秦檜
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秦檜(しんかい、1090年 - 1155年)は南宋の宰相。字は会之。江寧(現在の南京)出身。金との外交政策において和平を進め、講和を結ぶが、その過程において岳飛ら軍閥を弾圧し、その後も自らの権力保持のために恐怖政治を敷いたので、後世に売国奴と蔑まれた。
[編集] 略歴
1115年に科挙に合格し、その後は順調に出世を重ねる。1127年に金が北宋を滅ぼし、華北統治のために傀儡国家の楚を誕生させようとしたが、これに対して秦檜は猛反対し、怒った金首脳部に北へと連れ去られた。この時に金の重臣である撻懶と密約を結んで、南宋の主戦論を押さえ込んで和約することを申し合わせたという噂が後に流れた。
1130年、秦檜は金の軍中を脱走して南の高宗のもとへたどり着いた。高宗は秦檜が帰ってきたことを非常に喜び、即日礼部尚書とし、翌年には宰相となった。その後、一時期宰相を罷免されるが、すぐに復帰して和平交渉の推進に努めた。
当時は岳飛を初めとする金に対する戦争で軍功を挙げた軍閥勢力が台頭しており、和平派の秦檜を批判した。これに対して高宗の確実な支持を得た秦檜は軍閥間の不仲を利用して、軍閥の力を殺ぎ、その軍隊を中央軍に組み入れ、主戦派の勢力を抑え込んだ。
1141年、和平に反対する主戦派を弾圧して官職から追放し、特に当時の救国の英雄と言われた岳飛を「莫須有(有ったかもしれない)」という理由で反逆罪に問い、謀殺。このことが後に彼の評価を著しく下げることになる。主戦派を抑え込んだ秦檜は翌年についに金との和平を実現させる(紹興の和議)。これは国境線を確定し、宋が金に毎年金25万両と絹25万疋を金に貢げるという屈辱的な内容の和平だった。
その後も秦檜に対する非難は止まなかったが、それらの反対派に対しては徹底的な弾圧を行う、民衆に対して文字の獄を起し言論を規制するなど、強権的な政治姿勢を貫いた。
1155年、宰相の地位にあること20年。66歳で死去した。
[編集] 評価
秦檜は死後、売国奴の汚名を着せられた。完全に無実であったにもかかわらず、岳飛に罪を着せて謀殺した行為が、後世大いに非難の対象となったからである。秦檜自身も岳飛を殺すことについては大いに悩んだが、妻にうながされて殺すことを決意したという。そのため、岳飛を殺したのは秦檜夫妻だとみなされており、岳王廟には夫婦の像が縄に繋がれる姿で置かれている。以前の中国にはこの像に唾を吐きかける習慣があった(現在では「像に唾を吐いたり、叩いたりしてははならない」という掲示がある)。また小麦粉の棒を秦檜夫妻に見立て、油で揚げる食べ物を油条という。南宋が滅びた後も岳飛が英雄視されるに伴い、ますます秦檜の悪名は高まり、いつの時代でも売国奴の代名詞として扱われるようになる。
当時の金と南宋の国力の差を考えれば、華北を奪還することは不可能であり、和平を進めた秦檜は正しかったとの擁護論もあるし、そもそも帝意は和平にあったのだから、臣下として和平を推し進めるのは当然であるとも言える。さらには軍閥勢力を抑え込み、文治主義を推し進めるのは太祖趙匡胤以来の宋の国策であり、秦檜も高宗もそれに従ったに過ぎないとも言える。秦檜の政治能力も水準を越えており、北から追われてきた南宋が国家として安定したのは秦檜の手腕によるところが大きい。屈辱的とされる講話条件の内容も、国境に交易所を設置するという内容も含まれており、結果論ではあるものの実利の上で南宋有利な内容であった。
しかし、秦檜がその政治的成果をあげるにあたって、岳飛に冤罪を着せ謀殺するなどの卑劣な手段を用いて対金強硬派を弾圧したことも事実である。また、講和によって宋が経済的な実利を得たとしても、儒教的な価値観においては喜ぶものではなく[要出典]、国家の体面のほうが重要視される(朝貢貿易にも見られるように[要出典]、実利を失っても体面を保つ事を、歴代の中国政権は重要視する[要出典])。そのため、後世の評価や人気は極めて低い。
なお、高宗は秦檜生前は「私は彼を得たことが嬉しくて夜も眠れない程だ」と秦檜について語ったが、その死後には掌を返し「私は今日からは靴の中に刃を置かずに済む」と語っている。

