筑後川の戦い

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筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は、南北朝時代の延文4年/正平14年7月19日1359年8月13日)、筑後川をはさんで南北朝が戦った戦。大保原の戦い、大原合戦とも。

[編集] 概要

後醍醐天皇征西将軍として九州に派遣した8歳の皇子・懐良親王と、彼を奉じた菊池武光は、高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府とした。延文4年/正平14年7月、懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時城井冬綱ら約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦った。

戦いの苛烈さについては頼山陽も詩に歌っている。この戦いで足利側の少弐直資は戦死、南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、両軍合わせて2万6,000余が討死にしたといわれる。この戦いに敗れた足利軍は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。

戦いののち、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗った場所が、筑後国太刀洗(たちあらい)であるという伝承がある。現在の福岡県三井郡大刀洗町である。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年5月16日 (土) 00:54 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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