穴山氏

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穴山氏(あなやまし)は、武田氏一族で甲斐国国人領主。戦国時代末期まで甲斐南部の河内地方(現在の西八代郡南巨摩郡一体)を領し、甲斐東部の郡内地方を領した小山田氏とともに甲斐国内で領域権力を及ぼした。家紋は三つ花菱。

目次

[編集] 来歴

南北朝時代に甲斐武田氏当主の武田信武の子の義武が巨摩郡逸見郷穴山村(山梨県韮崎市)を領し、穴山氏を称したのが始まりとされる。一説に、既に在地豪族の穴山氏が存在しており、当時、武田氏と勢力を二分していた逸見氏に対抗する必要から、義武を同氏に養子として送りこんだとする説もある。

1416年上杉禅秀の乱を受け、鎌倉公方足利持氏によって守護武田信満が討伐された結果、武田氏は離散し、信満の弟穴山満春とその嫡子信重は、持氏の討伐を恐れて高野山に逃れ、甲斐国は鎌倉府方の国人逸見有直に押領されるところとなった。守護不在の混乱を受け、満春は還俗して武田信元と名乗って守護として帰国したものの、情勢は不穏で、信元は信満の子武田信長の支援を得て逸見氏に対抗した。満春の後継は武田信重の子穴山信介で、信介の代に河内領に入ったとされる。

逸見氏との対立は武田氏に不利に推移した。信元死後は信重が守護となったものの、1450年、信重は穴山伊豆守に襲われて戦死する。穴山伊豆守は満春の子とされるが、当時勘気を受けて追放されていたため、信介が養子として穴山家を継ぐに至ったが、これを恨んだ伊豆守が信重を殺害したのだという。穴山氏の歴代当主は武田氏から養子を迎えており、家督相続に対する武田家干渉への不満が鬱積していた状況を物語る。[要出典]

甲斐の混乱状態は、穴山氏家中が武田派と今川派とに分裂する主導権争いを引き起こし、一時期、今川氏に帰属していたようである。この争いの結果、穴山信懸が殺害され、やがてこの混乱を収拾した穴山信綱が家督を継承し、武田信虎に従属するに至る。信綱は、1531年に信虎が諏訪・反武田派国人衆連合と戦った河原辺合戦で戦死し、嫡子穴山信友が継承する。 信友は信虎の娘を妻に迎えて武田家との関係強化に努め、居館を南部から下山へ移して城下町を形成する。信友期以降には発給文書の数が増大し、金山の開発にも関わるなど、権力強化に乗り出す。

戦国時代の甲斐の統一、領国拡大期にあたる信虎晴信(信玄)、勝頼の頃には信友信君勝千代(信治)と相次いで武田氏と婚姻を結んだ当主が出現し、発給文書の数も最大となり河内地方の支配も盛期を迎える。武田家の庶家の多くが他姓を称しているのに対し、穴山氏は武田姓を称することが許されている。

信君は晴信の甥かつ娘婿、親族衆の重鎮として重きを成した。永禄12年からの駿河国侵攻に際しては庵原郡興津領を預けられ、勝頼時代の天正3年の山県昌景の死後には江尻領を支配した。天正10年には尾張国の織田信長徳川家康連合軍の武田征伐を前に、家康を通じて織田方へ内通し、河内・江尻領安堵と武田家相続の確約を得た。しかし同年、本能寺の変で信長が横死した結果、和泉国にて家康と滞在していた信君は領国への帰路、土民の襲撃を受けて不慮の死をとげた。嫡子勝千代(穴山信治)が家督を相続したものの夭折。穴山氏は断絶した。

[編集] 河内領の支配

河内領は木材をはじめとした天然資源に富み、これが穴山氏の勢力基盤になっていたと言われる。甲斐と駿河を結ぶ富士川沿いには駿州往還(河内路)が通り、通商の要衝でもあった。多くの金山も開発されており、金の採掘や狩猟など山の生業を営む者を被官化したり奉公関係を結び、在地有力者は穴山家中を構成し、家老も輩出した。

[編集] 一族

[編集] 系図

       武田信武
        ┣━━━━┓
       穴山義武 武田信成
        |
        満春(信成の孫、武田信春の子)
        |
        信介(武田信重の子)
        ┃
        信懸
        ┣━━┓
        信綱 清五郎
        ┃
        信友
        ┣━━┓
        信君 信邦
        ┃
        勝千代(信君)

[編集] 参考文献

  • 渡邉正男「室町幕府・鎌倉府・甲斐守護」『山梨県史』第六章
  • 黒田基樹「穴山氏の河内領支配」『山梨県史』第八章第五節」
  • 勝俣鎮夫「穴山氏の『犬の安堵』について」『武田氏研究』
  • 磯貝正義「武田信重」『南部町誌』
  • 柴辻俊六「武田親族衆穴山氏の領国形成」『戦国大名武田氏領の支配構造』

最終更新 2009年9月26日 (土) 01:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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