稲村ヶ崎

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稲村ヶ崎を西側から望む(2004年11月9日撮影) - 中腹に広場のように見えるのが鎌倉海浜公園。なお砂が全体的に黒っぽいのは地中に含まれる砂鉄のせいである

稲村ヶ崎いなむらがさき)は神奈川県鎌倉市南西部にあるで、由比ヶ浜七里ヶ浜の間にあたる。住居表示などでは稲村ガ崎とも表記される。

目次

[編集] 地名の由来

稲村ヶ崎の案内石碑(2004年11月9日撮影) - 鎌倉海浜公園内に所在。大正6年(1917年)建立
稲村ヶ崎を東側から望む(2004年11月9日撮影)
稲村ヶ崎突端部。画面中央の横穴は第140師団麾下の部隊が構築した横穴陣地とされている

地名の由来は、稲穂を重ねたように見えるためだと言われている。古来良質な砂鉄が採取できる事で知られ、燃料である樹木や傾斜地にも恵まれていたことから、古代にはこの地で製鉄がおこなわれていたと考えられる。

[編集] 歴史

[編集] 古代

奈良時代鎌倉には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、万葉集巻14-3365に、

鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ

と詠まれている。この地名がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していない。しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となる。

[編集] 中世

鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月に上野国(群馬県)新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵し、分倍河原の戦いと関戸河原の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉にせまり、18日極楽寺口より攻撃を加え、21日には義貞みずから稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が潮が引くのを念じてを投じると、その後潮が引いて干潟となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が『太平記』に記されている(ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている)[1]

[編集] 近世以降

幕末には外国船監視のための台場が置かれ、長州藩が防衛にあたった。

1928年昭和3年)、県道(後の国道134号)の開削工事が行われ稲村ヶ崎の丘陵が分断されて切り通しが開かれた。また、第二次世界大戦中には伏龍隊の地下基地があった。

[編集] 現代

現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成高校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑、コッホ博士記念碑などもある。サーフィンメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきたが、近年、の流出が進み、2003年平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。

[編集] 史跡指定

元弘3年5月の新田義貞の鎌倉幕府攻めの際、通行困難だったが義貞徒渉の際には干潟となって容易に進軍できたという伝説より、「稲村ヶ崎(新田義貞徒渉伝説地)」として、 1934年昭和9年)3月13日、国の史跡に指定された。

[編集] その他

サザンオールスターズ桑田佳祐が監督を務めた映画『稲村ジェーン』(1990年)の舞台ともなった場所である。しかし以前は自殺の名所としても知られていた。

ほかにも、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの曲で『稲村ヶ崎ジェーン』と言う曲がある。

1989年稲村ガ崎サーフィンクラシックが開催されたが、以来、大波が到来せず2009年現在、第2回は開催されていない。

[編集] アクセス

稲村ヶ崎駅から坂を下って徒歩5分程度のところに所在する

[編集] 脚注

  1. ^ 細井浩志『古代の天文異変と史書』(吉川弘文館、2007年)ISBN 978-4-642-02462-4 P22

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月29日 (日) 04:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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