竹俣義秀

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竹俣義秀(たけまたよしひで・寛永3年(1618年)-延宝2年(1674年))は江戸時代初期から中期の出羽国米沢藩藩主上杉氏家臣。苗字は初め保科氏であったが、後に実家の竹俣氏に復す。は初め在澄、保科氏時代は貞綱、竹俣に復して義秀。通称は三十郎、後に勘解由。後に侍組分領家のひとつである竹俣氏分家の竹俣西家の祖。実父は竹俣房綱(三河守、初め諱は秀綱)。養父は保科貞通(主馬)。家格は侍組分領家。幼君上杉綱憲を補佐し、当時、「諸家七賢人の随一」と呼ばれた。


[編集] 経歴

房綱の次男として生まれ、正保2年11月(1645年)に米沢藩士保科氏の養子となって家督相続。寛文4年(1664年)に藩主上杉綱勝が突如死去し、これにともなう米沢藩削減にあたり、同姓である会津藩藩主保科正之を頼り、米沢藩存続に尽力。吉良義央の子、綱憲が米沢藩を相続すると、寛文4年6月にその傳役となり、同年8月に米沢藩の恩人である保科正之との同姓を憚り、実家の姓に改姓する。寛文8年(1668年)には江戸家老になり、中条知資らとともに上杉綱憲を補佐するが、延宝2年に江戸で死去。

なお、長男の義澄は竹俣本家を相続しており、血統上は竹俣当綱の先祖にあたる。また、家統も明治期まで存続し、竹俣西家の当主は武鑑で『竹俣勘解由』としてしばしば登場する。

[編集] 参考文献

  • 「三百藩家臣人名事典 1」新人物往来社

最終更新 2009年10月3日 (土) 03:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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