福原愛

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福原愛
生年月日 1988年11月1日(21歳)
最高世界ランク 9位
利き腕
グリップ シェークハンド
戦型 前陣速攻型
フォア面ラバー 裏ソフトラバー
バック面ラバー 表ソフトラバー
  
獲得メダル
日本
卓球
世界卓球選手権大会
2004 ドーハ 女子団体
2006 ブレーメン 女子団体
2008 広州 女子団体

福原 愛(ふくはら あい、1988年11月1日 - )は、日本卓球選手宮城県仙台市生まれ、血液型はB型。早稲田大学スポーツ科学部2年生で全日本空輸 (ANA) 所属。日本オリンピック委員会選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度適用選手。ITTF世界ランキング最高位は9位(2008年2月)。

目次

[編集] 来歴

[編集] 幼少~中学

1988年11月1日に仙台に生まれる。福原は3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受け、4歳でテレビに初登場し、「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」と呼ばれるようになった。一躍国民的アイドルとなった5歳10ヶ月で全日本選手権バンビの部(小2以下)史上最年少で優勝、以降数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作った。小4でプロ宣言し、ミキハウスと専属契約を結び、仙台より大阪へ引っ越した。小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たす。中1の4月に公立中学に入学したが、卓球面での環境を考え青森に引越した。以降、中学の3年間は世界各地のITTFプロツアーに数多く出場。安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていった。この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていった。選考会などを経て14歳の若さで世界卓球選手権に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8まで進む快挙を成し遂げた。このことがアテネ五輪出場につながった。2001年にはコーチの黄智敏と1分間に173回のラリーを続けるというギネス記録を達成している。 2004年アテネ五輪の年、日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選を勝ち抜け、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取った(他は梅村礼藤沼亜衣。なお、小西杏と組んで挑んだダブルスは予選で敗退)。長嶋茂雄の代役として、聖火リレーの最終走者も務めた。アテネ五輪では1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオに辛勝、3回戦はガオ・ジュン(高軍)に圧勝、4回戦はキム・キョンア金璟娥)に負けた。福原の試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかっていない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得。これはアテネ五輪放送の中でトップクラスの数字だった。

[編集] その後

2005年3月にはミキハウスとの契約が満了し、翌月グランプリとの契約を結ぶ。直後に、中国で最もレベルの高い超級(スーパー)リーグに参加、遼寧本鋼チームと契約した。この超級リーグは週1、2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたが、福原は全試合に出場した。だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいた為、シングルスの出番が少なくダブルスが多かった。期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場した。8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行った。2005年2月にはアジアカップで強豪の郭炎を破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場したが、リ・ジャウエイや帖雅娜といった強豪相手に快進撃を続け見事3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげた。2006年5月には世界選手権ドーハ大会で銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)を獲得した。放送したテレビ東京の視聴率も最高12%を出し好調だった2006年度はチームを広東佐川急便に変えて超級リーグに参加(なお、チームの2006年度オーナー権を福原サイド(千秀企画)が買っている)。2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し、青森から引っ越した。この年から関東学生リーグは1部所属校が6校から8校となった[1]。2007年4月3日、全日本空輸 (ANA) との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。2007年5月の第49回世界選手権個人戦では3回戦敗退。大学の試合には春季リーグ以降出ておらず、個人練習での強化につとめている。TVでは2007年4月より『とっさの中国語』(NHK教育)にレギュラー出演した。2008年1月、世界ランクが10位と、世界ランクの上位から1カ国・地域2名を上限とし上位20名に与えられる代表資格を獲得し北京五輪日本代表に内定した。北京五輪は平野早矢香、福原、福岡春菜の3人でシングルス、団体戦に出場した。6月、JOCから日本選手団の開会式旗手に任命された。卓球選手では初であり、最年少である。本人は会見で「(団旗の)グラムの重さより、日本(代表としての)の重さをすごく感じると思う」と意気込みを話した。
その後よりレベルの高い試合で実践感覚を養うことを目的として、2009年4月で早稲田大学卓球部での活動を休止し、海外で行われるプロツアーを中心に出場。日本国内ではサンリツ(物流会社)の卓球部の一員として日本リーグに参戦することになった。

ミキハウスJSC(ジュニアスポーツクラブ)に所属
  • 1999年3月 - 日本卓球協会の理事会で承認され、レジスタードプロに登録(3月20日付け、10歳)
  • 2005年4月 - グランプリと所属契約。(4年) 中国超級リーグに参加、遼寧省チームに入団(4月に契約、6月~12月まで中断をはさみ試合)
  • 2006年3月 - 中国超級リーグ、広東佐川急便チームに移籍(3月に契約、6月~8月まで試合)
  • 2006年8月 - 早稲田大学スポーツ科学部トップアスリート入学試験に出願
  • 2006年9月13日 - 早稲田大学スポーツ科学部に合格
  • 2007年3月1日 - 青森山田高等学校卒業
  • 2007年4月1日 - 早稲田大学スポーツ科学部に入学
  • 2007年4月3日 - 全日本空輸 (ANA) との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表

[編集] 人物

幼少時から天真爛漫な笑顔でお茶の間の人気者となっていたが、思春期になるにつれメディアに対し喋りたがらない事が増え、悲しそうな表情をすることも多くなった。福原自身は、当時を振り返って、「周りのこととか、卓球以外のことが見えてきていた」と語っている。中学2年生頃から、徐々に再び笑顔を見でるようになり、インタビューにもきちんと答えるようになった。

卓球をしている最中は、感情の揺れが激しくなるらしく、昔から気持ちが顔に出易い。負けると直後は非常に落ち込むが、立ち直りは人一倍早い。ニュースでは親しみをこめて「愛ちゃん」と呼ばれることが多い。

2007年12月、眼鏡をかけて成田空港に現れ、遺伝により乱視になったことを告白した。本人はコンタクトレンズにしたかったようだが、20分ではずしてしまうほどコンタクトレンズが合わず、眼鏡にしたとのこと。福原も「ぼやけて見えた世界が当たり前だったので、眼鏡をつけるとスッキリする」と視界不良を認めている。なお、視力自体は1.5-1.0と悪くない。

2008年11月にテニス選手で2歳年下の錦織圭との原宿での抱擁や駅構内でのキス写真が週刊誌フライデーに載ったことで熱愛が発覚し、大きな話題となった。(錦織は青森山田高校の通信生であり、後輩にもなる。)同じ代表選手の水谷隼のはからいもあり、北京五輪の頃から付き合っていたという。本人は騒動の帰国後、無表情で「お騒がせしてすみません」と述べるにとどまり、否定はしなかった。しかし、追いかける記者の「誕生日には何か送りますか?」の問いには一瞬笑顔を見せた。その後は中国への合宿に出かけるなどマスコミを避け、全日本のインタビューでは「卓球以外の事を聞いた記者は退場」というルールまでが作られた。 一方、錦織は騒動後一度も帰国していないこともあり、何のコメントも出していない。また日本テニス協会には、多くの錦織の女性ファンから「別れさせてほしい」と協会に抗議があったという記事も出た。

[編集] 中国での評価

中国での福原への関心は高く、日本には無いようなファンサイトも複数存在する。Yahoo!の中国サイトが2005年4月に発表した世界卓球8大美女に福原愛が選ばれた(他には張怡寧王楠、白楊、リ・ジャウエイなど。日本人では他に柏木有希が選ばれている)[2]

2005年「面対面」という中国の人気インタビュー番組に出演。その中でキャスター王志から「家族は本業をやめられたそうですが、あなたが一家を背負うことにプレッシャーは無いですか?」という質問がされ、福原は戸惑って「そんな難しいこと、聞かないでください」と涙をこぼした。近年、福原がテレビの前で泣くことはめったに無かったこともあり、この出来事は日本でも大きな話題となった。

その後、王志は日本のメディアから質問を受け、「彼女が泣くとは思わなかった。私の配慮が足りなかったのですね。しかし視聴者が一番聞きたいと思っていることを聞くのが私の仕事です。多くの中国人が福原に興味を持っていました。だからゲストに呼んだのです。」と答えている。福原自身は、涙の理由について「初めて受けるタイプのインタビューだったので、どう答えたらいいか戸惑ってしまい、ちょうどその頃中国リーグの疲れもあって(精神的に不安定だったため)泣いてしまった。」と答え、また中国のネット掲示板で「王志が子ども(福原)をいじめている」と、一部非難があったことについて、「私はいじめられたとは思っていない。それは間違いです。しかし、今後そういうインタビューも増えてくると思うので、もっとうまく対応できるようにしたい。」と語った。

当時の小泉純一郎首相の靖国問題などで、中国では反日感情が高まり、日本への政治にも冷たい態度を示すことが多かったが、そんな中でも福原のニュースを中国英字紙チャイナ・デーリーは2006年3月16日付紙面の1面トップで、卓球の中国スーパーリーグの広東省チームに移籍した日本人選手、福原愛のカラー写真を掲載した。中国は、小泉首相に非難の的を絞る一方、一般の日本国民について日中関係冷却化の責任はないとして友好関係を強調する姿勢を見せていた。同紙が福原を取り上げたのも、こうした対日配慮の一環とみられる。写真は赤いユニフォーム姿の福原が地元の子供達に囲まれ笑顔を見せているもので、福原を「著名な日本の卓球選手」と好意的に紹介している。福原は日本の中国大使館を何度か表敬訪問しており、「中日友好」の色紙を持って王毅駐日大使(当時)と撮影に応じた。他にも日中友好関連のイベントによく招かれている。

2008年2月の第49回世界卓球選手権団体戦では、「福原愛永遠支持」と横断幕を掲げた十数人の中国ファンが応援したり、日本ー韓国戦で福原が5番手で登場し接戦をものにした試合を中国メディアは「福原選手が大逆転演じる」(成都日報)、「感涙の福原愛 『観客が力くれた』」(新浪体育)、「みんな福原愛ちゃん大好き」(斉魯晩報)など、福原を中心に見出しや記事を構成した。また、インタビューを「中国語も英語も流暢で立派だ」と褒め称えるところもあった。(斉魯晩報)

同年4月には「福原愛は現在、日本のナショナルトレーニングセンターで北京五輪に向けて積極的にトレーニング中」と中国誌が報じた。上海万博事務協調局は24日、2010年の上海万博の日本親善大使に卓球の福原愛選手ほか2名に決定したことを発表した。

同年4月26日の聖火リレー(長野市)では、当初日本側からの出走依頼はなかったが、中国側から中国大使館枠で参加を要請され、走った。福原の走る姿は中国でも新聞の一面などで大きく報じられた。

  • 2008年5月7日、胡錦濤国家主席が来日した際(中国主席の来日は10年ぶり)、早稲田大学で特別講演した折に大学構内で福原と卓球対戦した。主席に随行していた中国チャンピオンの王楠も参加。同席した日本の福田康夫首相も卓球に誘われたが不得手だということで断った為、4人のダブルスではなく3人の変則卓球となった。この模様は日中で大きく報道された。
    • 主席は福原に「あなたは私のことを知らないかも知れないが、私はあなたのことを知っている」と話しかけたという[3]
  • 四川大地震が起きた事について、福原が会見で涙を見せたと中国新聞社が報じた。
  • 中国でのニックネームは「瓷娃娃(ツーワーワー)」(磁器のお人形という意味、肌がきれいな事から)、「小愛(シャオアイ)」(愛ちゃん)。

2008年9月27日、山東省煙台市豪華客船で行われた王楠の結婚式に、王楠の介添え役(中国のメディアは「伴娘」と表記)として、セクシーなベアトップのドレス(中国のメディアは「性感低胸装」と表記)を装って出席した。中国のメディアは、このニュースを大きく報道した。王楠夫妻は既に2005年10月に結婚していたが、北京五輪の為に挙式はしていなかった。なお、新郎の介添え役は馬琳が務めた。新郎は王皓に介添え役を頼んでいたが、王皓は試合があった為に馬琳になった。

[編集] 語録

  • 「メダルとれなくて、期待してくれた方にすみませんと言いたいです。」 - アテネ五輪で敗戦した直後のコメント(2004年8月
  • 「楽しみに来た訳じゃありませんので。」 - アテネ五輪、楽しんでますか?とレポーターに訊かれて
  • 「ミックスゾーンで泣くのだけは嫌だった。」 - アテネ五輪の敗戦のコメントをふり返って
  • 「全然可愛いと思ってませんが、気をつけてることは、睡眠をよくとることです。」 - イベントで子供に可愛さの秘訣を聞かれ(2005年)
  • 「今まで『愛ちゃん』と呼んでた人から急に『愛さん』とか『愛選手』って呼ばれたら「えっ誰?」って思っちゃうんで。『愛ちゃん』でいいです。」 - いつまでも、「『愛ちゃん』と呼んでいいのかな?」と聞かれ・同上インタビューより
  • 「思ったより簡単だった」「何も練習してこなかった」「卓球の方が難しい」 - アニメ「こてんこてんこ」の声収録を終えて(2005年12月)
  • 「当たって砕けてきます!」 - 2005年世界卓球選手権の意気込みを聞かれ
  • 「小さい頃はメディアの方に追っかけまわされるのが嫌だったんですけど、最近はメディアがないと、自分の気持ちが世間の人たちに伝わらない面もあるので、今はメディアをすごくありがたいと思い感謝してます。メディアのみなさんに対しては失礼ですが、ちょっとお友達のような感覚でいます。」 - 外国特派員協会インタビューより、メディアについて(2006年10月11日)
  • 「週刊誌に載る様な事はしません。」 - SMAP×SMAPでSMAP中居に大学で一人暮らしした時の事を聞かれ(2006年10月30日放送)
  • 「ちょっとイラッときた。見せ物かって」 - 世界選手権合宿最終日に石川との練習試合が組まれ、多くのマスコミが集まっていたことについて(2007年5月8日)
  • 「勝ててた試合だと思います。」 - 2007年世界選手権3回戦で世界ランキング60位台のドデアンにストレート負けして
  • 「このような大役を仰せつかって、本当に光栄だと思います。」 - JOCより北京五輪選手団旗手に選ばれたことについて会見で(2008年6月10日)
  • 「次は23歳?いい女になれるように頑張ります」 - 北京五輪女子シングルス4回戦敗退後のインタビューで(2008年8月21日)

[編集] 進学

福原の両親は福原に徹底的に卓球の英才教育を施した。3歳から卓球を始め練習時間は毎日4~5時間、今では7~8時間。年に休みは3日程度。コーチは専属の中国人を住み込みで契約している(時には元中国チャンピオンなど)。その方針は今も続いており、現在はカットマン専門のコーチ含め2人が専属コーチで常に福原と帯同している。正月などは頻繁に中国合宿を繰り返し、中国の技術を体に染み込ませ、コミュニケーションの為中国語も身につけた。コーチが瀋陽出身であることからその発音には訛りがある。

福原愛の卓球スケジュール、練習方法を決めているのは当初は卓球経験者の母親であったが、その後は父親主導になり今はマネジメントなど含め全て管理している。福原が小4の時、突然大阪に引越しミキハウスとプロ契約を結んだ(注・2001年4月から日本卓球協会はレジスタードプロ制度をなくした。これにより、以降は子供選手でも誰でもプロ(商業)活動が出来るようになっている)。一家はミキハウス本社のある大阪府八尾市に引越し、福原は当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになった。この時に、王子卓球クラブの作馬六郎に「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛の代名詞ともなった(今はほとんど使っていない)。

大阪では公立小学校に通っていた。中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、福原はプロ契約してる為、全中やインターハイなどに規定で出場できないという懸念があった。結局地元公立中へ入学したが、一ヶ月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学校に転校した。青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校。法人は卓球専用の体育館などの施設を備えている。同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由である。これにより福原は多くの卓球遠征が可能になった(その後福原は「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中インターハイ国体も特例で出場できるようになった)。

ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原をその所属とした(他には青森大学の坂本竜介などがいて、混合ダブルスペアをよく組んでいる)。小西とはダブルスで全日本3連覇した(2005年以降、代表では藤沼と組んでいる)。

ミキハウスの4年契約が終わった後、ミキハウスからもオファーはあったが、福原サイドはグランプリと4年契約することにした(2005年4月)。グランプリは福原が青森山田高校に通うことを承認、中国リーグに2年連続で参加することも支援した。父は高校卒業後の進路として当初、大学も青森山田学園系列の青森大学を考えていたが、福原本人が早稲田大学スポーツ科学部を強く志望し、2006年8月より書類提出、面接を経て、9月13日、早稲田大学スポーツ科学部に合格が決まった。専攻はスポーツ文化学科である。早稲田大学としては2年目の実施となる同学部のトップアスリート入学試験を行い、福原含め6人が合格した。スポーツ科学部のキャンパスは所沢市にあり、練習場は新宿区にある。

2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し、青森から東京の阿佐ヶ谷に引っ越した。2007年4月3日、全日本空輸 (ANA) との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表した。父は「大学進学で東京に住むこともあり、環境すべてを見直したかった」と説明している。

福原は入学前「インカレなど大学の試合に出たい」と言っていた。福原の入学を受けて学連と協会は、プロ選手が大学の大会に出場できるように事前に規約を改正までした。福原は大学入学後の5月の春期リーグは出場するも、チームを一部昇格に導くことはできなかった。8月のインカレ(全日本大学対抗・団体)は欠場した。また、同月の大学生の国際大会であるユニバーシアードの日本代表にエントリーされていたが欠場した(どちらも日程が国際大会とかぶる為ではなく、個人合宿の為である)。9月の秋季リーグも欠場(しかし早稲田女子卓球部は福原抜きで44年ぶりの一部昇格を決めた)。「大学に入ったのに、大学の試合に出ない」という状況が続いており、今後の出場予定も白紙である。北京五輪前年である為、2007年度はツアーに積極的に出場し、秋田での個人合宿を増やしている。

2008年1月全日本選手権惨敗直後、福原が大学の授業になかなか行けない為、また2008年が五輪イヤーでもあることから関係者が福原の休学、あるいは中退を示唆していた(福原は入学後、練習を東京の早稲田大学の卓球部では行わず、個人での練習を続けており、しかも秋田の温泉施設と青森山田高校を拠点とし続けているため、余計に学業の支障が出ていた。また2007年度は北京五輪出場を見越し高い世界ランクを維持するため、海外の卓球ツアーに多く出たため欠席も多くなった)。しかし2008年2月9日、福原本人が学業と両立したいとのことで、早稲田を中退も休学しないと学校に伝えたと発表された。可能な限り出席し、レポートで単位取得を目指すとの事。

[編集] 家族のサポート

福原には両親と兄がいるが、みな福原のマネジメントに当っている。特に父親の権限は大きく、福原の進路や練習方法、コーチの選択、大会やイベントやTV出演などを管理しているのはほとんど父親の判断による。また、今後の進路について時々マスコミにコメントを出している。TVの出演を選ぶ時は基本的に卓球に関連性があるものだけにしている。2002年頃に「千秀企画」という福原の個人事務所も作った(マスコミやイベント依頼の対応などの窓口)。ちなみに千は母、秀は兄の名から一文字ずつとっている。2006年に広東チームのオーナー権を買ったが、短パンにはそのロゴが入っていた。福原は「昔は母は鬼コーチで、父は時々来て遊ぶぐらいだった。今は自分と母はすごく仲が良いが、父は怖い存在で絶対に逆らえない」と語っている。フジの特番でも「王子サーブを何で使わないんだ!」と怒鳴り泣かしている場面が見られた。練習では手が出ることもあるという。母によれば、福原の性格は父親似だそうである。JOC選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度については福原は2007年4月の時点でも継続して加入している。多くのトップアスリートが脱退していく中、CMなど広告収入を多く抱える福原はJOCにかなりの貢献をしている。父親は「JOCにはお世話になったのでまだ継続していきたい」と語っている。福原は試合が終わると毎日記者にコメントを出すが、これも「それはあなたの仕事」と、小さい頃から母が言い聞かせてきたことによる。現在福原のコーチは張莉梓と中国人の章篠琳(カットマン)で、いつも一緒に行動している。彼女達も父親が交渉して中国から連れてきた。

[編集] 卓球スタイル

右利き前陣速攻。中国卓球の経験を積んでいる事から、中国スタイルの卓球である。その為中国人には手の内が読まれ苦手意識があるが、中国以外のヨーロッパ等の選手に強いのが特徴である。

世界ランキングこそ日本でトップだが、国内大会に弱く優勝タイトルに乏しい。全日本卓球選手権でもベスト4が最高と不本意な成績を残している。優勝を絶対視され最高学年で参加した2007年高校総体でも準優勝に終わった。

ペースの速い卓球で、ラケット裏面には粒のある表ソフトラバーを貼り、ナックルなどの変化球を出せる。ちなみに、小学生の頃は日本卓球協会の規定で違う種類のラバーを貼れなかった為、両面表ソフトラバーであった。

「試合中、みんなが思っている以上に何も考えていません」と話すように、作戦をあまり考えないタイプの選手で、代表監督からも怒られたりしていた。それゆえに研究されると弱い一面を持ち、本人は「ビデオ研究すると、相手が強く見えるから嫌い」とあまり研究したがらない。その割にラバーを貼ったりするところを見られるのを非常に嫌い、会見などで自分の問題点を言う事を避けたがる一面も持つ(相手に有益な情報が広がる為)。

流れを変えるのが難しいらしく、勝つ時は圧勝して勝つが、流れが悪くなるとその流れを変えられない事も多い。体が柔らかく、低い打球点から繰り出すバックハンドは世界でもトップクラスである。中学、高校前半の頃はよくピンチで王子サーブというしゃがみ込みサーブを使っていたが、今は返されることが多い為、全く使っていない。単調なショートサーブが多く、またフォアハンドが弱い事も課題として度々指摘されている。

福原は当初あまりかけ声を出していなかったが、中学後半ぐらいから徐々に大きなかけ声を出すようになり、アテネ五輪で「サー!」は福原の代名詞ともなった(もっとも卓球でこのように声を出す選手は多く決して珍しいことではない)。ただ、強い相手などにはかけ声が全然出ない事もある。「サー!」のかけ声には最大で3連続「サー!サー!サー!」もあり、「サー!ナイスボールサー!」もある。気合が入ると相手がミスしても「サー!」が出る。声が裏返る時もあり、年々闘争心が強くなっている。福原は「かけ声をかけるという事は、自分が点を入れているという事なので、いっぱい叫びたいですね」と話す。声の音程には気を使っており、「会場で他の人と同じような音を出すと意味が無いじゃないですか」ということで今の甲高い声になったらしい。

  • 「シングルより団体戦の方が好き」と昔から話している。応援の声も人一倍高く、熱心に応援している。
  • 小学校時代は「ヨー!」(「よーし」の略)というかけ声を使っていたが、中学以降は思春期に入ったためにこのかけ声を使わなくなり、その代わりに中国の選手達の影響で「サー!」を採用したことを、2006年10月30日放映のフジテレビ系列番組SMAP×SMAPで明らかにした(たまに間違えて「ナー!」になる事があるらしい)。
  • 小さい頃から天才少女と言われてきた理由の一つに、同世代の国内選手には絶対負けなかった事がある。中1で全日本ジュニア(高校以下)を制すとその後3連覇。どの大会でも一度も負けなかった。だが2006年8月のインターハイ、シングル決勝で同じ年齢の宇土弘恵(就実)に初めて負けを喫した(ストレート負け)。尊敬する選手は王楠。左利きに憧れている。国内ではカットマンや、粒高ラバーなどの異質攻撃選手に苦手意識があるようである。
  • 2004年度末まで日本代表監督は西村卓二で、特に中学時代多くの熱血指導を受けてきたが、その後は近藤欽司が協会より代表監督に指名され、現在も指導している。
  • 2007年全日本後あたりにラバーをハイテンションラバーに変え、フォームも振りを大きくするなど今までに無い改革に取り組んでいる。2006年11月のワールドカップでティエにストレート負けしたのを見て父は、海外では速い球を打てないと通用しない、と考え「一度愛の卓球スタイルをぶっ壊す」と言っていた(しかし、その後もスランプが続いたため、戻したという話もある)。
  • 幼児期を除いて試合後、泣くことはほとんどなく、また勝って泣いたことは一度も無かったが、2008年2月の第50回世界卓球選手権広州大会、予選の韓国戦では5番手でフルゲーム、デュースの末に勝利し一位通過を決め、福原は珍しくメンバーと号涙し、喜んだ。

[編集] エピソード

  • 血液型はB型。お菓子が大好き。好きな飲み物はクリームソーダ。
  • 愛犬は黒のミニチュアダックスフント。名前はチャッピー。2006年10月に購入。当初、福原はトイプードルを買いたかったらしいが、兄に「それじゃ、浅田真央ちゃんとかぶっちゃうよ」とさとされミニチュアダックスフントにした。
  • 口ぐせは「すごい」で、会見では頻繁に聞かれる。「やばい」「超」なども普段はよく使う。
  • 父親は秋田県、母親は宮城県登米市出身。
  • 2008年5月4日仙台市体育館で開催された北京五輪壮行試合と日本リーグ・ビッグトーナメント仙台大会に出場した福原は、開始式で「青葉区国見ヶ丘出身です」と発言し、会場を沸かせた。この大会には、福原のほかに仙台育英学園高等学校卒の平野早矢香および岸川聖也の両選手も出場し、仙台ゆかりの北京五輪卓球代表3人が揃って参加し賑わった。
  • 「愛」という名の由来は母方の祖母、愛子から一字もらっており、「みんなに愛されるような子に」という願いをこめて父が命名した。卓球を始めたきっかけは、10歳離れた兄が中学から卓球を始め、経験者の母は息子の卓球練習にかかりっきりになり、自分も構って欲しくてやり始めた事だった。
  • NHK、2004年正月の番組で足型を取ったところ偏平足であった(他にイチロー末続慎吾も)。フジTVでは安藤アナが多くの練習で足の裏にまで筋肉がついた為に扁平になった、と説明したことがある。足は24cmと大きいので、本人はもっと身長が伸びると思っていたが中3で成長は止まってしまった。現在公称155cm。
  • 時期により体重の増減が大きい(練習量が多く、その分食べる為)。大きな大会が始まると緊張、疲れから食が進まなくなり痩せてしまう為、大会前は多少体重を増やして臨むことが多い。ベストは48キロ。母は小さい頃食が細いのを心配していたが、今はその必要はないようである。
  • アテネ五輪では家族が大量のおにぎりを会場に持参したが、入り口の持ち物チェックで「爆弾ではないか」と係員に一時引き止められた。
  • 「20歳になったら自由なので早く(20歳に)なりたい」と話している。
  • 子供好きだが、小、中学生ぐらいの大きな子は苦手と話している。
  • 2004年1月のクロアチアオープン中に39度の高熱になり、スポーツニッポン新聞がマスク姿の福原を一面に載せた。
  • 2006年4月26日に世界卓球選手権(テレビ東京)の放送時間が30分延長され、同日の番組が30分ずれたが、その為番組の録画に失敗したということで抗議文と人骨のようなものが局に送りつけられた。番組はTV東京アニメ「いぬかみっ!」とされている。差出人は分かっていない。同日はシンガポールとの一戦で、福原愛が強豪リ・ジャウエイを下し、予選リーグ通過を決めた試合だった。
  • 大阪は2008年度五輪開催地として正式に立候補し、さまざまな招致活動を行ったが(大阪オリンピック構想)福原愛を誘致のシンボルの一つとした(福原が大阪に引っ越した一つの要因ともされる)。大阪は大阪五輪の盛り上げの一環として、2001年に世界卓球選手権シングル、団体(同時開催)を大阪に誘致し、福原愛もエキシビジョンとして桂三枝とオープニングマッチを行なうなどして、盛り上げた。
  • 座右の銘は「よく寝て、よく食べ、よく笑う」だったが、2006年に兄から変更を促され「一意専心」に変わった。
  • GP・GATE制作のアニメ「こてんこてんこ」で再びアイちゃんが出てきた2006年5月4日7月6日7月13日、の回の声優はかないみかになっていた。
  • 幼少時、「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」に出演した時、明石家さんまとの試合で敗北し、番組中に泣いたことがある。
  • 幼少時に、デーモン小暮との対決で山なりの叩きつけサーブを打たれ、福原はボールに届かず悔しくて泣いた事がある。
  • 2005年放送「おしゃれカンケイ」では、泣くところを撮られる事よりも、泣くまで撮影が続けられたと語り、それについて嫌な思いをしたと発言している。
  • これまでマスコミに福原愛2世と呼ばれた選手は石川佳純平野美宇三村優果の3人である。因みに「男愛ちゃん」と呼ばれた森薗政崇もいる。
  • 卓球以外のスポーツは苦手らしく、高校では体育は好きな教科でなくなったとの事。小さい頃は水泳教室にも通っていて、親は卓球と水泳のどちらに専念させるか考えていた時期があった。ランニングが苦手らしく、自分がリレーに入るといつもチームがビリになるらしいが、2005年以降はランニングなども強化し、筋力をつけスピード、パワーのアップを図っている。
  • スコートをたまに履くことがあり、2006年1月の全日本選手権ダブルスで小西と共にスコートを履いた。同大会ではベスト4まで進出したものの、「試合に集中できない」というコメントをしており、決してスコートは好みではない様子。
  • 2004年10月、埼玉県彩の国まごころ国体では、会場の春日部ウイングハット(客席3,500人)に連日5,000人もの客がつめかけ、国体初の入場規制がされることもあった。
  • 秋田県湯沢市の稲住温泉敷地内に卓球道場が10月26日に完成。移築してあった旧秋ノ宮村役場(白井晟一設計の建造物)を改装した。
  • 幼少の頃「天才卓球少女」としてTV出演をしていた時代の変わった卓球対戦相手としては、1994年W杯アメリカ大会東アジア最終予選の際にサッカー日本代表にロスタイムで同点ゴールをあげ、日本代表のW杯初出場の道を閉ざした(いわゆる『ドーハの悲劇』)イラクチームの選手達が挙げられる。その番組出演時には明石家さんまとも対戦した。
  • 2008年6月、北京五輪選手で「さわやかな汗がもっとも似合う人」女子1位に選ばれた[4]。2位はバドミントンダブルスのオグシオ小椋久美子潮田玲子ペア)、3位は柔道谷亮子、男子1位は競泳平泳ぎ)の北島康介
  • 2008年9月、東京代々木体育館で、不審な男に追い掛け回されるハプニングがあった。男は婚姻届を持ち福原にサインを迫ったが、早大卓球部監督の機転で難を逃れた。

[編集] 戦歴

  • 1992年8月 - 3歳で初めてラケットを握る。
  • 1993年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部(8歳以下の部)ベスト16
  • 1994年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
  • 1995年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
  • 1996年9月 - 全日本卓球選手権大会・バンビの部優勝
  • 1997年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)
  • 1997年9月 - 全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
  • 1997年11月 - 全日本卓球選手権大会・カデットの部(13歳以下の部)優勝(小3)
  • 1998年7月 - 大阪に転居。ミキハウスJSCに所属。
  • 1998年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)
  • 1998年9月 - 全日本卓球選手権大会・カブの部(10歳以下の部)優勝
  • 1998年11月 - 全日本卓球選手権大会・カデットの部(14歳以下の部)ダブルス優勝・シングルス準優勝
  • 1998年12月 - 全日本卓球選手権大会・一般の部 ダブルス ベスト32(史上最年少出場)、ジュニアの部(17歳以下の部)シングルス準優勝(史上最年少出場)
  • 1999年3月20日 - レジスタードプロに登録
  • 1999年8月 - 東アジアホープス大会(日本代表)シングルス ベスト8
  • 1999年9月 - 全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝
  • 1999年11月 - 全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)準優勝
  • 1999年12月 - 全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト4、一般の部 シングルス ベスト64(史上最年少出場、最年少勝利)
  • 2000年6月 - ジャパンオープン(日本代表)シングルス ベスト64、ダブルス ベスト32 日本代表初出場(小6)
  • 2000年9月 - 全日本卓球選手権・ホープスの部(12歳以下の部)優勝(7連覇)
  • 2000年11月 - 全日本卓球選手権・カデットの部(14歳以下の部)優勝
  • 2000年12月 - 全日本卓球選手権・ジュニアの部(17歳以下の部)ベスト32 
  • 2001年1月 - 第30回後藤杯選手権 女子シングルス優勝 
  • 2001年4月 - 東アジアホープス大会(日本代表)団体2位、シングルス3位
  • 2001年6月 - 中国オープン 決勝トーナメント進出
    • 世界ランク:126位
  • 2001年9月 - ジャパンオープン シングルス ベスト16、ダブルス ベスト8
    • 世界ランク:98位
  • 2001年12月 - デンマークオープン シングルス ベスト8、ダブルス ベスト8  
    • 世界ランク:67位
  • 2001年12月 - 全日本卓球選手権 ジュニアの部優勝、一般の部 シングルス 7位、ダブルス 3位  
  • 2002年8月 - 全国中学校卓球大会 女子シングルス優勝
  • 2002年9月 - ジャパンオープン ダブルス ベスト8
  • 2002年10月 - 釜山アジア大会 女子団体 銅メダル
  • 2002年12月 - 全日本卓球選手権 ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
  • 2003年2月 - アジア選手権 女子ダブルス準優勝
  • 2003年3月 - 日本卓球リーグ実業団連盟ドリームチャレンジカップ優勝 推薦参加
  • 2003年5月 - 第47回世界卓球選手権個人戦 シングルス ベスト8
  • 2003年8月 - 全国中学校卓球大会 シングルス優勝 
  • 2003年9月 - アジアジュニア卓球選手権大会 女子団体ベスト4、ダブルス ベスト4
  • 2003年9月 - 中国オープン 3回戦敗退
  • 2003年9月 - ジャパンオープン 3回戦敗退
  • 2003年11月 - ドイツオープン シングルス(アンダー21)優勝
  • 2003年11月 - スウェーデンオープン シングルス(アンダー21)優勝
  • 2003年12月 - 第1回世界ジュニア選手権大会(チリ)ダブルス 銅メダル、シングルス ベスト8
  • 2004年1月 - 全日本卓球選手権 女子ダブルス優勝、ジュニアの部優勝
  • 2004年3月 - 第47回世界卓球選手権団体戦 女子団体 銅メダル
  • 2004年4月 - アジア大陸オリンピック予選 シングルス 3位(アテネオリンピック出場決定)
  • 2004年8月 - アテネオリンピック シングルス ベスト16 ※(直後の世界ランキングwr19位に、初の10位台)次項に詳述あり
  • 2004年10月 - 国体優勝 少年女子団体の部、青森県代表として(埼玉)
  • 2004年12月 - 世界ジュニア卓球選手権大会2004 神戸大会
    • 女子シングルス 3位
    • 混合ダブルス 3位
    • 女子団体 準優勝
  • 2005年1月11~16日、全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス 6回戦敗退
    • 女子ダブルス 優勝
    • 混合ダブルス 優勝
  • 2005年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2005年3月12・13日 - 第17回女子アジアカップ シングルス 準優勝※(直後の世界ランキングwr32→wr23へ大幅アップ)
  • 2005年3月28日 - 高等学校選抜卓球大会 団体戦準優勝(青森山田高校)
  • 2005年3月31日 - ミキハウスジュニアスポーツクラブ満期終了、一時フリーになる
  • 2005年4月1日 - 中国スーパーリーグ遼寧省チーム入団(一年契約)
  • 2005年4月11日 - グランプリと4年契約を結ぶ
  • 2005年4月30日~5月6日 - 第48回世界卓球選手権上海大会
    • 女子シングルス 3回戦敗退
    • 女子ダブルス ベスト8
    • 混合ダブルス 3回戦敗退
  • 2005年9月 - アジア卓球選手権、ダブルスで銅メダル、ペアは藤沼
  • 2005年10月 - 国体2連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(岡山)
  • 2005年11月 - ITTF女子ワールドカップ3位(銅メダル)中国広州 ※(直後の世界ランキングwr25→wr16へ大幅アップ)
  • 2006年1月 - 全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト8
    • 女子ダブルス ベスト4
    • 混合ダブルス 準優勝
  • 2006年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2006年3月5日 - 第19回グランプリアジアカップ シングル5位
  • 2006年3月15日 - 超級リーグ広東チームへの移籍契約調印を行う
  • 2006年4月9日 - 日本卓球リーグ実業団連盟 ビッグトーナメント 女子シングルス優勝(推薦参加)
  • 2006年4月24日~5月1日 - 第48回世界卓球選手権ブレーメン大会
    • 女子団体 3位 銅メダル
  • 2006年6月 - ITTFツアー 台湾OP ダブルス優勝 ツアーでは初の優勝、ペアは藤沼
  • 2006年8月7~11日 - インターハイ
    • 女子団体 準優勝
    • 女子シングルス 準優勝
    • 女子ダブルス 優勝
  • 2006年9月 - ITTFツアー ジャパンOP ダブルス銅メダル
  • 2006年10月 - 国体優勝3連覇 少年女子団体の部、青森県代表として(兵庫)
  • 2007年1月 - 平成18年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト16
    • 女子ダブルス 4回戦(初戦)敗退
    • 混合ダブルス 優勝(坂本竜介ペア)
  • 2007年2月10日 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝
  • 2007年4月8日 - ビッグトーナメント 初戦敗退
  • 2007年4月30日~5月6日 - 第49回世界卓球選手権ザグレブ大会
    • 女子シングルス 3回戦敗退
    • 女子ダブルス 2回戦敗退
    • 混合ダブルス 3回戦敗退
  • 2007年10月 - ITTFツアー オーストリアOP ダブルス優勝平野早矢香とのペア)
  • 2008年1月 - 平成18年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト16
    • 女子ダブルス 優勝(照井萌美とのペア)
    • 混合ダブルス 準決勝敗退(坂本竜介ペア)
  • 2008年2月9日 - ジャパントップ12卓球大会 ベスト4
  • 2008年2月 - 第49回世界卓球選手権広州大会
    • 女子団体 3位 銅メダル
  • 2009年1月 - 平成18年度全日本卓球選手権大会
    • 女子シングルス ベスト4
  • 2009年2月 - ジャパントップ12卓球大会 準優勝

[編集] アテネオリンピックでの対戦成績

  • アテネオリンピック女子シングルス
    • 2回戦 - オーストラリアのミャオ・ミャオと対戦し、4-3で勝利。
    • 3回戦 - アメリカのガオ・ジュン(世界ランク12位)と対戦し、4-0で勝利。
    • 4回戦 - 韓国金暻娥(世界ランク6位)と対戦し、1-4で敗退。8強ならず。

[編集] 受賞

  • 1993年 - 功労賞(日本卓球協会)
  • 1994年 - 未来賞(ミロスポーツ大賞)
  • 1995年 - 日本スポーツ賞(読売新聞社)、特別奨励賞(宮城県体育協会)
  • 1996年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、感謝状(兵庫県卓球協会)、感謝状(ライオンズクラブ)
  • 1997年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会)
  • 1998年 - 奨励賞(宮城県体育協会)、スポーツ奨励賞(仙台市教育委員会)
  • 2003年 - 第5回王国大賞、プレイヤー・オブ・ザ・イヤー(卓球王国
  • 2004年 - 第4回日本卓球人賞
  • 2004年2月2日 - イタリアテルニ市の親善大使に任命
  • 2005年1月 - 夢見る女の子大賞(ロッテ主催)

[編集] 主な出場イベント

  • 2000年4月4日 - プロ野球・日本ハムの始球式をつとめる(東京ドーム)
  • 2004年1月 - ミキハウスの毎年恒例の新年会に最後の参加をした。ゲストは星野仙一
  • 2004年6月 - ミキハウスの五輪壮行会
  • 2004年8月 - アテネ五輪聖火リレー最終ランナーをつとめる(新宿)
  • 2004年10月20日 - 新宿、都庁前で一日警察署長
  • 2005年2月 - 中国大使館を表敬訪問、卓球交流
  • 2005年4月23日(反日感情が悪化していた時期) - 中国大使館訪問、王穀駐日大使に表敬
  • 2005年3月 - 中越地震で被災した長岡市の南中学を慰問、卓球交流。
  • 2005年5月14日 - 映画『KARAOKE-人生紙一重-』(グランプリ製作)の試写会にゲスト出演
  • 2005年7月 -「中国と日本60年の歩み」写真展(東京)ジャッキー・チェンとともにイベントに呼ばれる。(福原は晴れ着で登場した。)
  • 2005年9月 - 青森山田高校体育館で、幼稚園生を対象にこてんこてんこと気球イベント
  • 2005年9月19日 - 愛・地球博上海ウイークのイベントに出場
  • 2005年11月20日 - スペシャルオリンピックのトーチランの伴走者を務める(青森市)
  • 2006年3月31日 - 日中卓球交流50周年記念イベント(北京)
  • 2006年10月11日 - 外国特派員協会の昼食に招かれインタビューに応じた。(東京都)
  • 2006年10月12日 - 全国旅館生活衛生同業組合連合会全旅連)のイメージキャラクターに選ばれた。(東京都)
  • 2007年5月 - 糖尿病対策の会見「グリコヘモグロビン認知向上運動」に日本卓球協会を代表して出演

[編集] 過去のテレビ出演

  • ダウンタウンデラックスデラックス(日テレ、1996年3月28日) - 「クイズ芸能人発想辞典 スーパースペシャル」のコーナーで出演。
  • スーパーニュース(フジ) - 年一回ぐらい生出演している。フジには幼少より愛ちゃん番の佐藤ディレクターがいる。
  • うたばん(TBS) - 卓球対決で何度か出演している。
  • 「愛が見えた!泣き虫愛ちゃん14年の挑戦」(フジ、2003年3月2日) - 2時間の特別番組で、福原愛を幼少から成長を追って取り上げたドキュメント。「(練習を)やめないで~!泣かないでやる!」といった幼少の葛藤をはじめとして、全体にスポ根系のニュアンスが強い作りであった。放送時福原は中2で、この放送直後に世界選手権でベスト8となり、世間が注目した。司会は安藤優子、そして長嶋茂雄がゲストだった。視聴率は14.3%となかなかの高視聴率だった。
  • 徹子の部屋(テレビ朝日、2003年9月15日)
  • さんまのまんま(フジ、2004年1月) - 杉山愛と晴れ着での出演。
  • ニュース10(NHK、'04 4月頃) - アテネ出場が決まっての出演。この時はダブルスも通過した、と日本人は皆誤解していた。有働由美子のインタビューを受けた。
  • 「夢が咲いた!決戦のアテネへ 愛ちゃん15歳の出陣」(フジ、2004年8月13日) - アテネ直前に流された2時間番組。司会は安藤優子とみのもんた(この直前に長嶋氏は脳こうそくで入院していた)。前番組以降の、ここ一年半の福原の卓球生活に特にスポットを当てた内容であった。また、福原は番組に出演し、みのと卓球対決も行った。他に舞の海森末慎二永島昭浩八木亜希子もゲストとして出演した(スーパーニュースの歴代スポーツキャスター)。視聴率は11%前後と前回の高さには及ばなかったがそれなりの数字を出した。
  • 報道ステーション(テレビ朝日、2004年8月) - アテネからの衛星中継で古館と生トークを行った。この頃はどの番組でも「サーッ!」についての質問が多かったが福原は照れて明確に答えなかった。
  • スーパーフライデー 愛と真実のアテネ五輪密着17日超マル秘映像全部見せちゃうぞSP(TBS、2004年9月3日) - 中居正広久保純子が司会。青森からの中継
  • 海外のドキュメント番組に登場(2004年末)。外国人からのインタビューに答えた十数分のドキュメント番組。日本でもJSPORTSで放送された。
  • 雨スポ(2005年1月) - 雨上がり決死隊が司会のスポーツバラエティ番組に登場。
  • 学校へ行こう!(TBS、2005年2月) - V6岡田准一ドランクドラゴンと主演の番組で「普段忙しい愛ちゃんにデート気分を味わってもらおう」という企画や、負けたら愛ちゃんをコギャルメーク、という卓球対決などがあった。
  • とんねるずのみなさんのおかげでした(食わず嫌いのみの特別番組、フジ、2005年2月ごろ) - この日は松岡修造と福原愛がゲストとして呼ばれた。結果は引き分け。視聴率は20%を超え、同番組の放送中でも特に高視聴率を出した結果となった(目立っていたのは松岡であったが)。なお、福原の嫌いな食べ物はキウイであった。
  • とんねるずのスポーツ王は誰だ(2005年、2006年正月放送) - 2005年は青森山田高校体育館での収録。2006年は5歳の卓球少女の平野美宇、伊藤美誠がゲスト出演した。
  • おしゃれカンケイ(日テレ、2005年3月13日) - ちょうど同番組が終了する頃の放送で、福原がメディアでミキハウスの服を着る最後の機会だった。
  • ザ・ワイド(日テレ 2000年5月) - 草野仁キャスターと対談をした。グランプリの紺ジャージで登場。
  • スポーツ大陸(NHKBS、2005年9月3日) - 超級を中心とした50分のドキュメント番組。NHKでも再放送された。
  • アンテナ22(日テレ、2006年1月16日) - 一時間のドキュメント番組。昨年の超級や、学校生活に密着したドキュメント番組だった。
  • テレビ東京は世界卓球選手権を放送。同大会の特番も放送した。(2005年、2006年)他にはアジアカップ、アジアジュニア選手権、あいおいトヨタカップなどの放送履歴があり、アテネ以降、福原愛の卓球試合を多く取り上げている。
  • SMAP×SMAP(2006年10月30日放送) - ビストロスマップにゲスト出演。注文は味の付いたご飯とデザート。試食の途中でSMAPのメンバー全員と卓球も行った。香取は幼少時の福原愛のスタイルで福原と対決した。福原は番組の半分ほど登場していたが、その週の視聴率は19.9%と同番組の他週と比べても高い結果となった。
  • 「新春スペシャル対談 未来に架ける橋」(NHKBS、2006年1月) - 谷村新司との100分に渡る対談番組
  • 中国語会話(NHK教育、2005年12月26日・2006年1月9日) - 同番組の盧思が青森を訪問し、福原愛に中国語についてインタビューした。顔や身長が福原にそっくりな盧思は「私の小さい頃にそっくり」、福原も「盧思さんが歩いてくるの見て、私にそっくりと思いました。」と談笑した。
    • とっさの中国語(NHK教育、2007年4月~9月。予定) - 福原は上記出演がきっかけでNHKの語学番組出演に関心を持つようになり、この番組に盧思が登場することもあり出演依頼を快諾した。番組では、盧思が「ネイティブ並み」と太鼓判を押す発音で、その日のフレーズを紹介する役割を担う。毎週5分という短さであるが、福原にとって初めてのレギュラー番組である。だが、福原の出演部分は時間的都合を考え、一年分まとめ撮りされたとの事。
  • とんねるずのみなさんのおかげでした(2度目の出演、2008年3月27日) - ゲストは福原愛と郷ひろみ。結果は郷ひろみの勝利。嫌いな食べ物は福原はショートケーキ、郷ひろみはエンガワのにぎりであった。[5]この回で福原は自身が阿佐谷に住んでいると話した。

[編集] CM出演

[編集] アテネ五輪の試合放送

アテネ五輪初戦当日、福原の試合は20時頃から始まったが、テレビ東京は競泳等を録画で放送していた。多くの卓球ファンは、ITTFが作っているネットライブスコア(点数の経過だけ)を見ながら一喜一憂していた。ところがテレビ東京は途中から急に卓球に切り替え、既に福原は2ゲーム取られピンチの状態から始まった。30分程度放映し試合が終わらないまま番組は終了し、放送延長もなく、最初から放送していなかったので見逃した視聴者も多かった(21時頃に試合は終了)。内容はフルゲームの、最後は2点差の緊迫した逆転試合だった。

同日、NHKBS、NHK総合は23時頃から、TBSが0時頃から録画放送を開始。その3局は他局と時間がかぶっているにもかかわらず、ノーカットで試合放送した。次の3回戦はNHK、TBSが生放送をした(19:30-)。NHKだけで平均視聴率は20.1%、勝利した瞬間の最高視聴率は31.9%という高視聴率をマークした(関東地区、ビデオリサーチ調べ)。NHKが「卓球の愛ちゃん人気の高さには驚きました」と話したように、この数字は各局に少なからぬ衝撃を与えた。

最終試合となった3試合目、4回戦は開始が0時頃だったが、これはフジが生放送。2戦目に比べ数字の取りにくい時間帯だったが、これも高視聴率をマーク。福原が敗れた瞬間の最高視聴率は22.7%(フジ:19日0時34分)。

  • 2004年アテネオリンピックに関するアンケート(株式会社マクロミル調べ、2004年6月2日)で「見逃せない競技・種目(複数回答)」のトップは、回答者の62%が挙げたバレーで、注目・期待する選手でトップだったのは北島康介、2位は谷亮子、3位は福原愛、4位は井上康生そして5位に大山加奈、6位に栗原恵がランクインしていた。福原はメダルを取れなかったが、マスコミは他のメダリストとともに福原を番組に呼んでインタビューを繰り返した。
  • アテネ五輪で初めて福原の試合を見たという人が多く、その人たちには福原が出す「サーッ!」という声をはじめて聞くことになり、小さい頃は泣きながら卓球をやっていた少女が、あんなに元気よく声を出していることに感銘を受けた人も多かった。各局のインタビューでは、必ずサーの質問がされ「あれはサーなのかターなのかシャーなのか」という論議がしばらく続いた。報道ステーションのインタビューでは「気合いです。何て言ってるのか分からない。」とコメントした。声紋を機械にかけたところ、発音は「ター!」である事が判明した。

[編集] 福原の関連書籍・商品など

  • いくぜ!温泉卓球(彩京、PS2用ゲームソフト、2000年)小六の福原愛が対戦相手として登場
  • 福原愛の卓球一直線(サクセスPS2用ゲームソフト、2005年)高校生の福原愛となって戦う。
  • エキサイトピンポン(エポック、2006年7月)子供の福原愛と、高校生の福原愛と戦える。
  • 「福原愛物語」(少年サンデーで漫画化、作者はあおやぎ孝夫、2004年8月4日)
  • TV東京のアニメ、「こてんこてんこ」妖精アイちゃんの声優を担当(2006年1月)
  • 卓球ラケット「福原愛」バタフライ
  • 卓球シューズ「WAVE FLORA AI」ミズノ
  • 卓球練習マシーン「マシンガン愛I、II」TSP
  • 卓球のレッスンDVDバタフライより発売されている。
  • 中国の卓球選手ばかりが歌うラップ曲2曲に特別参加している。(2005年、2006年)
  • 2006年度福原愛カレンダーがANAより作られる。(2005年12月)
  • 2頭身フィギュア(ロッテのガムの懸賞の商品になった。2006年)
    • 福原を取り上げた本
  • 福原愛写真集「LOVE ALL」(卓球王国、2005年3月)卓球写真集という趣が強い。
  • 「愛は天才じゃない―母が語る福原家の子育てって?」生島淳(2005年1月)三起商行(ミキハウス)母のインタビュー本。
  • 「愛ちゃんのあ。」リイド社 福原の母の著(1997年10月)
  • 「スポーツのニューヒロイン〈2〉福原愛物語 」汐文社 本郷 陽二著(2005年11月)¥1,575 子供向け
  • 卓球王国(1996年 - )創刊号以来これまで、何度も表紙を飾り、インタビューも数多く取り上げられた。月刊福原愛という1Pの福原愛のアルバム新聞のような記事があり、名称は何度か変わったが、小学生の頃から続いている企画である。
  • 卓球レポート(1994年 - )これも福原愛の記事や表紙は載るが、卓球王国に比べると幾分少ない。
  • AERA小学館、2003年5月12日)表紙を飾った。
  • 小学一年生(小学館、1995年4月 - 1996年3月)表紙を飾った。
  • 中国の卓球雑誌「世界卓球」(2005年8月)で表紙や本編などで大きく取り上げられた。
  • 公式ファンサイト 携帯の公式ファンサイト、パソコンの公式ファンサイト、所属のグランプリによる公式福原ファンサイトが存在するが(昔はミキハウスの福原ファンサイトもあった)、いずれも過疎状態が長い。これは福原サイドが多忙でなかなかメッセージを出せないことが大きな要因でもある。他の人気スポーツ選手のブログHPのような盛り上がりは見せていない。

[編集] その他

[編集] 脚注

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  1. ^ 福原の入学前、早稲田大学は2部在籍であったが1部校の増加に伴い入替戦なしで1部に昇格した。
  2. ^ 雅虎幻灯 卓球界八大美女
  3. ^ 2008年8月9日号「熊本日日新聞」
  4. ^ 株式会社リベルタの調査。http://www.dreamnews.jp/?action_press=1&pid=0000002232
  5. ^ http://blogcheck.jugem.jp/?eid=769

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月11日 (水) 15:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【福原愛】変更履歴

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