福澤諭吉

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福澤諭吉(1862年、パリの国立自然史博物館にて撮影)東京大学史料編纂所蔵
福澤先生像 (三田)
福澤先生像 (日吉)

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、天保5年12月12日1835年1月10日)- 明治34年(1901年2月3日)は、日本武士中津藩士)、蘭学者著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。また、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。明治期以来「日本最高の啓蒙思想家」と称される[1]明治の六大教育家のひとり。

現代では「福沢諭吉」と記載される事が一般的であり、慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の公式ホームページでも「福沢諭吉」と表記されている。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。は範(はん)。は子囲(しい)。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった[2]

目次

[編集] 経歴

生誕の地と中津藩蔵屋敷跡の記念碑(大阪府大阪市)
長崎光永寺(大正)、手彩色絵葉書
福澤諭吉とアメリカの少女テオドーラ・アリス。1860年、サンフランシスコにて。(慶應義塾福澤研究センター所蔵)

天保5年12月12日(1835年1月10日大坂堂島浜(現在の大阪府大阪市福島区福島1丁目・通称 ほたるまち)にあった豊前国中津藩蔵屋敷[3]で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。父は、大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあったが、儒教に通じた学者でもあった。しかしながら身分が低いため身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていたと述べている。なお、母兄姉と一緒に暮してはいたが、幼時から叔父中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。後、福澤の実家に復する。

天保6年(1836年)、1歳6ヶ月のとき父の死去により帰藩し中津で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。初め読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読みあさった。

安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないかと兄から誘われたのがきっかけであった。長崎の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)のもとへ通ってオランダ語を学んだ。

[編集] 適塾時代(大坂)

安政2年(1855年)、その山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし福澤本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から江戸へは行くなと引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、蘭学者緒方洪庵適塾で学ぶこととなった。ところが腸チフスを患い、一時中津へ帰国する。

安政3年(1856年)、再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って再び大坂の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので、福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch 1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。

安政4年(1857年)には適塾の塾頭となった。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は医学塾ではあったが、福澤は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。

[編集] 江戸へ

安政5年(1858年)、江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために吉川正雄(当時の名は岡本周吉、後に古川節蔵)を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。この蘭学塾「一小家塾」が後の慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。

安政6年(1859年)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。しかしそこでは専ら英語が用いられており、自身が学んできたオランダ語が全く通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などをたよりにほぼ独学で英語の勉強を始める。

同年の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号 (USS Powhatan) で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸アメリカ合衆国に派遣することが決定した。

[編集] 渡米

咸臨丸の乗船者達 1860年、サンフランシスコにて。右側から、福澤諭吉、岡田井蔵肥田浜五郎小永井五八郎浜口興右衛門根津欽次郎。(東京大学史料編纂所蔵)

万延元年(1860年)、福澤は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行木村摂津守の従者として、アメリカ合衆国へ渡る。なお咸臨丸の指揮官は勝海舟であった。後に福澤は、蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって太平洋を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べている[4]。なお当時、福澤と勝海舟はあまり仲が良くなかった様子とされる[5]。一方、木村摂津守とは明治維新によって木村が役職を退いた後は、晩年に至るまで親密な交際を続けている。

アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関しては様々に衝撃を受けた。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民がジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに子孫はいない)。福澤は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の抄略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。

帰国し、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語にカタカナで読みを付け、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版する。これは福澤が初めて出版した書物である。この書の中で福澤は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「」や「ワ」に濁点をつけた文字「」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。また、再び鉄砲洲で講義をおこなう。しかしその内容は従来のようなオランダ語ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳をおこなった。これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強をおこなったりもした。この頃にはかなり英語も読めるようになっていたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。

同じ年の冬、竹内下野守を正使とする使節団を欧州各国へ派遣することとなり、福澤もこれに同行することとなった。その際に幕府から支給された支度金で英書を買い込み、日本へ持ち帰っている。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。たとえば病院銀行郵便法徴兵令選挙制度議会制度などについてである。これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、福澤は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。

帰国後、『西洋事情』などの著書を通じて啓蒙活動を開始。一時は幕臣として幕府機構の改革を唱えた。またアメリカ独立宣言の全文を翻訳して『西洋事情』(初編 巻之二)中に「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」として掲載して日本に伝えた。

[編集] 渡欧

文久2年(1862年)には香港シンガポール、インド洋、紅海、地中海ルートでマルセイユに上陸。リヨンパリロンドンロッテルダムハーグアムステルダムベルリン、ペテルブルク(サンクトペテルブルク)、リスボンなどを見物した。なお、オランダユトレヒトを訪問した際にドイツ系写真家によって撮影されたと見られる写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された[6]

慶応3年(1867年)には横浜から再渡米し、ニューヨークフィラデルフィアワシントンD.C.にも到達した。

[編集] 維新後

福澤邸の跡地にある福澤公園
明治時代にはこの場所から東京湾が一望出来た。
福澤の邸宅が存在した台地
(慶應義塾大学三田キャンパス内)
福澤が馬を繋いだと伝えられる馬留石

慶應4年(1868年)には蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念する。維新後も洋学の普及を主唱、国会開設運動が全国に広がると、一定の距離を置きながら、英国流憲法論を唱えた。

明治13年(1880年)、専修学校(現・専修大学)の創設に協力し、京橋区の福澤の簿記講習所、また木挽町の明治会堂を専修学校の創立者4人に提供した。

明治14年(1881年)の政変で政府要人と絶交。

明治15年(1882年)には日刊新聞『時事新報』を創刊し、不偏不党の理念のもと、世論を先導した。

明治31年(1898年9月26日脳出血で倒れ、いったん回復した。明治33年(1900年8月8日に再び倒れ意識不明になったが、約1時間後に意識を回復した。

明治34年(1901年1月25日に再び脳出血で倒れ、2月3日に再出血し死去した。葬儀の際、遺族は福澤の遺志を尊重し献花を丁寧に断ったが、盟友である大隈重信のものだけは黙って受け取ったという。

[編集]

福澤諭吉終焉之地

福澤は、大学の敷地内に居を構えていたため、慶應義塾大学三田キャンパスに彼の終焉の地を示した石碑が設置されている(旧居の基壇の一部が今も残る)。戒名は「大観院独立自尊居士」で、麻布山善福寺にその墓がある。命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、塾長以下学生など多くの慶應義塾関係者が墓参する。

昭和52年(1977年)、最初の埋葬地から麻布善福寺へ改葬の際、遺体がミイラ死蝋)化して残っているのが発見された。外気と遮断され比較的低温の地下水に浸され続けたために腐敗が進まず保存されたものと推定された。学術解剖や遺体保存の声もあったが、遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされた。

[編集] 系譜

[編集] 系図

福澤家
  中上川才蔵
  ┃
  ┃
  ┃
  ┃
  ┃
  ┣━━━━━━━━━━━中上川彦次郎━━藤原あき
  ┃
  ┃緒方洪庵━━━━━━━緒方収二郎━━━淑子
  ┃                   ┃       ┏━美和
  ┃                   ┣━━━━━━━┫
  ┃                   ┃       ┗━福澤範一郎
 ┏婉           糸     ┏━福澤八十吉
 ┃            ┃     ┃
 ┃            ┣━━━━━╋━遊喜
 ┃            ┃     ┃
 ┃      ┏━━━━━福澤一太郎 ┗━八重
 ┗福澤諭吉  ┃             ┃
   ┃    ┣━━━━━房       ┃
   ┃    ┃     ┣━━━━━━━福澤駒吉
   ┃    ┃     福澤桃介
   ┃    ┃
   ┃    ┃  松方正義━━松方五郎━━━松方正信  ┏━松方正隆
   ┃    ┃               ┃     ┃
   ┃    ┃               ┣━━━━━┻━松方正範
   ┃    ┃               ┃
   ┃    ┣━━━━━里        ┏てる子     紀久子   ┏━いく子
   ┃    ┃     ┃        ┃        ┃     ┃
   ┃    ┃     ┣━━中村愛作━━╋中村仙一郎   ┣━━━━━╋━ともの
   ┃    ┃     ┃        ┃        ┃     ┃
   ┃    ┃     中村貞吉     ┗武子    ┏━渡辺紀久男 ┗━純子
   ┃    ┃               ┃     ┃
   ┃    ┃               ┣━━━━━╋━渡辺晴男
   ┃    ┃               ┃     ┃
   ┃    ┃               渡辺良吉  ┗━岩崎正男
   ┃    ┣━━━━━俊                 ┃
   ┃    ┃     ┣━━━━━━━清岡暎一      ┣━━━━━━━雅美
   ┃    ┃     清岡邦之介             ┃
   ┃    ┃                   ┏━━━寛子
   ┃    ┣━━━━━滝             ┃
   ┃    ┃     ┣━━━━━━━多代    ┃
   ┃    ┃     志立鉄次郎   ┃     ┃ ┏━木内宏
   ┃    ┃             ┣━━━━━=━┫
   ┃    ┃             ┃     ┃ ┗━木内孝
   ┃    ┃     木内重四郎  ┏木内信胤  ┃
   ┃    ┃     ┣━━━━━━┫      ┃
   ┃    ┃ ┏━━━磯路     ┗木内良胤━━=━━━木内昭胤━━━━木内孝胤
   ┃    ┃ ┃                 ┃
   ┣━━━━╋━=━━━福澤三八          ┃
   ┃    ┃ ┃   ┣━━━━━━━浦子    ┃
   ┃    ┃ ┃   清       ┃     ┃
   ┃    ┃ ┃           福澤億之助 ┃
   ┃    ┃ ┃                 ┃
   ┃    ┣━=━━━福澤大四郎         ┃
   ┃    ┃ ┃   ┣━━━━━━━福澤進太郎 ┃ ┏━福澤幸雄
   ┃    ┃ ┃   益子      ┣━━━━━=━┫
   ┃    ┃ ┃           アクリヴィ ┃ ┗━エミ
   ┃    ┃ ┃                 ┃
   ┃    ┣━=━━━光     ┏━潮田江次  ┃
   ┃    ┃ ┃   ┣━━━━━┫       ┃
   ┃    ┃ ┃   潮田伝五郎 ┗━潮田勢吉  ┃
   ┃    ┃ ┃           ┃     ┃
   錦    ┃ ┃ ┏━林雅之助━┳━━ラク    ┃
        ┃ ┃ ┃      ┃        ┃   須賀川誠
  林董━━━━=━=━┫      ┗━━岩崎忠雄  ┃   ┃
        ┃ ┃ ┃         ┣━━━━━┻━━━和子
 ┏岩崎弥之助━=━=━=━岩崎俊弥━━━━淑子
 ┃      ┃ ┃ ┃
 ┃      ┃ ┃ ┗━菊     ┏━福澤時太郎
 ┃      ┃ ┃   ┣━━━━━┫
 ┃      ┗━=━━━福澤捨次郎 ┗━福澤堅次  ┏━━━福澤雄吉
 ┃        ┃           ┣━━━━━┫
 ┗岩崎弥太郎━━━┻━━━岩崎久弥━━━━綾子    ┗━━━初子

                   

[編集] 親類縁者

  • 福澤一太郎 - 長男、慶應義塾塾長。文久3年10月12日1863年11月22日)生まれ。
  • 福澤捨次郎 - 次男、時事新報社長。慶應元年9月21日1865年11月9日)生まれ。
  • 福澤里(阿三(後に通称をお里))- 長女、中村貞吉に嫁す。慶應4年4月1日1868年4月23日)生まれ。
  • 福澤房(阿房)- 次女、諭吉の婿養子・桃介の妻。明治3年7月26日1870年8月22日)生まれ。
  • 福澤俊(阿俊)- 三女、清岡邦之介に嫁す。明治6年(1873年8月4日生まれ。
  • 福澤滝(阿滝)- 四女、志立鉄次郎に嫁す。明治9年(1876年3月2日生まれ。
  • 福澤光(阿光)- 五女、潮田伝五郎に嫁す。明治12年(1879年3月27日生まれ。
  • 福澤三八 - 三男。明治14年(1881年7月14日生まれ。
  • 福澤大四郎 - 四男、実業家。明治16年(1883年7月24日生まれ。
曾孫
  • 福澤幸雄 - 進太郎の長男、レーサー
  • 福澤武- 三菱地所会長
玄孫
その他

[編集] 人物・思想

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
慶應義塾大学東館に刻まれているラテン語で書かれた福沢の言
福澤馴染みの酒屋「津國屋
三田に現存
  • 福澤の代表的な言葉戒名にも用いられた言葉が「独立自尊」である。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云ふ」(『修身要領』第二条)。
  • 晩年の自伝である『福翁自伝』において、適塾の有様について「塾風は不規則と云(い)わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉(ろうぜき)、丸で物事に無頓着(むとんじやく)。その無頓着の極(きよく)は世間で云(い)うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止(と)めない。」と記している[7]
  • ベストセラーになった『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本が中華思想儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った。(脱亜思想
  • 時事新報』に『兵論』という社説を寄稿し、官民調和の基で増税による軍備拡張論を主張した[8]
  • 上記の通り家柄がものをいう封建制度を「親の敵(かたき)」と激しく嫌悪した。その怒りの矛先は幕府だけでなく依然として中華思想からなる冊封体制を維持していた李氏朝鮮の支配層にも向けられた。一方で、榎本武揚勝海舟のように、旧幕臣でありながら新政府でも要職に就く姿勢を「オポチュニスト」と徹底的に批判する一面もある。(『瘠我慢の説』)
  • 幼少期よりを嗜み、月代を剃るのを嫌がるのを母親が酒を飲ますことを条件に我慢させたという[9]。後年、禁酒する代わりに喫煙の習慣を持ったが、結局、両方とも嗜むことになってしまった[10]。三田の酒屋津國屋を贔屓との店とし、自ら赴き酒を購入することもあった。
  • 宗教については淡白で、晩年の自伝『福翁自伝』において、「幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有(ありがた)いだのということは一寸(ちよい)ともない。卜筮呪詛(うらないまじない)一切不信仰で、狐狸(きつねたぬき)が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした」と述べている[11]
  • 銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に注力している。
  • 会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した人物でもある。借方貸方という語は福澤の訳によるもの。
  • 日本に近代保険制度を紹介した。福澤は『西洋旅案内』の中で「災難請合の事-インスアランス-」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種の災難請合について説いている。
  • 1984年2004年日本銀行券D号1万円札、2004年~のE号1万円札の肖像にも使用されている。そのせいか、「ユキチ」が一万円札の代名詞として使われることもある。このことから派生して、一万円札の枚数を言う時に1人、2人などのように人数を数えるように言うことがあり、一万円札の代名詞でもある。
  • 現在「最高額紙幣の人」としても知られているが、昭和59年(1984年11月1日の新紙幣発行に際して、最初の大蔵省理財局の案では、十万円札が聖徳太子、五万円札が野口英世、一万円札が福澤諭吉となる予定だった。その後、十万円札と五万円札の発行が中止されたため、一万円札の福澤諭吉が最高額紙幣の人となった[12]
  • 慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福澤諭吉のみを「福澤先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記される[13]

[編集] アジア近隣諸国に対して

福澤は、アジアの「改革勢力」の支援を通じて近隣諸国の「近代化」に力を注いでいる。李氏朝鮮金玉均などを支援しているし、漢文とハングルの混合文を発案するとともに、朝鮮で初めてのハングル交じりの新聞漢城周報』へと発展する『漢城旬報』(漢字表記)の創刊にも私財を投じて関わっている。また朝鮮からの留学生も1881年(明治14年)6月から慶應義塾に受け入れている。

[編集] 日清戦争に関して

日清戦争は、明治27年(1894年)7月から同28年(1895年)4月にかけておこなわれた。 福澤は『時事新報』1894年8月14日号に署名入りの「私金義捐に就いて」を掲載し、開戦となった以上、戦勝のために義捐金を寄せて欲しいと訴えた。

晩年の自伝『福翁自伝』の「老余の半生」では、

「顧みて世の中を見れば堪え難いことも多いようだが、一国全体の大勢は改進進歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後その形に顕れたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有(ありがた)いとも言いようがない。命あればこそコンナことを見聞するのだ、前に死んだ同志の朋友が不幸だ、アア見せてやりたいと、毎度私は泣きました」

と述べている。[14]

[編集] 福澤の男女同等論

福澤は、明治維新になって欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、「人倫の大本は夫婦なり」として一夫多妻をもつことを非難し、女性にも自由を与えなければならぬとし、女も男も同じ人間だから、同様の教育を受ける権利があると主張した[15]。1874年に発足した慶應義塾幼稚舎が1877年以降しばらく男女を共に教育した例があり、これは近代化以降の日本の教育における男女教育のいち早い希有なことであった。なお、明治民法の家族法の草案段階は、福澤の男女同等論に近いものであったり彼もそれを支持したが、士族系の反対があったため父家長制のものに書き換えられた。

[編集] 私生活

文久元年(1861年)、中津藩士江戸定府の土岐太郎八の次女錦と結婚し、四男五女の九人の子供をもうけた。松山棟庵によると、福澤は結婚前にも後にも妻以外の婦人に一度も接したことがなかったという[16]

或時先生にお話すると「左樣か、性來の健康の外に別段人と異つた所もないが唯一つの心當りと云ふのは、子供の前でも話されぬ事だが、私は妻を貰ふ前にも後にも、未だ嘗て一度も婦人に接した事がない、隨分方々を流浪して居るし、緒方塾に居た時は放蕩者等を、引ずつて來るために不潔な所に行つた事もあるが、金玉の身体をむざ/\汚す様な機會をつくらぬのだ」と先生は嘘をつく方ではない、先生の御夫婦ほど純潔な結合が、今の世界に幾人あるだらう

[編集] 居合の達人

福澤は、若年の頃より立見新流居合の修練を積み、成人の頃に免許皆伝を許された居合の達人であった。ただし、福澤は急速な欧米思想流入を嫌う者から幾度となく暗殺されそうになっているが、剣を持って戦った事はなく逃げている。無論、逃げる事は最も安全な護身術であるが、福澤自身、居合はあくまでも求道の手段であり殺人術でないと考えていたと思われ、同じく剣の達人と言われながら生涯人を斬ったことが無かった勝海舟・山岡鉄舟の思想と似ている。

晩年まで健康のためと称し、居合の形稽古に明け暮れていた。

明治中期より武術ブームが起こると、人前で居合を語ったり剣技を見せたりすることは一切なくなり、「居合刀はすっかり奥にしまいこんで」いた[17]。はやりものに対してシニカルな一面も伺える。

[編集] 福澤と勝海舟

福澤諭吉は、勝海舟の批判者であり続けた。戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、福澤は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという[18]

瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家の名誉回復と存続に大変な労力を裂いていおり、現在では大局として徳川家という狭い枠にとどまらず、日本の為に尽くしたと評価されている。

現に明治維新という急激な改革に諸藩の不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついに背くことがなかった。これは勝や大久保一翁山岡鉄舟らの尽力によるものである。

なお福澤は勝に借金の申し入れをしてこれを断られたことがある[19]。 当時慶應義塾の経営は薩摩藩学生の退学等もあり思わしくなく、旧幕臣に比較的簡単に分け隔てなく融通していた勝に援助を求めた。だが勝は福沢が政府から払い下げられた1万4千坪に及ぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていた為、土地を売却しても尚(慶應義塾の経営に)足りなかったら相談に乗ると答えたが、福沢は三田の土地を非常に気に入っていた為、遂に売却していない。瘠我慢の説発表はこの後のことである。また、『福翁自伝』で福澤は借金について以下のように語っている[20]

「私の流儀にすれば金がなければ使わない、有っても無駄に使わない、多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に相成らぬ、使いたくなければ使わぬ、使いたければ使う、嘗(かつ)て人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようとも思わぬ、貧富苦楽共に独立独歩、ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言を言わずに何時も悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」

[編集] 西洋医学

土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、福澤と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。

[編集] 『蘭学事始』の出版

杉田玄白が記した『蘭東事始』の写本を、福澤の友人神田孝平が偶然に発見した。そこで、杉田玄白の4世の孫である杉田廉卿の許可を得て、福澤の序文を附して、明治2年(1869年)に『蘭学事始』として出版した。さらに、明治23年(1890年4月1日には、再版を「蘭学事始再版序」を附して日本医学会総会の機会に出版している。

[編集] 北里柴三郎への支援

明治25年(1892年)にドイツ留学から帰国した北里柴三郎のために、東京柴山内に大日本私立衛生会伝染病研究所(伝研)を設立して、北里を所長に迎えた。明治27年(1894年)には、伝研は芝愛宕町に移転した。移転の際に住民から反対運動が起こったので、福澤は次男捨次郎の新居を伝研の隣りに作って、伝研が危険でないことを示した。明治32年(1899年)に伝研が国に移管されると、北里は伝研の所長を辞任し、福澤と長与専斎森村市左衛門とが創設した土筆ヶ岡養生園に移った。

[編集] 慶應義塾医学所の創設

明治3年(1870年)、慶應義塾の塾生前田政四郎のために、福澤が英国式の医学所の開設を決定した。そして明治6年(1873年)、慶應義塾内に医学所を開設した。所長は慶應義塾出身の医師松山棟庵が就任した。また、杉田玄端を呼んで尊王舎を医学訓練の場所とした。なお、明治13年(1880年)6月、医学所は閉鎖されることになった。

しかし、福澤の死後15年たった大正5年(1916年12月27日、慶應義塾に医学部の創設が許可され、大正6年(1917年)3月、医学部予科1年生の募集を開始し、医学部長として北里柴三郎が就任することになった。

[編集] 著作等

[編集] 主な著書

『学問のすゝめ』は最も著名で菓子の名にも冠されている

[編集] 著作集

福澤諭吉著作集」全12巻が慶應義塾大学出版会から2002年~2003年に刊行された。

  1. 西洋事情』、ISBN 4-7664-0877-2
  2. 世界国尽 窮理図解』、ISBN 4-7664-0878-0
  3. 学問のすゝめ』、ISBN 4-7664-0879-9
  4. 文明論之概略』、ISBN 4-7664-0880-2
  5. 学問之独立 慶應義塾之記』、ISBN 4-7664-0881-0
  6. 民間経済録 実業論』、ISBN 4-7664-0882-9
  7. 通俗民権論 通俗国権論』、ISBN 4-7664-0883-7
  8. 時事小言 通俗外交論』、ISBN 4-7664-0884-5
  9. 丁丑公論 瘠我慢の説』、ISBN 4-7664-0885-3
  10. 日本婦人論 日本男子論』、ISBN 4-7664-0886-1
  11. 福翁百話』、ISBN 4-7664-0887-X
  12. 福翁自伝 福澤全集緒言』、ISBN 4-7664-0888-8

[編集] 著書翻訳

[編集] 研究・評価史

[編集] 日本における福沢研究をめぐる論争

[編集] 「脱亜論」再発見から

太平洋戦争後、歴史学者服部之総遠山茂樹らによって福沢の「脱亜論」が再発見され、福澤はアジア諸国を蔑視し、侵略を肯定したアジア蔑視者であると批判された[21]丸山真男服部之総の福沢解釈を「論敵」としていたといわれる[22]

詳細は「脱亜論」を参照

2001年朝日新聞に掲載された安川寿之輔の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家[23]」に、平山洋が反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」[24]を掲載したことで、いわゆる「安川・平山論争」が始まった。[25]

[編集] 安川・平山論争

平山は、井田進也の文献分析を基礎に[26]、福沢のアジア蔑視を、『福澤諭吉伝』の著者で、『時事新報』の主筆を務め、『福澤全集』を編纂した石河幹明の作為にみる[27]。平山によれば、福澤は支那中国)や朝鮮政府を批判しても、民族そのものをおとしめたことはなかった。だが、たとえばの兵士をになぞらえた論説など、差別主義的内容のものは、石河の論説であり、全集編纂時に、福澤のものと偽って収録したのだという。

詳細は「安川・平山論争」を参照

しかしながらこの問題は、平山自身や都倉武之がいうように、無署名論説の執筆者を文献学(テキストクリティーク)的に確定しないことには決着がつかない[28]井田進也は無署名論説認定方法を応用した『福澤諭吉全集』収録の「時事新報論説」執筆者再認定作業を開始している[29]。今後の研究がまたれるところである[30]

[編集] 「時事新報」無署名論説

平山洋は、井田の分析を基に、現行全集の第七巻までは署名入りで公刊された著作であるのに対して、八巻以降の「時事新報論集」はその大部分が無署名であることを指摘したうえで、大正時代の『福沢全集』(1925~26)と昭和時代の『続福沢全集』(1933~34)の編纂者であった弟子の石河幹明が『時事新報』から選んだものを、そのまま引き継いで収録している、とした。さらに現行版『全集』(1958~64)の第一六巻には福沢の没後数ヵ月してから掲載された論説が六編収められていることも指摘している[31]

[編集] アメリカ合衆国における評価

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[編集] 台湾における評価

中華民国総統李登輝は、講演『学問のすゝめと日本文化の特徴』で、福澤について、欧米を日本に紹介するだけではなく、学問のすゝめを著わすことによって、思想闘争を行い、日本文化の新しい一面を強調しながらも日本文化の伝統を失わずに維持したと評価している[32]

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[編集] 韓国における評価

朝日新聞によれば、大韓民国において、脱亜論を引用した研究論文が見られるようになるのは、1970年以降であり[33]1980年代に日本で歴史教科書問題が起こり、日本の朝鮮侵略の論理として改めて認知され、現在は韓国の高校世界史教科書にも載っているという[34]

福澤が援助した李氏朝鮮開化派は、その中心にいた朴泳孝日本統治時代の朝鮮において爵位を得るなどの厚遇を得て、金玉均は死後に贈位されたことなどから、独立後の韓国では親日派と見なされ、福澤への関心もほとんど無かったものと推測される。金玉均に対する評価は北朝鮮の方が高く[35]、それを受けた形で、在日歴史研究家の姜在彦1974年「金玉均の日本亡命」を発表し[36]、福澤に触れていて、「最近の研究で明らかにされてきているように、福沢の思想における国権論的側面」という言葉が見える。この当時の日本において、福沢を自由主義者としてではなく国権論者としてとらえ、侵略性を強調する傾向が高まっていたわけだが、姜在彦は福沢に両面性を見ており、「日本を盟主とする侵略論につながる危険性をはらむ」としつつも、開化派への援助には一定の評価を与えている[37]

現在の韓国におけるごく一般的な福沢像は、日本における教科書問題を受けて形作られたため、極端に否定的なものとなっている[38]。一般的に、韓国における福澤は、往々にして征韓論者として位置づけられ、脱亜論など、福澤の朝鮮関連の時事論説が書かれた当時の状況は考慮されず、神功皇后伝説や豊臣秀吉にまでさかのぼるとされる日本人の侵略思想の流れの中で捕らえられている。1990年代あたりから、在日学者の著作にもそういった傾向が見られるようになり、その例としては、1996年の韓桂玉の『「征韓論」の系譜』[39]2006年の琴秉洞[40]『日本人の朝鮮観 その光と影』[41]を挙げることができる。

1990年代におけるこういった韓国の状況が、福澤に侵略性を見る日本側の教科書問題と連動し続けていることは、安川寿之輔が『福沢諭吉のアジア認識』の「あとがき」で詳細に述べている。高嶋伸欣1992年に執筆した教科書において、日本人のアジア差別に関係するとして脱亜論を引用し、検定によって不適切とされ、訴訟になった。日本の戦争責任を追及する市民運動に身を投じていた安川は、この訴訟を契機として、福澤を「我が国の近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、我が民族全体の敵」とするような韓国の論調に共鳴し、30年ぶりに福澤研究に取り組んだという。

『福沢諭吉と朝鮮』の著者・杵淵信雄は、安川とはちがい、「脱亜論の宣言を注視するあまり、(福澤は)アジアとの連帯から侵略へと以後転じたとする誤解が生じた」として、福澤の侵略性を強調する立場ではないが、1997年の時点において、「李氏朝鮮の積弊を痛罵し、しばしば当り障りの強い表現を好んだ福沢の名が、隣国では、不愉快な感情と結びつくのは自然な成行である」と、韓国における感情的な反発に理解を示している[42]

一方、1990年代の韓国において、福澤研究に取り組む研究者が複数現れたことを、林宗元は述べている[43]。林宗元の紹介するところによれば、その観点も、日本における「自由主義者か帝国主義者か」という議論を引き継ぐもの、朝鮮の開化主義者と福澤を比較するもの、福澤と朝鮮開化派との関係を追求するもの、福澤の反儒教論を批判分析するものなど、多岐にわたっていて、否定的なものばかりではないことが注目される。

2000年代に入り、こういった学問的取り組みと平行して、近代化の旗手としての福澤への一定の理解が、新聞論調にも見えはじめる[44]2004年前後に登場したニューライトは、金玉均など朝鮮開化派を高く評価し、日本統治時代の朝鮮における近代化も認める立場をとっていて、従来の被害者意識から離れた歴史観を提唱するなど、新しい風を巻き起こした。そんな中で2006年、林宗元によって、福翁自伝が韓国語に訳され、出版されたことも、韓国における福澤像に肯定的な彩りを加えた。韓国主要紙は軒並み好意的な書評をよせ、ハンギョレは「ハンギョレが選んだ今年の本」の翻訳書の一つとして紹介している。

しかし、韓国において福澤に侵略性を見る従来の見解は根強く、また日本においても脱亜論が一人歩きする傾向が著しい[45]2005年ニューヨークタイムズの東京支局長ノリミツ・オオニシは「日本人の嫌韓感情の根底には福澤の脱亜論がある」[46]とした。東京発のこういった報道を受けてか、中央日報では再び、福澤を「アジアを見下して侵略を肯定した嫌韓の父であり右翼の元祖」と評してもいる[47][48]

また、筑波大学の稲葉継雄は、韓国で福澤の侵略性の認識が高まっていると論じてもいて[49]、韓国における福澤像は、韓国内の政治情勢とともに、日韓の外交関係、世論のキャッチボールによっても大きく揺れ動いている。

[編集] 登場作品

[編集] 記念行事

[編集] 脚注

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  1. ^ 東京書籍日本史P181 ISBN 4-487-36247-4
  2. ^ 北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』(21頁)、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0
  3. ^ この場所には、のち大阪医科大学附属医院(のち大阪帝国大学医学部附属医院を経て大阪大学医学部附属病院)が設置され、現在は朝日放送の新社屋(2008年5月稼働開始)が建つ。
  4. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「日本国人の大胆」(111頁)を参照。近代デジタルライブラリー収録『福翁自伝』の「始めて亜米利加に渡る」の章を参照。福翁自傳 - 198 ページを参照。

    併(しか)しこの航海に就(つい)ては大(おおい)に日本の為(た)めに誇ることがある、と云(い)うのは抑(そ)も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於(おい)て和蘭(オランダ)人から伝習したのが抑(そもそ)も事の始まりで、その業(ぎよう)成(なつ)て外国に船を乗出(のりだ)そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即(すなわ)ち目に蒸気船を見てから足掛(あしか)け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫(そ)れで万延元年の正月には出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉(か)らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆(ぎりよう)と云い、是(こ)れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。

  5. ^福翁自伝』に航海中の勝の様子を揶揄するような記述が見られる。富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「初めてアメリカに渡る」の章にある「米国人の歓迎祝砲」(112頁)を参照。福翁自傳 - 200 ページを参照。

    勝麟太郎(かつりんたろう)と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極(しごく)船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかった

  6. ^ 「福澤諭吉の新たな写真発見 オランダで」話題!‐話のタネニュース:イザ!
  7. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「不潔に頓着せず」(65頁)を参照。福翁自傳 - 118 ページを参照。
  8. ^ 時事新報史 第15回:朝鮮問題① 壬午事変の出兵論 都倉武之 慶應義塾大学出版会
  9. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「大阪修行」の章にある「書生の生活酒の悪癖」(57頁)を参照。福翁自傳 - 103 ページを参照。
  10. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「緒方の塾風」の章にある「禁酒から烟草」(76-77頁)を参照。福翁自傳 - 137 ページを参照。
  11. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「幼少の時」の章にある「稲荷様の神体を見る」(23頁)を参照。福翁自傳 - 44 ページ を参照。
  12. ^ 北康利『福沢諭吉 国を支えて国を頼らず』(7-9頁)、講談社、2007年3月。ISBN 978-4-06-213884-0
  13. ^ ただし、塾内の掲示物等では教員も君付けだが、塾生や塾員が教員に向かって面と向かって君付けで呼びかけるわけではない。これは、義塾草創期は上級学生が教師役となって下級生を教授していたことの名残といわれている。
  14. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「老余の半生」の章にある「行路変化多し」(316頁)を参照。近代デジタルライブラリー収録の『福翁自伝』では547 - 548頁を参照。福翁自傳 - 565 ページを参照。
  15. ^ 青空文庫の『中津留別の書
  16. ^ 松山棟庵「故福澤翁」(慶應義塾学報 臨時増刊39号『福澤先生哀悼録』みすず書房、1987年3月、ISBN 4-622-02671-6、193-194頁) [1]参照。
  17. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「再度米国行」の章にある「刀剣を売り払う」(162頁)を参照。福翁自傳 - 285 ページを参照。
  18. ^ 次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか福澤と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。
  19. ^ 明治11年4月11日の日記に記載。
  20. ^ 富田正文校訂 『新訂 福翁自伝』、岩波書店〈岩波文庫〉、1978年、ISBN 4-00-331022-5 の「一身一家経済の由来」の章にある「仮初にも愚痴を云わず」(270-271頁)を参照。福翁自傳 - 482 ページを参照。
  21. ^ 服部之総論文「東洋における日本の位置」、遠山茂樹論文「日清戦争と福沢諭吉」(1951)(遠山茂樹著作集第5巻所収、岩波書店,1992
  22. ^ 東谷暁インタビュー 平山洋
  23. ^ 2001年4月21日朝日新聞に掲載
  24. ^ 5月12日付同紙)
  25. ^ 平山洋『福沢諭吉の真実』文藝春秋〈文春新書394〉、2004年、ISBN 4-16-660394-9
  26. ^ 「歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年
  27. ^ 前掲書
  28. ^ 東谷暁インタビュー 平山洋また都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1) 〜論説執筆者認定論争〜
  29. ^ 「歴史とテクスト 西鶴から諭吉まで」光芒社、2001年
  30. ^ 都倉武之『時事新報』論説をめぐって(1) 〜論説執筆者認定論争〜
  31. ^ 平山洋、2004、『福沢諭吉の真実』、文藝春秋〈文春新書394〉
  32. ^ 李登輝元総統が「学問のすゝめと日本文化の特徴」をテーマに講演 産経ニュース 2008.9.23
  33. ^ ソウル大国際問題研究所の姜相圭による
  34. ^ 朝日新聞〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」
  35. ^ 1960年代にすでに朝鮮社会科学院歴史研究所が邦題『金玉均の研究』を出版。
  36. ^ 『歴史と人物』誌上
  37. ^ 姜在彦『朝鮮の攘夷と開化 近代朝鮮にとっての日本』平凡社、1987年。ISBN 4-582-82251-7
  38. ^ その典型的な例を挙げれば、2001年中央日報、各国貨幣に扱われた人物について述べたコラム【噴水台】ユーロ貨の橋の次のような文言:「日本の1万円札には19世紀末、韓国を征伐するよう主張した福沢諭吉の肖像が入っている。日本では開化思想家として知られているが、韓国の立場からするとけしからん人物だ」
  39. ^ 韓桂玉『「征韓論」の系譜』三一書房、1996年。ISBN 4-380-96291-1
  40. ^ 総連系の学者で金玉均の研究家
  41. ^ 琴秉洞著『日本人の朝鮮観 その光と影』明石書店、2006年。ISBN 4-7503-2415-9
  42. ^ 杵淵信雄『福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に』彩流社、1997年。ISBN 4-88202-560-4
  43. ^ 韓国における福沢諭吉: 一九九〇年代における福沢諭吉の研究状況を中心に 林, 宗元(Lim, Jong-won)韓国関東大学校教授 慶應義塾大学学術情報リポジトリ
  44. ^ 中央日報、2002年【噴水台】ブッシュと福沢においては、「多様な翻訳・著述を通じて西洋学術・科学用語を日本語に移すことによって、日本はもちろん韓国・中国にまで大きな影響を及ぼした」という率直な評価が述べられている。
  45. ^朝日新聞〈記憶をつくるもの〉独り歩きする「脱亜論」
  46. ^ Ugly Images of Asian Rivals Become Best Sellers in Japan
  47. ^ 【その時の今日】福沢諭吉…侵略戦争正当化した日本右翼の元祖 中央日報 2009.08.12
  48. ^ 「日本の『嫌韓流』は警戒心理・劣等意識の発露」NYT紙 中央日報 2005.11.20
  49. ^ 井上角五朗と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に筑波大学 稲葉継雄
  50. ^ 慶應義塾 創立150年記念 未来をひらく 福沢諭吉展

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ
ウィキクォート
ウィキクォート福沢諭吉に関する引用句集があります。

[編集] 関連事項

[編集] 関連人物

[編集] 明六社

[編集] 参考文献

  • 遠山茂樹 『福沢諭吉――思想と政治との関連』 東京大学出版会〈UP選書58〉、1970年11月。ISBN 4-13-005058-3
  • 会田倉吉 『福沢諭吉』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1974年4月。ISBN 4-642-05005-1
  • ひろたまさき 『福沢諭吉』 朝日新聞社〈朝日評伝選12〉、1976年11月。
  • 飯田鼎 『福沢諭吉――国民国家論の創始者』 中央公論社〈中公新書722〉、1984年3月。ISBN 4-12-100722-0
  • 高橋昌郎 『福沢諭吉』 清水書院〈清水新書051〉、1984年9月。ISBN 4-389-44051-9
  • 横松宗 『福沢諭吉――中津からの出発』 朝日新聞社〈朝日選書432〉、1991年8月。ISBN 4-02-259532-9
  • 土屋雅春 『医者のみた福沢諭吉――先生、ミイラとなって昭和に出現』 中央公論社〈中公新書1330〉、1996年10月。ISBN 4-12-101330-1
  • 杵淵信雄 『福沢諭吉と朝鮮――時事新報社説を中心に』 彩流社、1997年9月。ISBN 4-88202-560-1
  • 西部邁 『福澤諭吉――その武士道と愛国心』 文藝春秋、1999年12月。ISBN 4-16-355800-4
  • 中村敏子 『福沢諭吉――文明と社会構想』 創文社、2000年11月。ISBN 978-4-4237-3096-6
  • 安川寿之輔 『福沢諭吉のアジア認識――日本近代史像をとらえ返す』 高文研、2000年12月。ISBN 4-87498-250-6
  • 横松宗 『福沢諭吉――その発想のパラドックス』 梓書院、2004年1月。ISBN 4-87035-216-8
  • 平山洋 『福沢諭吉の真実』 文藝春秋〈文春新書394〉、2004年8月。ISBN 4-16-660394-9
  • 桜井邦朋 『福沢諭吉の「科學のススメ」――日本で最初の科学入門書「訓蒙 窮理図解」を読む』 祥伝社、2005年3月。ISBN 4-396-50085-8
  • 『DVD 学問と情熱 福澤諭吉 そして文明の海原へ』 西川俊作(監修)/矢崎充彦(演出)、紀伊國屋書店、2006年5月。
  • 安川寿之輔「福沢諭吉の文明観とアジア認識 ─『脱亜入欧』論批判─」、『日本のアジア侵略と憲法九条 ─田中正造、勝海舟、福沢諭吉、徳富蘇峰を見直す─』、下町人間総合研究所、2006年5月。
  • 安川寿之輔 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論――新たな福沢美化論を批判する』 高文研、2006年12月。ISBN 4-87498-366-9
  • 松永安左エ門 『人間 福澤諭吉』 実業之日本社、2008年4月。ISBN 978-4-408-10731-8
  • 平山洋 『福澤諭吉――文明の政治に六つの要訣あり』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2008年5月。ISBN 978-4-623-05166-3
  • 平山洋 『諭吉の流儀――『福翁自伝』を読む』 PHP研究所、2009年5月。ISBN 978-4-569-70941-3

[編集] 外部リンク

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