第一次バーバリ戦争
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| 第一次バーバリ戦争 | |
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![]() 1804年2月16日、拿捕された味方艦の破壊作戦で燃え上がるフィラデルフィア(手前の船は、フィラデルフィアに工作隊員を送り込み、破壊に成功して退避するイントレピッド) |
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| 戦争:第一次バーバリ戦争 | |
| 年月日:1801年 - 1805年 | |
| 場所:マグリブ、地中海 | |
| 結果:アメリカの勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 指揮官 | |
| ハサン・ベイ ムラト・レイス |
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| 戦力 | |
| アメリカ *軍船 7隻 キリスト教徒傭兵 アラブ傭兵 スウェーデン *フリゲート 3隻 |
4,000 |
| 損害 | |
| アメリカ *戦死 35 *負傷 64 傭兵 *死傷 不明 |
戦死 800 負傷 1,200 (これ以外に船員の損害あり) |
第一次バーバリ戦争(First Barbary War、1801年-1805年)は、アメリカ合衆国と地中海の北アフリカ沿岸のバーバリ諸国と呼ばれたオスマン帝国から任命されたパシャが統治する独立採算州の一つであるトリポリとの間で行われた戦争。このため、トリポリ戦争の別名がある。
なお、この戦争はアメリカ合衆国が独立して最初に経験する宣戦布告の手続きがされた正式な対外戦争となった。
目次 |
[編集] 背景
この頃の地中海沿岸の北アフリカは、オスマン帝国の独立採算州として準独立地域の状態にあって、バーバリ諸国と呼ばれており、主にトリポリ、チュニス、アルジェの三つの地域からなっていて、それぞれにオスマン帝国本国からパシャが任命されて統治していた。
バーバリ諸国は、自前の武装組織としてバルバロス・ハイレディンらを輩出したバルバリア海賊を擁しており、その武力を背景にオスマン帝国の保護下で地中海を通過する商船の船籍国から通行料と称する上納金を徴収した外、商船を襲って得たキリスト教徒の捕虜を人質にし、その国籍国と交渉して身代金を得ていた。
また、イギリス、フランス、オランダ等の強力な海軍を擁する国家は、強力な護衛艦隊を随伴させて通行料を納めなかったものの、互いにバルバリア海賊へ資金提供して互いの商船を襲わせるという状況であった。
なお、1783年に独立を達成したアメリカ合衆国は、豊富な森林資源による造船コストの安さにより、独立前から海運業が発達していた。独立前は宗主国であったイギリスの商船旗を掲げることでバルバリア海賊の襲撃を免れていたものの、独立達成後は独立直後の財政難によりバーバリ諸国のパシャ達が要求する金額の通行料が支払えずにその直後からバルバリア海賊の襲撃目標になり、襲われ続けていた。
[編集] 経過
[編集] 交渉
アメリカ合衆国が通行料を要求どおり支払わないため、バーバリ諸国と呼ばれたトリポリ、チュニス、アルジェのパシャ達は、アメリカ合衆国に対し、これまで滞納していた通行料の一括払いと年間の通行料の速やかな支払いを公式に連名で要求してきた。しかし、独立直後の財政難にあえいでいたアメリカ合衆国にとってその額は莫大なものであり、国庫の資金だけで到底支払えるものでなく、実質的な海賊の懐に資金が流れるのを良しとしないアメリカ合衆国の海運業者はこれに協力しようとしなかった。
このような経過で要求額には満たないものの、アメリカ合衆国は集められるだけの資金をウィリアム・ベインブリッジに持たせて通行料を値切るための交渉に向かわせた。しかし、バーバリ諸国のパシャ達は納得しなかった。なお、このときベインブリッジは、最初に寄港したオスマン帝国の首都であるイスタンブルでトリポリへ行くよう指示され、トリポリ入港にあたってオスマン帝国の国旗を掲げて入港させられるという屈辱を味わっている。
この反応に危機的なものを感じ取ったアメリカ合衆国は、艦隊を組織して地中海に派遣した。
この間も地中海を通過するアメリカ合衆国船籍の商船はバーバリ諸国の配下にあったバルバリア海賊に襲われ続け、抑留された捕虜に対するアメリカ合衆国からの身代金の支払いも滞ると見るや、違約金代わりにキリスト教徒の捕虜を奴隷として転売する姿勢を見せ始めた。
[編集] 開戦
1801年5月14日、トリポリのパシャであったユサフ・カラマンリが在トリポリアメリカ合衆国領事館の星条旗を旗竿から切り落とすという暴挙に出たため、国旗に対する公式な侮辱であると受け取ったアメリカ合衆国との間で緊張状態になった。
このような中、6月1日、アメリカ海軍のリチャード・デイル率いるプレジデント、フィラデルフィア、エセックス及びエンタープライズからなる、先述の艦隊がジブラルタルに到着している。
6月14日、トリポリ側がアメリカ合衆国に対して開戦を通知したため、正式に戦争状態に突入した。
このとき、派遣されたアメリカ海軍の艦隊は、トリポリ側が約25000名の兵員と24隻の戦闘艦を擁していることから正面攻撃を行うわけにもいかず、遠巻きにトリポリに対する海上封鎖を行い、地中海を通過するアメリカ合衆国船籍の商船の護衛を行っている。
それでも8月1日、アメリカ海軍のエンタープライズとトリポリ側のボラクルとの間で最初の戦闘が発生しており、このときは、アメリカ海軍が一方的に攻撃してトリポリ側のボラクルを戦闘不能に陥れ、武装解除の上で解放している。
[編集] トリポリ港の戦い
詳細は「トリポリ港の戦い」を参照
[編集] 作戦方針の転換
海上封鎖によってトリポリ側の根拠地の制圧を試みたトリポリ港の戦いでの作戦行動は、艦艇の絶対数が足りず、トリポリ側の要塞砲とトリポリ沖の浅瀬に阻まれて徹底した攻撃ができなかったため、フリゲートを失うなどの損害の割には、成果の少ないものになっていた。
また、以前からトリポリ側の支配者階級における不和に目をつけていた、前在チュニスアメリカ合衆国領事でアメリカ陸軍のウィリアム・イートン将軍は、より直接的な解決のため、艦隊に同行していたアメリカ海兵隊の分遣隊を陸路で派遣してトリポリ側の根拠地を占領する外、前のパシャで弟のユサフ・カラマンリに地位を乗っ取られ、エジプトに亡命していたハメット・カラマンリを担ぎ出し、政権転覆を画策する作戦を提案している。
このときイートン将軍は、100名程度のアメリカ海兵隊の派遣を派遣艦隊の司令官であったサミュエル・バロンに要求したが、7名しか派遣が認められなかった。
[編集] ダーネの戦い
詳細は「ダーネの戦い」を参照
[編集] 終結
ダーネの戦いにおいてアメリカ軍が勝利した結果、アメリカ軍がトリポリ側の最大の根拠地であるトリポリに迫る勢いとなったため、トリポリのパシャであるユサフ・カラマンリは今までの強硬的な姿勢を軟化させ、トリポリ港の戦いで拿捕されたフリゲートの乗組員の身代金60000ドルと引き換えに「今後、アメリカ合衆国の船舶に対して通行料を課すことなく安全な航海を保証する」というアメリカ合衆国の要求を承諾したため、1805年6月10日、講和条約が締結され、第一次バーバリ戦争は終結した。
[編集] 影響
トリポリがオスマン帝国における独立採算州として準独立地域の扱いを受けていたことから、オスマン帝国本国がこの戦争に介入しなかったため、アメリカ合衆国とオスマン帝国による全面戦争に発展することはなかった。
しかし、今までヨーロッパ諸国に地中海における手のつけられない存在として恐れられていた、バーバリ諸国の支配下にあったバルバリア海賊が敗れたことは、バーバリ諸国に通行料を上納していたヨーロッパ諸国に大きな衝撃を与え、その後のアメリカ合衆国の北アフリカ、中東のイスラム諸国に対する外交方針に大きな影響を与えている。
また、アメリカ海兵隊では、ダーネの戦いが初めての海外派遣での本格的な戦いであったこともあり、戦場で直接指揮を執り、決定的な戦力差を覆して勝利をおさめ、アメリカ合衆国の歴史において海外の占領地に初めて星条旗を翻したプレスリー・オバノンの指揮官としての功績とともに、海兵隊讃歌の歌詞「To the shores of Tripoli」に反映され、今日に伝えられている。
なお、1815年には、この戦争の講和条約がトリポリ単体と締結されたと見なして海賊行為を継続したバーバリ諸国の一つであるアルジェとの間で第二次バーバリ戦争が発生している。
[編集] 関連項目
- 歴史関連
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- バーバリ戦争 - 第二次バーバリ戦争
- 第一次バーバリ戦争の主な戦い
- アメリカ海兵隊関連
最終更新 2009年3月21日 (土) 07:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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