第七高等学校造士館 (旧制)

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第七高等学校造士館
(七高)
創立 1901年
所在地 鹿児島市
初代校長 岩崎行親
廃止 1950年
後身校 鹿児島大学
同窓会

旧制第七高等学校 造士館(きゅうせいだいしちこうとうがっこう ぞうしかん)は、1901年明治34年)4月鹿児島市に設立された官立旧制高等学校。略称は「七高」(しちこう)。

この項目は、前身校に関する記事も含む。

目次

[編集] 概要

  • 名称上は、1773年に薩摩藩主島津重豪によって設立された藩校造士館より館号を受け継いだ「中学造士館」の流れを汲むが、生徒移籍などの「実体」においては、「中学造士館」から鹿児島県立第一中学校「分校」(のちの二中)へ受け継がれた(『鹿児島県教育史 下巻』)。旧制高校の中では、校名に旧藩校の名を持つ唯一の高校である。なお、鹿児島県史料編纂委員の山田尚二は著書『鹿児島県の中等教育の変遷 -中学造士館を中心に-』の13ページにて、「七高に藩校名がついたことを、全国高校で唯一といってみても、藩校は元来、中等教育機関だったから例外にしかならない」と述べている。
  • 二高医学部が仙台藩藩校・養賢堂の流れを汲むため、七高が「旧制高校の中で唯一藩校の流れを汲む」わけではない。
  • 本校は、岡山六高に続き設立されたナンバースクールの旧制高校で、その前身は1887年設立の官立高等中学校「鹿児島高等中学造士館」であるが、この学校はその後、国の管理を解かれ、本科生は第五高等学校などに転校、前述の如く予科生と予科補充科生は県尋常中学造士館へ移籍、中学造士館はのちに新規設立の第一中学校分校となり、同時に本校が設立され、館号を継承したために再興とみなされた。
  • 文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された。
  • 寄宿舎として「国士寮」が設置された。
  • 学制改革に際して新制鹿児島大学の前身校の一つとなり文理学部の構成母体となった。

[編集] 沿革

前身諸校
鹿児島高等中学時代
七高時代
  • 1901年7月:第七高等学校造士館として再興。
  • 1945年6月:米軍の鹿児島大空襲により校舎全焼。
  • 1945年8月:長崎への原爆投下により同市内の三菱兵器工場に動員されていた七高生多数が被爆し14名死亡。
  • 1946年3月:第七高等学校に改称。
  • 1949年5月:新制鹿児島大学に包括され鹿児島大学第七高等学校と改称。
  • 1950年3月:廃校。

[編集] 歴代校長

鹿児島高等中学造士館
第七高等学校造士館・第七高等学校
  • 初代:岩崎行親(1902年 - 1912年9月)
    • 就任以前:校長心得(1901年4月 - 1902年5月)
  • 第2代:小西重直1912年9月 - 1914年4月)
  • 第3代:吉田賢龍(1914年3月 - 1920年4月)
  • 第4代:渡辺董之介(1920年4月 - 1925年4月)
  • 第5代:由比 質(1925年4月 - 1930年4月死去)
  • 第6代:葉山万次郎(1930年4月 - 1933年9月)
  • 第7代:堀重里(1933年9月 - 1937年8月)
  • 第8代:岡田恒輔(1937年8月 - 1943年4月)
  • 第9代:浅野孝之(1943年4月 - 1947年9月)
  • 第10代:緒形健三郎(1947年9月 - 1950年3月)

[編集] 校地の変遷と継承

  • 鶴丸城址に置かれた七高校地は、設立から新制鹿児島大学への移行に至るまで基本的には維持されたが、1945年6月の空襲による校舎の全焼後、同年11月に鹿児島県出水郡高尾野町の出水海軍第二航空隊の旧施設に一時移転し、1947年9月に旧校地に復帰した。
  • 七高校地は新制鹿児島大学への包括にともない文理学部校地として継承されたが1953 - 58年に市内郡元地区に統合移転した後は、同大学医学部の校地として使用された(1957 - 74年)。
  • 現在、鶴丸城址の旧校地には鹿児島県歴史資料センター黎明館1983年開館)・県立図書館1980年開館)が建てられており、黎明館内には旧制七高関連のコーナーが設けられている。また敷地内には「七高久遠の像」および寮歌「『北辰斜に』の碑」が建立されている。疎開先の出水海軍航空隊跡は高尾野町立下水流小学校校地となっており、同校校門横には「七高記念碑」が建立されている。
  • 国の重要文化財に指定されている「異人館」は、もともと磯地区に建てられていた鹿児島紡績所技師館が1882年に鶴丸城址内に移築され、七高本館として長く使用されていたもので、1936年に再び磯地区に移築され、戦災による破壊も免れ現在に至っている(内部の一般公開は耐震強度の関係で現在中止されている)。

[編集] 校史トピックス

[編集] 前身校と設立の事情

七高造士館の前身である鹿児島高等中学造士館は、1886 - 87年に全国で設立された7校の高等中学校のうちの最後の学校(旧制高等学校におけるナンバースクールの最後は1908年設立の第八高等学校;現名古屋大学)で、山口と同じくナンバースクールでない例外的存在であった。この学校の設立の背景には、旧藩主家である島津家(校名中に「造士館」の称を留めることを強く希望した)や同郷出身の人材を優先的に育成したいという薩摩閥政治家の意向があったといわれ、初代校長には旧藩主(忠義)の弟・島津珍彦が就任した。七高設立においては新潟長野との間の新設高校争奪戦を横からさらう形で鹿児島での設置が実現しており、設立時には島津家当主の忠重から多額の寄附がなされた。

[編集] 変則的な入試

七高は九州最南端に位置し、かつ近隣の熊本五高が所在しているということから、入学希望者を集めるのに苦労した時期があった。これを解消するため1908年から3年間の入試は、東京においても実施し、かつ試験日を他の高校より1ヶ月半早くするという措置が認められ競争率が急上昇した。一高受験に失敗していた石黒忠篤はこの時に入学した。

[編集] 出身者

[編集] 政官界

[編集] 経済界

[編集] 法曹界

[編集] 文化

[編集] 関連項目

[編集] 関連書籍

尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照
「主要高等教育機関一覧」参照

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年8月20日 (木) 00:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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