突撃隊

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突撃隊
Sturmabteilung
創設 1920年
廃止 1945年
所属政体 ナチス・ドイツ
所属組織 ナチス党
部隊編制単位 総軍
人員 350~400万(最盛期)
愛称 SA
最終位置 ドイツ
主な戦歴 ミュンヘン一揆
  

突撃隊(とつげきたい、Sturmabteilung, 略号:SA) は、ナチス党準軍事的な組織。制服の色から褐色シャツ隊とも。

目次

[編集] 結成

初の党集会を開く際「整理隊」として創設。これはマルクス主義者(ドイツ共産党ドイツ社会民主党)の暴力を会場から排除する必要があったため。(ヴァイマル憲法の下、ドイツでは多くの政党が政治活動を行ったが、演説会等をマルクス主義政党構成員やその支持者が暴力的に妨害する事件が多発していた。今日のドイツでも極右の合法的な集会を左派が非合法な暴力で潰すことがままある。)

その後「突撃隊」と改称、改組される。共産党の“赤色戦線戦士同盟”、社会民主党の“防衛隊”等との街頭闘争、党幹部の身辺警護などを担当した。

突撃隊旗

初期の突撃隊は幹部を義勇軍(フライコール)の指導者たちが占め、ナチ党中央に相対的に独立性を有した。突撃隊の褐色の制服は、ロスバッハ義勇軍の指導者のゲルハルト・ロスバッハ中尉が調達したものであり、突撃隊を強力な組織としたのは義勇軍エアハルト旅団フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンである。

アドルフ・ヒトラーは突撃隊を単なる警備組織としてだけではなく、隊列を組ませて行進させるなどデモンストレーション行動も度々とらせている。

1923年ミュンヘン一揆では、ミュンヘン市内の施設を占拠し、出動した警官隊との間で銃撃戦に発展した。ヒトラーは逮捕、投獄され、ナチスも非合法化され、存続の危機を迎えた。しかし翌年ヒトラーは釈放され、ナチス党と突撃隊は復活を遂げることになる。

[編集] 躍進

行進する突撃隊。1932年

1926年の党機構改革でヒトラーの肩書きは「党と突撃隊の指導者」という肩書きとなった。また、突撃隊の人員の一部が割かれ親衛隊が設立された。この年7月に行われた党大会でのパレードを見たヴィルヘルム2世の皇子アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセンは行進に感激し、突撃隊に入隊している。

1930年1月、突撃隊員ホルスト・ヴェッセルが赤色戦線戦士同盟員に殺害される事件が起きた。ホルスト・ヴェッセルはナチスの殉教者として宣伝に利用されるとともに、彼が作詞した「旗を高く掲げよ」がナチス党歌となった。折からの経済悪化でナチス党と突撃隊の勢いは増大し、バイエルン州ヘッセン州・バーデン州[1]では制服を着て行進することを禁止する命令が出された。このため党は対抗措置として白いワイシャツを突撃隊員全員に着せることで規制を切り抜けた。この手段は市民からも好感をもって迎えられた。同年9月12日の総選挙で突撃隊は選挙活動の中心として活動し、ナチス党は第二党に躍進した。

[編集] シュテンネスの反乱

突撃隊員を閲兵するヒトラーとレーム。1931年9月

しかし、ナチス党が有力政党として活動するようになると、保守勢力と協調する必要が生まれた。このため社会主義的な思想を持つ古参党員や左派の間には不満が増大した。また1930年5月26日、ミュンヘンに豪奢な党本部褐色館(Braunes Haus)が建設された。これは安い報酬で危険な仕事を請け負っている突撃隊員の反感を誘った。

1930年8月、ベルリン東部SA指導者であったヴァルター・シュテンネスはベルリン大管区指導者であるヨーゼフ・ゲッベルスに隊員の待遇改善などを含む7つのを要求を提出した。ゲッベルスがこの要求を拒否すると、ベルリンの党事務所に突撃隊員が乱入し、警備に当たっていた親衛隊員に暴行を行うという事件が起きた。

ヒトラーは1930年9月突撃隊最高指導者であるザロモンを解任し、自らがSA最高指導者に就任した。また1931年1月にはボリビアからエルンスト・レームを召還して突撃隊幕僚長に就け、突撃隊改革の主務者とした。しかしレームは突撃隊の軍隊化を目指しており、突撃隊を拡大する計画を建てた。

レームは突撃隊を「上級集団」五つと18の「集団」に分け、集団は複数の「連隊」が構成するという、軍隊に似た組織に再構成した。新設された部局には「SA航空隊」や「SA工兵隊」といった軍隊風の名称が与えられた。無制限に隊員を受け入れ、食事や宿舎の提供を行った為に失業者が殺到した。結果として隊員の質の低下は避けられず、しばしばゴロツキ同然の振る舞いを行う突撃隊員が増加した。またあまりに増大した突撃隊員に対する待遇は悪化した。

3月30日、ヒトラーは政府命令に従い、突撃隊の行進や他政党との抗争を禁止する通達を行った。しかしシュテンネスとベルリン突撃隊幹部はこれに反発し、ヒトラーに対する叛乱を決議した。この情報は党本部にも伝わり、シュテンネスに召喚命令が出されたが、彼は出頭しなかった。ヒトラーはフェルキッシャー・ベオバハターにシュテンネスを批判する論文を掲載させたが突撃隊の憤激は収まらず、親衛隊と衝突を繰り返した。これに驚いたヒトラーはベルリンを訪れ、突撃隊員や幹部を慰留して回った。党員から徴収する党費に突撃隊特別費20ペニヒが付加され、突撃隊の待遇改善に使用することなどが約束され、突撃隊は軟化した。シュテンネス一人が除名され、対立は一時収束した。しかしその後も給与の遅配などが続き、突撃隊には不満がくすぶった。

[編集] 政権掌握

オラニエンブルクの収容所で社会民主党の幹部を管理する突撃隊。1933年8月

1932年3月、ヒトラーが大統領選挙に出馬し、30パーセントの票を獲得した。4月14日、ナチス党の勢いを恐れたハインリヒ・ブリューニング首相は突撃隊と親衛隊の禁止命令を出した。しかしこの禁止命令は国防次官クルト・フォン・シュライヒャーの策動を招き、ナチス党と共同して倒閣活動を行った。結果、ブリューニング内閣は倒れ、6月1日にシュライヒャーを国防相とするフランツ・フォン・パーペン内閣が成立した。パーペン内閣のもとで6月16日に突撃隊・親衛隊禁止命令は解除された。

1933年1月30日、ヒトラーがドイツ首相に就任すると、突撃隊は準公的な組織となった。内閣成立当日にはたいまつを持った突撃隊がベルリン市内を行進し、その勢いを示した。社会民主党勢力の強いプロイセン州の内務大臣となったヘルマン・ゲーリングは、突撃隊と親衛隊の隊員を警察幹部に就任させた。これは後のゲシュタポの元となった。また突撃隊と親衛隊を補助警察に採用し反対派の弾圧に利用した。突撃隊はオラニエンブルクに私設収容所を作り、反対派を収容した。また2月14日には「補助警察」の手でドイツ共産党本部カール・リープクネヒト館が襲撃された。全権委任法の成立後は各政党や労働組合の事務所を襲い、財産を奪取した。

1934年5月14日にジュネーブで開催されたジュネーブ軍縮会議で、突撃隊はヴェルサイユ条約で定められた10万人の軍隊に含まれることとなった。これを口実としてドイツは国際連盟から脱退した。

[編集] 長いナイフの夜

350万人から400万人という隊員を抱える巨大な組織に成長した突撃隊と外部の軋轢は強まった。また、レームとヒトラーの関係も悪化しつつあった。レームはヒトラーの最も古くからの同志であったが、思想的には社会主義に近く、第二革命を唱えていた。そのため政権獲得後のヒトラーの既存勢力との融和的な政策に不満を唱えていた。また、レームは自らの率いる突撃隊が国防軍に編入される事を構想していたが、ヒトラーは頑としてこれを認めようとはしなかった。中下層出身者が多い突撃隊に対する保守的なドイツ国防軍の反感は根強く、ヒトラーにとっても国防軍の支持なしに政権の維持は望めないという思惑があったため、突撃隊を軍隊にする気はなかった。

また突撃隊の幹部は、ヒトラーではなく、レーム個人に忠誠を誓っていた事もあり、突撃隊内部には反ヒトラー的な風潮も目立つようになった。また同性愛者であったレームは同様の嗜好を持つ者を幹部に登用した。当時のドイツにおいて男性の同性愛は犯罪であり、突撃隊に同性愛集団であるという風評が立った。これは突撃隊への悪評がさらに高まる結果となった。

ヒトラーは突撃隊を懐柔しようとし12月にはレームをヒトラー内閣無任所相として入閣させ、1934年1月1日には、「軍隊の仕事は国境外の敵に対処することであり、突撃隊は国家社会主義革命と国家の勝利を勝ち取るためのものだ」という書簡を送り、突撃隊と国防軍を別のものであると婉曲に指摘した。しかしこれを突撃隊幹部は国外任務が国防軍の仕事であり、国内の治安維持は突撃隊のものであると理解した。レームはヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相に国内治安維持権限の委譲を求め、驚いたブロンベルクはヒトラーに善処を要求した。

ヒトラーは国防軍幹部と突撃隊幹部を集めさせ、突撃隊の任務は軍隊と異なることを通達した。レームは不満であり、幹部を国防軍に登用することをヒトラーに依頼したが、拒否された。すでに機関銃や小銃を装備して軍隊化しつつあった突撃隊の不満はさらに高まり、ベルリンに不穏な空気が流れた。またゲーリングは盗聴活動により、突撃隊内部で反逆が計画されていることを察知したとヒトラーに報告した。ここにいたってヒトラーは突撃隊幹部の粛清を決意した。

1934年6月30日、ヒトラーは自らレームを逮捕し、さらに親衛隊とゲシュタポが突撃隊幹部およびナチス党の政敵を処刑した。これは長いナイフの夜と呼ばれる。

[編集] 事件以降

長いナイフの夜でレームが殺害されると、新突撃隊幕僚長にはヒトラーに信頼されていたフィクトール・ルッツェが選ばれた。1943年にルッツェが事故死すると後任の幕僚長にヴィルヘルム・シェップマンが任じられ、ナチス崩壊までその任にあたった。

事件で高級幹部を失い、一部がヒムラーの親衛隊に組み入れられ、突撃隊は一挙に勢力を減退させた。だが、それでもヒトラー政権が終焉を迎えるまでナチ党の最大の組織として存続し、戦時中は国防軍を補助する任務を請け負っている。また、ルッツェをはじめ突撃隊幹部は、親衛隊への報復の感情を捨てることはなかった。

[編集] 突撃隊最高指導者

[編集] 突撃隊幕僚長

[編集] 突撃隊を描いた作品

[編集] 外部リンク

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

  1. ^ 特にバーデン州ではシンボルである「褐色シャツ」を名指しで禁止していた。

[編集] 参考文献

  • 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』(文春文庫
  • アドルフ・ヒトラー 『わが闘争』(上・下)平野一郎・将積茂訳、角川書店〈角川文庫〉、1973年(2001年改版)
  • 山下英一郎(著)『SSガイドブック』新紀元社、1997年、ISBN 4-88317-298-8
  • ロビン・ラムスデン(著)、知野龍太(監訳)『ナチス親衛隊軍装ハンドブック』原書房、1997年、ISBN 4-562-02929-3
  • Alan Dundes(著)、新井 皓士(訳)、鳥屋とは鳥籠のこと、褐色とドイツ人の文化論『鳥屋の梯子と人生はそも短くて糞まみれ:ドイツ民衆文化再考』平凡社、1988年、ISBN 4-582-72002-1
  • Nikolai Tolstoy: Night of the Long Knives, Ballantine Books Inc., 1972


最終更新 2009年10月6日 (火) 18:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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