第1回十字軍

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中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃

第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 - 1099年)は、1095年ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。

十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。そして、エルサレム王国など「十字軍国家」と呼ばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における一大ターニングポイントとなった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。

目次

[編集] 歴史的背景

十字軍運動を理解するためには、まず中世初期の西欧の状況を理解する必要がある。カロリング朝の分裂後、ヴァイキングマジャル人がキリスト教化されたことで、西ヨーロッパのローマ・カトリック教圏はようやくの安定をみた。ところが争いがなくなると、今度は戦闘によって生計を立てていた人々が手持ち無沙汰になり、互いに私闘を繰り返したり、農民の生活を脅かすようになった。またこの時期に、ヨーロッパは寒冷な気候から温暖な気候に変化し(中世の温暖期)、11世紀半ば以降には農業生産力の増加、出生数の増加などが見られる未曾有の豊かな時代に入りつつあった。富や民衆のエネルギーの拡大は、商人階級の増加や下克上、盛期ロマネスク建築の大聖堂や新都市の建設、辺境への移住と開墾、聖遺物信仰や聖遺物収集熱の拡大、サンチャゴ・デ・コンポステラエルサレムへの巡礼などへとあふれ出した。

やがて、このエネルギーが非キリスト教徒に向けられることになる。イベリア半島で行われていたレコンキスタはその代表的な動きである。手持ち無沙汰だった騎士や傭兵たちは、イスラム教徒との戦闘という共通の目的を見出した。ノルマン人とイスラム教徒がシチリア島の支配をめぐって争い、ピサジェノヴァアラゴンといった国々はマヨルカ島サルデーニャ島でイスラム教徒と争い、イタリアやイベリア半島の沿岸地域からイスラム教徒を駆逐した。

このように、十字軍運動が始まるはるか前から、西欧諸国とイスラム教徒の戦いはすでに始まっていたのである。地中海におけるイスラム教徒との争いの中で、カトリック信者の中に、キリスト自身が歩いた聖地エルサレムの奪回という新たな目標が芽生え始めていた。1074年、教皇グレゴリウス7世は「キリストの騎士たち」に向かい、イスラム教徒の猛威に脅かされていた東ローマ帝国への支援を訴えた。東ローマ帝国救援という呼びかけ自体は西欧の人々を動かすことはなかったが、11世紀に入ってキリスト教徒の間でエルサレムへの巡礼が流行していたこともあいまって、西欧の人々ははるか東方へ目を向けるようになった。

このような流れの中で、教皇ウルバヌス2世が訴えたエルサレム奪回という目標は、軍人に限らず西欧諸国の広汎な人々の熱狂を呼び起こすこととなった。数百年来、鬱屈していた軍事的エネルギーが、宗教的情熱と結びついて燃え上がったのである。

[編集] 11世紀後半の中近東情勢

西欧諸国とイスラム諸国の間には東ローマ帝国が存在していた。東ローマ帝国はキリスト教国ではあったが、正教という別の教派に属し、カトリック教会と北地中海沿岸の旧ローマ帝国支配域を大きく二分していた。皇帝アレクシオス1世コムネノスの下で、帝国は西にヨーロッパと隣接し、東にイスラム教国家と接していた。さらに北からはノルマン人の圧迫も受けていた。アレクシオス1世はイスラム教徒に奪われた古来からの領土である小アジア(アナトリア半島)の奪還を悲願としていた。

当時のイスラム諸国はそれほど緊密に連携していなかったことが第1回十字軍の行動を容易にすることになる。アナトリア半島とシリアは、中央アジアイラン高原からメソポタミア地方にかけてを本拠地とし、スンニ派を信奉するセルジューク朝によって治められていた。セルジューク朝もかつては大帝国であったが、この時代は小国家のゆるやかな連合体になっていた。かつてセルジューク朝を統合して最盛期を現出したスルタンアルプ・アルスラーン1071年に東ローマ帝国軍を破ってアナトリア半島を支配下におさめたが、1092年に次代スルタンのマリク・シャーが亡くなると、セルジューク朝は内紛続きで事実上の分裂状態になっており、セルジューク系の各地方君主たちは互いに疑心暗鬼となり相手の隙につけこんでは戦う有様だった。アナトリア方面はセルジューク朝の本家ではなく、分家のルーム・セルジューク朝の統治下にあり、シリアを統治するセルジューク朝分家のシリア・セルジューク朝は跡を継いだ兄弟の間で深刻な分裂状態にあった。

名義上はセルジューク朝の版図の一地方でありながら、実質的にセルジューク家の一族によってばらばらに支配されていたのが北部メソポタミアとパレスティナ地方であった。一方、パレスティナの一部はエジプトを主な領土とするシーア派のファーティマ朝が統治していた。ファーティマ朝は台頭してきたセルジューク朝にシリアとパレスチナを奪われて以来争いを繰り返しており、中近東情勢に詳しくファーティマ朝とも対セルジュークの件で緊密な連絡を取っていたアレクシオス皇帝は、十字軍にエルサレム攻撃にあたってファーティマ朝と手を組むよう勧めていた。

ムスタアリー(Al-Musta'li)に率いられていたファーティマ朝はセルジューク朝によって1076年にエルサレムを奪い取られ、十字軍到来寸前の1098年にようやく取り戻したばかりであった。ファーティマ朝の宮廷ではエルサレム占領を目指すという十字軍の意図に気づかず、エルサレムに到着する寸前までセルジューク朝そのものを攻撃に来るものとばかり考えていた。

[編集] 十字軍運動への歴史的経緯

[編集] クレルモン教会会議

1095年3月、アレクシオス1世はピアチェンツァの教会会議に特使を派遣、時の教皇ウルバヌス2世に対セルジューク朝戦への援助を求めた。ウルバヌス2世はこれを快く受け入れた。カトリック教会の側ではつねに正教会が自らへ帰属する形としての和解を望んでおり、教皇は今こそ正教会との不幸な決裂を乗り越え、ローマ教皇の下に統一される形での教会再合同の好機がおとずれたと考えた。ウルバヌス2世は1095年の春から夏にかけ、半年以上にわたりフランス中南部を遊説し、東方への軍団派遣の構想を練ってゆく。

1095年11月にフランスのクレルモンで行われた教会会議で、教皇は重大発表を行うと宣言した。発表の日、居合わせたフランスの貴族たちと聖職者に向かって教皇は、イスラム教徒の手から聖地エルサレムの管理権を奪回しようと訴えた。彼は、人口が増えすぎたフランス人にとって聖地こそがまさに「乳と蜜の流れる土地」であると訴え、この行動に参加するものには地上において天において報いが与えられること、もし軍事行動の中で命を落としても免償が与えられることを告げた。この呼びかけに居合わせた群集の熱気は高まり、「神のみむねのままに!」という叫びがこだました。

ウルバヌス2世の十字軍勧誘説教は、ヨーロッパの歴史に残る名演説の一つであるといわれるが、第1回十字軍の成功後に記録が書かれたため、実際にどんなことを教皇が言ったのか、現代では知ることが難しい。ただ一つ間違いないことは、教皇の訴えが群集の熱狂を引き起こし、教皇の意図を上回る規模の反響が起こったということである。教皇は1095年から1096年にかけて、フランス、イタリア、ドイツといった各地の司教に同じような内容の呼びかけを行わせた。

その際、この行動には女性、修道士、病気の者は参加することができないと付け加えていたが、すでに人々の熱狂が高まりすぎて聞き入れられなかった。この呼びかけを聞いて熱狂したのは、騎士階級の人々よりも農民や庶民が多かった。彼らはエルサレムへ赴くだけの経済的余裕も戦闘技術もなかったが、宗教的情熱に身を焦がし、日常の抑圧から逃れたいと考えていたため、そんなことは問題ではなかった。教会の指導者や領主たちがどれだけ厳しく禁じても、情熱的な庶民たちが聖地へ向かうことは止めることができなかった。

[編集] 民衆十字軍

ウルバヌス2世の考えた十字軍計画では、軍隊の出発は聖母被昇天の祝日である1096年8月15日を期していた。しかしそれより数ヶ月前に教皇の計画に入っていなかったグループ、すなわち農民たちや貧しい下級騎士たちが、勝手に集まってエルサレム目指して出発してしまっていた。彼らはアミアンのピエールなる自称修道士、隠者ピエールを指導者と仰いで聖地を目指した。大した人数は集まるまいという大方の予想を裏切り、このグループは10万人という規模に膨れ上がっていた。しかし、その多くは戦闘技術など全く知らない人々であり、子供も多く含まれていた。これを「民衆十字軍」という。十字軍とはいっても、彼らの多くは別に戦闘を望んでいたわけではなく、巡礼というくらいの気持ちで参加していたのが実情であった。

民衆十字軍は人数のみ多く、全く統制がとれていなかった。さらに(東欧出身の人々が多かったと推測されているが)参加者は独自の生活習慣に従っていたため、聖地にたどり着く前のヨーロッパの国を移動している時点でトラブルが頻発した。彼らはたどりついた町々で食料や水、各種の物資を得ようとした。無料ではなくとも、低価格で必需品を購入できるものと考えていた。しかし、突如現れた民衆の群れに、町の人々がいつも温かな対応を見せるとは限らなかった。これが原因となって民衆十字軍と滞在先の人々はしばしば諍いを起こした。

ドナウ川に沿って南を目指した民衆十字軍の一行だったが、一部のものがハンガリー領内で略奪行動を行ったため、ハンガリー兵の攻撃を受けた。同じことがブルガリアや東ローマ帝国領内でも繰り返された。これによって参加者の1/4にものぼる人々が殺害された。生き残った人々は8月にコンスタンティノープルにたどりついた。しかし、人々が感慨にふけっていられたのもわずかの間だった。突如あらわれた大人数の外国人集団に、コンスタンティノープルの市民との間の緊張が高まったからである。当時、コンスタンティノープルにはフランスやイタリアからの正規の軍団も集結しつつあったため、皇帝アレクシオスは厄払いとばかりに民衆十字軍の一行を首都から追い出して小アジアへ送り出した。

小アジアを移動している間に、民衆十字軍は仲間割れを起こして小グループに分裂した。民衆十字軍は間もなくルーム・セルジューク朝領内に入って、ギリシア人の農村を略奪しながら首都ニカイアを目指したが、クルチ・アルスラーン1世率いるルーム・セルジューク朝軍精鋭のテュルク系騎兵部隊の包囲と攻撃を受けて、飢えと乾きに苦しみなすすべもなくほとんどが殺害され、女は奴隷として売られた。隠者ピエールは生き残ってヨーロッパに戻り、第1回十字軍の本隊に参加している。

[編集] 反ユダヤ主義との結びつき

十字軍運動の盛り上がりは、反ユダヤ主義の高まりという側面をもたらすことにもなった。ヨーロッパでは古代以来、反ユダヤ人感情が存在していたが、十字軍運動が起こった時期に初めてユダヤ人共同体に対する組織的な暴力行為が行われた。1096年の夏、ゴットシャルク、フォルクマーなどといった説教師に率いられた1万人のドイツ人たちは、ライン川周辺のヴォルムスマインツでユダヤ人の虐殺を行った。この事件を「最初のホロコースト」という者もある。

十字軍運動に参加した人々の中のある者は言葉たくみに、ユダヤ人とイスラム教徒はみなキリストの敵であるといい、敵はキリスト教に改宗させるか、剣を取って戦うかしなければならないと訴えた。聴衆にとって「戦う」というのは、相手を死に至らしめることと同義であった。キリスト教徒対異教徒という構図が出来上がると、一部の人々の目に身近な異教徒であるユダヤ人の存在が映った。なぜ異教徒を倒すためにわざわざ遠方に赴かなければならないのか、ここに異教徒がいるではないか、しかもキリストを十字架につけたユダヤ人たちが、というのが彼らの考えであった。

ユダヤ人を求めてドイツ人たちはライン川をさかのぼり、大きなユダヤ人共同体のあったケルンを目指した。そこでユダヤ人たちにキリスト教に改宗するか、ユダヤ教徒のまま死ぬかの二者択一を迫った。ユダヤ人の多くは改宗の屈辱よりは誇りある死を選んだ。虐殺のニュースはすぐに各地のユダヤ人共同体に伝わった。狂気の群集がユダヤ人共同体に近づくと、恐怖のあまり自ら死を選ぶものもあった。

[編集] 諸侯による十字軍活動

十字軍運動の盛り上がりの中で、民衆十字軍が壊滅し、ユダヤ人への迫害が行われたが、その後に続いたのは1096年にヨーロッパを出発した貴族や諸侯たちによる軍事行動である。このグループがいわゆる十字軍の本隊であり、西欧各地の多数の諸侯が集まって聖地を目指した。諸侯たちの中で特に主導的な役割を果たすことになったのは、教皇使節であったル・ピュイのアデマール司教、南フランスのプロヴァンス人諸侯のまとめ役だったトゥールーズレーモン4世(レーモン・ド・サン・ジル)、南イタリアのノルマン人のまとめ役を務めたボエモンの3人であった。ほかにもロレーヌ人のゴドフロワ・ド・ブイヨンブローニュ伯ウスタシュ、ボードゥアンの3兄弟、フランドル伯ロベール2世ノルマンディー公ロベール、ブロワ伯エティエンヌ、フランス王フィリップ1世の弟ユーグ・ド・ヴェルマンドワ(フィリップ1世は直前に破門され参加できなかったため、その代理)など、そうそうたる顔ぶれが揃っていた。

第1回十字軍時代のヨーロッパ・中東地域

[編集] 東方への進軍

諸侯と騎士からなる十字軍本隊は、計画通り1096年8月にヨーロッパを各自出発し、ゴドフロワ・ド・ブイヨンらはハンガリーからブルガリアを経由し、ユーグ・ド・ヴェルマンドワやノルマンディー公、フランドル伯らはイタリアからアドリア海を渡り、ギリシャを東西に横断した。彼らは12月にコンスタンティノープルの城壁外に集結したが、それは民衆十字軍壊滅の2ヶ月後のことであった。この本隊にも騎士だけでなく、必要な装備にも事欠く多くの一般市民が付き従っていた。民衆十字軍の壊滅から生還した隠者ピエールも、民衆十字軍の生き残りの人々と共にこの本隊に合流したが、再び一般市民たちの統率者に祭り上げられた。市民たちは小グループに編成しなおされて行動した。

なんとかコンスタンティノープルにたどりついた十字軍将兵にはすでに食料が乏しかったが、呼びかけ人の皇帝アレクシオス1世から食料が提供されるものと考えていた。しかしアレクシオス1世はまったく統制のとれていない民衆十字軍を見ていたことや、軍勢の中にかつての宿敵であった(東ローマ領だった南イタリアを奪った)ノルマン人のボエモンがいたことから猜疑心を抱き、指導者たちに向かって、食料を提供する代わりに、自分に臣下として忠誠の誓いを立て、さらに占領した土地はすべて東ローマ帝国に引き渡すことを誓うよう求めた。食料に乏しかった指導者たちに、これを断る選択肢は残されていなかったが、十字軍指導者たちと皇帝の間でギリギリの駆け引きが続けられ、武器を取っての小競り合いにまでなったが、なんとか双方が妥協に至った。

[編集] ニカイア攻囲戦

詳細は「ニカイア攻囲戦」を参照

アレクシオスから小アジアを案内する部隊を提供され、十字軍将兵はボスポラス海峡を渡り、最初の目標としていた都市ニカイアにたどりついた。ニカイアはかつては東ローマ帝国の都市で、住民のほとんどはギリシア人であったが、ルーム・セルジューク朝の手に落ち、その首都となっていた。十字軍は協議の上でニカイアの攻囲を開始し、力攻めを避け、水源を封鎖して兵糧攻めを行うことにした。クルチ・アルスラーン1世はアナトリア高原のアンカラ近郊マラティヤで、当地のセルジューク系ダニシュメンド朝の王、賢者ダニシュメンド(Danishmend Gazi)と戦っていたが、重武装の大軍が首都を包囲していると聞き、あわてて引き返し戦うものの、多大な損害を出し、これ以上この強力な軍団と戦えばルーム・セルジューク朝自体が危機に陥ると考え、城内に立て篭もるギリシア人住民やテュルク系守備隊に東ローマ帝国への降伏を薦め、内陸深くのコンヤ(イコニウム)に退却することを決めた。この状況を伝え聞いたアレクシオス1世は、十字軍がニカイアを陥落させた場合は略奪を行うに違いないと考え、ひそかに使者を派遣してニカイアの指導者に降伏するよう交渉を行った。守備隊は説得され、住民らは夜ひそかに東ローマ兵を城に入れた。

1097年7月19日の朝、街を囲んでいた十字軍将兵は目覚めて仰天した。城壁に東ローマ帝国の旗がひるがえっていたからである。それだけでなく、アレクシオスの指示で十字軍将兵は城内に入ることが許されなかった。十字軍将兵たちがアレクシオスに裏切られる形になったこの事件は、十字軍と東ローマ帝国の関係に修復できないほどの亀裂をもたらした。互いの不信感が決定的になったのである。十字軍はニカイアを離れ、一路エルサレムを目指した。東ローマ帝国軍は十字軍の道案内をしながら、彼らの助けを借りて小アジアの西半分の領土をセルジュークから回復していった。一方、クルチ・アルスラーン1世はコンヤで軍勢を立て直し、セルジュークの諸王に救援とジハードを呼びかけた。

[編集] ドリュラエウムの戦い

詳細は「ドリュラエウムの戦い」を参照

十字軍諸隊は、案内役の東ローマ帝国将軍タティキオス(Tatikios)の兵に伴われてコンヤへ向かう途中ドリュラエウムにいたが、その道中ボエモンの部隊がクルチ・アルスラーン1世とダニシュメンドの連合軍の急襲を受けた。他の部隊はボエモンを救出し、ドリュラエウムでトルコ軍との戦闘状態に入った。これをドリュラエウムの戦い(Battle of Dorylaeum)という。この戦いにおいてゴドフロワ・ド・ブイヨンはトルコ軍の包囲を受けて窮地に陥ったが、教皇使節アデマールが軍勢を率いて救援に駆けつけたため救われた。トルコ軍は十字軍の騎士たちの分厚い甲冑に対して、伝来の弓矢戦法を生かすことができず、次々現れる援軍の前に、逃げおおせることのできた騎兵を除いて壊滅した。アデマールがトルコ軍を撃退したことで、十字軍はアンティオキア目指して小アジアを進めるようになった。

小アジア進軍は十字軍将兵にとって苦痛に満ちたものとなった。夏の暑さと水や食料の不足から多くの兵が倒れ、軍馬も失った。彼らはアナトリア横断に100日もかけてしまった。小アジアで暮らすキリスト教徒たちが時折、十字軍将兵に食料や金銭の援助をしたが、十字軍は略奪によって物資を得ることが多かった。十字軍全体の指揮を誰が執るのかということに関しては結論が出ることはなかった。全体の統率ができるほど強力な指導者がいなかったためであるが、全体の中ではレーモン・ド・サン・ジルとアデマールが指導者的地位を認められていた。

アルメニア人諸侯が治めるキリキア地方を通過したところで、ブルゴーニュ伯ボードゥアンは手勢を率いて十字軍と別れ、ユーフラテス川沿いを北に進んでアルメニア人の多く住む上流部(現在のシリア北部からトルコ南東部の地方)へ向かった。1098年、エデッサ(現在のトルコ領ウルファ)にたどり着いたボードゥアンは統治者ソロスに自らを養子、後継者と認めさせることに成功した。ソロスはギリシャ正教徒の統治者であり、非カルケドン派であるアルメニア正教を奉ずるアルメニア民衆からは嫌悪されていた。そもそも古代から属国扱いされていたアルメニア人の東ローマに対する反発心も強かった。市民の暴動によってソロスが命を落とすと、ボードワンはエデッサの統治者の座に就き、ここに最初の十字軍国家であるエデッサ伯国が成立した。

[編集] アンティオキア包囲

アンティオキアの城壁と背後の山

詳細は「アンティオキア攻囲戦」を参照

十字軍本隊は1097年10月、コンスタンティノープルとエルサレムの中間点にあたる都市アンティオキアに到着し、これを包囲した。アンティオキアは無数の監視塔のある堅固な城壁を持ち、西はオロンテス川、東は徐々に山を形成する攻略困難な地形で、頂上には砦を持ち、落とすに難く守るに容易い都市であった。アンティオキアの周囲を全て包囲できるほどの軍勢がなかったため、都市に対する補給を許すことになり、包囲戦は8ヶ月の長きに及んだ。アンティオキアの包囲が長引き、十字軍将兵が地震と大雨に怯え、飢餓に苦しみ人肉食まで行う中で、ボエモンはアンティオキアを自らのものにしたいという意志を隠すこともなく公言するようになった。

領主ヤギ・シヤーンと息子シャムス・アル・ダウラは果敢な突撃を繰り返し、都市を守り抜いたが、包囲されたままの状態は打開できなかった。助けを求められる近隣の王は、シリア・セルジューク朝を分裂させて戦う2人の年若い兄弟のマリク(王)、北シリアのアレッポのリドワーンと南シリアのダマスカスのドゥカークしかいない。どちらも頼りにできる人物ではなく、2人とも一致協力して戦う気もなかった。領主の求めに2人は別々に軍を出し、どちらも損害を出して逃げ帰ってしまう。

1098年5月、モースル(現在のイラク北部)のアタベクケルボガ(カルブーカ)がヤギ・シヤーンの頼みに応じ、大軍を率いてアンティオキア救援に出発した。しかし、途中でエデッサへ十字軍攻撃に立ち寄ってみたりと一向にアンティオキアに着かず、アンティオキア側にも焦りが出た。一方、敵に援軍が来ることを察知したボエモンは、モースル軍が到着して数で圧倒されるより前に陥落を急ごうと、アルメニア人衛兵を買収して城門を開かせることに成功した。6月3日、十字軍部隊はついに城内に突入し、火を放ち多数の市民を殺害した。領主ヤギ・シヤーンは城からの逃走中に倒れて死に、息子シャムスがなおも山頂の砦に立て篭もって戦った。十字軍将兵が勝利に酔ったのもつかの間、数日後にはやっとアンティオキアに到着したケルボガらの援軍に逆に包囲され、城内から出られなくなってしまった(もっとも、援軍は士気が低く、これは途中で軍を合流させたダマスカス王ドゥカークが、ケルボガがアンティオキア解放後にシリアで大きな顔をすることを恐れて、ケルボガの兵隊に彼の悪口を流したためであった)。

この時、十字軍に参加していた一人の無名の修道士ペトルス・バルトロメオなる男が3日間の断食苦行によって、地下から十字架上のキリストを刺し貫いたという聖槍を発見したと言いだした。教皇使節アデマールなどのように笑止千万な話だと考えていたものがいた一方で、多くの将兵はこれこそイスラム教徒に対する勝利の前触れだと確信した。このことが影響したのか、十字軍将兵の士気は高まり、6月28日に城外に打って出た。ケルボガは城門を出る兵を個別撃破するチャンスを、後続の兵がまた城内に戻ってしまうとあえて避け、十字軍全軍が出たあとムスリム連合の大軍で一気に片をつけようとした。しかしダマスカス王ドゥカークらは相手が多すぎると次々に逃亡し、連合軍は崩壊した。当ての外れたケルボガが戦わず退却するところを十字軍は逃さず、撃破し潰走させ、大勝利を収めた。

この戦いで2つのことが明らかになった。一つはシリアに十字軍を相手にできるムスリム勢力はもはや存在しない、もう一つはエデッサとアンティオキアの占領で十字軍の領土欲が満たされ、宗教的な情熱をもつ諸侯や大多数の庶民・騎士を除き、諸侯らの一部がエルサレムへの関心を見失い始めたことだった。

ここにきてボエモンは、皇帝アレクシオスが十字軍部隊に何の援助もせず見捨てているため、(占領した都市はすべて皇帝に引き渡すという)誓いは無効であると主張しはじめた。ボエモンはその主張によってアンティオキアを我が物にしようとしていたのである。十字軍の指導者たちはこのボエモンの主張に関して紛糾し、進軍はストップした。さらにそこで疫病(おそらくチフス)の流行が軍勢を襲い、多くの兵や馬が命を落とした。疫病の犠牲者の中には教皇使節アデマールも含まれていた。諸侯は夏の行軍を避けるため冬を待つこととしたが、軍勢は統一した指揮系統を失いシリアにとどまったまま行き場を失った状態で、住民たちも食料の提供を拒んだ。1098年の末には、シリアの都市マアッラを陥落させた後、住民を殺戮し、異教徒に対する侮蔑か飢餓の余りか、犠牲者を鍋で煮たり串で焼いたりする人肉食事件が起こる。こうした迷走に、11月には諸侯らのアンティオキアでの会議に対し、巡礼者らがエルサレム行きを求めて突き上げを行う事件も起きた。1099年1月になってようやくトゥールーズ伯レーモンを中心にして指揮系統が回復し、アンティオキアの私有化をしつこく主張するボエモンを後に残して軍勢はエルサレムに向かった。ボエモンはアンティオキア公国建国を宣言、アンティオキア公ボエモン1世となる。

[編集] エルサレム包囲

詳細は「エルサレム攻囲戦 (1099年)」を参照

中近東地域に入った十字軍はエルサレムを目指して南下した。トゥールーズ伯率いる主力部隊はオロンテス川沿いにシリア内陸を進み、エルサレム行きを渋るボエモン軍がようやく出てくるのをアルカで待ち、そこから山を越え地中海沿岸に出てレバノン海岸を進んだ。ゴドフロワ、ウスタシュ、ボードゥアンらはトゥールーズ伯に従うのを好まず、アルカからさらに内陸をヨルダン川渓谷へと進み、エルサレムで合流する。途中で組織的な抵抗はほとんどなかった。というのも、それまでに十字軍の通過した町や村の荒廃を聞き、セルジュークやアラブの地方有力者たちは、わざわざ争うよりも十字軍に宝物・食料・馬など物資や道案内を提供して、無難に通過させることを選んだからであった。東地中海有数の富裕な港、トリポリはその富のため略奪されようとしたが、まず付属都市の攻略に向かった十字軍は住民の必死の抵抗で手間取るうちに攻略をあきらめてしまい、助かったトリポリは多数の貢物で十字軍を送り出した。

一方、エジプトのファーティマ朝は動揺していた。アンティオキア攻略中の十字軍に宰相アル・アフダルは使者を送り、シリアの南北分割統治を提案したものの、彼らはあくまでエルサレムの地位にこだわり、十字軍との同盟も不可侵条約も成り立たなかった。その後の交渉も十字軍側はすべてはね除け、エルサレムを軍で奪取することを宣言し、ついにファーティマ朝の北限境界を越えた。ファーティマ朝領内の港湾都市、サイダ(シドン)は抵抗して近郊の農地を略奪されたが、ベイルートティールアッカなどは十字軍をもてなして道案内し、途中の農村の住民たちはみな避難して抵抗しなかった。ファーティマ朝は、つい1年前にアンティオキア陥落後のセルジュークの弱体化に乗じてテュルク系の領主から聖都エルサレムを奪ったことを後悔し始めた。こうして1099年5月7日、軍勢はいよいよ目的地のエルサレム郊外に到着した。十字軍将兵たちは、目指すエルサレムを目の当たりにした感激に落涙を禁じえなかった。

アンティオキア攻略と同様に十字軍はエルサレムの包囲を行い、攻城やぐらを建設し城壁を乗り越えようとした。しかしファーティマ朝の司令官イフティハール・アル・ダウラ(Iftikhar ad-Daula)は石油や硫黄を使った攻撃で、兵を満載した攻城やぐらに火を放って城を守り、一方の十字軍側は満足な食料の補給もなかったため、死者の数は増える一方となった。しかもファーティマ朝本国から宰相アル・アフダルらのムスリム軍援軍が迫っており、不十分な軍勢でエルサレム攻略は不可能かと思われた。その時、従軍していたペトルス・デジデリウスという司祭が、断食した上に裸足で9日間エルサレムの周りを回ればエルサレムの城壁は崩壊するという幻を見た、と主張し始めた。それは旧約聖書エリコの陥落の故事を踏まえた発言であった。1099年7月8日、デジデリウスの後に従い、将兵たちはエルサレムの周りを回り始めた。7日目の7月15日、一同は城壁の弱点を発見してそこを打ち壊し、城内に入ることに成功した。城内の殺戮のさなか、イフティハールは砦の上で抗戦していたが、レーモン・ド・サン・ジルの提案を受け入れて降伏し、部下とともに無事アスカロンの港に脱出した。

一方、城内に入った軍勢はエルサレム市民の虐殺を行い、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方教会正教会東方諸教会)のキリスト教徒まで殺害した。ユダヤ教徒はシナゴーグに集まったが、十字軍は入り口を塞ぎ火を放って焼き殺した。多くのイスラム教徒はソロモン王の神殿跡(現在のアル・アクサモスク)に逃れたが、十字軍の軍勢はそのほとんどを殺害している。著者不明の十字軍の従軍記「ゲスタ・フランコルム」によると虐殺の結果、「血がひざの高さに達するほどになった」と書いているが、さすがにこれは誇張であろう。

市民の殺害が一段落すると、軍勢の指導者となっていたゴドフロワ・ド・ブイヨンは「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ」(聖墳墓の守護者)に任ぜられた。これはゴドフロワが、王であるキリストが命を落とした場所の王になることを恐れ多いと拒んだからである。正教会(ギリシャ正教)、非カルケドン派アルメニア使徒教会コプト正教会など)各教派のエルサレム総主教たちは追放され、カトリックの総大司教が立てられた。キリストが架けられた「聖十字架」など聖遺物も、司祭たちを拷問して在り処を話させて手に入れた。

ゴドフロワはその後、エルサレム守備にやってきたもののすでに手遅れでエルサレム手前でとどまっていた宰相アル・アフダルらのファーティマ朝の軍勢をアスカロンの戦い(Battle of Ascalon)で急襲し破った。以後エルサレムを拠点にパレスチナやシリア各地を襲ったが、1100年にエルサレムでこの世を去った。弟のエデッサ伯ボードゥアン(ボードゥアン1世)が後を継いで「エルサレム王」を名乗った。ここに十字軍国家「エルサレム王国」が誕生する。

[編集] 1101年の十字軍と十字軍国家の樹立

エルサレムの占領と聖墳墓(キリストの墓)の奪回によって、十字軍活動は当初の目的を達成した。このニュースがヨーロッパに伝わると、途中で脱落して帰国した騎士たちや、そもそも十字軍に参加しなかった騎士たちは激しい非難と嘲笑にさらされ、聖職者による破門さえほのめかされた。一方、エルサレムを占領した将兵たちも大部分は故郷に凱旋した。シャルトルのフルシェルによれば、1100年のエルサレム王国には数百名の兵力しか残っていなかったという。また、1100年に小アジアでまたもマラティアを攻めていたダニシュメンド王を討とうとしたアンティオキア公ボエモン1世は、逆にダニシュメンドの捕虜となってしまう。十字軍は手薄な状態だったが、ムスリムも内輪もめに終始していたので、地盤を固める時間はあった。アンティオキア公国の後継者はボエモン1世の勇猛な甥で、亡きゴドフロワのもとで戦ってきたタンクレードとなり、彼が後にアンティオキア公国をシリアに君臨する強国とする。

1101年に入ると、ヨーロッパにおいて(途中で脱落した)ブロワ公エティエンヌやユーグ・ド・ヴェルマンドワによって新たな軍勢が組織され、他の諸侯との不仲でコンスタンティノープルにいたレーモン・ド・サンジルと合流し、一般民衆を含め10万人近い軍勢が再びエルサレムを目指した(これを1101年の十字軍ともいう)。軍勢は小アジアでアンカラを陥落させたが、捕虜のアンティオキア公ボエモン1世を救おうとして向かった先で、クルチ・アルスラーン1世とダニシュメンドのセルジューク連合軍にさんざんに打ち破られて壊滅した。なんとか生きてシリアに達した者はトリポリの港の攻撃に取り掛かった。

トリポリ領主はシリア・セルジューク朝のダマスカス王ドゥカークと組んで、わずかな数に減った十字軍騎兵を撃退しようとしたが、ドゥカークは以前、王となるためエルサレムに向かうエデッサ伯ボードゥアンを討とうとして、トリポリ領主のボードゥアンへの密通により失敗した恨みを忘れていなかった。ドゥカークの軍は十字軍を見ただけで退却し、残されたトリポリ軍は大敗した。こうしてレーモン・ド・サンジルは、後々まで十字軍の強力な補給と上陸の拠点となるトリポリ伯国を郊外の城に誕生させることに成功した。エルサレムに到着した騎士たちは、エルサレム王国の守りを固めることになった。やがてイタリアの商人たちがシリアの諸港に来航して物資を補給し始め、テンプル騎士団、病院騎士団(聖ヨハネ騎士団)といった騎士修道会が組織されて、エルサレム王国を防衛することになった。

[編集] 分析

[編集] 第1回十字軍の成功後

第1回十字軍は、エルサレム王国アンティオキア公国エデッサ伯国トリポリ伯国十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスティナとシリアに成立させて、巡礼の保護と聖墳墓の守護という宗教的目的を達成した。第1回十字軍が成功したことは、誰にとっても予想外な出来事だった。君主たちは西欧の安定によって失われていた武力の矛先を東方に見出し、占領地から得た宝物によって遠征軍は富を得ることができた。また、十字軍国家の防衛やこれらの国々との交易で大きな役割を果たしたのはジェノヴァヴェネツィアといった海洋都市国家である。これらイタリア諸都市は占領地との交易を盛んに行い、東西交易(レヴァント貿易)で大いに利益を得た。

エルサレムから西欧に帰ってきた戦士たちは、英雄視されることになった。フランドルのロベール2世はエルサレムにちなんで「ヒエロソリュマタヌス」と呼ばれた。ゴドフロワ・ド・ブイヨンの生涯は死後数年を経たずして伝説となった。その一方で、十字軍将兵の不在はその間の西欧情勢に変動をもたらしていた。例えば、ノルマンディー地方は領主ロベール・カルトゥース(ノルマンディー公ロベール)がいない間に弟ヘンリー1世の手に渡っていた。当然帰ってきた兄はこれをめぐって弟と争い、1106年にはティンチェブライの戦い (Battle of Tinchebrayが引き起こされている。

また、東ローマ帝国は十字軍国家が設立されたことで、直接にイスラム諸国からの圧迫を受けることがなくなったが、今度は十字軍国家やキリキア・アルメニア王国と対立することになった。

教皇庁は、十字軍の掛け声によってばらばらだった西欧のキリスト教徒をまとめあげることができること、戦争が宗教的活動となりうることを発見した。これはそれまでのキリスト教にはなかった発想であった。つまりそれまで修道者だけのものとされていた宗教的な使命を騎士たちも持つことができるようになったのである。一方、正教会とカトリックの和解が十字軍を唱えたカトリック教会指導者側の当初の動機の一つだったにもかかわらず、両者の間はかえって十字軍により緊張した。両教会はそれまで、教義上は分裂しつつも名目の上では一体であり、互いの既存権益を尊重しつつ完全な決裂には至っていなかったが、十字軍が正教会のエルサレム総主教を追放し、カトリックの総大司教を置いたことで、この微妙な関係は崩れ、かえって緊張が深まった。この緊張はコンスタンティノープルが暴行・略奪される第4回十字軍において頂点に達することになる。

イスラム諸国は危機に際しても依然として互いに猜疑心が深く、国の奪い合いや領主同士の争いや世継ぎ争いをやめず、共闘体制を作ることができなかった。それどころか自分たちの争いに十字軍国家を利用するため、これらと同盟を結ぶ始末だった。シリアやパレスチナの宗教代表者たちはバグダードにいるカリフや大セルジューク朝本家のスルタンらに直訴に行くが、彼らは無力で内輪もめに終始し、とてもジハードに結集するどころではなかった。このあとムスリムの軍はいくつかの戦いで散発的に十字軍を破るものの、その追放を企図する者はいなかった。イスラム教国が結集するようになるのは12世紀半ばのモースルとアレッポの領主ザンギー、その息子ヌールッディーンの時代を、また西欧人を蹴散らすようになるのは彼らの部下だったサラディンの時代である12世紀終わりを待たなければならない。

[編集] 十字軍としての意識

当時十字軍という呼び名は無く、単に「十字をつけた者」と呼ばれた。「十字軍」という言葉が最初に現れるのは第1回十字軍の100年ほど後である。彼らは、聖地を奪回するイスラム教徒と戦うという意識以外に、免償(罪の償いの免除)を求めてエルサレムへ向かう「巡礼者」(ペレグリナトーレス)という意識も強かった。

[編集] 十字軍運動の魅力の秘密

もともと十字軍は一部の騎士に対する呼びかけであったが、やがて膨大な人数を動員して移民活動のような状況を呈することになった。このことからわかるのは、十字軍への呼びかけというのは当時のキリスト教徒にとってとても魅力のある言葉だったということである。西ヨーロッパ中世におけるキリスト教徒の2つの生き方、聖なる戦士と巡礼者が一つに結びついたのである。戦闘に参加した者に免償が与えられる、あるいは戦闘で死んだ者が殉教者となりうるというのは、十字軍運動の中で初めて生まれた概念であった。そして十字軍に参加することで与えられる免償は、エルサレムへ詣でるという巡礼者としての免償と、キリスト教戦士として戦うという免償の二重の意味があるため、生き残っても死んでもどちらにせよ免償を受けられるというのが魅力であった。また、下級騎士たちは封建制度の息苦しさから逃れようとし、農民や職人たちも退屈で困難な日常から逃れたいという気持ちを持っていた。このように宗教的なものから、世俗的なもの、心理的なものまで、さまざまな人々がさまざまな動機によって十字軍運動に身を投じたのである。

[編集] 霊性と世俗の間

かつて、十字軍の主要な従軍者たちは貴族でも相続権を持たない子弟たちか、また貧しい下級騎士たちが一山あてようと財産目当てで志願したという十字軍観があった。一方では十字軍運動に参加した当時の人々にとって重要なのは、地上の富だけでなく霊的(精神的)な富であったとの考えもある。一般的には十字軍士を駆り立てたものは、宗教的情熱、名誉欲、冒険、領土・財産欲の組み合わせであり、その比重は人と時代により違う。第1回十字軍は第4回以降の十字軍より宗教的情熱は強いが、ノルマン騎士の場合は冒険、領土・財産欲の比重が高い。庶民の参加者は宗教的情熱が高く、北フランス貴族の場合は名誉欲が強かった。

しかし、最近の研究の一つは、宗教的情熱は従来想像された以上に強かったのではないかと述べている。ケンブリッジ大学の歴史学者ジョナサン・ライリー・スミスは自身の研究によって、十字軍への参加が非常な出費を強いるものであったことを明らかにしている。特に中心的な存在であった諸侯たち、ヴェルマンドゥワのユーグやノルマンディー公ロベール、トゥールーズ伯レーモン・ド・サンジルなどは資産を売り払ってまで十字軍の従軍費用を捻出している。

現世的な富よりも宗教的な情熱が騎士たちを動かしたことの証左として、ゴドフロワ・ド・ブイヨンと弟のブルゴーニュ伯ボードゥアンが、かつて教会と争ったことの償いとして、自らの土地を教会に寄進して出発したことが挙げられる。もちろんその寄進記録は聖職者が書いたもので、ゴドフロワ自身が書いたものではないため、信仰深い騎士として美化している部分はあるものの、2人が財産を寄付した事実に変わりはない。

さらに貧しい下級騎士たちは寄付を受けるか、裕福な騎士の世話になるかしないと十字軍に参加できなかった。たとえばボエモンの甥で後のアンティオキア公タンクレードも叔父に仕えることを条件に十字軍に参加している。寄進や慈善行為の支えによって行われた第1回十字軍とは対照的に、後の十字軍は特定の裕福な王や皇帝による主導や十字軍税の援助によって行われている。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

最終更新 2009年11月16日 (月) 10:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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