なし。)では、大東文化大学を後半圧倒。初のラグビー日本一の座を手中にしたが、この優勝が当チーム7年連続日本一の第一歩となるのである。
[編集] 奇跡の3連覇達成
1989年、当時現役のオーストラリア代表ウイング(以下、WTB)選手、イアン・ウィリアムスが加入したが、当時、社会人チームに加入した外国人選手については、1年間の社業業務を務めなければ公式戦に出場できないという日本ラグビー協会の規約があり、そのため、ウィリアムスは同年度シーズンの公式戦に出場することができなかった。
しかしながら、全国社会人大会(花園)決勝でサントリーを破り、1990年1月15日の日本選手権でも早稲田大学に58-4で圧勝し、両大会連覇を果たした。そして1990年度のシーズンから、上述のウィリアムスが公式戦に出場することになるが、後述する通り、奇跡のトライを生むことになる。
1990年度の社会人大会(秩父宮)決勝は、宮地克実監督擁する、三洋電機との対戦となったが、その試合はまさに、今も語り継がれる、歴史的な試合となった。
強力なFWを擁する三洋は、試合序盤から終始当チームを圧倒。後半30分過ぎまで、2つのトライ&コンバージョン(ゴール。以下GK)を決めるなどして、16-12とリード。しかもここまで、当チームはトライが1つもなく、細川隆弘が決めた4つのペナルティキック(以下、PK)で12点を取っていた。終盤になって当チームは、繰り返し連続展開からトライチャンスを試みるが、三洋の強力なタックルがことごとく決まる展開となり、22mラインの攻防戦で常に後退を強いられる展開となった。時計が後半40分を過ぎ、ロスタイムの時間に入った。当チームは切り札である、ウィリアムスにボールを集めようとするが、なかなかボールがウィリアムスまで渡らない。後半41分頃、三洋の選手がタッチに蹴出した瞬間、宮地監督は立ち上がり、勝利のポーズを見せたが、主審の真下昇はノーサイドの笛を吹かず、そのまま試合は続行。後半43分頃、フルバック(FB)の綾城高志をライン参加させ、ゲインラインの突破を図るものの、三洋ディフェンスに見破られ、ハーフウェイライン上でラック状態となってしまう。その状態から素早くボールを出した当チームは、大西一平が再度縦をついてラック状態へと持ち込むと見せかけて、スクラムハーフ(SH)の萩本光威が素早くボールを出し、センター(CTB)の平尾へワンバウンドパス。この平尾へのワンバウンドパスが三洋ディフェンス陣に一種の動揺を与えたのか、一瞬、三洋の選手が立ち止まってしまう。その状態から平尾がついに切り札・ウィリアムスへとパス。ウィリアムスは約50mを独走。一方三洋も、ナモアが懸命にウィリムアスを追うが、ゴールエリア付近で振り切られ、ウィリアムスは細川にGKを決めやすくさせるため、ゴールエリア中央へと持ち込んでトライ。16-16の同点となった。この時点ではまだ双方優勝の状態であり、日本選手権出場権規約により、トライ数の多い三洋がまだ同大会の出場権を握っていたが、細川が冷静にGKを決め、18-16でついに逆転。奇跡の全国社会人大会3連覇を達成した。
その後1991年1月15日に行われた日本選手権では、吉田義人が主将を務める、明治大学を終始圧倒。こちらも3連覇を達成した。
[編集] 充実の大西主将時代
1991年度、主将は平尾から大西一平にバトンタッチされた。大西はFWの選手である立場もあってか、平尾主将時代にはともすれば軽視されがちだったコンタクトプレーの徹底など、ハード面を重視した。また、当時現役の日本代表で、4年間、早稲田大学のSHとして活躍した堀越正巳、青山学院出身のWTB、冨岡剛が加入し、2人は1年目のシーズンからレギュラーの座を射止めたが、この2人の加入により、BK陣はそっくりそのまま、当時の日本代表レベルに匹敵する陣容となった。選手層に厚みを増した当チームは、全国社会人大会(花園)決勝で前年に引き続き三洋電機と対戦したが快勝し4連覇。1992年1月15日に行われた日本選手権では、これまた前年に引き続き明治大学との対戦となったが、ここでも快勝し、4連覇を達成した。
1992年度、当時現役のアイルランド代表フランカー(FL)だったマーク・イーガンが公式戦に出場できることになったが、大西は、イーガンがLOもこなせることに着眼し、大八木をFLにコンバートさせた。全国社会人大会(秩父宮)では、2回戦で対戦したマツダ、準決勝で因縁の対戦となった三洋電機、決勝の東芝府中と、いずれも厳しい戦いを強いられたが勝利して5連覇を達成。1993年1月15日に行われた日本選手権でも、25年ぶりに同大会進出を決めた法政大学に貫禄の勝利を収め、こちらも5連覇を達成した。
1993年度、イアン・ウィリアムスが古傷が癒えない理由から欠場が目立つなど、決してチーム状態は万全とはいえなかったが、全国社会人大会(花園)決勝では、宿敵・三洋電機に快勝して6連覇。1994年1月15日に行われた日本選手権では、元木由記雄主将の明治大学と対戦。中盤で苦戦するシーンも見られたが、最後は貫禄勝ちを収めてこちらも6連覇を達成。この勝利を花道に、大西は主将を細川隆弘にバトンタッチした。
[編集] 難産の末の7連覇達成
[編集] 大学のスター選手がこぞって加入
1994年度、新日鉄釜石と並ぶ、全国社会人大会、日本選手権の7連覇に挑むシーズンとなった当チームに、当時の強豪大学チームの中心選手がこぞって入社。明治から元木由記雄(CTB)、早稲田から増保輝則(WTB)、法政から伊藤剛臣(No8)、同志社から中道紀和(Pro)、京都産業から吉田明(CTB)らがそれぞれ加入することになったが、一方で後述するが、これらのスター選手が一斉に同一年度に加入したことにより、当チームがこれまで培ってきたチームカラーというものがガラッと変化することになり、一時は7連覇危うしと言われた遠因を作ることにもなった。
[編集] ワールドにまさかの敗戦
1994年、神戸総合運動公園ユニバー記念競技場で関西社会人ラグビーリーグ戦最終日が行われ、当チームは同リーグ6連覇と、公式戦通算72連勝をかけてワールドと対戦することになった。そして、この試合には上記の新加入選手も出場していたが、一方でこれまで6連覇の中心選手であり、前年度まで3年間主将を務めてきた大西一平がこの試合の先発メンバーから外れることになり、ひいてはこのことがきっかけとなって、ちょっとした内紛状態が発生することになる[2]。加えて当時、林敏之はほぼ引退を覚悟していた状態、またイアン・ウィリアムスは故障が癒えず、それぞれ公式戦に一度も出ていなかった。また、平尾、大八木という、当チームの二枚看板にも衰えの色が隠せない状況であり、6連覇までの当チームとは明らかにチームカラーが異なっていたことについて、公式戦の連勝記録が途絶えた後になって漸く気づかされることになる。
24-25でワールドに敗れ、公式戦の連勝記録は71でストップ。しかもわずか1点差の敗戦だったとはいえ、試合のペースは終始ワールドに奪われていた。この試合には、元木、吉田の加入により、当年度は古巣のスタンドオフ(SO)にコンバートした平尾誠二も出場していなかったが、全国社会人大会を迎えるにあたって、チームの内情は空中分解寸前の状態だったといえる。
[編集] 平尾が主将代行に
加えて最悪の事態が待っていた。当年度より秩父宮と花園の両方で試合が行われることになった全国社会人大会1回戦のリコー戦(花園)で、主将の細川がアキレス腱を断裂してしまった。試合のほうは大勝したものの、次の試合以降、事実上監督の代行を務める当チームにとって、その主将不在という、非常事態が発生した。本来ならば副将である冨岡洋が主将代行を務めるべきであるが、スタメンから外れることも少なくなく、心もとない状況であったことから、当年度の残る公式戦については、平尾が主将代行を務めることでチームの意見は一致。また、細川との確執状態が伝えられた大西も以降の公式戦に出場した。
2回戦のサントリー戦(秩父宮。以降決勝まで同場。)は予想以上に苦戦を強いられたものの35-28で制した。準決勝は因縁の三洋電機戦だったが、何とかこれもクリア。決勝は東芝府中との対戦となった。
[編集] 7連覇達成
満場のファンで埋まった決勝戦は、これまでのモヤモヤした戦いを一掃するかのような、当チームらしい内容のゲームとなり、終わってみれば37-13で快勝。ついに新日鉄釜石と並ぶ、全国社会人大会7連覇を達成した。試合後の表彰式で、普段めったに人前に見せたことがない平尾が涙したことも印象的であった。
1995年1月15日の日本選手権は、V1を果たしたときの相手である大東文化大学であったが、実力差は明らかだった。前半に48-0とリードすると、後半も手を緩めることなく加点し続け、同大会史上初の100点ゲームとなる、102-14で圧勝。ここでも、新日鉄釜石と並ぶ7連覇を達成した。なお、1月15日の日本選手権開催は、この試合が最後となった。
[編集] 現所属選手
フロントロー
- 南條健太 明治大 PR
- 北川有広 NECグリーンロケッツ PR
- 松原裕司 明治大 HO
- 石井良昌 明治大 PR,HO
- 金武貴之 摂南大 PR
- 平島久照 福岡大 PR
- 村上正幸 立命館大 HO
- 山本翼 同志社大 PR
- 小西賢一 京都産業大 HO
- 山内雅延 法政大 PR
- 山下裕史 京都産業大 PR
セカンドロー
- 小泉和也 早稲田大 LO
- ロイス・ウィリス チーフス LO
- 吉田永昊 法政大 LO
- 鎌田卓 福岡大 LO
- 田中渓介 明治大 LO
- 近藤洋至 立命館大 LO
- アダム・ウォレスハリソン ACTブランビーズ LO,FL
サードロー
ハーフバックス
- 苑田右二 法政大 SH
- 後藤翔太 早稲田大 SH
- ネーサン・アンダーソン 流通経済大 SH
- ピエーレ・ホラ ウエスト・ハーバー SO,CTB,WTB
- 今村友基 関東学院大 SO,SH
- 森田恭平 法政大 SO,FB
- 菊池和気 サントリーフーズサンデルフィス SO
スリークォーターバックス、フルバック
[編集] 歴代所属選手
- 岩渕健輔
- 小村淳
- 冨岡洋
- 冨岡剛
- マーク・イーガン
- 綾城高志
- アンドリュー・ミラー
- 斉藤祐也
- 瓜生靖治
- 平尾剛
- 武藤規夫
[編集] 脚注
- ^ フォワード(FW)8名が得点源となり、スクラムハーフ(SH)は球出し、スタンドオフ(SO)はタッチキックなど主にキックプレーに特化させ、残る5人のバックス(BK)は概ねディフェンスに回ってもらうというプレースタイル。モール、ラックプレーがゲームプランの中心となる。
- ^ 大西自身の著書、『戦闘集団の人間学〜勝つために、組織は、個人は何をすべきか〜』によると、自身の代わりに当チームに加入してからはほとんどLOのポジションだったマーク・イーガンがNo8のポジションに入ることになったことで、主将の細川隆弘と言い合いとなり、ひいては1994年度のシーズン限りで引退を決意することになったと述べられている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年9月8日 (火) 09:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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