福間納
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| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | 島根県大田市 |
| 生年月日 | 1951年7月13日(58歳) |
| 身長 体重 |
175cm 69kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| 守備位置 | 投手 |
| プロ入り | 1978年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1979年 |
| 最終出場 | 1990年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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この表について
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福間 納(ふくま おさむ、 1951年7月13日 - )は、元プロ野球選手(投手)。登録名を一時期福間 納一(読み同じ)とした。島根県大田市出身。
2009年に株式会社アイランドプロモーションに所属。 テレビ・ラジオ出演や講演会活動などを行う。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1969年に大田高校でエースとして選抜大会に出場。松下電器では外野手も務めた。
1970年[1]のドラフト会議で阪急ブレーブスから7位指名されるが、この時は入団せず、1978年のドラフト会議[2]でロッテから1位指名され、入団。
1981年シーズン途中に深沢恵雄投手とのトレードで阪神へ移籍。主に中継ぎ投手として活躍し、1983年に最優秀防御率のタイトルを獲得。1984年にシーズン77試合登板のセ・リーグ記録(当時)を達成。翌1985年の優勝にも大きく貢献した。一方、トレード相手の深沢もロッテで2桁勝利をあげたりして活躍したため、「成功したトレード」の例としてもよく語られた。1990年に引退。
その後は毎日放送(MBS)の解説者を経て、1997年から4年間、阪神のコーチを務めた。
プロでは投手登録であったが、バッティング技術も優れていたため、プロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズでは外野手として出場し、好成績を収めている。
1981年の阪神タイガース・ファン感謝デーでは、阪神甲子園球場で加藤博一や似鳥功らとともにイモ欽トリオの形態模写を披露するなど、現役時代から非常にひょうきんな性格で知られ、「板東英二の再来」「引退後に、真のプロとしての人生が待っている」と評されたが、引退後は意外にもタレント活動などは行っておらず、2002年に公開された映画『ミスター・ルーキー』では、一人の阪神ファン役(仲田幸司も同じ阪神ファン役)で出演したのが例外である。
現在は大阪市住之江区のバッティングセンターで週1回、バッティングスクールのコーチをしている。[3]
[編集] エピソード
- 1984年に稲尾和久が持っていたシーズン登板記録(78試合)に迫り、記録を破るかどうかが注目された。このとき、プロ野球記録の調査研究で知られた宇佐美徹也は当時の安藤統男監督に手紙を書き「稲尾の記録は400イニング以上投げて作られた中身のある記録。中継ぎの登板で形だけの記録更新は考え直してほしい」と訴えた。この手紙が功を奏したかは不明であるが、結局福間の登板記録は稲尾より1試合少ない77試合となった。宇佐美は後に「この年より登板数が少なくても、優勝に貢献した翌年の方がはるかに実のあるシーズンだった」と記している。一方、それから21年後に藤川球児が福間、さらには稲尾の記録を上回ったときにはそうした声は挙がらなかった。
- 1985年の日本シリーズでは第4戦の9回2死2塁の場面に、西武の西岡良洋に勝ち越しの2ランホームランを打たれ、負け投手となる。吉田義男監督は翌日の第5戦でも福間を起用、4回一死満塁のピンチで西岡をぴしゃりと遊ゴロ併殺に抑えて勝ち投手となった。同じような場面での起用について、吉田は「もう一度チャンスを与えてやりたかった」とコメントしている。失敗しても次の試合にすぐ名誉挽回のチャンスを与え選手に自信を付けさせるという(特に投手に多かった)当時の吉田采配の特徴の一つであった。(同じようなケースで後楽園球場での巨人戦で原辰徳にサヨナラホームランを打たれたが、その次の日の試合でピンチの場面で吉田監督は福間を起用し福間に「勝負しなさい」と指導し、原をライトフライに打ち取り阪神が勝利した。)
[編集] 通算成績
- 451試合 22勝 21敗 9セーブ 0完投 647投球回 防御率3.67
[編集] タイトル・表彰
- 最優秀防御率1回(1983年)
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 当時は、社会人野球在籍選手の「高校卒後3年、大学卒後2年」のドラフト指名凍結期間はなく、このように高卒・社会人1年目の選手でもドラフトの対象となった。
- ^ 3位指名が落合博満。
- ^ マグスミノエ内、バッティングスミノエにて月曜日開催。
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