福田正博
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| 福田 正博 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | ミスター・レッズ、大将 | |
| カタカナ | フクダ マサヒロ | |
| ラテン文字 | FUKUDA Masahiro | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1966年12月27日(42歳) | |
| 出身地 | 神奈川県横浜市緑区 | |
| 身長 | 176cm | |
| 体重 | 68kg | |
| 血液型 | AB型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | FW/MF | |
| 利き足 | 右足 | |
| 代表歴 | ||
| 1990-1995 | 45 (9) | |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||
福田 正博(ふくだ まさひろ、1966年12月27日 - )は、日本の元サッカー選手である。血液型はAB型。現役時代のポジションは主にFWで、背番号は9番。Jリーグが開幕した1993年から引退する2002年まで浦和レッズの象徴的存在として活躍し、サポーターには「ミスター・レッズ」、「大将」と呼ばれた。現在は浦和のコーチを務める。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 学生時代
神奈川県横浜市緑区で生まれる。子供の頃は野球少年だったが小学5年の時に横浜市から藤沢市に転居し、転校先の小学校でサッカーと出会う。小学校の担任の義兄が読売サッカークラブのコーチを務めていた橋本章也という人物で、福田は橋本からサッカー技術を学んでいった[1]。
中学進学の際には橋本から読売クラブのJrユースチームへの勧誘を受けたが[2]、これを固辞し地元の大庭中学校へ進学。2年次の1981年には関東予選を突破して全国中学校サッカー大会に出場した。神奈川県下では名の知れた選手となっていた福田は、高校進学の際には当初は地元の神奈川県立藤沢西高等学校を志望していたが、確実に全国大会へ出場できる高校を志望し、相模工業大学附属高校へ進学することになった[3]。
相工大付属高校では1年次の春からレギュラーへ抜擢され、2年次には関東大会でベスト4進出を果たし優秀選手にも選ばれた。しかしながら県予選を突破して全国大会へ出場することは叶わず、2年次の全国高等学校サッカー選手権大会決勝では神奈川県立鎌倉高等学校に、3年次の決勝では藤沢西高等学校に敗れ去った。
高校生活で最も脚光を浴びたのが、3年次の国民体育大会であった。神奈川県選抜のセンターフォワードとして6得点を挙げる活躍で決勝進出に導き、決勝では静岡県選抜を下し初優勝に貢献した。
1985年に中央大学へ進学しサッカー部へ入部。1年次からレギュラーとなり秋の関東大学サッカーリーグ戦ではリーグ戦4位に新人王を獲得する活躍を見せた。この活躍により、それまで各年代の代表チームへ招集される機会のなかった福田は翌1986年に日本B代表選ばれ、南米遠征に参加した。しかしながら1987年にはユニバーシアード代表候補に選ばれるも最終選考で落選、1988年には日本B代表としてアジアカップの代表メンバーに選出されたが、試合での出場機会は与えられなかった。
また、所属する中央大学では3年次のリーグ戦でアシスト王を受賞、4年次には主将を務めたものの、当時のサッカー部や選手を取り巻く環境は劣悪で、サッカーだけに専念できる状況で無く不本意なものだったという。福田は当時を振り返って「1人の人間としては有意義だったが、サッカー選手としてはマイナスの時期だった」と語っている[4]。
卒業後の進路については日本サッカーリーグに所属する6チームから勧誘を受け、古河電気工業サッカー部と三菱重工業サッカー部に絞った。1980年代後半の日本サッカー界ではプロ契約を結べるようになっており、大学サッカー界の有力選手はプロ志向の強いチームへ入団する傾向にあったが[5]、福田は大学時代の成績から「サッカーで生活する」ことは考えられず終身雇用を希望し、アマチュア志向の強い三菱重工へ入社することになった[6]。
[編集] 現役時代
1989年、日本サッカーリーグ2部の三菱重工業サッカー部(後に三菱自動車工業へ移管)に加入。三菱重工は前シーズンに2部へ降格しており、当初予定されていたブンデスリーガのクラブへの留学も取りやめとなっていた。エースの原博実が肝炎により戦線を離脱すると斉藤和夫監督により開幕からレギュラーに抜擢。ルーキーながら36得点という圧倒的な力を見せ得点王に輝き、三菱重工を1年で1部に復帰させる原動力となった。
1990年、日本代表に初選出。同年7月27日のダイナスティカップの韓国戦で代表デビューを飾るとレギュラーへ定着し(後述)、同年9月のアジア競技大会にも出場した。しかし、代表では右ウイングバックという本来とは違うポジションを与えられ得点よりも守備に忙殺されていた。このため福田自身はウイングバックへの起用に不満を抱き代表辞退も考えていた[7]。
1991年、関係者の慰留もあって代表辞退を撤回。同年5月のキリンカップでは最終戦のトッテナム・ホットスパー戦にて、北澤豪の決勝点をアシストする活躍などで初優勝に貢献した。また同年には所属する三菱のプロリーグ参加が決定したこともあってプロ契約を結んでいる[8]。
1992年、ハンス・オフトが監督に就任。5月のキリンカップサッカーでは代表に選出されたが、2試合連続で控え選手にも選ばれず不満が募り、オフトに猛抗議をおこなった[9]。この一件で代表から外されることも覚悟していた福田だったが、6月のオランダ遠征でも引き続き招集を受け攻撃的MFのポジションを獲得。この遠征でオフトの信頼を受けると8月のダイナスティカップや11月のAFCアジアカップ優勝に貢献し、オフト率いる代表チームにおいて欠くことのできない選手の一人となっていった。 同年には所属する三菱がプロリーグ設立に伴い浦和レッドダイヤモンズと改称。森孝慈監督の下で攻撃的サッカーへの転換を図ったチームの中でもエースとして牽引。エスクデロ、柱谷幸一、福田で構成される3トップでナビスコカップ5位、天皇杯全日本サッカー選手権大会ベスト4進出に貢献した。
1993年、Jリーグ開幕。サッカー専門誌では前年の好成績もあって浦和の評価は高かったが、成績は低迷し1st、2ndステージ共に最下位に終わった。福田自身も代表チームへの招集やプロとしての重圧に苦しみ精彩を欠くことが多かった[10]。日本代表では1994 FIFAワールドカップ1次予選ではレギュラーとして活躍したものの、最終予選では調子を落とし第2戦のイラン戦後はスタメンから外れ、最終戦のイラク戦(いわゆるドーハの悲劇)は途中交代での出場であった。
1994年、浦和では前年同様に成績が低迷。福田は1stステージのベルマーレ平塚戦で1試合4得点の活躍があったものの、スポーツヘルニアに苦しみ長期離脱。ミヒャエル・ルンメニゲの紹介で菊原志郎と共にドイツに渡って治療を受けた[11]。代表ではオフトに代わってブラジルのパウロ・ロベルト・ファルカンが監督に就任したが怪我の影響もあって招集されることはなかった。 シーズンオフには福田の去就が報じられ、自身も移籍を直訴したが最終的に残留を決断した[12]。
1995年、ホルガー・オジェックが監督に就任すると福田はそれまでの鬱憤を晴らすかのように実力を発揮。MFのウーベ・バインとのコンビネーションで得点を重ね、日本人選手初のJリーグ年間得点王となり、チームも1stステージでは優勝争いに絡むなど3位と成績を向上させる原動力となった。シーズン終了後にはベストイレブンにも選ばれた。日本代表へも復帰を果たし、2月のダイナスティ・カップや6月にイングランドで開催されたアンブロカップに出場。8月に行われたブラジルとの親善試合では前年のワールドカップ優勝国を相手に得点を記録している。また、同年12月8日にはアジアサッカー連盟の月間最優秀選手に選出されている。
1996年、この時期から福田のサッカー人生は怪我との戦いとなった。1996年シーズン開幕直前に負傷すると8月には練習中に左足首を骨折しリーグ戦4試合の出場に終わった。翌1997年は左足首手術の際に埋め込まれたプレートの影響による痛みに終始苦しめられたものの、29試合で21得点を記録した。前年にはオジェック監督やバイン、同年10月にはギド・ブッフバルトといった功労者がチームを去っていったが、エースとしてチームを牽引した。1998年には痛みの原因となっていた左足首のプレートを除去したが、左足付け根の肉離れが再発しリハビリと復帰を繰り返した。
1999年、シーズン途中に原博実監督が成績不振により解任されると後任のア・デモス監督との確執もあって控えに回ることが多くなり、チームも2部リーグへと降格した。2000年に入っても福田のコンディションは上がらず、ポーランドからアンジェイ・クビツァが加入した事もあって12試合の出場に留まった。2001年、チームも外国人選手、スタッフも従来のヨーロッパ路線からブラジル路線へと転換を図っていたが福田は出場機会を与えられることは少なく14試合出場に留まった。
2002年、日本代表時代に指導を受けたハンス・オフトが監督に就任。「最後のシーズンのつもりで戦う」決意で挑んだ2002年シーズンはオフトの下で様々なポジションで適正を試され、拘り続けたストライカーではなく中盤に下がり右サイドハーフを務めるようになり、2ndステージに入るとに守備的MFへとポジションを移した。この年の2ndステージでは開幕8連勝を成し遂げ首位に立つなど優勝争いに加わり、同年のナビスコカップでは準優勝に貢献した。
長く浦和の中心選手、キャプテンとしてサポーターから愛され、度重なるケガやチームの2部降格などの数々の苦難を乗り越えて選手生活を送ってきたが、2002年シーズンを最後に、日本代表時代の同僚であった井原正巳とともに現役を引退した。翌2003年6月15日には埼玉スタジアム2002で、5万人以上の観衆を集めて引退試合が行われた[13]。その年に浦和は初タイトルを獲得するのだが、福田は浦和での選手生活を通じてタイトルを獲得することは出来なかった。福田引退関連グッズだけで、1億円以上の売上を記録したといわれる。
[編集] 引退後
引退後は、サッカーの普及活動に協力する日本サッカー協会のJFAアンバサダーに就任した(2003年 - 2008年)。サッカー解説者としても、TBS、ニッポン放送のスポーツ番組などにたびたび出演している。また、2004年4月にはじまったニュースショー『報道ステーション』(テレビ朝日)と、TBS『スーパーサッカー』(準レギュラー)では、サッカーコメンテーターを務めている。
現在のサッカー解説者の中で一番多く複数のテレビ・ラジオ局と契約を交わしており、日本代表の国外遠征をはじめとする国外取材がほかの解説者と比較して際立って多い。そのため、「世界を股にかける男」とも呼ばれている。
その後、2008年シーズンから浦和へコーチとして復帰[14]、指導者としてのキャリアをスタートさせた。
[編集] 人物
- 柔らかいボールタッチとスピードに乗ったドリブル突破からのチャンスメイク。瞬間的なスピードを生かしてディフェンスラインの裏に飛び込み自ら得点を決めることが出来る。20代後半の福田のプレーは鹿島時代のジーコをして「日本最高のプレーヤー」と言わしめ、「ドーハの悲劇」世代の日本代表選手の中では、三浦知良(カズ)に勝るとも劣らない潜在能力の持ち主ともいわれた[15]。しかしながら自身のケガなどのため、日本代表では100%その実力を発揮できたとはいえない。
- 前述のようにスピードに乗ったドリブル突破を生かし、左右両サイドのウイング(もしくはサイドハーフ)としてプレーが出来ることから「日本最高のウイングプレーヤー」との評価もあった[16]が、福田自身はサイドよりも中央で持ち味が生きるという自負があり、起用法を巡って監督や指導者と対立することも辞さなかったという[17]。
- 現役時代、PKを確実に決めることから「PK職人」とも呼ばれていた。ペナルティーエリア内で切返しやドリブルを仕掛ける事も多かったため、自分がファウルされて得たPKも多かった。
[編集] エピソード
- 日本代表に初めて選出した横山兼三は俊足のフォワードをウイングバックに起用する方針を採っており、福田はそういった選手のなかで比較的成功したうちの一人である。そのため、時折「元日本代表ディフェンダー」と紹介される場合もある。後にオフトの下では攻撃的ミッドフィルダー、それ以降は主にフォワードとしてプレーした。
- Jリーグ発足初年度の1993年6月9日のカシマサッカースタジアムでの鹿島アントラーズ戦でJリーグでの自身初ゴールとなる先制ゴールを決めたが、福田のゴールにGK土田尚史以外の全選手が福田に集まって祝福したため、ポジションに戻ることを忘れてしまい、プレー再開後わずか8秒で相手FWの黒崎久志(当時比差支)に同点ゴールを許した。このことは、浦和の低迷を象徴する出来事として、現在もテレビ番組などで紹介されることがある。さらに、これ以降浦和以外の各チームもゴールを祝福する時は、ディフェンス陣は祝福に参加しない、祝福の時間を長くしなくなったといわれている。
- 浦和がJ2降格の危機に立った1999年シーズンの最終節、対サンフレッチェ広島戦では、福田は後半から途中出場し、延長戦でVゴールを決めた。しかし、福田は憮然として表情ひとつ変えず厳しいままで、池田学がVゴールを喜んで抱きついてきたのも振り払った。福田を含む浦和の選手は、延長戦に入った時点で浦和のJ1残留の可能性が消滅したことを知り、その状況でプレイを続けていたのである。ただし、ルーキーの池田にはチームの降格を知らせなかった(池田学の項を参照)。その様子はテレビ中継でも伝えられた。今日でも、そのときのVゴールを「世界で一番悲しいVゴール」として振り返るサッカー・ファンは少なくない。福田自身もこのゴールを「涙のVゴール」と語り[1]、現役引退時の記者会見でも一番印象に残ったシーンにこのゴールを挙げている[18]。なお、このエピソードについては1999年J1最終節の項目も参照。
- 現役最終年である2002年シーズンの第2ステージ、対名古屋グランパスエイト戦での得点が、リーグ戦における現役最後のゴールとなった。試合も2-1で浦和が勝利したが、以後の浦和はリーグ戦に連敗し優勝争いから脱落。決勝まで進んでいたナビスコカップでも鹿島アントラーズに敗れ、福田引退後の2003年にまで及ぶ、公式戦11連敗(引き分け挟まず)13戦勝利無しとなった。
- その理由として、福田が名古屋に勝利後のヒーローインタビューで「負けられないよ」と発言するつもりが「負けないよ」と言い間違えてしまったことを挙げる浦和サポーターもいる。以後、浦和サポーターは「負けないよ」を忌み言葉(「負けないよ」の呪い)としている[要出典](酷似した話が野球にも存在する。)。
- 引退した福田の背番号「9」を受け継いだのは永井雄一郎である。しかし、「9」の背番号に染み付いた「ゴールゲッター」「チームの象徴」のイメージがあまりにも強く、当初はFWの選手たちが背番号「9」を引き継ぐのをためらった、とも言われている。
- 現在でも浦和サポーターの間では根強い人気があり、なかには「将来は浦和の監督に」という声もある。公式HPによれば福田自身も将来浦和の監督になることを希望しており、2007年6月にJクラブの監督になるために必要なS級ライセンスを取得した。
- 浦和が2004年シーズンの第2ステージで優勝した時には、テレビ埼玉の解説者として中継席にいた福田に向かって、スタジアムの浦和サポーターから、大きなコールが沸き起こった。「GET GOAL FUKUDA !!」。現役当時の福田の応援コールだった。それは、クラブのステージ初制覇をともに喜び、そして、かつてクラブの苦難の時期をともに戦った「ミスター・レッズ」を称える声援でもあったのである。
- 今となっては想像もつかないが、少年時代は野球と柔道もやっていた(公式HPで少年時代は巨人ファンだったことを明かしている)。だが、柔道に関しては毎年冬に出てくるお汁粉が苦手だったため辞めてしまった。そのお汁粉嫌いの理由としては「こしあんは許せても、つぶあんは許せない」というものである。また、野球に関しては、「続けていたら、今頃は巨人の2番でショートを守っていた」と語ったこともある。
- 性格はかなり天然であり、アンチファンも多い。しかし本人は「アンチがいるのは一流の証」とむしろ歓迎している節がある。
- 現在、浦和のメインスポンサーでもある、トーシンパートナーズのイメージキャラクターも務めている。
[編集] 所属クラブ
- 横浜市立十日市場小学校
- 藤沢市立大庭中学校
- 相模工業大学附属高校
- 1985年-1988年 中央大学
- 1989年-2001年 三菱重工/三菱自動車/浦和レッドダイヤモンズ
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1989-90 | 三菱 | 14 | JSL2部 | 26 | 36 | 1 | 0 | 0 | 0 | 27 | 36 |
| 1990-91 | 三菱 | 10 | JSL1部 | 18 | 7 | 0 | 0 | 2 | 0 | 20 | 7 |
| 1991-92 | 三菱 | 10 | JSL1部 | 15 | 7 | 0 | 0 | 3 | 2 | 18 | 9 |
| 1992 | 浦和 | - | J | - | 9 | 4 | 4 | 2 | 13 | 6 | |
| 1993 | 浦和 | - | J | 27 | 4 | 0 | 0 | 2 | 3 | 29 | 7 |
| 1994 | 浦和 | - | J | 25 | 6 | 0 | 0 | 3 | 2 | 28 | 8 |
| 1995 | 浦和 | - | J | 50 | 32 | - | 3 | 2 | 53 | 34 | |
| 1996 | 浦和 | - | J | 4 | 3 | 7 | 4 | 0 | 0 | 11 | 7 |
| 1997 | 浦和 | 9 | J | 29 | 21 | 8 | 4 | 0 | 0 | 37 | 25 |
| 1998 | 浦和 | 9 | J | 17 | 7 | 0 | 0 | 3 | 4 | 20 | 11 |
| 1999 | 浦和 | 9 | J1 | 23 | 13 | 4 | 0 | 2 | 1 | 29 | 14 |
| 2000 | 浦和 | 9 | J2 | 12 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 12 | 2 |
| 2001 | 浦和 | 9 | J1 | 14 | 2 | 3 | 0 | 4 | 0 | 21 | 2 |
| 2002 | 浦和 | 9 | J1 | 27 | 3 | 9 | 1 | 1 | 0 | 37 | 4 |
| 通算 | 日本 | J1 | 216 | 91 | 40 | 13 | 22 | 14 | 278 | 118 | |
| 日本 | J2 | 12 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 12 | 2 | ||
| 日本 | JSL1部 | 33 | 14 | 0 | 0 | 5 | 2 | 38 | 16 | ||
| 日本 | JSL2部 | 26 | 36 | 1 | 0 | 0 | 0 | 27 | 36 | ||
| 総通算 | 287 | 143 | 41 | 13 | 27 | 16 | 355 | 172 | |||
[編集] 経歴
- 日本代表初出場:1990年7月27日 対韓国戦
- 日本代表初得点:1992年8月24日 対中国戦
- Jリーグ初出場:1993年5月16日 対ガンバ大阪戦
- Jリーグ初得点:1993年6月9日 対鹿島アントラーズ戦
[編集] 個人タイトル
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 45試合 9得点(1990-1995)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1990 | 5 | 0 |
| 1991 | 2 | 0 |
| 1992 | 8 | 3 |
| 1993 | 15 | 3 |
| 1994 | 0 | 0 |
| 1995 | 15 | 3 |
| 通算 | 45 | 9 |
[編集] 得点数
| # | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1992年8月24日 | 中華人民共和国、北京 | 2-0 | 勝利 | ダイナスティカップ1992 | |
| 2 | 1992年8月26日 | 中華人民共和国、北京 | 4-1 | 勝利 | ダイナスティカップ1992 | |
| 3 | 1992年11月6日 | 日本、広島市 | 3-2 | 勝利 | AFCアジアカップ1992 | |
| 4 | 1993年4月11日 | 日本、東京 | 8-0 | 勝利 | 1994 FIFAワールドカップ予選 | |
| 5 | 1993年4月11日 | 日本、東京 | 8-0 | 勝利 | 1994 FIFAワールドカップ予選 | |
| 6 | 1993年4月30日 | アラブ首長国連邦、ドバイ | 4-1 | 勝利 | 1994 FIFAワールドカップ予選 | |
| 7 | 1995年2月26日 | 香港 | 2-2 PK5-3 |
勝利 | ダイナスティカップ1995 | |
| 8 | 1995年8月6日 | 日本、京都市 | 3-0 | 勝利 | 親善試合 | |
| 9 | 1995年8月9日 | 日本、東京 | 1-5 | 敗戦 | 親善試合 |
[編集] 指導歴
- 2003年-2007年 浦和レッドダイヤモンズ・ハートフルクラブ コーチ
- 2003年 日本サッカー協会 アンバサダー
- 2008年- 浦和レッドダイヤモンズ コーチ
[編集] 関連情報
[編集] 著書
- 『決定力 なぜ日本人は点が取れないのか』集英社、2007年 ISBN 978-4089070147
[編集] CM
- 埼玉縣信用金庫(選手時代)
- ゆうパック(選手時代)
- 三菱・パジェロ(選手時代)
- ノバルティスファーマ・テルビナフィンAT(引退後)
- ファミリー引越センター(引退後)
- エコ計画(引退後)
[編集] テレビ
[編集] 脚注
- ^ ミスターレッズ福田正博14-17頁
- ^ ミスターレッズ福田正博17頁
- ^ ミスターレッズ福田正博19頁
- ^ ミスターレッズ福田正博36-40頁
- ^ ミスターレッズ福田正博40-41頁
- ^ ミスターレッズ福田正博40-41頁
- ^ ミスターレッズ福田正博48-52頁
- ^ ミスターレッズ福田正博53-55頁
- ^ ミスターレッズ福田正博58-59頁
- ^ ミスターレッズ福田正博64-78頁
- ^ ミスターレッズ福田正博90-96頁
- ^ ミスターレッズ福田正博98-102頁
- ^ J LEAGUE NEWS VOL.94
- ^ 福田正博氏がトップチームコーチに就任 - 浦和レッドダイヤモンズ公式サイト
- ^ Jリーグ最強読本54-56頁
- ^ Jリーグ最強読本54-55頁
- ^ ミスターレッズ福田正博25-26頁
- ^ ミスターレッズ福田正博243-244頁
[編集] 参考文献
- 『一歩踏み込んだ戦術とスター選手研究 - Jリーグ最強読本』二見書房、1993年
- ストライカー編集部『RED STORM 福田正博』学研、1994年
- 三菱自動車フットボールクラブ『RED DIAMONDS OFFICIAL HANDBOOK 1994』南雲堂、1994年
- 浦和レッドダイヤモンズ『浦和レッズ・オフィシャルハンドブック1995』アストロ教育システム、1995年
- 浦和レッドダイヤモンズ『浦和レッズ・オフィシャルハンドブック1996』アストロ教育システム、1996年
- 浦和レッドダイヤモンズ『浦和レッズ・オフィシャルハンドブック1997』アストロ教育システム、1997年
- 浦和レッドダイヤモンズ『浦和レッズ・オフィシャルハンドブック1998』アストロ教育システム、1998年
- 『浦和レッズ10年史』ベースボール・マガジン社、2002年
- 戸塚啓『ミスターレッズ 福田正博』ネコ・パブリッシング、2003年
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月24日 (火) 22:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【福田正博】変更履歴

