科学的方法
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科学的方法(かがくてきほうほう、英: scientific method)とは、物事を調査し、調査結果を整理し、新たな知見を導き出し、知見の正しさを立証するまでの手続きであり、かつそれがある一定の基準を満たしているもののことである[1][2][3][4]。 「一定の基準とはそもそも何か」という問題は諸説があるが、大まかにいえば、その推論過程において「適切な証拠から、適切な推論過程によって演繹されたものとみなせること」が要求される。また、定量化が可能で、統計学の見地から見て有意であることも望まれることが多い。
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[編集] 科学的な方法の概要
科学的な方法は、断片化された散在している雑情報あるいは、新たに実験や観測をする必要がある未解明な対象に対して関連性、法則性を見出すための体系的方法である。
科学的な方法の古典的な基本は、17世紀にデカルトが『方法序説』で示した以下の原則である[3]。
- 明瞭判明の規則:明らかに真理と認められたものだけを判断の基準とする。
- 要素分解:解決可能な要素に分解して考察する。
- 具体から抽象へ:単純なものから複雑なものへと順番に認識をすすめる。
- 総合:見落としがないことを十分に確かめて、完全な列挙と再構成により全体を再構成する。
この枠組みについて現在の科学的方法を論じる上では若干の修正や適用範囲の制限を行わねばならないが、放送大学教授濱田嘉昭が「現在でも研究論文を書きあげる指針として十分光を放つものである」と述べている[3]。
現代の「科学的方法」に関する一つの指針として、アメリカ科学振興協会による1989年の報告書、「すべてのアメリカ人の科学」[1]がある。この報告書は、すべてのアメリカ人が身につけるべき科学的な素養についての指針を与えるために、アメリカ科学振興協会の中心的なメンバーの草起、承認のもと発行され、日本を含む世界各国の教育行政に影響を与えている。「すべてのアメリカ人の科学」では、科学的な方法の特徴は、その調査プロセスと、論証過程に顕著に認められる[1]としている。調査プロセスは、「仮説の構築とその検証」による[1]。科学的な論証方法の顕著な特徴としては「適切な証拠への依存」、「明確な結論の存在」、「証拠と結論を結ぶ適切な推論過程の存在」の3つが認められる[1]としている。
現代の科学的な方法においては、現象を説明する場合に、「なぜそうなるのか」という哲学的な問題を棚上げした上で「その現象がどのようにふるまうのか」に着眼する傾向がある[5]。この意味で、科学的な方法においては結論の提示は現実の物理現象、社会現象などを定性的/定量的に説明する具体的なモデル[6]を提示する形で行われる傾向がある[1][3]。結論の成否は証拠となる事実の取得方法、処理方法、推論過程の適切さの判断となる。しかしながらこの問題は評価の問題を含む。また分野間、研究者間によってデータの処理方法や実験的所見、定性的又は定量的手法等が異なる。
[編集] 科学的な方法の対象
科学的な方法が取り扱い得る対象については、科学者の間でしばしば見解の相違が見られる。一般に「科学的な方法」の適用範囲については人によって様々であり、対象を限定する議論は極めて難しい。その理由は、個々の研究者間で証拠の妥当性や扱う対象の価値判断が異なるためである[1][3]。
科学の扱う対象について、以下の論点がある[1][7][8][9]。
[編集] 再現性
再現性については、例えば、物理学者中谷宇吉郎(1900-1962)は1958年の著書において「科学は再現の可能な問題に適用範囲が限られる」と述べた[7][注釈 1]。19世紀の科学では、文字通りの「再現性」が重視されていた。
一方、筑波大学教授・宮島龍興が日本教育工学振興会提言において指摘しているように、現代では(厳密な意味での)再現性や定量化が難しい対象も科学の対象となってきている。この背景には、(20世紀、なかでも20世紀後半における)推測統計学の導入により従来の記述統計をベースとした統計処理だけでは扱い切れなかった対象が定量的に考察しえるようになったことがある。
例えば医学・薬学・心理学・経済学などは、根本的に複雑性や複合性を内包していて、再現性を得にくい生体や社会そのものを扱う。(19世紀までの科学の水準ではこれをうまく扱えなかったが)現代の科学においてはこれらも、科学的な研究対象である[10][11]。つまり、このような「古典的な意味での再現性が無い分野についても、統計学の手法を用いて、科学的な方法論の対象とする」という立場が、現在の科学的方法の主流である。
[編集] 定量性
では、定量性についてはどうなのか?これについては様々な見解がある。
例えば、科学史研究者の岡本拓司(東京大学)の文章には「測れるもののみが科学の対象」と書かれている[8]。これがひとつのオーソドックスな考え方である。
ところが一方で、宮島龍興の指摘をさらに緩やかにしたような、「論理的な整合性を維持しながら、適切な証拠を集めて議論をするならば科学的である」とする者がいる[9]。このような見解に立つと、ハリウッド映画俳優の共演関係のようなものまで科学的考察の対象と考えられることがある[9]わけである。
これは議論を生むことがある。例えば、伝統的に他の学問などが扱っている領域にまで科学的方法を適用しようとすることは不適切であるとされることも多く、「科学主義」や「科学原理主義」などの呼称を用いて批判されている。
[編集] 科学的な方法のプロセス
科学的方法には、そのプロセスに以下のような要素が含まれるという特徴が有る[1][3][12][13][注釈 2]。簡単に言えば、科学的な調査手法は「仮説の構築」と「その検証」の延々たる繰り返しとみなせる[1]。
- 先行研究のリサーチ:過去の論文などを調べ、何が分かっていないのか、自分の知りたいことを解明するにあたり、有効な手法がないか、比較、参照する上で有益なデータがないかを調べる。
- 予備実験、基礎検討及びその解析:リサーチクエスチョンの抽出や仮説、モデルの構築、オーダーエスティメーション実験の問題点などの評価、最適条件の探索のために行う実験。
- 仮説の構築 (Hypothesis) : 観察事象について思索を巡らし、仮説を考案すること。仮説とは、推測ではあるが、観察した現象や事実を説明できるものである。例えば、なんらかの周期性や法則性などはそれに当たる。
- 実証実験 : 仮説が正しいか、否かを、客観的な形で検証するための、デモンストレーションを前提とした実験。
- 解析、整理、論文執筆:
- 公表 : 結果を他者に伝えること。
[編集] PDCAサイクルとの類似・相違
「仮説をたて、検証し、次の計画に反映する」という考え方は、広く一般化されており、プロジェクトマネジメントにおいては、PDCAサイクルという名前で、一般のプロジェクトの管理に加え、研究開発や国の大型研究プロジェクト等の大局的な管理において基本となる考え方として受け入れられている[14]。但し、PDCAサイクルが日本で広まった背景にはQC活動があり、この活動は、統計の専門家や、品質管理の専門家が中心となって広めた活動であるため、広く言われるところのPDCAサイクルは、「個々の研究一つ一つの流れを説明する」という観点からは、根底となる思想面では共通する部分が多いものの、実際には意識の違いがある。意識の違いのうち最も大きな点は、QC活動では、「データに合うように研究目的を変更すること」はよいこととはされない点、また、実際の研究レベルでは、大半の成否は、「予備実験、基礎検討」までの段階で決まってしまう点である。
[編集] リサーチと、予備実験の重要性
一般に、研究者は、自分のテーマに関連する先人達の業績である文献をよく読み、その中から証明すべき事実を演繹し、実験仮説、リサーチクエスチョンを設定する[15]。このときの 仮説の善し悪しがその後の価値を左右する。通常は、仮説は実験を単純化したモデルを立てる形で行い、モデルをいくつか立てた上で、そのモデルの定性的な傾向、たとえば、入力する量増やせば、信号がどのように変化するかや、モデルを支持する結果と反証する結果がどんなものかを予想した上で、大まかなセットアップを考案して実験の準備をしてだいたいの最適な設定とデータが取得されるデータのオーダーは予想する。また、その仮説をたてた大まかな理由もある程度明確にしておくとよい。箇条書きにすると、以下のことが重要である。
- 実験を単純化したモデル
- モデルの定性的な傾向
- モデルを支持する結果と反証する結果の例
- そのモデルから予想される、最適な実験条件のオーダー
ところが、実際の研究では、学生実験とは違い、「初めから予想通りの結果になる」、あるいは「初めから予想を明確に反証する結果が得られる」ことは極めてまれである。実際には、最初に予想した内容を反証しているとも立証しているとも言い難い微妙な結果しか得られない。
そのため、大体の場合、研究は大雑把な仮説とその根拠になるプレリミナリーなデータを積み木のように組み立てていくことで進行する。つまり、「実験の大まかな傾向を見るための実験(予備実験)を行いながら、当初考案したモデルも修正しながら、さらにそのモデルの成否をよく判定する条件を探りながら再度予備実験を行い」というサイクルを実行する。つまり、上記の(1)-(4)の間のプロセスを長い期間往来する。このプロセスにより、価値ある研究課題と最適な実験条件が見つかり、実験手技も高まって安定していく。
予備実験の良し悪しは、その実験家のセンスそのものだという学者もいる[15]。通常、どの研究者も、まずは初歩的な阻害要因(グランドループによる発振や電源ノイズ、振動、極端なコンタミネーション、手技の不足)をあたって、それらがドミナントでない場合には誰でもこのレベルの問題は解決できる。また、条件を振って問題の切り分けを試み、何らかの操作を行い、その応答[注釈 3]から押さえるべきポイントを論理的に把握ることを試みる。また、複数の実験データをみながら即座にいろいろなモデルを立て、そのモデルを考慮しながら随時、実験条件の最適化を図っていくこと。しかし、最終的に整合のとれたモデルとデータの組に到達できる人は少数である。そのような者は、どうしようもないときにも「この山はハズレ」との結論に到達するまでの時間が短くさらにその決断は正しい(どのような要因が邪魔なのかをそれなりには正確に把握している)。予備実験の段階で注意すべきことを箇条書きにすると、以下のようになる。
- 予備実験のデータを桁違いに変化させる要因
- 傾向を大幅に変える要因(発振が止まる等)
- 変化させられるパラメータ
- 個々のパラメータそれぞれを独立に動かした時に測定される個々の測定値のそれぞれ変化の傾向[注釈 4]
- そのオーダー
- それにあてはまる実験式、定性的なモデル等
実験の勝負は、「先行研究のリサーチ」、「予備実験」の段階で大半がきまり、これに従い、「リサーチクエスチョンの抽出」、「仮説の構築」、「最適な実験条件」が機械的に決まり、実証実験に至っては、もはやルーチンワークでしかない[15]。実験の再現性という観点から言えば、実証実験は、よほどの人を除き誰でもできる程度の完全なルーチンワークであることが望まれる。このことから、研究者の成長にとって、実験の大半を予備実験や基礎検討に費やすことが遠回りなようで、実はこれが実験の成功への近道であるばかりか、若い研究者の研究能力の大きな基盤財産になり、将来にわたってゆるぎない自信を得る上で重要となると考えられている[15]。
[編集] 科学的方法における論証
「IMRAD」も参照
科学的な論証に限らず、論証には、大きく帰納と演繹の二種類がある。帰納は実験により得られた個々の結果、つまり特殊な条件での事象に基づいて一般的原理を推定する。演繹は、一般的原理として認知された法則、あるいはもっともらしいと信じられているものに基づいて、いくつかの仮定をおき、具体的なモデルを考え、それに基づいて現象を予測する手法である。通常は、試行錯誤の過程において、帰納と演繹を繰り返し行う[16]。帰納のスタイルで論証するにしても、演繹のスタイルで論証するにしてもその論証が科学的であるためには、少なくとも論理的であることが求められる。
一般に、「論理的」といった場合には、トゥールミンモデルが基本であり、最近ではそれを簡略化した三角ロジック(論理の三要素)[17][18] に基づいて「論理的」であることの基本とすることが多い[17][18]。三角ロジックとは、以下に示す3つの要素化ならなる論法である。
- 「主張」
- 「根拠となる事実(証拠物件)」
- 「根拠となる事実から主張を演繹/帰納するための推論過程(論拠)」
科学的な論証においては、上記の3要素に関して、相応の適切さが求められ、それが適切であることが科学的な方法を特徴づけている。このいみにおいて、科学的な論証の顕著な特徴としては「適切な証拠への依存」、「明確な結論の存在」、「証拠と結論を結ぶ適切な推論過程の存在」の3つが認められる[1]。
[編集] 科学的方法における結論
「現実の対象がどのように振る舞うか」に着眼する現代の科学では、結論の提示は、現実の物理現象・社会現象などを定性的/定量的に説明する具体的なモデル[6]の提示という形で行われることが多い[1][3]。モデルの良し悪しは、明確であることが求められると同時に、扱いやすさ、どれだけ多くの現実を説明できるかにかかっている。
モデルの成否の推定については、以下に挙げる「チャールズ・パースの仮説形成法」が基本になるとされている[3][19][20]。
- 驚くべき現象Fが観察されている。
- だが、仮説Hが真であると仮定すると、Fは当然のことになるだろう。
- よって、Hは真であると考える理由がある。
いわゆる「現象論的」と言われる考察においては、このような考え方を特に好んで行う。 また、現在において認められている理論のほとんどすべては、「多数のFを説明できるからHは正しい」といった論拠に基づいており、逆に言えば、どれだけのFを説明できるかがその理論の優劣を決める[3]。このようなモデルに基づいた仮説形成法は、「必要条件と十分条件の混同」という点においてデカルトの枠組みを若干逸脱しているが、科学的推論の過程においてよく用いられる[19]。
特に現代の科学においては、「真理とは何か」といった哲学的でとらえどころのない問題にくらべて、「どのようなモデル・式・計算コードが現実を最もよく反映するのか」という問題が圧倒的に重要な意味をもつ[6]。そのため、現代の自然科学においては、「とりあえず」のメカニズムを考案する上で
- 直観的に考え、もっともらしいモデルを議論の叩き台にするために提案する。
- 現実と合致するようにモデル・式・計算コードを調整する(調整されてできたモデルあるいはモデルの調整法を「とりあえず」のメカニズムと考える)。
- そのモデルが(少なくとも考えた中では)最もよく物事を説明していることを、統計学的な見地から評価する。
- モデルを調整するのに用いた実験パラメータの物理学的な意味を、次元解析等を参考に解釈する。
というアプローチをよく行う[6]。特に萌芽的な研究においては、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータを抜き出し、外挿によって近縁の系に対して予測を立てる」という手法がよくとられる。
このような現象論的・現代的なモデル形成手法は、特に「物ができること」を重視する応用系の分野において顕著な成果を挙げており、現在のデータからより優れた物を作る指針として活用されている。素粒子論等の基礎的な分野においても、このような手法の活用に苦言を呈する者はいるが、少なくとも論文を書く上ではよく用いられている指針である。総じて言えば、基礎研究・応用研究の両方において強力な手法である。
特に基礎分野の研究に対する、現代的なモデル化手法の積極的な導入に対する苦言の根拠としては、現代的なモデル化は、モデルを調整するための変数があまりにも増えてしまうと、そもそも計算が困難になり、直観による見通しが利かなくなるという弱点があることがよく言われる[21]。特に、素粒子理論などでは、現実を説明するために どんどん新しい素粒子が仮定され、話がどんどん複雑になっていくということが問題視されている[21]。単に「話がどんどん複雑になっていく」というだけでは「悪い」とは言えないが、一般に結論はシンプルであるほうがよいと考えられている。結論のシンプルさに関しては、以下の「オッカムの剃刀」という原則がある。
- 必要以上に多くの実体を仮定するべきでない。
- 現象を同程度うまく説明する仮説があるなら、より単純な方を選ぶべきである。
概ねこのような原則は、「並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する方法」の一つとして現代の科学者において、理念的な面でうけいれられているが、あまり教条的に受け入れてしまってはいけない事柄である。その理由としては、
- 説明に不必要であることは、存在しないことを含意しない(より多くの現象を統一的な視座から説明する上では必要な概念があるかもしれない)。
- 何が説明に必要であるかは必ずしも明確ではない。
などの問題点がありえるからである。
無論、明確な指導原理が得られないままパラメータが泥縄的に増えていく状況が生じた場合には、オッカムの剃刀という理念を再度思い起こす必要がある。
[編集] 科学的方法における証拠
科学は証拠となる事実(生データ/証拠物件)を要求する。科学者は何らかの「真偽判定」を行う場合に「どういった証拠が結論を支持し得るか」ということを考える[1]。このような思考は一般に、科学教育において優先的に身に着けさせるべきことと考えられている[1][2]。この際まず、仮説を支持する証拠と仮説の反証となる証拠を明確にする必要がある[1]。一般に、「仮説の反証となる証拠の存在」は、必ずしも反証となる証拠を提示された理論の否定にはつながらない(「結論の明確さと反証可能性」を参照)[1]が、特に実験家は、既存の理論の反証となりそうな実験を好んでターゲットにするという傾向があり、そのような反証例を基に、理論が洗練させられていく[22]。
証拠となる事実の整理(解析)の過程においては「データの解釈方法」「データの記録または報告」「データの重みづけ」等、適切なデータの取得、適切なデータの処理に関する問題が重要となる[1]。「適切」とは、ここでは、「どのような手順でデータを取得すれば偏りが少ないと認められるか」を指す[1]。
この問題は概して非常に難しく、有意性の問題といわれる。有意性の判断は先述のように分野によってどこまで容認するかに温度差があるが、この判定基準については統計学特に実験計画法の分野の研究者が研究している事柄である。既にさまざまなレベルの良質な文献が複数刊行されている。
また、「科学的であること」の要件として必須であるとまでは言えないものの「どのようなデータの収得順序、収得方法、統計処理方法でデータの本性をえぐりだすことができるのか」という問題も重要である。この問題の系統だった研究はデータマイニングの分野で研究されている。この問題に対してカリフォルニア大学サンタバーバラ校教授 中村修二が、「データに文脈性を持たせることの重要性」を説いている[23]。データに文脈性を持たせ、一見意味のない雑情報に見えるものの中から意味のある情報を取り出すためには、セレンディピティーや磨かれたセンス場合によっては運が要求される問題でもある。センスを磨くためには実験ノートの有機的な活用など実験をよく振り返ることに加え、関連するよい論文に目を通し発見の過程を分析する必要がある。
[編集] 科学的方法における推論過程
「IMRAD」も参照
結論と、実験事実の間にはなんらかのギャップがあることが通常であり、その間を結ぶ考察が必要となる。必要に応じて、なんらかの理論や既に公表された他の実験データ等を援用し、証拠を補完する必要がある。一般に、「どのような推論過程」が適切であるのかは、その研究のオリジナリティーにかかわる部分であり、特に研究レベルでは極めて難しい。
実際、物理の重要な概念を創造した論文は、たいていは隙がある論理展開をしていると指摘される[22][24]。通常の学部レベルで想像される緻密な理論展開は、創造的理論を受けてその内容を精密化したり整理する過程で生じる[24]。このように科学においては論理性を重視する一方で、現実の対象を扱っていることによる若干の論理の飛躍を認めざるを得ない側面がある。一般に、現実の対象を扱う学問では多少飛躍を許してでも学問を進めたほうが、後になってみて分かることが多いと信じられている[25]。反面、この意味では「科学的な方法によって得られた結論」であるというだけでは「科学的に正しいか否か」「現実的に正しいか否か」「現実的に役立つか否か」は必ずしも一致するとは限らない[26]。問題は、「ギャップを認めつつも推論を進め、意味のある仮説を提唱し、それを広め、集団で検証する」という建設的な立場の重要性にある[4][22][24]。
論理の飛躍としては、
- 法則の適用範囲を勝手に広げる
- 数学上の制約を無視
- 実態とは合わない近似
- 必要条件と充分条件の意図的な混同(チャールズ・パースの仮説形成法)
- 強引なモデル化
- 強引な仮定を認める
等がある[22][24]。それぞれそういうものを認めざるを得ない相応の理由がある。
では、どこまでの飛躍やあいまいさを容認するのか。これは非常に難しい問題であり「真実への到達」を考えるならば安易に結論できない問題である。だが標語的に「仮説は失敗を恐れずに大胆に立てろ」といわれるように、一般に建設的な立場においては「真実に到達する」ためには「いろいろな”とるに足る”論」があったほうがよいと考えられている[24][25]。
最終的には「どれだけ沢山の自然現象を説明できるか」が科学理論の良し悪しを決めるため、この問題は、過度に深刻に考える必要性は乏しい。どこまでの論理の飛躍を認めるかについては「研究者のタイプ論」から説明されることもある。研究者のタイプはしばし(呼び方は別として)「先頭突撃型」と「地固め型」[24][25]に分類され、前者の場合は文字どおり、多少乱雑かもしれない実験や推論をする反面、重要な発見をする。逆に地固め型は過去の研究の”粗”の部分を補正する。
この論理の飛躍に関しては、「論文として世に出す価値を認めるか否か」に話を限局すれば節度の問題となっていて、ピア・レビューの過程で、前例やその報告の面白さ等を踏まえながら決まっていくものである[24]。ピア・レビューで出来ることは、せいぜいその程度のことであり過度な期待はいけない。この時点におけるレフェリーとの応酬に勝つためには当然、過去の論文を多く読みその論法を見ておく必要がある。また粗がある議論があって、それを部分的にでも修正することができるのならば(それを論理的に立証できる限り)それは論文を書くチャンスである。
[編集] 結論の明確さと反証可能性
結論の明確さの判断に関しては、特に疑似科学の批判活動において「ホパーの反証可能性の原則」がよく引き合いに出される。確かに本質的に立証も反証も行えないような対象は、原則論としては科学の対象とはみなされない[1]。しかし、特に研究の最前線においては、現実には、「ホパーの反証可能性の原則」は、言われているほど現実の研究者には、受け入れられておらず、むしろ軽視されているという指摘さえある[21]。
現在の研究の最前線において、反証可能性の原則が、実際にはきわめて軽視されている現状に対しては、危機感をつのるものもいる。例えばリース・モーリン博士は、現在の最前線における物理学の理論が、「どのような実験結果でも取り込めるほどパラメータが多い」ことを指摘したうえで、反証可能性を軽視している傾向を、「物理学の迷走」と断じている[21]。実際、モーリン博士が指摘するように、最近の素粒子物理、量子情報、物性理論等は極めて数学に近い様相を呈しているため反証可能性の原則を逸脱していることはしばし指摘される。また、特に、萌芽的な理論においては、実験がどんな結果を出してもそれを取り込めてしまうほどパラメータが多く、しかもそのパラメータの物理的な意味が不明確であることもしばしば指摘される。現在でも、このことを理由として権威ある雑誌への掲載が拒まれることがあるとされる[24]。
しかし、この傾向も最近では現実的な方向に、つまり反証可能性を変重しない方向にシフトしつつある[24]。現実の科学研究の進展においては、仮説はあいまいなところからはじまり徐々に明確になっていく傾向があり、論文を書く場合には簡単には反証されないように細心の注意を払う傾向があると指摘される[4]。特に、萌芽的な研究においては、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータを抜き出し、近縁の系に対して予測を立てる」という手法がよくとられる。そして、このような手法が、特に物性予測等の分野(例えば、広い意味での第一原理計算)をはじめとした応用分野では、現実に役に立つ材料や装置の開発等において極めて強力な指針を与えるなど、一定の成果をあげているのも事実である。尚、、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータを抜き出し、近縁の系に対して予測を立てる」という手法は、シュレーディンガー方程式等の、物理学の基本となる方程式のほとんど全てが、大概の場合に厳密解を求められないことによる。厳密解を求められない以上は、なんらかの近似をせざるを得ないため、なんらかの”反証”となる実験結果が出たとしても「基礎方程式の間違い」なのか、「近似のまずさ」なのか、「実験の問題」なのかは必ずしも明確ではない。
また、反証されたことは、必ずしも間違いを意味しない。通常の科学者は、ある理論に対していくつかの反証となる例が発見された場合にも、理論自体を全否定するという考え方はせず、それを修正する/適用範囲を制限するという対応をするほうが一般的であり、より精度を高めてより広範に受け容れられるように何らかの変更を加えることが通常である[1]。例えば、相対性理論の有用性は、古典力学の反証によって立証されたが、相対性理論の構築は、ニュートン力学を破棄、否定する形をとらず、むしろニュートン力学がより一般的な概念の中で適用範囲が限定された一つの近似であるにすぎないことを示す形で行われた[1]。さらにニュートン力学に基づいた計算は現在でも科学技術の最先端で使われることが多々ある。この意味でも「ニュートン力学が相対論によって否定された」とまで言い切るのは早計であり、現在の科学者の標準的な考え方とは大きく異なる[1]。
尚、疑似科学と科学の線引きに関して、この問題は極めてあいまいな境界を持つ問題だが、これについても「反証可能性」よりも「有意性」のほうが重視される傾向にある[27]。
[編集] 科学的方法を実行するための素養
科学的な方法を実行する上では、調べるべき対象への知識、それ以前の基礎的な知識などが要求されるが、このような知識面以外に、「対象に影響を与えるドミナントな支配法則 をまず考慮して概略の傾向を数値的に掴むこと 」「実験ノートをきちんとつけられること」、「一定の計算力、論理的な思考力」などの知識面とは異なる素養、具体的にはスキルや評価項目が存在すると考えられている[2]。
研究者レベルの人間に必要な素養全てを書きだすことは難しいが、教育レベルでは、ある程度明確化されてきている。一般に、教育レベルでは、以下の素養を身につけることが必要であると考えられている[2]。
[編集] 科学での考え方と証拠
- いかに科学的な考え方が発表され評価され広まっていくか(例えば、出版物や他の科学者のレビューによって)。
- 経験的な証拠を異なって解釈することからいかに科学的な論争が巻き起こるか(例えば、ダーウィンの進化論)。
- 科学的な仕事が、それがなされる状況から影響を受ける様(例えば、社会的、歴史的、倫理的、精神的)と、そうした状況が考え方を受け入れるかいなかにいかに影響を与えるか。
- 産業的、社会的、及び環境的な問題に取り組む際の科学の力と限界について考察すること。それは、科学が答えられることと答えられないこと、科学的な知識の不確かさ及び関連する審美的な諸問題も含む。
[編集] 調査能力
- 「計画すること」
- 科学的な知識と理解を用いて様々な考えを調査できる形式に変換し、適切な方略を計画すること。
- 直接経験に基づく証拠を用いるか、二次的な情報源からの証拠を用いるかを決定すること。
- 適切な場面で予備的な作業を行って予測を立てること。
- 証拠を収集する際、考慮すべき主要な要因について検討し、また容易に変数がコントロールできないような状況(例えば、野外作業や調査など)いかに証拠を収集できるかを検討すること。
- 収集しようとするデータの範囲と程度(例えば、生物調査の際の適切な標本の量)、技法、装置、及び用いる材料を決定すること。「証拠を得ることと提示すること」
- 幅広い装置や材料を用いてかつ、自身や他人の安全を確保する作業環境を保つこと。
- データ収集に当たってICT(情報通信技術)を使用することを含んだ観察や測定を行うこと。
- 誤差を低減したり信頼性の高い証拠を得たりするために十分な観察や測定を行うこと。
- 観察や測定における不確かさの程度を判断すること(例えば分散を用いて測定値の平均値の正確さの程度を判断すること)。
- ダイアグラムや表、チャート、グラフ及びICTを用いて量的データや質的データを表現したり他人に伝えたりすること「証拠を考察すること」
- ダイアグラムや表、チャート、グラフを用いて、データにおけるパターンや関連性を見つけたり説明したりすること。
- 計算の結果を適切な程度の正確さで表現すること。
- 観察や測定その他のデータを用いて結論を導くこと。
- こうした結論がどの範囲において予測を支持するか、及びさらなる予測を可能とするかについて説明すること。
- 科学的な知識と理解を用いて観察や測定その他のデータ及び結論を説明したり解釈したりすること。
- 「評価すること」
不規則なデータについてそれらを却下もしくは採用するための理由について検討するとともに、測定と観察にともなう不確かさに関して、データの信頼性を検討すること。
- 収集した証拠がいかなる結論やなされる解釈を十分に支持するかどうかについて検討すること。
- 用いた方法に対する改善点を示唆すること。
- さらなる調査について示唆すること。
研究者レベルでも、上記の項目の重要性は変わらない。一般に、「科学的な方法のプロセス」で説明したようなサイクルを正しく実行していくためには上記の素養が必要であるが、大学院生など研究に不慣れな者は、手技に不慣れであることから、実験結果の信頼性に問題がある場合、あるいは実際には問題がないにせよ自信が持てない場合等があり、不安定な土台の上に積み木を積んでいる如く、技術的にも自分に自信が持てないため、どんな結果が出てもなかなかそれを信じることができないことがある。実際、仮に予想外の結果が出ても、もしかしたら試薬の入れ忘れ、入れ間違いかも知れない」ということを毎回考えなければならないとするならば実験の面白さは半減するだろうと。このような不安と自信のなさが、セミプロレベルでの研究の面白さを失わせる大きな要因だと思われる[15]。
このような不安をなくすためには、手技的に習熟するのは当然として、手技以前にどのくらいミスやブレをなくすことができるかを徹底的に考えるも大切である。このような考察には、抜群の想像力が要求されると考えられている。この点に関して、九州大学の中山敬一教授は、「チューブの並べ方やチップの使う順番(のような極めて簡単なことまで)まで理屈を持って決めていました。そこに流れている思想を読み取って欲しいと思います。と述べている。このように、一流の実験家は、実験装置をどの順番で使うのがベストであるだとか、どのようなサインが出た場合には何がどのように影響している場合があり、それはどのようにすれば排除できるのかといったことまで理路整然と把握している[15]。
[編集] 「科学的」という言葉への誤解
科学的という言葉に関する2つの極端な立場がある[6]。ひとつは、「科学的に証明された」「正しい理論」という文言と、それらしい実験を示しただけで、盲目的に信仰するという立場である。もうひとつは、すべては「単なる理論」であるという事を極端に強調し、全く信頼しないという立場である。これらは2つとも科学的という言葉に対する初歩的な誤解である[6]。
「科学的に証明された」、「正し理論」という言葉が、何を意味するのかは、非常に幅の広い意味を持つ言葉で一般には難しい[6]。このような問題を考慮する場合には、「研究目的にたちかえって考えること」や、「測定とはどのようなことなのか」、「科学的な論証で用いられる論法」等、「科学的な方法」に求められる諸要件について理解しておく必要がある[6]。
特に、科学的な態度においては、特に論文などのように、自らの得た知見を世に問う場面においては、明確な研究目的の提示を行うこと、そして「研究目的で提示した問題の解」において明快な論理と確かな証拠を以て立証する義務が生じる(詳細はIMRAD参照)。これは、数学の証明問題において「示すべき命題が何なのかを意識せよ」と言われるのと同じことである。例えば「鶏肉からDNAを抽出する」という研究目的を立てた場合には少なくとも「抽出されたものがDNAであることをきちんと立証する」必要がある[注釈 5]。つまり、この研究目的に照らして例えば「洗剤に鶏肉を入れたら、白い沈殿ができた」という結果が得られたとしよう。この場合この結果と「その白い沈殿がDNAである」という結論の間を最も真剣に考察する必要が生じる(循環論法の項を参照のこと)。
本来科学的なもののみかたを広めるはずの、啓蒙活動が、かえって「科学的」という言葉に対する誤解を広める原因となることもある。古くから、健康番組や科学番組などにおいて演示実験がおこなわれる。また、科学啓蒙家による演示実験による啓蒙活動がよく行われる。また”インパクト抜群のオモシロ実験”を自宅で簡単にできるようにコンパクトにまとめた本が多数売り出され好評を博している。これらの中には、しっかりとした調査の上に科学的な論理を以って物事の成り立ちを示す大変質の高いものがある一方で、実験データの検証と解釈などの点で科学研究の基礎的な要件をあまりにも無視したものが多数見受けられる[28]。実際、金澤一郎日本学術会議会長は昨今の健康番組や科学番組における”科学的な論証”に対し、
- 適切な対照群の設定
- 統計的な有意差を得るために必要な実験例数の設定
- 実験データの検証と解釈
などの点で科学研究の基礎的な要件を必ずしも満たしていないものが見受けられることを指摘している[28]。ここで指摘されている要件を満たしていない議論は、解釈の提示等において、科学的な推論の規範とは到底言えず、科学的な推論方法を身につけさせる上では有害と思われるものも多数見受けられる。このような、粗雑な議論も、「科学的」なものを扱っているというだけで、科学的だと誤解されることがある。わかりやすさを前面にだすためには、ある程度は枝葉末節を切り捨てることが重要ではあるが、科学的な論証の上で必要な手続きを無視した議論は、結論の成否に関わらず、科学的な態度とは対極にある態度である
一方で、科学的という概念を無駄に潔癖な方法と誤解している者もいる[4]。現実の科学者に対して、無駄に潔癖な考え方を押しつけただの誤解やミスあるいは(マスメディアに見られる”科学的推論”に比べればはるかにギャップの少ない)「多少は強引な結論」等、科学の進展の上では必然的に生じてくるような特段騒ぐほどでないものを誇張して科学における不正行為と騒ぎ立てるものがある[4]。こういった問題は最近においては「芸能人の不倫騒動」と同列に大衆の興味を掻き立てるものである[4]。科学者においては誠意をもった推論が必要なことは言うまでもないが、最近においてはこのような”ゴシップ騒動”の影響で、特に若い世代に萎縮効果が出るなどの弊害がある点には注意が必要で、健全な科学の進展には弊害がある[4]。
[編集] 科学的方法の歴史と哲学
「科学史」も参照
科学的な方法とは何かという問題について、これまでは科学者の側あるいはそれに近い側からの議論を中心に述べてきたが、この問題は科学哲学の重要な問題の一つでもある[29]。但し、反証可能性、オッカムの剃刀などに関する諸議論等は、科学者にとっての必須教養ではなく、また、研究開発の現場と乖離している場合もあり、また哲学として一定の権威をゆうしているものであっても、極端にその考え方を推し進めるとまったくのでたらめに近い議論が成立することもあるので注意を要する。科学的な方法を身につける上では、特に初学のうちは下手に手を出さないほうがよい事柄も多く含まれ、研究者として未熟な段階でこの手の議論にとりつかれてしまったがために、この手の話題だけには強くなり、インターネット上等で教弁をふるってはいるが、研究業績はさっぱりという”研究者”もいる。
特に、哲学と自然科学が分業して以降は科学哲学の側がどうしても観念的になり、現実の科学を正確に理解しないまま「相対論を相対主義にこじつける」ような愚が野放図に行われる有様であった[22]。 また、古典的な科学哲学者の見解には科学の進展の美化された部分を高度に抽象化させすぎるきらいがあることが指摘されている。結果として道徳の次元としては美談だが、現実の科学の進展に寄与したい人間にとっては逆に変な誤解や萎縮効果を与えてしまう危険性のある理屈がまかり通り、神話を作るだけで結果として科学者の側にとってはどうでもよい問題を延々と議論しているという指摘がしばしなされる[22][30]。
不幸なことにこのような古典的な科学哲学の問題点は「いまでもそのまま」だと誤解されているようであるが、これはとんでもない間違いである。現在の科学史、科学哲学においては既に実験ノートの記録などから科学的に研究者に迫るアプローチが主流であり、従来の観念的な科学論は科学哲学の中でも重要性を失っている[30][31][32][33]。
観念的な大昔の科学史、科学哲学によって形成された神話的な科学者像は正確には実用性に欠く見当違いな「科学的方法」観を与える。先述のように、科学的な方法においては、最終的にはデータに文脈性を持たせることが重要になるが、データに文脈性を持たせる能力について「単なる弁明の能力でしかなく、科学を進める原動力にはならない」と言う人もいる[31]。そして、「口がうまい者が一流とみなされる」と嘆いて見せる[31]。しかし最近の科学史の研究においては、「パスツール」だとか「ファラデー」とかいった比較的神格化されている人たちも含め、どちらかというと「口がうまい」と嘆かれる研究者に近くそういう特質をもっていたからこそ科学を進歩させられたのだとみる見方が主流となっている。
このようなパラダイムシフト、この場合には神話的な科学像からの脱却の端緒は諸説あるが例えばアメリカの社会学者ハロルド・ガーフィンケルらを中心とするグループの実際のラボラトリーに観察者として入り込み、「エスノメソドロジー」と呼ばれる文化人類学的な調査方法によって科学活動を調査・記述・分析した一連の研究にそれを見ることができる[31]。ガーフィンケルらの研究には「手の麻痺した化学科の学生の実験を手助けをしながら,自ら実験を追体験する」などといった密着取材に基づく生々しいものがたくさんある。 このような地道な調査によって、徐々に「マニュアルには処方されていない様々なテクニックが実験作業に必要とされていること」等が明らかにされた。この考え方、手法は科学哲学者ブルーノ・ラトゥールによって大成され、一つの標準的な理論に達した。 この考え方は現代における「科学的方法像」に近いものである[31]。
[編集] 脚注・出典
[編集] 脚注
- ^ 中谷の言う「再現可能性」は、「全く同じ現象が何度も起こる」という最も狭い意味よりも少しゆるやかである。
- ^ 2007年前後に出版されている文部科学省高等学校検定教科書の課題研究の欄には、研究は下記の(1)から(7)までを順に行えと書いてある。詳しくは研究の項目を見よ。
- ^ 例えば「どの変数を増やせばどの指標が増えるか」、あるいは「現象CはA、B2つの変数を同時に操作せねば起こらない現象である」等
- ^ 2つのパラメータを同時に変化させた時」に「個々のパラメータを独立に動かした時」と大きく異なる結果が出た場合、それはアーチファクトの可能性が高い。
- ^ 研究目的が「鶏肉からDNAを効率よく抽出する」の場合には「効率面」を示せばよいこともある。このように「何を目的とするのか」によって明らかにすべきこと(すでに出された研究に全面的に乗っかっても場合によっては問題にならないこと)がある。
[編集] 出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 米国科学振興協会1989「すべてのアメリカ人のための科学(PDF版)」。「Science for All Americans(英語版)」
- ^ a b c d 小倉康「科学リテラシーと探究能力」[http://www.nier.go.jp/ogura/TokuteiRep0602.pdf
- ^ a b c d e f g h i 濱田嘉昭「科学的な見方・考え方」
- ^ a b c d e f g フレデリック グリンネル(著)、白楽 ロックビル(翻訳)『グリンネルの研究成功マニュアル―科学研究のとらえ方と研究者になるための指針』共立出版 1998年10月
- ^ R.P.ファインマン(著)、大貫昌子(訳)『ご冗談でしょうファインマンさん』岩波書店、2000年1月
- ^ a b c d e f g h David Carr Baird・加藤幸弘・千川道幸・近藤康『実験法入門』ピアソンエデュケーション(2004年12月)
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- ^ a b http://www.c.u-tokyo.ac.jp/scholar/04.html
- ^ a b c 文部科学省ウェブサイト - 平成18年版 科学技術白書 - コラムNo1
- ^ 宮島龍興「曖昧さの科学と科学の曖昧さ」日本教育工学振興会提言[1]
- ^ 荒川歩「心理学は「科学的」でなければならないのか?」立命館人間科学研究第10号29頁、2005年[2]
- ^ 入来篤史『研究者人生双六講義』岩波書店、2004年2月
- ^ http://www.socialresearchmethods.net/kb/strucres.php
- ^ http://unit.aist.go.jp/eval/H18symp/Files/H18symp.pdf
- ^ a b c d e f http://www.bioreg.kyushu-u.ac.jp/saibou/qanda.html#p5
- ^ http://www.pharm.kyoto-u.ac.jp/physchem/kokorogamae.html
- ^ a b 野矢 茂樹(著);「新版 論理トレーニング 」産業図書; 新版版 (2006/11)
- ^ a b 西村 克己(著);「論理的な文章の書き方が面白いほど身につく本」中経出版 (2006/6/13)
- ^ a b http://www.jstage.jst.go.jp/article/biophys/43/6/291/_pdf/-char/ja/
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- ^ a b c d リース・モーリン(著)、松浦俊輔(翻訳)「迷走する物理学」ランダムハウス講談社 (2007/12/13)
- ^ a b c d e f R.P.ファインマン『物理法則はいかにして発見されたか』岩波書店、2001年3月
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- ^ a b c d e 橋本毅彦「[科学史研究の新潮流]実験と実験室(ラボラトリー)をめぐる新しい科学史研究」『化学史研究』第20巻第2号107-121頁 1993年[3]
- ^ G・L・ギーソン(著)、長野敬・太田英彦(訳)『パストゥール――実験ノートと未公開の研究』青土社
- ^ B・ラトゥール(著)、川崎・高田(訳)『科学が作られているとき――人類学的考察』、産業図書、1999年
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年9月6日 (日) 10:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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