東京箱根間往復大学駅伝競走

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東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)とは1月23日に行われる関東地方大学対抗の駅伝大会である。通称箱根駅伝(はこねえきでん)。

目次

[編集] 概要

出雲駅伝全日本大学駅伝とともに男子の三大大学駅伝のひとつに数えられており、また前出の2大会に続く三大駅伝の最終戦となっている。

関東地区では正月の恒例イベントとして定着しており、高い人気を誇っている。当駅伝出場者からオリンピックや世界陸上等に出場を果たした選手も少なくない。詳しくは箱根駅伝の人物一覧を参照。

東京都千代田区大手町読売新聞東京本社前から鶴見戸塚平塚小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町芦ノ湖までの往復コース。往路108.0km、復路109.9km、計217.9km。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。

1920年2月14日に第1回大会が行われた。第1回大会は、アメリカ大陸の継走での横断を実施するための代表選考会という位置づけであった。これは1912年ストックホルムオリンピックに出場した日本人五輪選手第1号の金栗四三が「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」と発案したことがきっかけである。第二次世界大戦中に一時中断され、1947年に復活した。第32回(1956年)から、現在の1月2・3日の開催となった。また第1回大会では学生のための大会ということで午後から行われた。

関東学連に加盟している大学に参加資格があるが、5年や10年ごとの記念大会では関東以外の大学が招待されることもある。最近では第80回(2004年)で、特別に日本学連選抜チーム(この大会にすでに出場権を得ている大学以外から選抜した)がオープン参加で出場した。また、第83回(2007年)から学連選抜も順位が記録されることになった。もし学連選抜が10位以内に入ればシード校は10校から9校に減り、代わりに翌年の予選会からの出場校は9校から10校に増えることになる。

テレビ放送の全国生中継が開始されて以降、正月の風物詩として人気・知名度が格段に向上した(詳細については#報道・広報についてを参照のこと)。

[編集] 大会運営

[編集] 主催

[編集] 共催

[編集] 後援

[編集] 特別協賛

新法人になってからはゼッケンの特別協賛のサッポロビールのマークが変わった(サッポロビール→SAPPORO)

[編集] 協賛

[編集] 協力

  • 陸上競技社

[編集] 運営協力

[編集] 表彰

  • 総合優勝校には賞状、優勝カップ、メダル、優勝旗を授与。優勝校監督には記念品を授与。
  • 準優勝校、3位校には賞状、カップ、メダルを授与。
  • 総合4位から10位までは賞状とトロフィーを授与(かつてシード権が9位までの時は入賞も8位までだった)。
  • 往路優勝校、復路優勝校には賞状とトロフィーと副賞を授与。なお、往路優勝校に関しては往路ゴール後に箱根町から提供される地元の名産寄木細工のトロフィーが授与されている。
  • 区間賞者には賞状とトロフィーを授与。
  • 最優秀選手には金栗四三杯を授与。

[編集] 金栗四三杯

「日本マラソンの父」と評された金栗四三の功績を讃えるため、第80回(2004年)に新設された最優秀選手賞。最も優秀な記録を出した選手に授与される。

回数 受賞者 所属大学 受賞理由 備考
第80回 鐘ケ江幸治 日本学連選抜
筑波大学
5区・区間賞 学連選抜初の区間賞
第81回 今井正人 順天堂大学 5区・区間新記録 区間記録を2分以上更新。11人抜き
第82回 今井正人 順天堂大学 5区・区間賞
第83回 佐藤悠基 東海大学 1区・区間新記録 区間記録を6秒更新。2位に4分1秒差をつける
今井正人 順天堂大学 5区・区間新記録 1位との差4分9秒を逆転。自らの持つ区間記録を25秒更新
第84回 篠藤淳 中央学院大学 9区・区間新記録 中央学院大学初の区間新記録
第85回 柏原竜二 東洋大学 5区・区間新記録 1位との差5分1秒を逆転。区間記録を47秒更新

[編集] 出場資格

[編集] 第31回(1955年)以前

参加希望校の内、関東学連が承認した全てのチーム

[編集] 第32回(1956年

出場校を15チームに限定し、出場全チームを当該同年度秋季の予選会にて選考

[編集] 第33~46回(19571970年

以下の2種類の方法で選んだ合計15チーム

  • 前年度の総合順位10位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加
  • 他の出場校については当該同年度秋季に行われる予選会に参加し、その予選会上位5チーム

※第40回(1964年)の記念大会時は例年の15校の他に特例として関西と九州から各1校の計2チームを招待。

[編集] 第47~78回(19712002年

以下の2種類の方法で選んだ合計15チーム

  • 前年度の総合順位9位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加
  • 他の出場校については当該同年度秋季(第68回(1992年)から10月下旬)に行われる予選会に参加し、その予選会上位6チーム

※第50、60、70回(197419841994年)の記念大会時は特例として20チームで実施。増加分の決定方法は年度により異なるので後述の沿革を参照のこと。

[編集] 第79回(2003年)以後

以下の4種類の方法で選んだ合計20チームとすることに変更

  • 前年度の総合順位10位までをシード校とし、その中で参加希望校は予選会免除の上で本大会に参加
  • 予選会タイムの上位6チーム
  • 予選会タイムの7位以降については予選会タイムに関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)のポイント(順位・エントリー数をタイムに換算)を加算した上での上位3チーム(インカレポイントの詳細計算については外部リンクなどを参照。また後述の駅伝偏重とインカレポイントも参照)
  • なお、以上の本大会出場校以外のチームから選ばれた関東学連選抜1チームが参加する(第80回の記念大会は関東学連選抜に代わり日本学連選抜で参加した)。また、学連選抜チームは当初はオープン参加扱いだったために個人記録の公式記録しかつけられず総合順位の公式記録はつけられなかったが、第83回(2007年)からは総合順位も公式に認められることになった。学連選抜チームがシード権を獲得できる総合順位10位以内に入った場合、翌年のシード枠が1つ減り、予選会からの出場枠が1つ増える。
  • 第85回(2009年)は出場校を3校増やす。これは第85回記念大会に伴う措置で、シード校9校(第84回(2008年)で関東学連選抜が第4位に入ったことにより、前項の規定に基づき第85回(2009年)のシード枠が1つ減ったため)と予選会から選考した13校に関東学連選抜チームを加えた23チームで争われる。予選会選考方式は成績上位10校に自動的に出場権を与え、残り3校についてはインカレポイントを加味して選考する[1][2]
    なお、この措置は5年ごとの記念大会に限るもので通常の大会は引き続き20校で行うこととしている。

[編集] 備考

[編集] 予選会について

予選競走に出るにはその年の1月から予選会応募締め切り日までの公式記録で、10000m走35分以内か5000m走17分以内のどちらかを作った選手を補欠も含めて10人以上揃えなければならない[3]

一般論としては予選に出るということは本大会の約2ヵ月半前に一度チームや個人としての体調やコンディションのピークを構築(ピーキング)する必要があるため、チームとして年間を通しての調整面でシード校に比べて不利になる。

[編集] シード校について

シード(予選免除権。前年の本選で総合10位以内入賞が条件)校の参加は希望制(日本国内での各学連主催の駅伝大会共通)であるが、不参加チームは未だ発生していない(出雲駅伝では発生例あり)。

[編集] 沿革

  • 1920年(大正9年) 第1回大会として2月中旬に実施。明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、東京高等師範学校(現・筑波大学)の4校が出場。
    • 第1回開催に当たって東京帝国大学や中央大学、法政大学、立教大学、日本大学、東京農業大学、東洋大学、専修大学など多くの大学・旧制専門学校・師範学校などに対して参加を呼びかけるが10人の選手を出場させる状況にある学校が少なく、最終的に第1回はこの4校となった。
  • 1921年(大正10年) 第2回大会に東京農業大学、法政大学、中央大学が初出場。明治大学が初優勝。
  • 1922年(大正11年) 第3回大会に東大農学部実科、日本歯科大学、日本大学が初出場。早稲田大学が初優勝。
  • 1925年(大正14年) 第6回大会の後日、日本大学が3区走者をエントリー選手ではない選手を出したことが発覚、順位成績取消は免れたものの翌年の大会参加を辞退。
  • 1926年(大正15年) 第7回大会で中央大学が初優勝。
  • 1927年(昭和2年) 第8回大会は大正天皇崩御の影響で初めて4月に開催。そのため参加校は5校のみとなった。早稲田大学が初の完全制覇(総合、往路、復路の全部門で優勝)。
  • 1928年(昭和3年) 第9回大会に関西大学を特別招待。
  • 1931年(昭和6年) 第12回大会に再び関西大学を招待。
  • 1932年(昭和7年) 第13回大会に引き続き関西大学を招待。慶應義塾大学が初優勝。
  • 1933年(昭和8年) 第14回大会に東洋大学、拓殖大学が初出場。
  • 1934年(昭和9年) 第15回大会に専修大学、立教大学が初出場。
  • 1935年(昭和10年) 第16回大会で日本大学が初優勝。
  • 1936年(昭和11年) 第17回大会に横浜専門学校が初出場。
  • 1937年(昭和12年) 日本大学が戦前初の3連覇をし当時の大会規約により優勝旗が授与された(大戦により混乱で紛失し竿だけが大学内に保管されている)。日本大学は翌1938年も優勝し、戦前唯一の4連覇を達成している。
  • 1938年(昭和13年) 第19回大会で2着の明治大学が6区選手の資格疑義により失格となり、以下順位が繰り上がる。失格の理由は、当該選手が夜間部に在籍する学生で二重登録に当たるというもの。
  • 1939年(昭和14年) 第20回大会で専修大学が初優勝。
  • 1941年(昭和16年) 第二次世界大戦の激化により東海道・箱根路の使用が禁止され大会中止。代替駅伝として明治神宮水泳場前-青梅熊野神社間往復駅伝を実施(歴代大会には含めない)。
  • 1942年(昭和17年) 戦時命令により日本学連が解体する。
  • 1943年(昭和18年) 戦時中により従来の東京-箱根間大学駅伝に代わり靖国神社-箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会を第22回大会として実施。青山学院大学が初出場。
  • 1944年(昭和19年) 戦況激化により再び箱根駅伝は以後3年間中断。
  • 1947年(昭和22年) 駅伝大会を復活し、第23回大会として開催。神奈川師範学校が初出場。読売新聞社が共催に入るが「学生の大会を私企業が催すことは好ましくない」とのGHQからの指導があり、後援となる。
  • 1948年(昭和23年) 同年の大会からスタート・ゴールを当時の銀座の読売新聞社前(現在のプランタン)とした。
  • 1949年(昭和24年) 第25回大会で史上初の途中棄権(3区=神奈川師範学校:現在の横浜国立大学)。日本体育専門学校が初出場(現在の日体大、以降現在まで連続出場)。中央大学の5区の選手がゴール手前で倒れこみ、関係者がゴールまで引っ張り込んだが失格とならなかった。この件について中央大学と審判長にルール違反ではないかとの非難が殺到する。報知新聞社が後援につく。
  • 1950年(昭和25年) 前年4月に新制大学が発足し、参加チームも再編の影響をうけ新しい校名で参加(神奈川師範学校→横浜国立大学、文理科大学・東京体育専門学校→東京教育大学、日本体育専門学校→日本体育大学、横浜専門学校→神奈川大学)。
  • 1951年(昭和26年) 駅伝有害論の影響により慶應義塾大学が大会参加を取りやめを決定(不参加に因る選手数の影響もあり、慶應義塾大学は以後約10年間出場せず)。
  • 1952年(昭和27年) 第28回大会に成蹊大学が初出場。
  • 1953年(昭和28年) NHKラジオによる全国放送が開始。
  • 1954年(昭和29年) 第30回大会に横浜市立大学が初出場。
  • 1955年(昭和30年) 同年11月に初めての予選会(第10回関東学生10マイル兼第32回箱根駅伝予選会)を実施。シード校制度未導入のため、予選参加19校の中から上位15校が本大会に出場。また同年より交通事情を考慮し期日を新春2日、3日に変更。
  • 1956年(昭和31年) 第32回大会に東京学芸大学が初出場。
  • 1957年(昭和32年) 第33回大会からシード権制度を初めて適用。前大会の上位10校を予選会を免除して参加可能とする。国士舘大学が初出場。同じく予選会を突破していた順天堂大学が本大会でチーム編成が不能となったため、神奈川大学が繰り上がりで出場。
  • 1958年(昭和33年) 第34回大会に前年本大会欠場に泣いた順天堂大学が晴れて初出場(以降現在まで連続出場)。横浜市立大学が途中棄権(9区)。
  • 1959年(昭和34年) 第35回大会に埼玉大学が初出場。予選会6位ではあったが平均タイムで規定タイムをクリアしたため、特例で出場が認められる。この大会のみ16校が出場。
  • 1961年(昭和36年) 第37回大会に防衛大学校が初出場。
  • 1964年(昭和39年) 第40回を記念して立命館大学と福岡大学を招待し全17校にて実施。中央大学が史上初の6連覇を達成。
  • 1965年(昭和40年) 予選会の会場が千葉市の検見川ロードレースコースに変更。
  • 1966年(昭和41年) 第42回大会に復路スタートを全校一斉スタートに変更。順天堂大学が初優勝。
  • 1967年(昭和42年) 第43回大会に亜細亜大学、駒澤大学が初出場。
  • 1968年(昭和43年) 第44回大会に大東文化大学が初出場。
  • 1969年(昭和44年) 第45回大会で日本体育大学が初優勝。
  • 1971年(昭和46年) 第47回大会よりシード権枠を9校に変更。予選会の会場が八王子市内の富士森競技場付属コースに変更。
  • 1973年(昭和48年) 第49回大会より自衛隊車両が大会関係車両として登場。日本体育大学が5連覇を達成。東海大学が初出場。
  • 1974年(昭和49年) 第50回を記念して全20校で実施。過去の全優勝校を参加させるためにシード9校以外で過去に優勝した5校を招待参加とし、残り枠6を予選通過校とした。
  • 1975年(昭和50年) 第51回大会で大東文化大学が初優勝。
  • 1976年(昭和51年) 第52回大会より復路スタートで上位数チームを時差スタートに変更。青山学院大学が途中棄権(10区、ゴール前150m地点での棄権)。
  • 1977年(昭和52年) 予選会の会場が大井埠頭周回コースに変更。
  • 1983年(昭和58年) 第59回大会の模様をテレビ東京が初めてテレビ中継を行う(ダイジェスト版で、最後のゴールのみ生放送)。
  • 1984年(昭和59年) 第60回を記念して全20校で実施。過去の全優勝校を参加させるためにシード9校以外で過去に優勝した3校を招待参加とし、残り枠8を予選通過校した。東京大学が初出場。同様に国立大の東京学芸大学が23年ぶりに登場。
  • 1987年(昭和62年) 第63回大会より日本テレビによる生中継放送が開始。山梨学院大学が初出場。
  • 1989年(昭和64年) 第65回大会に留学生選手が初めて箱根路に登場。順天堂大学が4連覇を達成。
  • 1990年(平成2年) 第66回大会より伴走車(監督車)が交通事情により廃止。
  • 1992年(平成4年) 第68回大会で山梨学院大学が初優勝。
  • 1993年(平成5年) 第69回大会で早稲田大学が新記録で優勝 
  • 1994年(平成6年) 第70回を記念して例年より5校多い11校を予選通過とし20校にて実施。まず予選通過の9校が選出され、中央学院大学、関東学院大学が初出場。後日特例として慶應義塾大学、筑波大学の出場も決まる。また山梨学院大学が総合新記録を出し初めての10時間台を達成した(2009年現在10時間台に突入したのはこれが始めて
  • 1995年(平成7年) 第71回大会で順天堂大学が途中棄権(10区)。
  • 1996年(平成8年) 第72回大会で史上初の2校(神奈川大学〈4区〉、山梨学院大学〈4区〉)途中棄権。
  • 1997年(平成9年) 第73回大会で神奈川大学が初優勝。前年途中棄権からの優勝、予選会突破からの優勝は初めての快挙。初出場から61年目での優勝も記録。監督会議にて給水の必要性が議論され、以後14キロ過ぎに給水ポイントを設置することが決まる。
  • 1998年(平成10年) 第74回大会に帝京大学が初出場。
  • 1999年(平成11年) 第75回大会10区のコースを日本橋経由に変更、最長区間(23km)になる。
  • 2000年(平成12年) 第76回大会より5区と6区のコースが一部変更。元の東海道を通るコースになる。駒澤大学が初優勝。予選会の会場が国営昭和記念公園に変更。
  • 2001年(平成13年) 第77回大会に國學院大學、平成国際大学が初出場。東海大学が途中棄権(2区)。
  • 2002年(平成14年) 第78回大会で法政大学が途中棄権(2区。史上最短の途中棄権)。
  • 2003年(平成15年) 第79回大会から前年度成績上位校によるシード枠を10校、予選会からの出場枠を9校に増加、さらにオープン参加として関東学連選抜チームを加えて20チームとする。エントリー人数が16人に拡大。運営管理車の導入など大幅な変更。第80回を記念し、この回限定で予選会を箱根町の要望により芦ノ湖畔コースで実施。また年末にかけてシンポジウムやトークショーなどの記念行事が行われる。
  • 2004年(平成16年) 第80回を記念して同年のみ関東学連選抜に代わり、日本学連選抜がオープン参加した。城西大学が初出場。国士舘大学が10年ぶり出場。この大会で陸上自衛隊第1師団からの車両・要員支援が終了。読売新聞社が共催に復帰。この年行われた第81回大会予選会からコースが陸上自衛隊立川駐屯地立川市街地→国営昭和記念公園のルートに変更された。
  • 2005年(平成17年) 第81回大会に際し距離を再計測し、全区間の距離表示を変更(ルート自体は変更せず)。表彰式を東京ドームホテルで公開して開催。箱根駅伝ミュージアムが往路ゴール脇に完成。予選会での外国人枠は2人までに限定。実際に走るのは1人のみ。第81回大会は明治大学が14年ぶり出場、駒澤大学が平成初の4連覇を達成。
  • 2006年(平成18年) 第82回大会より中距離ランナー、マラソンランナーの育成を目的に、往路小田原中継所の位置を東京寄りに変更。4区が20kmを切るコース(18.5km)、5区が最長区間(23.4km)になる。亜細亜大学が初優勝。
  • 2007年(平成19年) オープン参加だった関東学連選抜がこの年より正式参加となる。
  • 2008年(平成20年) 第84回大会で史上初の3校(順天堂大学〈5区〉、大東文化大学〈9区〉、東海大学〈10区〉)途中棄権。関東学連選抜が4位となりシード枠を1校分減らしたため、第85回大会の予選会枠が1つ増えることになる。
  • 2009年(平成21年) 第85回を記念してこの回のみ出場校を3校増やし、関東学連選抜を含めた23チームが参加。シード校9校と選抜チーム以外の13校を予選会で選考。上武大学が初出場[4]。青山学院大学が過去最長となる33年ぶりの出場。東京大学大学院の選手が関東学連選抜メンバーとして初エントリー。東洋大学が初の総合優勝(往路優勝、復路優勝も初)。城西大学が8区で途中棄権。関東学連選抜が9位に入ったほか、3位に入った日本体育大学のシード権が陸上部部員である高飛び選手の大麻使用歴及び偽札製作の不祥事(出場選手の不祥事ではない)により剥奪されたため、第86回の予選会からの出場枠が2つ増えることになる。

[編集] 歴代出場校順位成績

箱根駅伝の記録一覧#歴代出場校順位成績」を参照

[編集] 歴代本戦出場校一覧

箱根駅伝の記録一覧#歴代本戦出場校一覧」を参照

[編集] コースの特徴

箱根駅伝のコースマップ
  • コース途中の括弧書きは主な経由地、及び固定TVカメラ設置地点。通過道路名は国道・主要道以外は割愛する。応援の際はパンフレットなどで詳しいルートを参照されたい。
  • 各区間には給水ポイントがある。これは近年、チーム間で給水の必要性が議論され始めた末に設けられたものである(後述)。ただしマラソンなどで行なわれる給水とは異なり,テーブルに置かれたボトルなどを取るのではなく、控え部員が伴走しながら渡す。この他に選手の任意で一回の給水が認められている。
  • 往路戸塚中継所までは交通規制解除の関係上、トップが通過してから10分経過を以って未通過チームの選手をスタートさせる(繰り上げスタート)。これ以降の中継所はトップ通過から同様に、20分で繰り上げスタートとなる。この場合、襷は母校のものではなく大会本部が用意した「繰り上げ襷」を使用する。ただし、往路小田原中継所(4区→5区)と復路鶴見中継所(9区→10区)からの繰り上げスタートの場合のみ、母校の襷(予備)を使うことができる。また往路でトップ到着10分を経過した後に到着したチームは、復路では午前8時10分(JST、以下同)に繰上げての一斉スタートとなる。繰り上げ(一斉)スタートとなったチームの総合順位は見た目のタイム+繰上げ分の時間差を加算して算出される。

[編集] 往路(1月2日)

東京・大手町→箱根・芦ノ湖 5区間/108.0km

[編集] 1区(21.4km)

東京・大手町読売新聞東京本社前(往路スタート)→(東京都道409号日比谷芝浦線)→(田町)→(国道15号)→(新八ツ山橋)→(京浜急行電鉄空港線蒲田踏切)→(六郷橋)→鶴見中継所

  • 大手町・読売新聞東京本社前を午前8時に一斉スタートし、神奈川県の鶴見迄を走る区間。
  • スタート前から予め指定された場所で出場大学の応援団チアリーディングが母校の幟と共に応援合戦を繰り広げる。
  • スピードランナーや準エースクラスの投入が多い区間だが、集団になれば牽制などでスローペースになったり、それほど大きくばらけなかったりする傾向にある。その為、鶴見中継所に多数の選手が僅差で殺到する事が見られる。
  • また、スタート直後に飛び出して逃げ切りを狙う(俗に言う大逃げ)学校もあり、各校の戦術が現れる区間の1つである。
  • この区間で重要なのは「次につなげること(先頭の見える位置でたすきを渡すこと)」である。そのためブレーキを避けようとして、近年はペースが上がらないことが多い。
  • コース上の大きなアップダウンは新八ツ山橋と六郷橋のみ。この付近における選手同士の駆け引きも見もの。特に六郷橋付近では下りを利用してスパートをかける選手も多い。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#1区」を参照

[編集] 2区(23.2km)

鶴見中継所→(横浜駅前)→(国道1号)→(権太坂)→戸塚中継所

  • 第82回(2006年)から最長距離区間では無くなったが、それでも「花の2区」と呼ばれ続けているエース区間。
  • 箱根に限らず2区はその後の流れを決める重要な区間に挙げられる事が多いが、各校のエース級の選手はほぼ均等な力を持っている為、ペース配分のミスやアクシデント発生以外の理由では差が広がりにくく、この区間の結果が総合優勝争いに直結する事は殆ど無い。
  • 鶴見中継所から横浜駅前を経由して保土ヶ谷駅までは標高がほぼ0の平坦なコースであるが、其処からから権太坂までと戸塚中継所手前残り3km地点の急勾配があり、これら後半の難所をいかに攻略するかが最大のポイントとなる。
  • 上記の理由から鶴見中継所では差が付かない事が多く、ごぼう抜きや大ブレーキが頻繁に起こる区間でもある。エースの結果如何で後の流れが決まってくるとも言われる。
  • 上記のコースの特徴から判る通り、平坦コースな前半にペースを上げ過ぎると権太坂と中継所手前の後半の登りで力尽き、ブレーキが掛かる事がある。好タイム記録の為にはこの登りにいかに余力を残して臨むかがポイントとなり、第75回(1999年)では三代直樹は残り3kmの上りを快走した。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#2区」を参照

[編集] 3区(21.5km)

戸塚中継所→湘南新道→(藤沢)→国道134号→(茅ヶ崎)→(湘南大橋)→平塚中継所

  • 遊行寺の坂を下り須賀交差点を右折すると湘南海岸に出るフラットなコースで、難敵は海風位と言う障害が少ない区間である。
  • 従来はこの3区はつなぎの区間とされてきたが、近年は2区と3区をセットで考えることが多い。
  • その為、2区の流れを持続もしくは躓きを取り返すために力のある選手を置くチームも多く、最近はこの区間でもごぼう抜きが見られるようになった。特に、4区が最短区間に変更となってからは更に重要度が増している。
  • 東京から小田原までのコースは東海道線と接近している為、ファンは勿論、出場校の走り終えた選手やコーチ、監督、付き添いなどが電車を使って移動することが多い。従って、大会開催中は移動の車中で選手や監督などに遭遇することもある。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#3区」を参照

[編集] 4区(18.5km)

平塚中継所→(国道1号)→(大磯)→(二宮)→(酒匂橋)→(小田原市民会館前)→小田原中継所

  • 区間距離が大会唯一20kmを切る最も短い区間。第82回(2006年)にて、往路の小田原中継所が2.5km東京寄りに変更となった。(風祭鈴廣前→メガネスーパー本社前)
  • 距離の長さの割には平塚中継所から11.8kmの国府津駅入口までアップダウンが激しく、スピードが出にくい。故に4区よりも3区にスピードランナーを置く学校も多く、この区間はチームの10番手の選手を起用する傾向になりつつある。
  • これらの事から、他の区間よりも区間距離が短い割に1kmに平均3分以上かけて走る選手が殆どである。1km平均3分(55分30秒)を切って走った選手は85回大会までの計4回で4名しかいない。
  • なお、4区短縮の背景には、中距離で活躍する選手にも箱根に出場する機会を与えたいと言う関東学連の意向がある。
  • 晴れた日には選手の前方に富士山の雄大な姿を望む事が出来る。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#4区」を参照

[編集] 5区(23.4km)

新・小田原→旧・小田原→(箱根登山鉄道箱根湯本駅前)→(函嶺洞門)→(大平台ヘアピンカーブ)→(宮ノ下富士屋ホテル前)→(小涌園ユネッサン前)→(恵明学園前)→(芦の湯)→(国道1号線最高点)→(元箱根)→箱根・芦ノ湖(往路ゴール)

  • 俗に「山上り」と呼ばれる最長区間。
  • 標高差864mをおよそ20kmで駆け上がるため相当な脚力とスタミナが要求される他、向き不向きが最も如実に表れる区間。さらに第82回(2006年)から距離が長くなり、全区間最長となった。勿論、全区間の中で最難関でもある。
  • 特殊な区間故に大差がつきやすく、近年ではこの5区での逆転劇がしばしば起きており、今後5区を走れる選手を置くことが総合結果にも直結してくる可能性がある。その為スペシャリストが担当する事が多く、「4年連続同一区間走行選手数」が全区間中最多(35人)となっている。
  • 山上りが注目される区間ではあるが、反対に最高点を過ぎた残り4kmの下りが勝負といういわれ方もされる。事実上りと下りでは使用する筋肉が異なるので向き不向きがあり、またいきなり筋肉にかかる負荷が極端に変わることから寒さも災いして中には下りで痙攣を起こして立ち止まる選手もいる。
  • 小涌園手前には箱根登山鉄道踏切があるが、選手が通過する際には列車を踏切の直前で止めるという協力的な措置がとられている。
  • 5区および6区は非常に気温の低い山中を走る。平地とは温度差があるため5・6区を走る選手の中にはタンクトップではなく、袖のあるユニフォームを着用することが少なからずある。
  • 第80回(2004年)の金栗四三杯創設以来、5区で区間賞を取った選手が同賞を6回中5回(第84回以外)受賞している。また、この区間で圧倒的な実力を示した選手は「山の神」と呼ばれる事がある。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#5区」を参照

[編集] 復路(1月3日)

箱根・芦ノ湖→東京・大手町 5区間/109.9km

[編集] 6区(20.8km)

箱根・芦ノ湖(復路スタート)→(国道1号)→(芦の湯)→(小涌園ユネッサン前)→(箱根登山鉄道大平台駅前)→(大平台ヘアピンカーブ)→(函嶺洞門)→(箱根湯本駅前)→小田原中継所

  • 旧5区の裏返し区間で、「山下り」区間と呼ばれる。
  • 下りは予想以上にひざに負担が掛かる為、箱根湯本駅前過ぎからの残り3kmのほぼ平坦な道(若干の下り勾配はある)は選手にとって上り坂に感じると言われ、ここから1分以上の差を付けられる事もある。
  • この様な事情から、5区の距離延長と同時に6区の距離短縮も検討されたが、中継所の問題などから見送られた。
  • 「4年連続同一区間走行選手数」が5区に次いで多く(29人)、復路中最多。3番目である2区はこの半数以下となっており、山の上り下りという特殊性が現れている。
  • 区間記録は第76回(2000年)からコース変更後のもの(東海道杉並木を通るコース→元箱根を通るコースに変更。距離は変更前と変わらず)。変更前の第75回(1999年)に中澤晃(神奈川大学)が58分06秒という記録を出している。
  • 朝8時台のスタートと言う事もあり気温も低く、体温低下を防ぐ為に長袖のユニフォームで走る選手が多い。また、近年アームウォーマーを用いて体温調節をする選手も増えてきている。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#6区」を参照

[編集] 7区(21.3km)

小田原中継所→(小田原市民会館前)→(二宮)→(大磯)→(国道134号)→平塚中継所

  • ほぼ旧4区の裏返し区間。
  • 10区間中最も走りやすい区間と言われるが、前半の小刻みなアップダウンのほかに山から海に出る際の大幅な気温の変動に注意したい。
  • 大磯には道の中央に松並木がある。この松並木は冬が来る前に地元住民によって藁を幹の周りに巻くなどの手入れがなされている。近年はこの木を地元学校の総合学習に生かすこともあるという。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#7区」を参照

[編集] 8区(21.5km)

平塚中継所→(湘南大橋)→(茅ヶ崎)→(浜須賀交差点)→湘南新道→(藤沢)→国道1号→戸塚中継所

  • 3区の裏返し区間。前半はフラットで走りやすいが、藤沢を越えると通称「遊行寺の坂」が待ち構えるタフなコース。ここでどれだけ力のあるランナーを置けるかが逆転・シード権獲得への鍵となる。
  • この区間は太平洋側気候内陸性気候の境目にあたる為、特にスタート時とゴール時の気温差が激しく、なおかつ日差しが強いと遊行寺の坂付近で脱水症状を起こしやすい。ここでブレーキを起こすと後の2区間に大きな影響を及ぼすこともあるため、体調管理も重要な区間と言える。
  • この区間は当日のエントリー変更が多く、3分の2近くが入れ替わることもある。
  • 区間記録は現在のコースで最も古いものである。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#8区」を参照

[編集] 9区(23.2km)

戸塚中継所→(権太坂)→(横浜駅前)→国道15号→鶴見中継所

  • 2区の裏返し区間で、復路のエース区間。各校のキャプテンが集うことが多い。下り主体のレイアウトだが、長い区間なのできっちりとしたペース配分が必要。
  • 交通の便の良さが手伝ってか、例年横浜駅前には大勢の駅伝ファンが押し寄せる。
  • 鶴見中継所の手前は他の中継所と異なり引き込み口からリレーゾーンまで数百メートルの直線があるため9区のランナーが繰り上げスタート直前に引き込み口に入ってきても繰り上げスタートに間に合わなかった場合、次走者(アンカー)がすぐそこに見えているにも関わらず襷をつなげず次走者がスタートしてしまう光景が過去に幾度も見られる。
  • この区間での成績が総合成績に最も影響するといっても過言ではない。事実、この区間は逆転が非常に多く近年では第75回(1999年)の順天堂大学、第79回(2003年)と第84回(2008年)の駒澤大学、第82回(2006年)の亜細亜大学がいずれも9区での逆転に成功し総合優勝を成し遂げている。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#9区」を参照

[編集] 10区(23.1km)

鶴見中継所→(六郷橋)→(京急空港線蒲田踏切)→(新八ツ山橋)→(田町)→(都409)→(国1)→(日本橋)→東京・大手町読売新聞社前(復路ゴール)

  • 日本橋経由のコースになったのは第75回(1999年)から。コース全体はほとんどフラットだが、時折ビル風が選手を襲う事もある。
  • 最終区間である上に、沿道の観衆も増える事からプレッシャーが一層かかる区間。ここ数年で各チームとも準エースクラスを配するようになり、選手層の厚さが問われる区間になりつつある。
  • コース中には京急蒲田駅に隣接する蒲田踏切があり、ランナーの通過が予想される時間に電車の行き先を変更する。列車の発車は京急社員の代用手信号によって許可されるなどの措置が取られる(第83回(2007年)から)[5]。万一止められてしまっても止まっていた時間はロスタイムとして大会本部で計測され、差し引かれる。現在、この区間の立体交差化事業が実施されている。第84回(2008年)では東海大の選手が踏切内の線路につまづいて足を痛め、その後20km過ぎで棄権に至るというアクシデントが発生した。

区間賞については

箱根駅伝の記録一覧#10区」を参照

[編集] 出場チームの取り組み 〜1年間の流れ〜

  • 3月頃まではハーフマラソンなどのロードレースに出て刺激を受ける選手も多い。そのうちに少しずつスピード練習を取り入れていくが、急激な練習の変化で肉離れなどが起きやすいとも言われる。近年はこの時期に合宿を組む大学も現れている。
  • 春の目標は5月中旬の関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)である。参加標準記録があり種目毎のエントリー人数も限りがあるので、それまでは各大学などで行われる記録会で標準記録を突破する必要がある。日本体育大学、東海大学、順天堂大学などが主催して大学内で行う長距離記録会が有名で箱根出場大学や一部の実業団選手、高校生も出場する(この標準記録も有効期限内のものでなければいけない。大体至近2年ぐらいであることが多いようである)。予選会出場校はこの関東インカレの結果によってアドバンテージポイントが決定されるため、長距離部門以外の種目の結果も重要になってくる。6月中旬には全日本大学駅伝関東地区予選会が開催され、シード校を除く多くの大学が顔を合わせる。7月上旬の日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)が上半期の締めくくりとなるが、出場の敷居は関東インカレよりも更に高い。なお日本インカレはここ数年開催時期が頻繁に変わっているが、これは箱根駅伝に重きを置く関東の大学の意向が反映されているとも言われる。しかし開催時期が夏合宿中の9月上旬の年ほど大学によってエントリーに差が出やすく結果的に関東インカレよりもレベルの低いメンバーしか集まらないこともあり、後述される駅伝偏重に繋がる批判の矢面に挙げられている。
  • 一部のトップ選手の場合には日本選手権など世界陸上やオリンピックへの出場を目指して実業団選手と走ることもある。また、近年は関東学連による海外遠征に参加する選手もいる。
  • 大学によって時期のずれはあるが、試験の終わる7月下旬からが夏合宿となる。長期間の合宿を組むところや、何回かに分けて練習場所を変えるところもある。また選手の状態に合わせてAグループとBグループに分け、全く別の場所で行うところもあり練習のスタイルも異なる。しかし月間で1000キロを超えることは珍しくなく、徹底した走りこみを行うことが特徴である。合宿の場所は北海道東北地方長野県などの高地や避暑地などが多い。また、前出の世界大会などに出場する選手はチームを離れて別メニューとなることが多い。4年生の場合には就職活動卒業論文などと並行しながら行っている。また教員免許をとる選手の場合には夏、または秋以降に教育実習もあるためにチームを離れることも多くコンディションづくりも容易ではない。
  • 下半期になると各大学のスタイルは記録会にほとんど出ない所、予選会突破を目指す所、出雲駅伝や全日本大学駅伝を目指す所というように分かれてくる。特に駅伝では未経験者を試しに使ったり、様々なオーダーを試したりする使い方をする。9月頃からは再び頻繁に記録会がある。
  • 予選会に出る大学にとっては10月中旬の本番までに最高の状態にピーキングを持っていかなければならない。従って予選会を突破することが最優先のため、本番の準備(特に5区、6区の山の区間)が遅れがちになる傾向にある。
  • 全日本大学駅伝のあとから短期の合宿を組む所もある。候補としては伊豆大島房総半島など温暖な所があげられる。
  • 11月下旬に各地で開催されるハーフマラソンや記録会が事実上メンバー選考の舞台となることが多い。エースクラスはともかく、当落線上の選手達にとってはここが正念場である。多くの大学が一堂に会するので、次第に大学間の力関係も浮き上がってくる。ここでの選手記録上位校がスポーツ新聞などの「下馬評」で上位校として取り上げられることが多い。
  • 12月10日(第82回は2005年12月9日)までに出場校(チーム)は計16名のエントリーを関東学生陸上競技連盟に提出する。この16人がすなわち箱根駅伝本番への出場権を得た選手と言える。これ以外の選手は付き添いなど、裏方として本番までを過ごす。なお、当日午後から出場校の監督コーチマネージャーがマスコミ向けに記者会見を行う。
  • 12月29日にエントリーした16人の区間エントリーを行う。16人を10人と6人に分け10人を1区から10区までの区間毎に、残りの6人を補欠選手として登録する。区間エントリーの詳細については後述。
  • 1月2日午前7時に往路のエントリー変更を締め切る。
  • 1月3日午前7時に復路のエントリー変更を締め切る。

[編集] 区間エントリーの方法

  • 区間エントリーは1区から10区までに、エントリーされた選手と補欠選手とに大別される。そして、選手には主催者側が用意したナンバーカードが配布される。ナンバーは1区から順に1、2…となり、補欠選手は11番から16番までとなる。既に区間毎に配置された選手はその区間しか走ることができない。逆に補欠選手は当日のエントリー変更でどの区間にも入ることができる。言わばジョーカー的な意味合いを持つ。つまり往路、復路のエントリー変更とは区間毎の選手と補欠選手間での変更のことで区間毎の選手を変えることはできない(例えば2区に補欠から選手を入れることはできるが、2区と4区の走者を変えることはできない)。また、区間エントリーで補欠選手と交替した選手は走ることができない。従って当て馬的な要素もある。
  • 傾向としては往路での変更は比較的少なく、復路で何人かを変えてくることが多い。また、各校のエースが集う2区の変更が最も少ないようである。逆に言えば、補欠選手になるのはエースとまでは行かないもののそれに準じる選手や力がありながら調子が上がらない選手、全くの無名選手…などが考えられる。近年ではいずれかの区間を走るべき確実な力のある(かつ調子のよい)選手をあえて補欠登録して、往路の結果を見ながら復路のいずれかの区間に投入する作戦を取る大学も見られるようになった。優勝を狙うチームはライバル視するチームの配置を読んだ上で自チームのそれを考える必要がある。逆に予選会を勝ちあがってきたチームや苦戦が予想されるチームの中は往路重視の布陣を敷いてくることが多い。選手層が薄く、後半区間での巻き返しが難しいため、エースクラスを序盤に配置することで落ち込みを避けるのが狙いである。またどのチームも特殊区間である5区、6区については候補を複数用意していることが多い。これは他の区間とは違い、コースの特殊性故に突発的なアクシデントなどによる急な抜擢が難しい(起用しても適性がない選手が走ることになるため、結果は芳しくないことが多い)ためである。
  • 4区以外の9区間が20キロ超という長丁場であることを考慮し、体調不良など万が一の状況に備えて選手の交替が認められている点が他の主要駅伝とは大きく違う点である(ほとんどの主要駅伝では医師の診断書が必要である)。また、なかなか調子が上がらない選手の様子をぎりぎりまで見るという点でも補欠温存ができるのは非常に大きい。
  • 現行の16人エントリーになったのは第79回(2003年)から。背景にはここ数年で体調不良によるブレーキや怪我による途中棄権などが相次いだことで、主役である選手の健康を最優先した主催者側の配慮と言えよう。
  • 第82回(2006年)までは区間エントリーの際にメンバーを16人から14人に減らす必要があったが、第83回(2007年)より区間エントリーでも16人のまま登録することができるようになった。従って補欠選手はそれまでの4人から6人に増えた。但し往路・復路の当日エントリー変更は従来通り4人までの変更に限られる。

[編集] エピソード

箱根駅伝は日本のスポーツの中でも長い歴史を持つイベントである。そのために様々なエピソードが生まれた。

[編集] 黎明期

元々箱根駅伝は、日本人によるアメリカ大陸横断のための予選会という位置づけで創設された。そのためにロッキー山脈越えを想定し、コースの中に山がある箱根のコースが選ばれた[6]

黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった。また「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をしたあとで午後からスタートすることもあった。このためにレース途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかった。実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走したために事なきを得た。

山登りの5区は当初はスタートとゴールしか決まっておらず、出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた。しかし前述のように選手を心配した地元の人たちが松明を持って伴走するなど協力があったので、結局は近道をするチームはなく全チームが無事に走り終えることとなった。山登りのあまりの苦しさに、道端の木にしがみつき泣きじゃくる選手もいたという。

あるチームは選手の代わりにをもらった人力車夫が走ったこともある(この人物の正体は今も不明だが、快走した模様)が、翌年の出場を辞退せざるを得なくなった。

勤労学生の出場で二重登録による失格処分になったり、ゴール直前で失神した選手を関係者がラインまで引きずりこんだにもかかわらず失格にならなかったりと失格に関する基準も曖昧だった。なお箱根駅伝関係の書籍に出場校の歴代全成績がよく掲載されているが、公式順位がついているものの実際には失格扱いになっている大学がいくつかある模様である。このようにかつての成績については資料によって若干の違いが見受けられる。

第二次世界大戦前は学制の違いもあり、大学予科から大学本科まで入れると5回以上の出場が可能だった。大学専門部から予科を経て本科まで通い、最高で8回出場を果たした選手がいる。

[編集] 第二次世界大戦後

大学進学が現在ほど一般的ではなかった時代は1チームを組むこと自体が難しかった。そのため、戦後すぐの頃までは他の種目の選手が起用されることは決して珍しいことではなかった。同じ陸上競技でも短距離や跳躍、投擲選手が起用されたことはまだいい方でラグビースキーの選手が登場した例も多かったという。現在でも高校から陸上を始めた選手は多く見受けられ、中には高校時代も陸上競技以外の部活動に入っていた選手もいる。また、1970年代頃までは実業団経由で入ってきた選手も多かった。

かつては戸塚中継所の近くにある東海道線横須賀線の踏切(戸塚大踏切)を通るコースが設定されたが開かずの踏切だったため、状況によっては長時間の立ち往生を余儀なくされた。当時は踏切での足止めによるタイムロスが計算されず業を煮やした選手が踏切上で立往生した貨物列車のすき間を掻い潜ったり列車が来ない合間を見計らって踏切を突破することもあった。1939年第20回大会では先行する専修大学を猛追していた日本大学が、ここでの足止めがもとで優勝を逃したというケースもあり、このタイムロスを味わった選手は「あの時以来横須賀線には乗らない」と振り返っている。しかし1953年、当時首相の座にあった吉田茂が自分の別荘へ帰る際にこの区間が渋滞することに激怒、同区間の交通渋滞対策が急遽実施されることとなり国道1号不動坂交差点から戸塚大坂上(現在の戸塚中継所付近)に通じる道路(通称「ワンマン道路」)が造られ、これによって結果として戸塚大踏切での足止めが解消された。

1960年代から1970年代にかけては体育系学部を擁する大学が台頭してきたが、この頃は学生運動の時期と重なりそれが好成績にも影響しているとの説もある。

選手にアクシデントがあった場合には控え選手を乗せた伴走車を前の中継所まで引き返させ、そこからの再スタートをとる方法が存在した。現在は交通への影響や選手の安全上、認められていない。またこの伴走車には各校の応援団が大挙して乗り込み選手に声援を送っていたが、危険であるため河野洋平が廃止させた。現行のルールでは行為が発覚した時点で失格となることが考えられる。

[編集] 近年

表彰式では総合優勝校に優勝旗が授与されるが、前年優勝校が大学に置いたままにしていたために慌てて取りに帰り表彰式の開始時刻が遅れたことがあった。

テレビ中継が始まった頃からPRの目的でユニフォームを変更する大学も見られた。繰上げの襷の色が早稲田大学の襷の色に見えるという理由で白と黄色のツートンカラーに変わった。

第63回(1987年)では最終10区を走っていた順天堂大学のランナーが突然興奮して飛び出してきたファンと接触し転倒するも動揺することなく走り続け、優勝のテープを切ってゴール(なお、この年にはテレビ放送の全国中継が開始されており、その影響が招いた事件だとも言われている)。

これまでごくまれに悪天候(=降雪)下で開催されたことがあるがこのために交通手段が影響を受け、選手や関係者が到着できずにあわや失格の危機に瀕した事例もある。

緊張のあまり襷をせずに走り出して、慌てて戻ってきた選手もいた。

箱根山中で箱根登山鉄道の踏切に駅伝の隊列が引っかかり、止むを得ず選手を先に行かせて関係車両が後から追いかけるハプニングもあった。最近ではバイクカメラによる中継で選手を後ろから追うことも多くなっているが、このハプニングの際には通常は選手の正面から撮影している大型の中継車が選手の後姿が放映するという、当時としては珍しい映像が放送される事態になった。

大会を支えているのは関東学生陸上競技連盟に加盟している加盟校である。創設以来の学生主体を現在も守り、沿道の走路員スタッフとして学生が起用されている。箱根駅伝に出場するチームで選手や付き添い以外の部員、予選会で落選したチームの選手のほかにも1年生を多数スタッフとして送り込んでくる大学、トラック&フィールドも抱える大所帯の大学からも多数のスタッフが派遣される(過去には末續慎吾為末大なども走路員としてスタッフに加わった)。このことからも分かるように箱根駅伝は実は単に長距離選手だけで行われているのではなく、多くの裏方に支えられている。その裏方とは種目は違えど、一緒に汗を流すチームメイトでもある。

前回大会でシード権を逃した大学と、次の大会の予選会で本選出場権を獲得した大学が全て一致するという事態は、過去に予選枠が6校だった第56回-第57回、第61回-第62回と、予選枠が9校になってからでは第82回-第83回の計3回しか起きていない。

沿道で配られる読売新聞社と報知新聞社の応援小旗には懸賞応募券が付いている。これは使い終わった小旗を観客が沿道に捨てるのを防ぐための工夫である。ちなみに2007年の懸賞は1等から8等まであり、1等は「箱根ホテル小涌園 宿泊招待券」だった

一度大学を卒業したが箱根を走りたいと言う思いだけで有力校に再入学し、箱根を走った選手がいた。

[編集] 大会・運営そのもの以外の箱根駅伝にまつわる話

※報道に関するエピソードは当該節(報道に関するエピソード)を参照のこと。

第79回(2003年)では、本番間近の頃、大学近くで万引き犯を見つけた専修大学の選手が「俺は絶対に箱根駅伝を走るんだ。どこまでも追いかけてやる」と犯人を取り押さえ逮捕に貢献。この選手は実際に本番で走ったが腹痛で区間最下位に終わり「前を行く選手までは捕まえられなかった」と新聞のネタにされたものの、一連の善行で知名度が上がりその本番では「沿道から名前で呼んで応援してもらえて、とても嬉しかった」と喜んだ。

2005年3月には芦ノ湖畔に箱根駅伝を題材にした箱根駅伝ミュージアムがオープンした。スポーツを題材にした博物館は多いが、1つの行事として[7]博物館化されることは極めて珍しい。運営は富士屋ホテルが行っている。

[編集] 箱根駅伝が抱える問題

一連の問題については生島淳著『駅伝がマラソンをダメにした』[8]の中でも触れられているが、同書は主に箱根駅伝についての問題点を指摘している。

箱根駅伝をめぐる問題は最近の人気沸騰によって、逆に多くの問題が浮き彫りにされてきた。以下に主要な議論をまとめる。なおこれらを解決すべく、関東学連に設けられた「駅伝対策委員会」の存在に期待が集まる。

[編集] 過去の問題

第二次世界大戦前から終戦直後にかけては学生数の絶対的な不足もあって、1チーム10人のメンバーを組むこと自体が困難だった。そのために他種目の選手が多用されたことは前述の通りである。従ってレースも10校以下で行われることが多かった。

モータリゼーション化で交通渋滞が増えてきたのが高度経済成長の頃。全国的な知名度はまだ少なかったがコース沿線地域での人気は高かったため、コース周辺の交通渋滞に警察からも開催中止要請が出たこともあった。主催者側と警察側との折衝で15校制や繰上げスタートなどのルール改正がなされたことにより、中止要請は出なくなり15校制は第78回(2002年)まで続いた。

[編集] 留学生

テレビ放送開始と共に登場してきた山梨学院大学は出場3年目にしてアフリカ人留学生の選手を呼び入れた。主催者側の判断により箱根駅伝を外国人選手が走ることができるようになり、その圧倒的な走りで新風を巻き起こした。

1980年代後半からレース全体のスピードアップが進んだことにも、留学生の登場が大きく影響している。その一方で留学生起用に対しては現在でも賛否両論が多い。既に全国高校駅伝ニューイヤー駅伝では外国人選手の起用制限事項(1チームあたりのエントリー数、起用区間の制限など)があるが箱根駅伝でも第82回(2006年)からは制限事項を設けると言う話もあり、実際に2005年秋の予選会ではエントリーは2人、出場は1人となっている。

制限事項を設けることは国際化の流れに逆行するという意見の一方で外国人選手と日本人選手との能力差が大きい場合もあり、その不公平感解消のためにも制限は当然とする考え方(国内大会に“助っ人外国人”を用いてよいのかという意見)も存在し現在進行形で議論が進んでいる。現在は留学生をチームのメンバーとして使うことはルールでは禁止されておらず、出場は各チームの判断に委ねられる。

なお、白人・アジア系留学生が選手として選ばれ出場した例は皆無である。

[編集] 途中棄権

これまでの途中棄権校
  • 第25回(1949年) - 神奈川師範(3区)
  • 第34回(1958年) - 横浜市立大(9区)
  • 第52回(1976年) - 青山学院大(10区)
  • 第71回(1995年) - 順天堂大(10区)
  • 第72回(1996年) - 神奈川大(4区)、山梨学院大(4区)=2校
  • 第77回(2001年) - 東海大(2区)
  • 第78回(2002年) - 法政大(2区)
  • 第84回(2008年) - 順天堂大(5区)、大東文化大(9区)、東海大(10区)=3校
  • 第85回(2009年) - 城西大(8区)

(以上延べ10校・12件)

1970年代までの50回以上行われた大会の中で僅か3件しかなかった途中棄権が、1995年以降の15年間で9件も起きている。特に第84回(2008年)では3校が途中棄権、第72回(1996年)では2校が途中棄権している。また第77回(2001年)には東海大学が、翌第78回(2002年)には法政大学が共に2区という早い段階で途中棄権している。その他にも棄権には至らないものの故障や体調不良によるブレーキの事例が例年続いている。

チーム競技である駅伝の特性上、体調を崩していても故障を起こしても選手は「襷をつなぎたい」と思うが故に指揮官としてもなかなか止められないという側面もあるが場合によっては選手生命にも影響を及ぼしかねないため今後の重要課題となっている。

第79回(2003年)からはエントリー数の増加に際し本番までのチームマネジメントに余裕を与えるよう配慮がなされたが成績が良かったりチームのまとめ役だったりすると体調が悪くても本人の責任感もある上、監督としてもチーム事情ゆえ出場させてしまうという問題は変わっていない。

第84回(2008年)では順天堂大学、大東文化大学、東海大学の3校が途中棄権するという史上初の事態が生じた。同一校で2度の途中棄権(順天堂大学、東海大学)も史上初。前年優勝校による途中棄権は第72回(1996年)の山梨学院大学に続き2校目である。特に脱水症状による途中棄権やブレーキが増えている傾向にあり既に大会関係者やファン、メディアなど各方面から改善を求める声がみられる。

途中棄権については「競技実施要項」において、「競技者が競技中に故障などによって走行困難となり、歩行、立ち止まり、横臥の行動に移った場合、本人がなおその競技続行の意思を持っていても、運営管理車に同乗の競技運営委員、走路管理員、監督またはコーチの三者合意により競技を中止させる。競技の中止は競技運営委員が赤旗をあげ、走者にマイクで通告することによって示す」と規定されている。

なお途中棄権した区間以降の区間にエントリーした選手については、オープン参加扱いとなり記録は非公認(参考記録)となる。第85回(2009年)では復路8区で途中棄権した城西大学が9区で区間1位を上回るタイムを記録したが、参考記録のため区間賞にはならなかった。かつては個人記録および一部のチーム記録(往路で途中棄権した場合は復路のチーム記録のみ)が公認されたことがあり、第72回(1996年)では往路4区で途中棄権した山梨学院大学が10区で区間賞を獲得、また神奈川大学が7区と9区で区間賞を獲得している。

[編集] 駅伝偏重とインカレポイント

大学経営策の一環として、箱根駅伝にPR効果を期待する大学が増えている。そのため「陸上競技部」と称しながら実際には長距離部門を中心に運営している大学や挙句の果てには「駅伝部」を称する大学も見られ、「トラック&フィールドの軽視」「駅伝偏重」が問題視されている。

予選会に出場する大学の中には予選会に全力を傾けるため、インカレへの出場に消極的になりがちな大学もある。駅伝競技に限ったことではないが合宿や遠征などで長期に授業を欠席する・それが許される状況が発生しているチームの存在もささやかれていて、「学生の本分」の観点からの指摘もされている。

次第に大きくなる箱根人気によって一連の流れが全体的に加速傾向にあり、箱根駅伝が大学側のスポーツ選手の受け入れ体制に与えている影響が強くなっており学生でもある選手のスカウトの激化に疑問や警鐘を鳴らす声もある。

予選会の成績に関東インカレのポイントを導入した背景には上記の「駅伝偏重」対策が大きく影響している。主催者側も箱根駅伝を「世界に通じる陸上競技者の育成」としており、その原点に立ち返る意味で導入した。しかしこのポイント制の恩恵を受ける大学は限られるためにかえって不公平だとする声もあり、加えて「競走成績以外の要素で順位が入れ替わる」ことを疑問視する声は多い。

実際にインカレポイントでの逆転が続いているため、実施の見直し論など現状では最も大きな論議の的になっている。制度導入も水面下で進められていたとはいえ、その年のインカレが終わった後で発表されたことを含め導入までの経緯に不透明な部分もあった。予選会敗退校の悲哀を伝える映像づくりというマスコミ報道の影響で、予選会直後に視聴者やファンの間で議論を呼ぶ傾向が強い。

このシステムは導入時から物議を醸しており現在も議論が続いている。関東学連も導入後5年を経過した2007年を機にシステムの再構築も考える可能性を残している。一方で廃止論などに対して沢木啓祐は「たまたま同じ大学が悲劇の対象になっているだけ」という見方を示し、既に導入から5年経過しており各大学とも対策を練っていると廃止論は一蹴。青葉昌幸も「出場枠増にも様々な経緯があるだけに、そのような事情を知らないで(落選したチームが)かわいそうだと言われても困る」とコメントしている。

総じて学連側は見直し論については当初の予定通り検討、第84回(2008年)の予選会よりポイント方式が変更されたものの廃止には否定的な見方を示している。

しかし陸上競技の中で駅伝、とりわけ箱根駅伝を年間の最大目標に挙げトラック&フィールドには目をくれず駅伝偏重に走る大学は後を絶たない。未出場校は出場によるPR効果を期待し、常連校は箱根駅伝での優勝や上位争いに走る傾向はなお続いている。

[編集] 選抜チーム

第79回(2003年)から参加が認められるようになった選抜チームのメンバーは、予選会で落選したチームに所属する選手のうち個人成績で上位に位置する選手から、各校最大2名までの枠内で選抜される。このようなチーム編成については一部で議論が見受けられる。

第80回(2004年)では日本学生選抜としての参加だったこともあり見事に6位相当の成績を収めたが、通常の関東学連選抜の場合には下位に低迷することが多く「予選会で次点に泣いたチームをもう1校出す方が良かった」と揶揄する声も聞かれた。

もっとも、日本学連選抜チームとしての出場の機会しかない関東以外の各地区の学生が最初から選抜チームのメンバー入りを目指し練習してきたのに対し、関東学連選抜チームの場合、所属大学の一員として箱根駅伝に出たいと言う気持ちがあるのは普通のことであり、予選会で落選したショックから僅か2ヵ月後の本番に選抜チームとして招集されたとしてもモチベーションが上げにくいことも事実である。

このような意見もある一方、選抜チームの経験をチームに持って帰り次回へのモチベーションとすることは大いに意義のあることであり、参加選手からは「この経験を母校に持ち帰り来年に生かす」との声も聞かれ、後年予選会を勝ち抜き本選出場を果たした大学もある。

選抜チームは当初はオープン参加とされ、チームとしての順位等は公式には記録されず、個人の区間成績と区間順位のみが公認されていたが、第83回(2007年)からは正式参加とされ、チーム成績が公式に記録されるようになった。これに伴い、選抜チームがシード圏内の10位以内に入った場合には、次回大会のシード校が1つ減る代わりに予選会出場枠が1つ増やされることとなった。

これにより全体のレベル拮抗が予選会参加校のレベル向上へと結びつき、第84回(2008年)では関東学連選抜が総合4位という好成績を収め、続く第85回(2009年)も総合9位となり、2大会連続してシード圏内入りを果たした。予選会出場枠が1枠増えることにより自身の所属大学の翌年の箱根出場の可能性が僅かながらも広がることから、関東学連選抜の存在価値が増し、そのレース順位が大きな意味を持つようになった。

なお、第80回(2004年)に出場した日本学連選抜については、「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」第12条において、5年ごとの記念大会での参加が認められてはいるが、第85回(2009年)については記念大会であるが日本学連選抜ではなく関東学連選抜が選抜チームとして出場している。

[編集] 門戸開放

箱根駅伝は大学三大駅伝と言われているが、前哨戦でもある出雲駅伝、全日本大学駅伝は日本陸連の協力団体という関係にある日本学生陸上競技連合が主催なのに対し、箱根駅伝は日本学連傘下の一地方学連である関東学生陸上競技連盟の主催にすぎない。この点からも箱根駅伝と前哨戦である2つの駅伝には大会としての格差がある[9]全国大会である全日本大学駅伝があるにもかかわらず関東の大学にとっては年間の最大の目標が箱根駅伝に置かれている[10]。そのため、出雲駅伝と全日本大学駅伝を箱根駅伝の前哨戦という意味合いで戦いベストメンバーを必ずしも送り込まない関東の大学も少なくない。

この2つの前哨戦とのバランスが問題視されている。また、関東大会である箱根が最大のイベントになったことで、他の大学スポーツと同様に長距離の人材の東京一極集中が起こっている。

また出場校の条件として関東学連所属以外の大学が出場できない(記念大会などでの特別招待を除く)ため、テレビ報道の影響により箱根駅伝が全国的に知名度が高いスポーツイベントになったことで他の地域の大学にも門戸を開くべきであるという声がしばしば発生する。

関東学連では1960年代に予選会への出場を他地域のチームに開放することを検討したことがあるが、予選会への参加を全国に開放した場合には全国大会となるため、大会の主管を日本学生陸上競技連合へ移管しなければならない事情が発生する。開催の主導権が変わることを避けたかった関東学連有力校OBが中心になって反対したため、結局この時の門戸開放は実現しなかった。

この動きを受けた他の学連は関西学連・東海学連が中心になり、箱根より高い権威を持つ全国大会を創設する目的で全日本大学駅伝の創設に導いた。こうした事情があるため関東学連は全日本大学駅伝の創設に最後まで反対、これ以降は箱根駅伝を関東以外の大学に開放しようという意見は消滅することになる。なお、2009年1月3日付のSponichi Annex記事では、2014年開催予定の第90回大会では記念大会による増枠分3枠を関東以外のチームに与えるとの報道がされているが、学連選抜としてなのか単独チームとしてなのかは明らかにされていない[11]

しかし近年、全日本大学駅伝の出場校が関東の大学と他地域の大学で実力差が如実に出るようになった。これは男子学生陸上競技界特有の現象であるとされる[12]。上位をほぼ全て関東の大学が占める一方で地方から出場している大学が半分も行かない地点で既に繰り上げスタートになってしまう事態が発生するに至って、全日本大学駅伝の権威が著しく低下している。そのため、西日本にも箱根駅伝と並び立つ地方大会を創設しようという動きも発生している(詳細は全日本大学駅伝対校選手権大会を参照)。

文部科学省では現在でも全国大会は実力本位の大会と選抜大会の2つしか開催しないよう学生競技団体へ指導を行っており、箱根駅伝が国内の全大学に門戸開放されると全国大会として運営されている全日本大学駅伝対校選手権大会との関係が問題となる。しかし現実には箱根駅伝が現存する日本の駅伝では最も古い歴史を持つ大会であり、知名度も高いことを勘案すると、長年に渡り主催してきた関東学連が箱根駅伝を廃止することは考えられにくい。

[編集] 箱根駅伝不要論

マラソンなどで華々しい活躍をする近年の女子長距離に比べて、男子長距離が近年低迷している理由を「(選手やスタッフなどを含め)大学が箱根駅伝にとらわれすぎている」とする評論家が「箱根駅伝不要論」を展開している。「かつては瀬古利彦谷口浩美など箱根駅伝からオリンピックなどの世界大会に羽ばたく選手もいたがそれは箱根駅伝が牧歌的であった時代の選手である」という主張である。

従来はテレビ東京によるゴールのみの放送だったのが後述の通り1987年から日本テレビによる放送が始まると大学間の宣伝・PR的な側面も見せ始め、結果的に勝負至上主義的な駅伝競走となっていった。その結果、下記のような弊害を見せ始め「不要論」として語られるようになっている。

[編集] 駅伝重視によるトラック軽視傾向

「夏季に行われる選手権マラソンは、スピード勝負ではなく耐熱勝負」と言われる中で2008年の北京オリンピックは夏季のマラソンにして超ハイペースで進行し、旧来の耐熱型マラソンの調整を行った日本勢は惨敗した。

その惨敗した原因の矛先が5000、10000mを目指すにはスピードが足りず、マラソンを目指すにはスタミナが足りず、また選手権でよく見られる激しい駆け引きもない中で決められた20km強(おおよそでハーフマラソン)の距離を決められたペースで走ることのみのスペシャリストを育成する箱根駅伝に向けられた。

2004年のアテネ五輪の女子マラソンで優勝した野口みずきはかつて「ハーフマラソンの女王」と呼ばれたことから、箱根駅伝肯定派は「箱根駅伝の駅伝重視がマラソン向けスピード・スタミナの減退を促しているわけではない」という主張をおこなっている。

しかし野口の指導者である藤田信之は20歳前後の教え子にはトラックレースで実績を積ませ、その上で能力がついた選手に初めてマラソンにチャレンジさせ(それ故に藤田の指導する選手はマラソンの失敗が少ない)且つマラソンの進んだ選手にもアーサー・リディアードの提唱するリディアード式のトレーニングを取り入れ、記録・順位に関係なくスピード強化のため10000mのレースに出場したりチームで1600mリレーに出場させたりするなど、トラックレースの活用を上手く行う指導者であり決してトラックを軽視する指導を行っていない。

しかし現状では上記の通り、世界のマラソン界はスピード重視の傾向が強まっている中、ジュニアからシニアへの育成時期に当たる大学生には長いと言われスピードはないがしろにしてでも20km前後のスペシャリストを育成するハードスケジュールを科し、しかも2008年には日本インカレが夏季合宿から駅伝期に向けた時期にあった関係から上位入賞が期待された選手が所属しながらエントリーも行わずインカレの期間に合宿を行った大学まで出現し駅伝重視のためトラック軽視、スピード軽視の傾向が強くなっていることに批判が出てきている。

[編集] 箱根駅伝燃え尽き症候群

箱根駅伝人気に火がついたバブル期以降の選手には箱根駅伝においては怪物的な記録を出したものの、社会人になってから箱根駅伝で燃え尽きてしまった選手が散見される。早稲田大学出身で、現・同校駅伝監督の渡辺康幸や山梨学院大学出身のジョセフ・オツオリなどがその典型としてしばしば名前が挙がり、批判を受ける原因になっている。

[編集] 故障や疲労による成長の鈍化傾向

現・早稲田実業学校 陸上部監督の武井隆次は、早稲田大学時代に箱根駅伝で4回連続の区間賞(区間新3回)を記録した。武井はインターハイで1500、5000mで2冠を獲得し大学進学後も2年生の全日本インカレで5000、10000mの2冠を達成するほどトラックで将来を嘱望されていた選手だった。

しかし高校時代からトラック、駅伝と季節を問わずフルに走り続けた影響からか大学3年生の頃よりやや精彩が欠け始める。

結果、(上記の通り)武井は4年連続で区間賞を獲得するが実業団(ヱスビー食品)に進むも長い故障に苛まれることとなる。そして、シニア以降の日本代表歴は29歳の時のアジア大会・マラソンのみに留まることとなった。

武井の件は一例に過ぎないが大学卒業後に在学中から抱えていた故障が悪化した、もしくは慢性疲労による不調が就職後から長期間続くことで才能がありながら競技者として結果を残すことができずに引退する選手が多数見られる。1度で良いから箱根を回避して体調の建て直しを行っていればというケースも見られることから、箱根駅伝による過剰な酷使が選手の成長面で悪影響を及ぼしている可能性が指摘されている。

[編集] 大学陸上部関係者による不祥事とその対応

大学陸上部関係者が事件や不祥事を起こした場合、各大学で相応の処分がなされるほかに、箱根駅伝参加大学に対しては競技団体である関東学生陸上連盟が関東学生陸上競技連盟規約に基づき審査を行い、当事者又は所属大学に対して罰則を与えることがある(規約第62条)。

近年発覚した事件・不祥事の概要と処分
  • 2008年12月1日、85回大会(2009年)のシード校である東洋大学の陸上部員(駅伝選手)が、電車内での強制わいせつ容疑で現行犯逮捕されるという事件を起こした。本大会出場大学所属の陸上部員による不祥事が発覚したのは、これが初めてのことであった。箱根駅伝本大会まで一ヶ月を切った時期ではあったが、東洋大学はこの問題に対する処分として、当該学生の退部処分と監督と部長の引責辞任、陸上部長距離部門のチーム練習を無期限自粛する決定をした。この対応を受けた関東学生陸上競技連盟(関東学連)は特別審査委員会を開き、12月5日に、東洋大への補助金の支給停止、本大会での集団応援の禁止といった条件を付けた上で、東洋大学の出場を認める決定をした[13]。この決定について関東学連は、集団ではなく個人での犯罪であった点、加害者が個人的に責任を問える成人である点、合宿などチームの活動中ではない時に起きた点を挙げた上で「一部員の不祥事によって真摯に勉学とトレーニングに励んだ部員諸君がその成果を発表する機会まで失うことは誠に不憫」との見解を表明した。尚、無期限の活動自粛は12月6日に解除された(自粛期間5日間)。
  • 2009年3月2日、大麻取締法違反容疑で関東信越厚生局麻薬取締部が日本体育大学の陸上部合宿所への家宅捜索及び事情聴取を行なった。この家宅捜索では大麻の発見には至らなかったものの、大麻の鉢や吸引具が押収された。同日、大学が行なった調査に対し、当該陸上部員(跳躍種目選手)は大麻種子の購入・栽培・大麻の吸引の事実を認めた[1]。また、この家宅捜索の際、部屋の中にあった紙幣のコピーが発見され、同室の陸上部員1名がその後書類送検(通貨模造取締法違反)された。この一連の不祥事に対し日本体育大学は、3月5日付けで大麻に関わった学生を退学処分、陸上部の部長、監督、コーチをそれぞれ解任、陸上部の10日間活動停止、跳躍種目の男子学生46人の無期限活動停止処分を決定した。また、4月に入ってから、陸上部の4月末までの活動自粛などの方針を追加決定した。ただし大学は、週刊誌による報道がされるまで事実関係を関東学連に報告していなかった。また、陸上部全体への活動停止処分については、試合日程を考慮し当初の10日間の処分を短縮した上で、陸上部員(長距離種目選手)を3月8日の大会に出場させていた。このような経緯を受けた関東学連の特別審査委員会は「合宿所での反社会的行為は極めて重大」として、4月17日、日体大陸上部全体の6月末までの大会出場停止、箱根駅伝の次大会シード権の剥奪、出雲全日本大学選抜駅伝と全日本大学駅伝への推薦取消、関東インカレの2部降格、といった処分を決定した。この処分に対して、日体大側は当初、事件と無関係の女子部員を含めた部全体の連帯責任とした処分内容や処分内容の根拠が不明などとして反発し、関東学連に対して質問状を出すに至った[2]が、その後の学連の処分は妥当との見解を受け、最終的には処分を受け入れた。尚、次大会のシード権が剥奪されたのは箱根駅伝史上初めてのことである。なお、処分に際しては前項にある東洋大の不祥事に対する関東学連の裁定が匿名掲示板上では引き合いに出されるほどで、不祥事に対する学連側からの処分の一貫性などについての曖昧さを指摘する声もある。

[編集] 報道・中継・広報について

[編集] 雑誌

現在陸上競技を取り扱う専門雑誌はベースボール・マガジン社の「陸上競技マガジン」と、陸上競技社の「月刊陸上競技」(発行は講談社と共同)の2種類がある。

このうち前者が上記の問題を比較的多く取り上げるのに対して後者は箱根駅伝そのものは予想なども専門的であるが、一連の問題は取り扱うもののあまり深いところまでは書かない傾向にある。これは後者が箱根駅伝を主催する関東学連とも繋がりが深く、大会協力として箱根駅伝に参加しているためでもある。

ただ、「月刊陸上競技」の編集長はたびたび留学生制度に対して苦言を呈していることもある。箱根駅伝に際してこの2冊をじっくり読み比べてみることも非常に興味深い。

なお箱根駅伝の観戦ガイドブックは上記2誌の増刊号として発売されているほか、読売新聞社からも発売されている(ただし公式ガイドブックとなっているのは協力している陸上競技社発行のものであって、共催である読売新聞社のものは公式ではないことに注意を要する)。

[編集] テレビ中継

[編集] テレビ東京制作

第59回(1983年)からテレビ東京が初めてのテレビ放送を開始した。しかし完全中継でなく、1月3日 12:00〜13:54の録画ダイジェスト放送(ゴールは生放送)であった。その後、日本テレビが中継することに伴い終了した。

[編集] 日本テレビ制作

日本テレビのテレビ放送の詳細については「新春スポーツスペシャル箱根駅伝」を参照

第63回(1987年)から日本テレビが後援に入り、全国ネットの本格的なテレビ中継が開始。第73〜76回(1997〜2000年)はCS★日テレでも同時放送された。

[編集] ラジオ中継

ラジオでの中継はテレビでの中継よりも古くから行われ、複数の放送局が中継を行っている(テレビ中継も行っている局はテレビ中継放送ネット局参照)。以下に制作局の体制や概要について記述する。ラジオ中継の実況用の映像はNTVが制作、テレビ放送用とは別に各局に送っている。

[編集] NHKラジオ制作

NHKラジオ第1で放送。ただし、1月2日皇居で一般参賀の中継をする関係により途中で一旦飛び降りする。また、毎正時の前後にはNHKニュース放送のため、数分程度中継が中断する。基本はNTVの映像を見ながら実況を行うが、各拠点にアナウンサーを配置し電話リポートで臨場感のある実況中継を行う。コースにNHKのラジオ中継車がテレビ取材用報道カメラ車、NTVのテレビ中継車などに混じり、選手の動向を追っている。なお、テレビ取材用報道カメラ車はNTV移動1号車の後に、ラジオ中継車は3位走行中の選手前後につく。

[編集] 文化放送制作

NRN加盟局で放送。ただしネット局は基本的に8:30・9:00から中継を開始し、さらに一部の局では別番組を放送するため中継が長時間中断する(11:00飛び降り、12:30(13:00)飛び乗りなど)。ラジオ中継車を出していないためNTVの映像を見ながら実況を行うが、各拠点にアナウンサーを配置し臨場感のある実況中継を行う。以下は2009年のネット局(10:00以降に中継を開始する局は併記)。

[編集] ラジオ日本制作

ラジオ日本日本テレビグループで、コースにあたる神奈川県を放送対象地域とするラジオ局。いわゆる独立局だが、文化放送とエリアが重複する北関東の局(NRN加盟局)や一部のコミュニティFM局でも放送。中継車を出していないため、NTVの映像を見ながら実況を行う。但しスタート・ゴール、各中継所はレポーターが現場で実況する。ネット局は以下の通り。

[編集] 報道に関するエピソード

※日本テレビ制作の中継番組に限定された部分に関する内容については『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』の記事を参照のこと。

  • かつてラジオ中継しか行われなかった時代は関東地方、特にコースとなる東海道沿線地域のお正月の風物詩とでも言うような非常にローカルな大会だった。しかしテレビ中継開始以降、知名度は一気に広がり年末年始という大型番組が乱立する激戦区の中で常に高い視聴率をマークしている。今や沿道の観衆は警察の発表では片道だけで50万人を数える。
  • ある年の2区で大ブレーキを起こして倒れ込みながら襷リレー。倒れたランナーを追っていたカメラマンに向かって「撮ってんじゃねえよ!」とファンが怒鳴るシーンが放送される等いかにも生放送ゆえのハプニングが何回か起こっている。
  • 8区の茅ヶ崎市付近では元日本テレビアナウンサー徳光和夫が毎年選手に声援を送っており、その声援を聴いたり姿を探す選手がいるほどである[14]
  • スタート・ゴール地点や各中継所付近では出場校のスポーツ記者が自校のスポーツ新聞を配布している。一般の観客にとっては大学のスポーツ新聞に目を通せる数少ない機会である。

[編集] キーワード

[編集] 花の2区

2006年の第82回大会で小田原中継所の位置が変更されるまでは23.2kmと最長距離区間で、各校がエース級の選手を走らせることからこう呼ばれている。また区間内に東海道五十三次で箱根越えに次ぐ難所といわれた権太坂があることなど、地形的にも走り辛い区間といえる。 山梨学院大学日本大学などはこの区間に留学生を当てることが多い。

[編集] 紫紺対決

ユニフォームが白地に紫(実況では藤色)のラインが入った駒澤大学と、紺色の順天堂大学が激しい優勝争いを繰り広げていた2000年前後に使われていた言葉。1999年以降は亜細亜大学2006年東洋大学2009年を除くと駒澤、順天堂のいずれかが制している。

[編集] 山の神

2005年の第81回大会で5区を担当した順天堂大学の今井正人が山登りで11人抜きを達成した際に、実況で「山の神が降臨しました」と言われた。 これは当時同じ5区を担当した日本体育大学の北村聡が、「今井さんは神様のような存在です」と言ったことに由来する。 今井は3年間、山登りの5区を担当し2年目以降は「山の神・今井」という言葉で常に紹介された。

その後、2009年の第85回大会で5区を担当した東洋大学の柏原竜二が今井の記録を破る区間新を達成した際には、実況で「山の神を越える山の神童がここに誕生」と言われた。

[編集] 脚注

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  1. ^ 第85回東京箱根間往復大学駅伝競走出場枠数の増加について 箱根駅伝公式Webサイト
  2. ^ 2009年箱根駅伝、過去最多の23校出場 讀賣新聞 2008年9月2日閲覧
  3. ^ 以前はこのような出場資格はなかったが参加校の増加で予選会の段階である程度出場校を絞り込む必要が出てきたことから、このような資格が設けられた。
  4. ^ 上武大学の所属選手としては過去に選抜チームの一員として出場経験有り。
  5. ^ 該当時間内は品川駅から羽田空港駅へ向かう列車を京急川崎駅へ行先変更し、また、京急川崎駅で品川行きと分割して羽田空港駅へ向かう列車は品川行きの列車と併合したまま品川駅へ向かう。京急空港線内は線内折り返しの普通列車のみ運行されるが、列車の通過にある程度の時間確保が必要なため(片方通過で約1分半、両方通過で約3分)、鶴見中継所と雑色駅付近に京浜急行の社員を配備し、その情報とテレビ中継を元に踏切付近に設置した特設本部で列車の運行と踏切閉鎖を判断する。
  6. ^ 第1回大会終了後、アメリカ横断のメンバーが選抜されたが、選抜メンバーのうちの一人が死亡してしまったことにより、計画は実現しなかった。
  7. ^ 例えばプロ野球日本シリーズオールスターゲームサッカー天皇杯、あるいは中央競馬における東京優駿(日本ダービー)というカテゴリーとして。
  8. ^ 生島淳 『駅伝がマラソンをダメにした』 光文社光文社新書〉(原著2005-12-13)。ISBN 9784334033354
  9. ^ 陸上競技マガジン及び月刊陸上競技が毎年2月号あたりで載せている次年度の主要大会日程表にも日本陸連が主催か後援の大会、及びその協力団体の主催大会しか記載されておらず、箱根駅伝の名前はない。
  10. ^ 大学側にとっても2日間のレースを完全にテレビ中継する箱根駅伝の方がもしレースの間中トップを走り続ければその大学の名前は丸1日分テレビに映り続けるため、宣伝効果が高いという事情があるのも否定できない。
  11. ^ 2009年1月3日付の日刊スポーツ「関東以外にも門戸開放へ」でも、2014年開催予定の第90回記念大会で関東以外のチームに門戸を開く姿勢を示しているとの報道がされている。
  12. ^ 学生駅伝競技界における有力校の勢力分布については例えば、女子駅伝では関東地区/関西地区/東海地区にバランス良く優勝候補が存在している。
  13. ^ 正確には「箱根駅伝への出場を制限しない」とする決定である。
  14. ^ ちなみにその模様は駅伝終了後の翌週の『THE・サンデー』で放映されていたが、同番組が『THE・サンデー NEXT』にリニューアルした2009年はスタジオでのコメントで触れられたのみで、映像はなかった。

[編集] 参考文献

  • 「冬の喝采」 (黒木亮(金山雅之)著、2008年、講談社、中村清監督時代の箱根駅伝に向けての早稲田大学競走部のトレーニング描写・瀬古利彦のエピソード、中村清の人物像に詳しい) ISBN 978-4062150415
  • 日本列島駅伝史 島田輝男 陸上競技社 1987年
  • 箱根駅伝を10倍面白くみる本 日本テレビ箱根駅伝プロジェクトチーム 1995年

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年9月10日 (木) 07:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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