第二次上海事変

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第二次上海事変
A National Revolutionary Army machine gun nest in Shanghai
中華民国国民革命軍の機関銃陣地
戦争日中戦争 / 支那事変
年月日1937年8月13日 - 10月26日
場所中国上海
結果:日本軍の勝利、南京攻略戦
交戦勢力
中国国民革命軍 第三艦隊
上海海軍特別陸戦隊
上海派遣軍
第10軍
指揮官
張治中
蒋介石
陳誠
ファルケンハウゼン(作戦指導)
長谷川清海軍大将
松井石根陸軍大将
柳川平助陸軍中将
戦力
約600,000名、
航空機200機
約250,000名、
航空機500機、
戦車300両、
軍艦130隻
損害
200,000 70,000
上海派遣軍の上陸から戦闘終結までの戦闘経過を示した図[1]

第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦である。

盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に拡大し、中国全土に日中戦争が波及した。1932年(昭和7年)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。

目次

[編集] 発生の背景

発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を挙げる。見解1は、中華民国総統の蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。

[編集] 見解1

この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は現時点では満州における領土回復は後回しと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦略があった。このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており、これは国共内戦を戦う蒋介石にとっては国民の支持を得続けるためにも容認できない事態であった(←第二次上海事変時においては、西安事件が起きた後であり、国共合作は事実上成立している)。

この戦略の基礎となったのが1930年代における中独合作である。1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して盧溝橋事件以前から築かれていた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。

この作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。第一次世界大戦で得られた軍事的経験に従えばこれはあまり冒険的でない作戦計画であり、だからこそ蒋介石も採用したと思われる。

[編集] 見解2

前月7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まるかにみえたが、その後も中国各地で日本(軍)への抗日・排日・反日行為は続いた。直後の7月10日蒋介石は蘆山会議を経て、徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた[2]。7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している[3]。アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている[4]。一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している[5]。しかし、8月12日未明には中国正規軍が上海まで前進し、国際共同租界の日本人区域を包囲した。翌8月13日には商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による射撃を開始[6](2009年4月11日 (土) 09:58時点における版の編集をする場合には出典要)、小規模な戦闘が勃発した。さらに中国軍は空襲を加え、8月14日には上海地区の警備司令官である張治中が率いる中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃。日本政府は国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから、それまで日本が取っていた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した[7]。このように中国政府軍による上海攻撃の結果、日中両軍は全面戦争に突入した。この背景には、共産軍解散を目論んでいた蒋介石は先の西安事件によって捕らえられ方針を変えざるを得なくなったことがあった。蒋はソ連と不可侵条約を結び8月21日)、共産党と妥協して統一戦線を作った(9月22日世に言う第二次国共合作)。

国民政府軍の精鋭部隊は上海から南京に続く約4ヶ月の戦闘で殆ど壊滅状態になり、政府軍はその後の共産党との内戦にも敗れることになった。


[編集] 大山事件発生前の上海の状況

1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。上海では1932年(昭和10年)ごろから中国軍と日本軍の関係はかなり険悪であった。7月24日夜、宮崎貞夫一等水兵が中国人に拉致されたと在留邦人から報告されると日本側の対応は早く、上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始したが、これに対し中国保安隊は日本側に対抗するように要所ごとに土のうを積上げ、鉄条網を張り巡らすなどした[8]。上海市長である兪鴻鈞が直ちに岡本季正上海総領事に連絡を取った。このため、上海市民は第1次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難する市民まであった。

日本側はこの事件に即応したが、宮崎の逃亡の可能性を疑い、7月25日の午前4時には警戒配備を終了し、中国側も防備を撤収している[8]。後に、宮崎は買春行為として軍紀違反の発覚を恐れて逃亡しただけであったという真相が明らかになった。

[編集] 大山事件

大山事件の現場

1937年8月9日夕刻に起こった、上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が殺害された事件である。中国側から「虹橋空港事件」と呼ばれる。

この日も日本と中華民国の間で盧溝橋事件以来続いていた、日華間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれていた。事件は、8月9日の午後6時半頃[9]、大山中尉が斎藤要蔵一等水兵を運転手として、当時の虹橋空港の辺、上海共同租界のエクステンション(国際的な自由通行路)であったモニュメントロード(日本側呼称「記念通り」、中国側呼称「碑坊路」)において、中国保安隊(平和維持部隊)の隊員との間で起きている。

[編集] 日本側の報道

日本海軍特別陸戦隊午後九時四十五分発表を報道した『上海朝日特電8月9日発』では次の様に書かれている。

陸戦隊第一中隊長海軍中尉大山勇夫は一等水兵斉藤要蔵の運転せる自動車により本日午後五時頃上海共同租界越界路のモニュメント路(碑坊路)通行中、道路上にて多数の保安隊に包囲せられ次いで機銃小銃等の射撃を受け無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。現場を検視するに頭部腹部には蜂の巣の如くに弾痕があり、自動車は前硝子が破壊せられ車体は数十発の機銃弾痕あり無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。
右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防禦施設を構築し、夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査すねなどは明かなる停戦協定無視なるのみならず、共同租界居住各国人に対する侮辱である、支那側の無法なる抗日の公然たる挑戦行為である。なお同自動車の運転員一等水兵斉藤要蔵は座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。
帝国海軍陸戦隊は厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に厳正なる態度を以て徹底的解決を期せんとす。なお同中尉は軍服であったことを付記する。

1937年8月11日の『東京朝日新聞』では、前日の日中合同調査(後述)を受けた海軍省からの発表を元に、中国側から銃撃を受けたこと、大山中尉は武器を所持していなかったこと、中国側に停戦協定違反があったことなどが報じられた。

[編集] 中国側の報道

『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。

8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。

[編集] 「マオ 誰も知らなかった毛沢東」

作家ユン・チアンとイギリス人歴史学者ジョン・ハリデイの夫婦による毛沢東の伝記にも以下の資料がある。

8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本軍海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である[10]

[編集] 事件後の動き

この事件によって大山中尉、斎藤水兵および中国保安隊員1名が死亡した。この事件の報告を受け、兪上海市長は岡本上海総領事に、周珏外交部秘書は日本海軍武官本田に問い合わせをした。日本側は日本軍将兵が虹橋飛行場に行くはずがないと主張した。なお、事件発生直後、日本人武官が現場に赴き、保安隊中国人の死体がないことを確認しているため、その死体は後で運んだことや事件現場も飛行場から300メートルの地点であることから飛行場に向う意志のなかったことも明らかであった[11]

8月10日に日中共同の公式調査が行われた。日本上海領事および駐在武官・上海特別陸戦隊参謀・上海市政府秘書長・警備部司令部副官・上海工部局局員(英国人)等が参加した。中国側の直接関係者(射撃を行った保安部隊)に関した調査は出来なかった。その結果次のことが判明した[12]

  • 大山、斉藤の両名は機銃弾がその頭部を貫通したことが致命的であること、大山は全身に30発以上の銃弾が打ち込まれていたこと、その他の弾痕を含む外傷は中国側が苛虐的に加えたものであること
  • 死亡した中国保安隊員の死亡は機銃弾によるもので背中から2発を打ち込まれて即死していたこと、及び当時大山は拳銃を携帯せず、斉藤も拳銃を肩に掛けながら陸戦隊自動車を運転していたことから中国人同士撃ちであることがはっきりした
  • これらのことから中国側が主張した日本側から先に発砲した事実はなく、中国側が射撃を行い、両名の死体を侮辱する行為をおこなったことが明らかであること

なお中国側は使用が禁止されていたダムダム弾を使用し、この死体検死についても中国側は承認した[13]。 この間、中国側の主張は二転三転したが、日本側は車体の弾痕が遠距離・近距離入り乱れていることなどからも、保安隊が待ち伏せをし奇襲を行ったと断定した。また、大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、死体に対し頭部・腹部などに刃物・鈍器により損傷を与えたと検分された。また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたと日本の新聞は報じた。

同日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の要請により出席することになった。この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。[要出典]英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないよう日中両国に希望することで決議をなし、上海市長へも伝達するとした。

同日、閣議で海軍側より陸軍に派兵要請を行い、4相会議で派兵が決定したが、これを受け、海軍の長谷川清中将は国際租界内の海軍司令部に対し、平静を保つように命令した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令はだされなかった。

8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、「自分は無力で何もできない」と通報した。危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。

8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、国際共同租界の日本人区域を包囲した。このため、日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求した。しかし上海市長は中国は既に侵略をうけているとの声明を発表し、最後に喩市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれ位だと断言した。一方日本は上海近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとした。

中国の市民は、市街への中国軍の駐留を熱狂的に歓迎した。[要出典]

[編集] 戦闘の開始

8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地に対し機関銃による射撃を突然開始している[14]。日本の陸戦隊は応戦したが不拡大方針に基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い[14]、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定した[15]ほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった[16]。列強各国の調停の申し出を期待したためである。

午後4時54分には、八字橋[17]方面の中国軍が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。午後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された[14]

この日には英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。

  1. 中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
  2. 日本軍は国際租界から撤退する。
  3. 中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。

長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊司令)は、当初戦争回避を考えていたが、7月からの華北での戦火拡大から考えて、中国軍はすでに開戦を意図していると察した。そこで主戦論に切り替えて、5個師団の増援を日本政府に要求した。しかし政府は華北の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。

13日午後9時頃から中国保安隊が海軍上海特別陸戦隊を包囲し[要出典]攻撃を開始し小規模な戦闘に突入した。同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している[18]

8月14日には日本艦艇をねらった国民党軍機による空襲が開始された。この爆撃によって周辺のフランス租界や国際共同租界にも爆弾が落ち、民間人2000人ほどの死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明した。しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると報道したこともあった。現在でも爆撃の写真を日本軍の行為として紹介する場合もある。[要出典]一方、前日の渡洋爆撃命令を受けて、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃機を飛ばして、杭州広徳を爆撃している。九州から南京への渡洋爆撃も予定されていたが、九州の天候が悪かったため延期された[18]

同じく14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。

日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した[7]上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。日本海軍は、前日に延期された九州から南京への航空機による渡洋爆撃をこの日より開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、上海周辺の制空権を掌握していく。

8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。

しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。

8月21日中華民国ソビエト連邦の間で中ソ不可侵条約が締結された。

8月22日、上海派遣軍の3個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で、上陸に成功し、9月上旬までには上海陸戦隊本部前面から国民党軍を駆逐した。同時期に中国側は第二次国共合作を成立させ、日本側は華北で攻勢に出るなど、全面戦争の様相を呈した。

10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。10月26日に上海近郊の要衝大場Dachang)が陥落、国民党上海攻囲軍は以後南京への全面壊走に入った。

[編集] 海外メディアの報道

1937年8月30日ニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた。 またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じている。

[編集] 国民党軍機による上海空爆

中国軍主力戦闘機 カーチス・ホークII
国民党軍機から爆撃を受けたキャセイホテル前の惨状[19]

1937年8月14日の朝、3機の中国軍機が黄浦江にいた日本の第三艦隊の旗艦巡洋艦出雲上空を飛行し、爆弾6個を落とす。5個は川に落ち、巨大な水柱を起こし、1個の爆弾は、ジャーディン・マセソン社の倉庫に当たる。出雲ともう1隻の軍艦川内は高射砲の一斉射撃2回で援護しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を飛ばした。

同日午後4時、南からカーチス・ホークIIを主力とする中国軍爆撃機の中隊が飛来し、フランス租界と国際共同租界を横切って再び日本の軍艦への攻撃を開始、日本側は高射砲の射撃を続ける。10機の中国軍爆撃機が雲の内外を飛び回り、迎撃する2機の日本軍機は常に空中にいたが、射程距離に到達するには速度が遅く、目標に達するために旋回と出直しを繰り返す。

やがて1機の中国軍爆撃機から2つの爆弾がチベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線であるエドワード7世大通りと交差する場所に落とされる。直ちに巨大な炎が起こり、激しい爆発となり、450人の命を奪い、5人の外国人を含む850人を傷つけ、12台の自動車を破壊。さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷[20]

およそ1,000ポンドの重さだったと見られる爆弾が半径50メートルの範囲を壊滅させた。犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。遅延起爆型と思われるひとつの爆弾はその爆発力による周囲への損害は限定的ながらコンクリート、石敷、及び固めた地面の層を通して通りに幅3メートル、深さ2.4メートルのクレーターを造った。

中国軍爆撃機の攻撃は黄浦江の呉淞近くにいた英国巡洋艦カンバーランド(Cumberland)及び合衆国アジア艦隊旗艦である重巡洋艦オーガスタAugusta)の2隻にも向けられた。爆撃機2機の急降下はカンバーランド上空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に向けたため攻撃は失敗。中国軍機は悪天候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えたと判断し、どちらの艦からも発砲はなかった。

日本艦の対空砲火により中国軍機は爆撃には高すぎる場所にいることを強いられ、その爆弾を目標近くに落下させることができなかった。しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社の設備に当たり、一晩中燃え続ける火災を起こした。この日の戦闘において日本軍の艦載機と艦船の高射砲により中国軍機3機が落とされている[21]

この事件については租界に関係する各国が中国側に空爆の抗議を行った。翌15日夕刻には上海のフランス租界工部局はフランス租界上空に中国軍航空機が進入することを許さず、そのような場合には有効適切な処置を取ると発表し、16日にはフランス租界上空を通過した中国軍航空機に対してフランス駐屯軍は高射砲の一斉射撃を行った[22][23]

[編集] 漢奸狩り

詳細は「漢奸狩り」を参照

中国では日中戦争が本格化すると漢奸狩りと称して日本軍と通じる者あるいは日本軍に便宜を与える者と判断された自国民を銃殺あるいは斬首によって公開処刑することが日常化した[24]。上海南市においても毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに処刑され、その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた[25]。中国政府の国民対策であったこのテロの効果を求めた新聞の漢奸処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらした[26]

[編集] 督戦隊に監視される中国軍部隊

中国軍(国民革命軍)では督戦隊が戦場から退却する中国兵に銃撃を加えた[27]。このため日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には督戦隊との衝突が何度も起きた。特に10月13日午後楊行鎮方面呉淞クリーク南方に陣を構えていた第十九師(湖南軍)の第一線部隊と督戦隊は数度の激しい同士討ちを行った。これは戦場に到着した第十九師の部隊が直ちに日本軍との第一線を割り当てられ、そこにおいて日本軍の攻撃を受けて後退した際に後方にあった督戦隊と衝突したものである。日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している[28]。10月21日中国の軍法執行総監部は督戦隊の後方にさらに死刑の権限を持った督察官を派遣して前線将兵の取締りを行うとの発表を行っている[29]

[編集] 上海南市難民区

上海に住むフランス人のカトリック教会ジャッキーノ神父は南市の30万人余の中国人住民のため大規模な避難区域を計画し、これを日中双方に提示し了承された。南市難民区はフランス人3名、イギリス人1名、スウェーデン人1名から成る南市避難民救助国際委員会が設置され、区域内に武器を携帯する者が在住しないことを宣誓し、日本側は区域内の非戦闘性が持続する限り攻撃しないことを約束した[30]。この件は上海市長の受諾をもって1937年11月9日正午から正式に認められた[31]

[編集] 中国軍退却

日中戦争において中国側国民革命軍堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には掠奪と破壊が行われた。中国軍が退却する前には掠奪を行うことが常となっていたため掠奪の発生により実際は11月9日となった中国軍の退却が予測された[32]。中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の対象としていたが[33]、あるフランス将兵によると彼は中国の住民も掠奪されるばかりではなく、数が勝る住民側が掠奪する中国兵を殺害するという光景を何回も見ている[34]。中国側の敗残兵により上海フランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵に対処するためフランス租界の警官が銃撃戦を行うという事件も起きた[35]。上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされた[36]

[編集] 南京へ日本軍追撃

10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。又、平行追撃と同時に敗軍の追討のために南京を攻略する構えを見せた。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、最初南京進撃を中止するよう下令したが、のちに現地軍の方針を採用し南京攻略の独走を追認した。

ドイツの軍事顧問ファルケンハウゼンは、要塞線が突破された時点で南京から撤退すべきだと主張したが、蒋介石は南京での防衛戦にこだわったので、多くの兵力や市民が南京周辺で日本軍に包囲された。

これ以後の南京付近での戦闘は南京攻略戦を参照のこと。

[編集] 補足

  • 第二次上海事変の間、両国は互いに宣戦布告を行っていない。日本は米国からの資源輸入、中華民国も米国など中立国からの軍事援助を維持するために、それぞれ宣戦布告をするわけにはいかないという皮肉な事態があった。中華民国が日本に宣戦布告したのは、日本が米国および英国に宣戦布告した翌日の1941年12月9日であった。
  • また、国民党軍は日本軍に比べて弱体であったと思われがちだが、当時ドイツと国民党は中独合作と呼ばれる軍事協力を行っており、上海攻撃に参加した国民党軍はチェコやドイツ製の強力な機関銃などを装備していた。しかしながら補給や戦略予備の投入に関する関心は日本軍のそれよりも更に低く、各軍が連携出来ないまま突破・包囲されたと考えられる。
  • 第一次世界大戦の軍事的常識から言えば[要出典]、市街の守備が不可能になった時点で軍は撤退し、市長が敵軍に降伏交渉を行う。占領軍も市街攻略・防御には多大な犠牲が軍民に伴うためにこれを容認するのが普通である。
  • 1996年には上海事変時における中国人による日本人捕虜の虐待写真がCNNで紹介された[37]

[編集] 第二次上海事変を描いた作品

[編集] 脚注

  1. ^戦史叢書「支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで」P258/276より 作成
  2. ^ 『朝日新聞』 1937年7月11日付朝刊 2面
  3. ^ 『朝日新聞』 1937年7月17日付夕刊 1面
  4. ^ 『朝日新聞』 1937年7月17日付朝刊 3面
  5. ^ 『朝日新聞』 1937年8月5日付夕刊 1面
  6. ^ 『戦史叢書 中国方面海軍作戦(1)』 317頁
  7. ^ 『東京朝日新聞』1937年8月15日付朝刊、2面
  8. ^ 『戦史叢書 中国方面海軍作戦(1)』 273頁
  9. ^ 支那事変写真全集<中>(朝日新聞、昭和13年発行)
  10. ^ ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上)』土屋京子訳、講談社2005年、342頁
  11. ^ 『北支事変画報』第3集、毎日新聞社、昭和12年8月30日発行 4-5頁
  12. ^ 『戦史叢書 中国方面海軍作戦(1)』 309頁
  13. ^ 『大阪朝日新聞』 1937年8月11日付朝刊 1面
  14. ^ 『戦史叢書 中国方面海軍作戦(1)』 317頁
  15. ^ K・カール・カワカミ 2001, p.157
  16. ^ 日華事変の開戦原因内、朝日新聞8月14日付記事「13日午後0時15分から支那空軍秘蔵の単葉、双発のマーチン爆撃機は租界の上空に飛来700メートルの高度をとりつつ西方より虹口方面を示威飛翔中である。」
  17. ^ 八字橋は第一次上海事変の激戦地であり、戦略上、邦人居留民の生命財産保護のための要所であった。『北支事変画報』第3集、毎日新聞社、昭和12年8月30日発行
  18. ^ 笠原十九司『日中全面戦争と海軍――パナイ号事件の真相』(青木書店、1997年)
  19. ^ ノース・チャイナ・デイリー・ニュース、1937年8月15日
  20. ^ ロンドン・タイムズ紙、1937年8月16日、"1,000 DEAD IN SHANGHAI/DEVASTATION BY CHINESE BOMBS"
  21. ^ 支那事変実記 第1輯(読売新聞社、1941年)
  22. ^ 『東京朝日新聞』 1937年8月16日付号外 2面
  23. ^ 'French Protest and Warning', The Times August 16 1937, p.10
  24. ^ 『東京朝日新聞』 1937年10月29日付朝刊 2面
  25. ^ New York Times, August 30 1937 p. 3
  26. ^ 『読売新聞』 1937年8月29日付第二夕刊 1面
  27. ^ 林建良によると中国の督戦隊は人の命を軽視する中国人の性格に基づく特異なものと説明している(林建良 『日本よ、こんな中国とつきあえるか?』 並木書房 2006年 pp.99-102 ISBN 978-4890632015)
  28. ^ 『東京朝日新聞』 1937年10月15日付朝刊 2面
  29. ^ 『東京朝日新聞』 1937年10月22日付朝刊 2面
  30. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月3日付朝刊 3面
  31. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月9日付朝刊 2面
  32. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月8日付朝刊 2面
  33. ^ 『読売新聞』 1937年8月29日付第二夕刊 1面
  34. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月14日付夕刊 2面
  35. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月10日付夕刊 1面
  36. ^ 『東京朝日新聞』 1937年11月11日付夕刊 1面
  37. ^ Photos document brutality in Shanghai1996年9月23日CNN World News

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 参考文献

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月5日 (木) 17:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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