種田仁

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種田 仁
三星ライオンズ コーチ
基本情報
国籍 日本
出身地 日本の旗大阪府八尾市
生年月日 1971年7月18日(38歳)
身長
体重
173cm
80kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 内野手
プロ入り 1989年 ドラフト6位
初出場 1990年8月20日
最終出場 2007年9月24日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴

種田 仁(たねだ ひとし、1971年7月18日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手内野手)。現在はテレビ愛知野球解説者ホリプロ所属・中日スポーツ野球評論家を経て、2010年からは韓国・三星ライオンズ打撃コーチに就任予定。

愛称は「タネタネ」「アパッチ」「マイケル[1]」。

目次

[編集] 来歴・人物

主に二塁を守り、時には一塁遊撃三塁外野も守る。二塁の守備は範囲こそ広くないが堅実で評価が高い一方、外野の守備はあまり上手ではない。

足を大きく開きバットを立てて構える独特のバッティングフォームは「ガニ股打法」と呼ばれている。この打法は、中日時代の1994年頃から度重なる怪我等でレギュラーを奪われ、極度の打撃不振に陥っていた種田が2000年の春季キャンプで悩みに悩んだ末に、左肩がベースに入りすぎるクセを直すために、バットを振り切った状態から逆算する形でフォームを考えていき、「初めから体を開いて左足をつま先立ちすれば左肩は入りようがない」という結論に達し生まれた[2]。また、同じ二塁手だったロバート・ローズに憧れており、彼のバッティングフォームを真似たという説もある。[要出典]

横浜時代のファンの応援は、その独特のフォームを真似て「タネダンス」を踊るというものだった。珍しがって相手チームのファンが踊ったり、バット型メガホンをものすごい高さに積み重ねて踊る者もいたが、本人は「自分が打てるんだから何ら問題はない」と全く気にしていないようである。種田がオールスターゲームに出場した際は、セリーグのファンが一斉に踊る光景も見受けられ、ファン感謝デーでも「1万人のタネダンス」なるイベントが行われた。

上宮高時代から注目された逸材で、当時の監督は「種田が9人いたら監督は要らない」とまで話している。同期にはお笑い芸人のほっしゃん。と元巨人元木大介。高校時代は元木とは対照的に親分肌で後輩に慕われていたと言われている。

3年時の春の甲子園決勝の東邦戦で、自らの悪送球とそれをカバーに入った右翼手のエラーにより逆転サヨナラ負けを喫した事は有名である。この時元木らは敗戦の悔しさから号泣して倒れ込んでいる中、種田はインタビューしようとしていたマスコミに「うるせぇ、邪魔だ」と一喝、プロ入り後にも試合中にファンと口論するほど、非常に気の強い選手である事が伺える。しかし試合中、サードベースに手でタッチしようとし、阪神関本健太郎のスパイクに踏まれ、思わず手を引っ込めてしまったために関本にタッチ(ただし、グラブは種田に当たっていなかった)されてアウトを宣告され、塁審に抗議した際に泣いたこともあった。

中日時代の応援歌は、サザエさんの再放送の主題歌であった(のちに変更)。

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

1989年上宮高校3年時の春の甲子園では、決勝の東邦戦10回裏、優勝まであと1アウトまで迫りながら自らの悪送球(記録上は右翼手のエラー)により痛恨の逆転サヨナラ負けを喫し準優勝。夏の甲子園ではベスト8で大越基率いる仙台育英に2-10で敗れた。

同年のドラフト中日ドラゴンズから6位指名を受け、専修大学進学を辞退し入団。下位指名ではあったが推定契約金は上位指名選手並みの4,000万円で背番号は一桁の0を与えられるなど、高く評価されていた。

[編集] プロ入り後

[編集] 中日時代

1年目から一軍出場を果たす。2年目の1991年仁村徹から二塁手のレギュラーを奪う形で後半戦からスタメンに定着する。

1992年、この年から監督に就任した高木守道の現役時代の背番号である1を与えられる。肩に不安を抱えていた立浪和義を遊撃から二塁にコンバートさせる形で遊撃手のレギュラーとなる。翌年には初の全試合出場など活躍する。

1994年は怪我などの影響で不調に陥り、41試合出場に終わる。10.8決戦では出場機会が皆無で、翌1995年に復調するものの即戦力である鳥越裕介の加入もあり、89試合の出場に終わった。

1996年は1994年より少ない40試合の出場で、完全に遊撃手のレギュラーを鳥越に奪われる。1997年はさらに少ない8試合の出場。その年のオフにプロ野球脱税事件に関与し、1998年は開幕から3週間の出場停止処分を受ける。阪神から移籍してきた久慈照嘉の活躍もあり、打率は.280であったものの43試合の出場に終わる。1998年当時のドラフトで目玉とされていた福留孝介が入団すると、背番号1を奪われて49に変更した。

2000年に「ガニ股打法」を開発(前述参照)し、代打11打席連続出塁という日本記録を樹立。規定打席には満たなかったものの打率.314、7本塁打、31打点を記録してカムバック賞を受賞する。

2001年4月中に波留敏夫とのトレードで、山田博士と共に横浜ベイスターズへ移籍。

[編集] 横浜時代

移籍後の2001年は98試合に出場し打率.278を記録、ユーティリティプレイヤーとして重用された。

2002年2003年は守備に不安、打撃でも安定感を欠く内川聖一村田修一古木克明らに代わり、二塁手三塁手、時には外野手として数多くスタメンで起用されるようになる。

2004年の開幕当初は控えであったが、5月頃からスタメンで起用されると好成績を挙げ規定打席に到達するなどレギュラーに定着。打率も規定打席到達では初となる3割をマークした。

2005年も開幕から二塁手としてスタメン起用され、自己最多の145試合に出場。自己ベストとなる打率.310(セ・リーグ9位)の好成績を残す。なお、このシーズンには1試合の欠場があったが、これは判定に抗議して上本孝一を突き飛ばしたために出場停止処分を受けたもの[3]。セ・リーグの二塁手の中で、打率、本塁打、打点のすべてにおいて最高の成績を残すも、ベストナインには選出されなかった。

2006年は肘の故障の影響で不振に陥り80試合の出場に終わる。打率.217は横浜に移籍してからはワーストの成績。

2007年、オフにトレードで巨人から移籍した仁志敏久の活躍もありスタメンでの出場が減少。代打出場がほとんどで、打率は.258の成績を残したがシーズン後戦力外通告を受けた。本人は現役続行を希望し、西武が獲得を表明。12月、同じく楽天から戦力外通告を受けた谷中真二と共に正式に西武に入団。背番号は2

[編集] 西武時代

2008年、二軍では78試合に出場しまずまずの成績を残していたが、層の厚い内野陣に阻まれて初めて一軍出場無しに終わり、10月1日に西武から2度目の戦力外通告を受けた。

その後12球団合同トライアウトに参加したが、獲得する球団はなく現役引退。12月2日に自由契約公示された。

[編集] 引退後

2009年に大手芸能事務所「ホリプロ」に所属し、テレビやラジオ、東京中日スポーツを中心に野球解説者として再出発することが決まった。その後テレビ愛知の野球解説者になることも決まった。 中井正広のブラックバラエティでは度々ガニ股打法を物真似されていたが、2009年7月5日放送分ではスタジオに登場し、ガニ股打法を指南した他、山崎武司(楽天)、木塚敦志(横浜)などの野球モノマネを披露した。2010年から韓国・三星ライオンズの打撃コーチに就任することが決まった。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績
































O
P
S
1990 中日 8 6 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 1 0 1 0 .000 .250 .000 .250
1991 107 368 298 44 81 12 3 5 114 15 13 5 33 2 31 4 42 7 .272 .346 .383 .729
1992 102 357 317 42 78 11 4 3 106 27 7 2 22 1 17 0 35 0 .246 .284 .334 .618
1993 132 578 512 65 130 13 4 10 181 40 10 6 29 2 30 5 85 8 .254 .301 .354 .654
1994 41 139 120 14 19 5 1 3 35 10 6 0 7 1 11 0 27 7 .158 .227 .292 .519
1995 89 275 244 25 55 10 0 8 89 22 8 3 9 1 20 1 48 3 .225 .286 .365 .650
1996 40 122 107 6 19 1 0 1 23 6 2 3 6 1 7 1 17 1 .178 .233 .215 .448
1997 8 19 13 1 1 1 0 0 2 0 0 0 5 0 1 0 2 0 .077 .143 .154 .297
1998 43 113 100 10 28 4 1 3 43 8 2 1 4 1 8 0 11 4 .280 .330 .430 .760
1999 43 61 51 6 10 3 1 0 15 2 3 0 4 0 6 0 10 0 .196 .281 .294 .575
2000 102 295 264 30 83 14 3 7 124 31 4 4 3 2 25 1 30 5 .314 .373 .470 .843
2001 8 18 17 0 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 1 0 1 0 .176 .222 .176 .399
横浜 98 278 237 30 66 12 2 4 94 42 1 3 12 4 22 3 15 9 .278 .342 .397 .739
'01計 106 296 254 30 69 12 2 4 97 43 1 3 12 4 23 3 16 9 .272 .335 .382 .716
2002 116 438 397 47 100 18 0 5 133 29 5 0 14 1 22 4 84 6 .252 .297 .335 .632
2003 92 281 261 24 75 13 0 3 97 21 3 4 4 0 10 6 34 8 .287 .329 .372 .700
2004 120 470 410 52 123 27 3 8 180 52 2 6 15 5 38 2 50 11 .300 .358 .439 .797
2005 145 606 529 66 164 24 1 9 217 61 7 3 10 2 60 5 62 16 .310 .384 .410 .794
2006 80 268 230 33 50 9 0 1 62 17 3 1 8 1 25 4 25 5 .217 .304 .270 .573
2007 60 76 66 6 17 6 1 1 28 17 0 0 3 0 6 1 7 1 .258 .329 .424 .753
通算:18年 1434 4768 4176 501 1102 183 24 71 1546 401 76 41 190 24 341 37 586 91 .264 .323 .370 .693

[編集] 背番号

  • 0 (1990年 - 1991年)
  • 1 (1992年 - 1997年)
  • 49 (1998年 - 2001年途中)
  • 12 (2001年途中 - 2003年)
  • 3 (2004年 - 2007年)
  • 2 (2008年)

[編集] タイトル・表彰

[編集] 個人記録

[編集] 出演番組

[編集] 脚注

  1. ^ 命名者は入団当時の星野仙一監督。マイケル・ジャクソンが飼っていたチンパンジーの「バブルス」に似ていたからである。
  2. ^ メジャーリーグにもガニ股打法で知られるジェフ・バグウェルがいるが、彼のフォームは「空気椅子に座っているような」スタイルのフォームであり、つま先立ちもしておらず、種田のフォームとは違うものである。
  3. ^ 種田本人の主張では審判に突き飛ばされ、2回目に体当たりに向かっていった時、上本塁審に小手投げを喰らったという。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月30日 (月) 04:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【種田仁】変更履歴

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