福岡県立修猷館高等学校

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福岡県立修猷館高等学校
福岡県立修猷館高等学校正門
過去の名称 福岡県立修猷館
福岡県立尋常中学修猷館
福岡県中学修猷館
福岡県立中学修猷館
福岡県立高等学校修猷館
国公私立の別 公立学校
設置者 福岡県
学区 福岡県第七学区(2010年より第六学区)
設立年月日 1885年5月30日
創立記念日 5月30日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
学期 2学期制
高校コード 40142A
所在地 814-8510
福岡県福岡市早良区西新6丁目1番10号
電話番号 092-821-0733
FAX番号 092-822-6564
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
  

福岡県立修猷館高等学校(ふくおかけんりつしゅうゆうかんこうとうがっこう、英称:Fukuoka Prefectural Shuyukan Senior High School)は、福岡県福岡市早良区西新6丁目1番10号にある男女共学の公立高等学校である。略称「修猷館(しゅうゆうかん)」、「修猷(しゅうゆう)」。

目次

[編集] 概観

修猷館の名は尚書「微子之命」の章句、「踐脩厥猷」(湯王の道を踏み修む)から取られた。自由な校風であり、生徒に学校運営をほぼ委ねる自治を認めている。生徒を「館生」、校長を「館長」、校歌を「館歌」、校旗を「館旗」と称する。アイザック・ニュートンリンゴの木の子孫が敷地内に植えられている。 福岡県立福岡高等学校福岡県立筑紫丘高等学校とともに、公立御三家とよばれている。 福岡県立福岡高等学校とは旧制福岡中学が修猷館の寄宿舎の一部を借りて開校したことや、福岡中学での火災時の復興支援を行ったことなどを背景に両校の関係は深く、特にラグビー部では定期戦を行っている。[1]

[編集] 沿革

  • 1783年6月24日(旧暦) 福岡藩第9代藩主黒田斉隆(第11代将軍徳川家斉の実弟)が竹田定良と亀井南冥藩校創建を命じる。
  • 1784年2月6日(旧暦)(天明4年) 福岡藩の藩校として修猷館東学問稽古所)開館 初代館長は竹田定良
  • 1784年2月19日(旧暦) 同じく福岡藩の藩校として甘棠館西学問稽古所)開館[2] 初代館長は亀井南冥
  • 1798年2月(旧暦) 甘棠館焼失。生徒は皆修猷館に編入し以後福岡藩の藩校は修猷館のみとなる。
  • 1871年10月25日 藩校を廃止(後の1874年 福岡県はこの地に診療所を設置、これが九州大学の起源となる)。
  • 1879年1月 向陽社(後の玄洋社)により向陽義塾設立
  • 1881年1月10日 向陽義塾(同年1月7日閉校)を引き継ぎ、黒田家により藤雲館開館
  • 1885年1月 侯爵黒田長溥金子堅太郎と福岡の旧藩士の尽力により修猷館を再興することが決定
  • 1885年5月30日 福岡県令より、英語専修学校である福岡県立修猷館[3]の設置が告示される(同日を創立記念日としている)。
  • 1885年9月10日 福岡県立修猷館を開館[4]。開館式を行う。黒田家の寄付により藤雲館の校舎・什器一切を引き継ぐ。
  • 1887年3月26日 原因不明の出火により全焼 一時的に旧警固小学校跡に移転
  • 1889年3月 福岡県立尋常中学修猷館と改称
  • 1889年3月15日 隈本有尚館長、金子堅太郎栗野慎一郎らの尽力により旧藩校修猷館跡である大名町堀端に再建・移転
  • 1891年3月24日 投石事件[5]
  • 1894年12月 六光星の徽章を制定
  • 1899年4月 中学校令改正のため、新年度より福岡県中学修猷館と改称
  • 1900年7月17日 大名町から西新町(現在の場所)へ移転
  • 1901年4月 新年度より福岡県立中学修猷館と改称
  • 1923年 館歌制定
  • 1925年4月 福岡県中学修猷館と改称
  • 1927年6月22日 福岡中学校舎火災に伴い修猷館の一部を仮校舎として貸す。
  • 1945年6月19日 福岡大空襲により大きな被害を受ける。
  • 1948年4月 新年度より学制改革に伴い、福岡県立高等学校修猷館と改称[6]
  • 1949年4月 新年度より男女共学となる。
  • 1949年8月 福岡県立修猷館高等学校(現校名)と改称
  • 1985年 創立200周年記念事業開始(~1987年) 同年4月、菁莪堂(正しくは菁莪記念館[7])竣工
  • 1998年3月 校舎建替え工事開始 (卒業式を待ち、まず最初に講堂が解体)
  • 2000年 第一期工事(教室棟)完成
  • 2002年4月 文科省よりスーパーサイエンスハイスクールの指定を受ける(2006年度を以って終了)。
  • 2002年 第二期工事(管理棟)完成。校舎建て替え・福岡県立博多青松高等学校の開校により定時制課程を閉課。
  • 2003年 第三期工事(新体育館)完成
  • 2005年 第四期工事(プール、弓道場、ヨット部艇庫)完成
  • 2008年 第五期工事(新講堂)完成 これにより10年にわたる一連の新校舎建設事業完了

[編集] 徽章

六光星

六光星と呼ばれる。1894年(明治27年)12月、当時の館長隈本有尚によって制定された。由来は朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」によるものであり、日月と輝きを同じくする星の光に将来を荷う若き青年の希望を託したものである。

[編集] 館歌

ShuyukanKanka.ogg 館歌ヘルプファイル
ウィキソース
ウィキソース館歌の原文があります。
  • 1923年(大正12年)制定
  • 作詞:藤沢雄一郎(中学修猷館教諭)
  • 校閲:八波則吉
  • 再閲:武島羽衣
  • 作曲:横田三郎(中学修猷館教諭)

[編集] 組織

  • かつては定時制と通信制も存在したが、現在は普通科のみ。
  • 2年次から文系理系のクラスに分かれる。文系・理系普通クラスのほかに、文系英数クラス・理系英数クラス・理系医学進学クラス(通称医進)が存在する。

[編集] 学校生活

生徒による大幅な自治が認められており、校則は存在しないが、生徒心得という明文化されたルールが存在する。校内での携帯電話の所持・使用が認められていることなど福岡県内の他校と比較すると大変規則は緩やかであるが、私服登校やオートバイ通学は認められていない。また、部活動への入部率が高く、ほとんどの文化部で兼部が可能である。

[編集] 時制

朝補習 7:35-8:25
HR  8:40-9:00
1限目 9:00-9:50
2限目 10:00-10:50
3限目  11:00-11:50
第1昼休み 11:50-12:30
4限目   12:30-13:20
第2昼休み 13:20-13:40
5限目   13:40-14:30
6限目   14:40-15:30
7限目   15:40-16:30(火・木のみ)
普段はほとんどの生徒は第1昼休み(通称「1昼」)に昼ご飯を食べるが、生徒集会などがあるときには第1昼休みと第2昼休みが入れ替わるため、20分で昼ご飯を食べなければならない。そのため売店では第1昼休みと第2昼休みが入れ替わる日のみテイクアウトの弁当を販売している。

[編集] 学校行事

[編集] 修猷2大行事

外部に広く公開される大規模な学校行事は年に2回存在する。いずれも企画立案段階から各行事における運営委員会が設置され、生徒主体の運営が行われる。また、これらの行事の前は授業が50分から40分になり、6限から4限になり、午後は作業・練習の時間となる。

修猷大文化祭
毎年6月上旬頃の土曜・日曜の連日に開催されていたが、近年学校全体が変革の風潮にあり、平成20年度から、3月下旬ごろに移行された。また、3年生は参加しない。例年、一般公開されている。内容は大別すると各クラスが一体となって展示を行うクラス展示、文化部が部活動の内容を紹介する、あるいは部活動に関連した内容の展示を行う文化部展示、バンド・歌・ダンスなど有志が中心となっておこなわれる文化祭有志という3形態がある。
秀逸だったクラス企画には「館長賞」、「六光賞」が与えられる。
2008年度から、6月に文化部を中心とした文化祭『春のフェスト』(クラス展示なし)という行事が開催されることになったが、2009年度から『春のフェスト』は廃止され、代わりに『文化部発表会』となった。
修猷大運動会
毎年9月上旬の日曜日に単日開催。例年、一般公開されている。全校生徒を4ブロックに分け各競技を競う。

[編集] その他

  • クラスマッチ - いわゆる球技大会である。夏休み直前に2日間行われる。
  • 十里踏破遠足 - 十里行軍とも呼ばれる。糸島半島十里(約40km)を歩き抜く行事である。毎年2月上旬ごろに開催されていたが、2008年度から12月中旬に引き上げられた。

[編集] 部活動

[編集] 制服

男子は一般的な黒色の学生服。襟に校章をつける。学生服を脱ぐ場合はカッターシャツ着用。

女子は後の襟の両側に六光星の模様が入ったセーラー服。夏服は上が白のセーラー服で、六光星が青で刺繍されている。スカートは冬服はジャンパースカート、夏服は吊りスカート

[編集] アクセス

[編集] 高校関係者一覧

[編集] 脚注

  1. ^ 2007年の月刊現代9月号より新連載の名門高校ライバル物語の第一回に、修猷館高校&福岡高校として紹介された。
  2. ^ 修猷館が上級武士を対象に幕藩体制を支える理論重視の朱子学を講じたのに対し、甘棠館は下級武士や町人等を対象に朱子学に批判的な実践重視の徂徠学を講じており、前者の系譜を東学、後者の系譜を西学と称した。1790年(寛政2年)江戸幕府老中松平定信寛政の改革で行った学問の統制(寛政異学の禁)による朱子学以外の学問に対する厳しい圧迫が地方にも及び、藩の上層部は1792年(寛政4年)南冥を甘棠館館長から罷免し、長男の亀井昭陽が家督を継ぐも1798年(寛政10年)唐人町の商家から発した大火の中に甘棠館校舎が焼失し、遂には甘棠館の再興もならず閉校が決定された。その後、西学は私塾「亀井塾」として命脈を保ち、日田広瀬淡窓秋月原古処、そして博多の興志塾を設立した高場乱などを輩出した。興志塾は後に玄洋社を設立する頭山満箱田六輔らを輩出している。
  3. ^ 再興に際し、文部大臣から旧藩校時代の校名は不適切との理由で校名の変更を迫られたが、旧福岡藩主黒田長溥は「学校経費はすべて黒田家で出すから館名を残せ」とまで決意し反対したことにより館名は守られた。実際に館の財政は1893年まで黒田家が全額負担しており、黒田家の援助から離れ完全に県費負担となるのは1900年のことである。
  4. ^ 再興された修猷館の初代館長である隈本有尚は、夏目漱石の小説「坊っちゃん」に出てくる数学教師・山嵐(堀田)のモデルとされており、1897年(明治30年)には、当時旧制第五高等学校講師であった漱石が英語授業の視察で修猷館を訪れ隈本館長に面会している。
  5. ^ 修猷館の校庭から何者かによって投げられた瓦の破片が、通りを進んでいた福岡歩兵二十四連隊の隊列の兵士の小銃に当たったことに端を発し、ついには陸軍省文部省の対立にまで発展した事件。当時の尾崎臻館長が辞任、佐藤正連隊長が更迭されるに至った。
  6. ^ GHQから「修猷館」という名が封建的であるとして改名を示唆されたが、修猷館OBの粘り強い努力によって館名は守られた。
  7. ^ 菁莪記念館3階を菁莪堂を呼ぶが、菁莪堂はあまり使用されないため区別は曖昧である。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月24日 (土) 21:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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