神田伯山
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神田 伯山(かんだ はくざん)は、講釈師の名跡。大立者・3代目が特に有名。
先代(5代目)の死後は空き名跡となっており、以後30年以上後継者が現れていない。暴力団が絡みややこしいことになっているからである。
4代目は当初、5代目(岡田秀章)があえて飛ばして襲名したが、のちに自らが4代目を自称した。なぜ飛ばしたかも後記参照。
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[編集] 初代
本名:斎藤 定吉(さいとう さだきち)、1873年10月4日没、神田派の祖。
神田伯竜の門下。大岡政談が有名、その為か「天一坊伯山」と呼ばれる。他にも「宮本武蔵」「大坂軍記」等を読んだ。普段は常に帯刀し高座の刀架けに脇差をのせてから話し始めたといわれる。その刀は靖国神社遊就館に献納されている。明治に入り引退した。盗賊に暗殺され不慮の死を遂げる。享年不明。
[編集] 2代目
本名:玉川 金次郎(たまがわ きんじろう)、1841年9月 - 1921年4月27日
後にこの名跡を弟子に譲り、自らは隠居名「初代神田松鯉」に改名した。
実の子は講談師・2代目神田松鯉。
[編集] 3代目
大きな人気を誇った。
彼が出演する寄席では大入りの満員となった。反面、その周辺(八丁)の寄席は皆、客を取られてしまうので「八丁荒し」の異名を取った。
「清水次郎長伝」を最大の売り物とした。そのため三代目は「次郎長伯山」との異名がある。清水次郎長物の講談は、元々血生臭い話であった。3代目自身は、講釈師松廼家京伝から伝えられている。しかし3代目は、ストーリーそのものを変えた。天田愚庵の「東海遊侠伝」を参照する等して、義理人情を盛り込み、愛されるキャラクターの次郎長像を創作して独自の型として完成させたのである。「名も高き富士の山本」という演題とした。
浪曲師の2代目広沢虎造の「清水次郎長伝」は、この伯山の演じた型をベースにしている。
本名:岸田 福松(きしだ ふくまつ)、東京生れ。 (明治5)1872年7月20日 - (昭和7)1932年1月30日。
- 1872年7月、東京京橋の花屋に生まれる。
- 1883年、2代目神田伯山に入門し神田松山。
- 1895年、神田小伯山と改名し、真打昇進。
- 1904年、師から名を生前贈与され神田伯山を襲名(3代目)。
- 1907年5月、東京両国の福本にて「名も高き富士の山本」封切り。
門下の初代神田山陽、初代神田ろ山、3代目神田伯治、5代目神田伯龍は四天王と呼ばれた。
[編集] 5代目
本名:岡田 秀章(おかだ ひであき)、東京生れ。(明治31)1898年4月28日 - (昭和51)1976年11月4日。業界きっての変人として知られ、最後は芸界から隔絶されて孤独のまま死んだ。
- 1898年4月、東京は本郷に生まれる。
- 3代目小金井芦州門下へ移り、小金井桜洲。
- 3代目神田伯山門下へ移り、神田五山。
- 1932年 3代目伯山と死別し、5代目伯龍門下に移る。
- 1949年、5代目伯龍と死別。通夜になんと「どてら」姿で現れる。驚いた暴力団から「他の人でさえ通夜には紋付(の正装)で来るのに、弟子のお前がどてら姿で通夜に参列とは何事か!」と怒られる。神田派から離脱。
- 1949年、3代目桃川如燕を襲名。
- かつての弟弟子3代目桃川若燕と絶縁。
- 神田五山をもう一度名乗る。
- 1957年、さきの暴力団とは別の、大物暴力団を後ろ盾にして、神田伯山を襲名。「5代目」を自称。4代目は、神田派宗家2代目神田松鯉に敬意を表し、わざと空位にしたはずだったのだが…
- 2代目松鯉から契約不履行を主張され、仲違いした。この名跡の4代目を空けた事実を取り消し、自らを4代目として名乗る。
- 1974年、勲四等叙勲の受賞を辞退。
- 1976年11月4日、死去。
最終更新 2009年8月15日 (土) 17:58 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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