エアボーン
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エアボーン(英: Airborne)は、
- 航空機が離陸した状態のこと。転じて離陸タイミング、離陸した瞬間を指す場合もある。
- 兵員を高速で長距離移動させたり、敵の背後に部隊を展開させることを目的として、飛行中の輸送機から兵員が落下傘降下すること。空輸挺身(くうゆていしん)又は空中挺進(くうちゅうていしん)、それらを略して空挺(くうてい)という。グライダーを利用することもある。本項で詳述する。
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[編集] 概要
空挺では輸送機に兵員が分乗し、戦闘機や攻撃機、COIN機の護衛を受けながら戦線の後方へと侵攻し、パラシュート降下またはグライダーの強行着陸によって部隊を展開することができる。ヘリコプターで移動するヘリボーンとは区別される。
地上に降りた後は通常の陸上部隊と同じように行動する。敵陣地や障害となる地形の影響を受けずに高速で戦略機動し、戦闘展開が可能であるところに特徴がある。
第二次世界大戦中、輸送機の発達と共に大きく発展した。第二次世界大戦のほか、朝鮮戦争や第一次インドシナ戦争、第二次中東戦争でも用いられた。
[編集] 利点および欠点
ヘリボーンと比較した場合、ヘリコプターより固定翼輸送機のほうが航続距離が圧倒的に長く、また搭載量も多いため長距離および重量物を用いた作戦を行うことができる。また、ヘリコプターのように爆音を出さずに大部隊を迅速に展開できるため、作戦条件によっては察知されずに敵軍の後方に降下して奇襲攻撃や、各種破壊工作を実施できる。
欠点として、輸送機が対空攻撃に弱く、敵が対空兵器を多数準備した場合には、輸送機が撃墜されて作戦が失敗することもある。ただし、このことはヘリボーンと共通であり、実際、敵軍の防空網が健在な状態で大規模なエアボーンやヘリボーンが行なわれることは稀である。降下する兵員はパラシュート降下操作を習得した者である必要があるため、養成に時間がかかる。また、落下傘の性質上兵員・物資の降下範囲が散らばり、風や地形のために兵員や物資が失われることが珍しくない。基本的には軽歩兵であって、重装備の地上部隊と正面から戦闘するには不利である。
[編集] 歴史
[編集] 黎明期
航空機により部隊を高速移動させるという構想は、ある程度現実的なものとしては1910年代から存在していた。パラシュートは飛行機からの脱出方法として実用化されていたが、これを兵員輸送手段としても利用することが考えられた。例えば、第一次世界大戦中の1917年には、イギリスのウィンストン・チャーチルが、塹壕戦の膠着状態を打開する手段として、敵陣後方へのパラシュート降下の研究を指示していた[1]。
実戦でパラシュート降下による兵員輸送が最初に実施されたのは、1916年10月のことである[2]。ドイツ軍の中尉と特務曹長がパラシュートを使い、鉄道破壊の任務で潜入作戦を成功させた。より明確な戦略的意義を帯びたものとしては、フランスのエブラール空軍少佐が部下1名とともに行った空挺侵入と、物資の空中投下による継続的な後方撹乱作戦が挙げられる。第一次世界大戦末期には、アメリカ陸軍航空隊のルイス・ブレリートン(en)少佐とウィリアム・ミッチェル准将らが、第1歩兵師団の一部をメスの敵陣後方へとパラシュート降下させる計画を提案した。ミッチェルらは1919年2月の実行を計画したが、そのような投機的な作戦を実施する必要がある戦況ではなくなり、中止された。
本格的な空挺部隊を最初に編成したのは、ソ連軍である。ソ連は、1927年の冬季大演習で8人の工兵を空挺降下させ、その破壊工作が成功と判定されたことをきっかけに本格的なエアボーンの研究を始めた[2]。ソ連は、全土にパラシュートクラブを創設してパラシュート熟練者を集め、有事の空挺兵資源の養成を図った。1931年に現在のロシア空挺軍の起源となる最初の空挺部隊を創設した。空挺戦車などの研究も行っている。1935年9月にはキエフで数百人規模の空挺部隊の降下演習を行い、翌年にはミンスク付近で火砲18門や自動車を伴う1200人による空挺演習を成功させた。この演習は、アーチボルド・ウェーヴェル(en)ら各国の駐在武官も見学しており、驚く者が多かったが、実際に空挺部隊の創設に動き出した国は一部であった。
ドイツ軍がエアボーンの研究を本格的に始めたのは、1936年だった。ドイツはソ連と異なり、秘密裏に研究を進めた。
[編集] 第二次世界大戦時
実戦での空挺作戦は、第二次世界大戦前半の1940年4月、ドイツ軍がデンマーク占領のためにオールボグルへ降下したのが最初である。翌5月にはベルギーのエバン・エマール要塞攻略にも用いられた。この時、ドイツ軍はグライダーを用いて要塞上に降下している。第二次世界大戦時には、輸送機からのパラシュート降下のほかに、グライダーによる強行着陸もよく用いられた(ヘリコプターは開発されたばかりで輸送能力が低すぎるため使えなかった)。しかし、ドイツ軍の空挺部隊は1941年に行われたクレタ島の戦いにおいて、島を占領する戦果を挙げたものの、兵士と輸送機の損害が非常に大きかったため、この後には大規模な空挺作戦は行われなかった。初期のドイツ軍エアボーン作戦の成功は、各国に衝撃を与えた。
日本が行なったものとしては、1942年(昭和17年)1月から2月にかけての、海軍空挺部隊によるセレベス島メナド飛行場や西チモールのクーパンに対する降下作戦、陸軍挺進連隊によるパレンバンなどへの降下作戦がある。油田施設やオランダ軍の飛行場を瞬く間に制圧し、作戦に参加した兵員は後に「空の神兵」と呼ばれた。
第二次世界大戦後半には、連合国側がクレタ島の戦いのドイツ軍を評価して空挺師団を整備運用し、1943年のシチリア島上陸作戦のほか、ノルマンディー上陸作戦、マーケット・ガーデン作戦で用いている。特に、マーケット・ガーデン作戦は3個師団半が空挺降下するという大規模な作戦であった。このほか、空挺部隊生みの親であるソ連軍もキエフ奪回作戦時に空挺降下を行っている。
イギリス軍はビルマの戦いで、ウィンゲートがグライダーを使って後方への侵入を度々行った。ここではグライダーによる降下だけでなく回収までもが行われた。
なお、きわめて特異なエアボーンの例として、1942年2月末にソ連軍が行ったパラシュート無しでの降下作戦がある。現在のカルーガ州ユーフノフ西方のドイツ軍補給路付近に、超低空飛行中の輸送機から約1000名のソ連兵が飛び降りた。積雪による安全な着地を期待したものであるが、約半数が負傷し、ドイツ軍の反撃も受けて失敗に終わった[3]。
[編集] 第二次世界大戦後
その後の朝鮮戦争の粛川・順川の戦いや第一次インドシナ戦争のディエン・ビェン・フーの戦い、第二次中東戦争のポートサイドの戦いでも用いられている。しかし、その後は、ヘリコプターの性能が向上し、大規模なヘリボーンが可能となったため、投機性・危険性のあるパラシュート降下作戦の実施は減少した。
ベトナム戦争では、偵察や秘密任務[4]のために旧北ベトナムやラオス、カンボジアに向けて小規模な空挺作戦が行なわれたが、補助的なものであって大規模なものは行われなかった。
それでも1983年のグレナダ侵攻作戦ではアメリカ陸軍第75レンジャー連隊がポイント・サリネスにパラシュート降下作戦を実施。1989年のパナマ侵攻作戦(Operation Just Cause)ではアメリカ第82空挺師団 第504パラシュート歩兵連隊を基幹とする第82空挺師団第1旅団がトリジョス国際空港において大規模なパラシュート降下作戦を実施した。この作戦の時は空挺戦車部隊、1個中隊(M551シェリダン空挺戦車10輌装備)をパラシュート降下させている。
アメリカのアフガニスタン侵攻において、アメリカのレンジャー部隊が半ば広報目的で夜間降下作戦を行っている。イラク戦争ではアメリカ第173空挺旅団がイラク北部のハリル飛行場にパラシュート降下作戦を実施している。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- 部隊
- 陸上自衛隊 第一空挺団
- 横須賀鎮守府第1、第3特別陸戦隊 - 日本海軍が海軍陸戦隊の一部として編成。
- 挺進連隊 - 日本陸軍の空挺部隊。
- 第82空挺師団 (アメリカ軍) / 第173空挺旅団 (アメリカ軍)(en)
- 第11落下傘旅団 (フランス陸軍)
- ドイツ降下猟兵(第二次世界大戦時は空軍、大戦後は陸軍の管轄)
- ロシア空挺軍
最終更新 2009年10月22日 (木) 04:35 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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