第二水俣病
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第二水俣病(だいにみなまたびょう)は、1965年に確認された四大公害病のひとつ。熊本県の水俣病と同様の症状が確認されたためにこの名がある。新潟県阿賀野川下流域で患者が発生した事から「新潟水俣病」や「阿賀野川有機水銀中毒」とも呼ばれる。四大公害では最も発生は遅かったが、訴訟は最も早く提起された。その後、未認定患者による第二次訴訟、2004年の水俣病関西訴訟最高裁判決を受けて2007年に提起された第三次訴訟と、主なものだけで3つの裁判が起こされている。
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[編集] 原因
昭和電工(→鹿瀬電工→新潟昭和)鹿瀬工場(新潟県東蒲原郡鹿瀬町、現・同郡阿賀町)でアセトアルデヒドを生産中に生成され、未処理のまま廃液として阿賀野川に排出されたメチル水銀が、川で獲れた魚介類の摂取を通じて人体に蓄積された事による有機水銀中毒。被害者の多くは阿賀野川下流の新潟市松浜(右岸)、津島屋(左岸)地域に多くみられた。
[編集] 経過
患者が起こした損害賠償請求訴訟において昭和電工側は「原因は新潟地震によって川に流出した農薬」と主張していた。1964年に発生した新潟地震により、水銀農薬を保管していた新潟港埠頭倉庫が浸水する被害を受け、そのとき農薬が流出したのではないかと疑われた。しかし当時、新潟県当局は被災した農薬の全量を把握しており、いずれも安全に処理されていたことを確認している。また、農薬として使用されていた水銀はほとんどがフェニル水銀であり、水銀中毒の原因物質となったメチル水銀ではない。また、農薬説は第一次訴訟までに被害を訴えていた患者が下流域にしかいなかったことを根拠としていたが、その後、より上流の地域にも患者が発生していたことが明らかになり、全くその主張の根拠を失った。
死亡患者の遺族の一人の法廷証言に「父は悶え、苦しみ……犬のように、猛獣のように狂い死にしました」とある。
第二水俣病は、熊本水俣病に対しての政府の責任回避ともいうべき対応によって引き起こされたといえる。政府は熊本水俣病が発生した時点で原因の究明を怠り、チッソ水俣工場と同様の生産を行っていた昭和電工鹿瀬工場の操業停止という措置をしなかったからである。熊本水俣病に対して的確な対応をしていたならば新潟水俣病は避けられたはずであるといわれる。また昭和電工は証拠隠滅のため都合の悪い資料をすべて破棄したと見られ、事件の全容解明はほぼ不可能とみられる。(発病の詳細なメカニズムは水俣病を参照の事)
国は、熊本の水俣病と同様、患者の認定基準に厳格さを貫き続けている。
新潟県は国の基準では認定されない患者も救済する方向で条例制定を目指している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 高校社会科教育研究会「1960年の記録 21世紀を原点から考える」より「新潟水俣病」
- 環境と人間のふれあい館
- 新潟水俣病のあらまし(新潟県)
- 水俣病《新潟水俣学の模索》 Webサイト「生活環境化学の部屋」
最終更新 2009年9月8日 (火) 16:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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