篠塚和典

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篠塚 和典 (篠塚 利夫)
読売ジャイアンツ コーチ #81
基本情報
国籍 日本
出身地 千葉県銚子市
生年月日 1957年7月16日(52歳)
身長
体重
176cm
68kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 二塁手
プロ入り 1975年 ドラフト1位
初出場 1977年8月5日
最終出場 1994年10月26日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1995 - 2003, 2006 - )

篠塚 和典(しのづか かずのり、1957年7月16日 - )は、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市出身の元プロ野球選手内野手)。旧名・本名は「篠塚 利夫」(しのづか としお)。

現在は読売ジャイアンツ一軍打撃コーチ。また、2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の打撃コーチを務めた。

目次

[編集] 経歴

千葉県立銚子商業高等学校2年生時に春夏と甲子園に連続出場し、夏の大会ではチームの優勝に貢献。その後、湿性肋膜炎にかかり一時は野球生命まで危ぶまれたものの、当時の巨人監督だった長嶋茂雄に見込まれ、1976年ドラフト1位で読売ジャイアンツに指名され入団。1979年秋の伊東キャンプで厳しく鍛えられ、1980年に二塁手としてシーズン通して出場。翌年の1981年当初はルーキーの原辰徳が二塁を守ったため出場機会が減少したが、三塁手のレギュラーであった中畑清の故障により原が三塁にまわり、以後は篠塚が二塁手のレギュラーに定着。

華麗なバットコントロールと巧みな守備で鳴らし、シーズン打率3割以上を5年連続も含めて7回記録。通算打率も3割を超えている。藤田平(阪神)と首位打者争いし、わずか1厘差でタイトルを逃すものの現役最高の打率を記録。1984年には自身初の首位打者を獲得。1987年にも正田耕三(広島)と共に2度目の首位打者を獲得。主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。持病の腰痛もあり晩年は代打での起用が主となり、1994年に現役を引退。

引退後は巨人の一軍打撃コーチ、一軍守備走塁コーチ、総合コーチを歴任。2004年2005年には日本テレビ野球解説者、日刊スポーツ野球評論家を務めた。2006年に巨人の守備走塁コーチに、2007年からは打撃コーチに就いている。また、2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の打撃コーチも兼任した。

映画プロデューサーの三上訓利と女優の折原啓子は夫人の父母で、俳優の三上博史は夫人のいとこにあたる。長男の篠塚宜政は青山学院大学硬式野球部に在籍中。

[編集] 年度別打撃成績
































O
P
S
1977 巨人 18 26 24 2 5 0 0 0 5 0 0 0 0 0 2 0 0 4 0 .208 .269 .208 .477
1978 3 7 7 0 2 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .286 .286 .286 .572
1979 76 97 90 11 25 2 2 0 31 10 1 0 1 0 6 0 0 14 7 .278 .323 .444 .767
1980 115 351 315 38 82 13 3 6 119 31 6 3 11 2 22 0 1 31 9 .260 .309 .378 .687
1981 116 457 412 51 147 21 2 7 193 45 2 5 14 1 29 6 1 39 9 .357 .400 .468 .868
1982 124 523 467 64 147 26 6 7 206 67 5 0 11 7 35 3 3 32 10 .315 .361 .441 .802
1983 115 473 424 79 130 21 2 13 194 56 10 2 6 4 38 1 1 42 8 .307 .362 .458 .820
1984 126 524 461 75 154 35 2 12 229 66 7 2 9 1 51 2 2 49 7 .334 .402 .497 .899
1985 122 538 466 57 143 21 1 8 190 54 6 2 26 1 42 1 3 45 6 .307 .367 .408 .775
1986 128 529 485 64 141 25 3 8 196 43 3 2 17 4 23 2 0 54 8 .291 .320 .404 .724
1987 115 454 429 69 143 25 3 7 195 49 4 1 7 3 14 0 1 52 8 .333 .353 .455 .808
1988 116 456 414 37 131 18 1 6 169 58 2 2 8 3 29 3 2 31 12 .316 .361 .408 .769
1989 119 494 461 59 134 28 4 4 182 38 5 4 9 2 20 3 2 38 9 .291 .322 .395 .717
1990 71 253 232 31 66 11 1 5 94 29 1 0 4 1 15 1 1 27 5 .284 .329 .405 .734
1991 97 328 289 31 77 9 2 3 99 23 1 1 3 3 32 3 1 49 4 .266 .338 .343 .681
1992 67 257 241 22 64 10 0 0 74 21 2 1 1 1 14 3 0 35 4 .266 .305 .307 .612
1993 66 226 208 27 70 8 0 4 90 23 0 0 2 1 13 0 2 21 4 .337 .379 .433 .812
1994 57 161 147 22 35 5 0 2 46 13 0 0 3 1 9 2 1 15 5 .238 .284 .313 .597
通算:18年 1651 6154 5572 739 1696 278 32 92 2314 628 55 25 132 35 394 30 21 580 115 .304 .351 .415 .766
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] 背番号

  • 37 (1976年 - 1978年)
  • 6 (1979年 - 1994年)
  • 81 (1995年 - 2003年、2006年 - )

[編集] 人物

[編集] 現役選手として

巨人では3番バッターや6番バッターを担当、晩年は1番なども打った。長打を狙うバッティングに瞬時に切り替える器用な選手だったが、バントや足などを売り物にしてはいなかったため、全盛期ではあるが2番バッターを任された1985年・1986年は成績を落としている。規定打席に9回到達しているが、腰痛持ちであり、夏場などに5試合前後、年2回~3回ほどスタメンを外れていたイメージが強い。最後に規定打席に到達した1989年には、梅雨時に10数試合スタメンを外れている。1982年、1984年~1986年は520打席以上をクリア(当時は130試合制)。実はチームで最も多く打席に立っていた年もある。
1987年、広島正田耕三と同率で二度目の首位打者を獲った。同率での首位打者はセ・リーグでは初、両リーグをあわせても1969年東映張本勲近鉄永淵洋三につぐ2度目。いずれも打率は.333だった。正田とは同じセカンドで、ベストナインが注目されたが、チーム順位・安打数・本塁打数が上回る篠塚が受賞した(この年のペナントレースが巨人の独走で起伏が無かったため、後半戦に活躍した正田の印象が薄い面もあった)。

公式戦の通算打率は.304を記録しており、オールスターでの通算打率も.327(55打数18安打)を残している。日本シリーズでも1987年に打率.409を記録するなどしているものの、シリーズ通算打率は.292(106打数31安打)で、あと1本安打を放っていれば、公式戦、オールスター、日本シリーズ全てで通算打率3割を達成できていた(この記録を達成しているのは日本プロ野球では2007年現在長嶋茂雄のみ)。

1982年中日ドラゴンズとの首位攻防戦で無死一、二塁の場面で送りバントをした際、相手ピッチャーの郭源治が三塁へ悪送球し、外野へ転がったがそのボールをレフト大島康徳がトンネルし、さらに大島が追いかけてとったボールがサードに中継されホームへ投げたが、キャッチャー中尾孝義がとり損ない、その間に篠塚はホームインした(記録は失策)。


1987年10月18日の吉村の30号が「2ストライク4ボールからのホームラン」だったことは有名であるが、中畑清の談話によると、日本シリーズを前にした消化試合で吉村の打席には誰も興味が無く、ベンチで異変に気づいた選手は篠塚ひとりだったとのこと。その日本シリーズでは最後の打者となったが、この年を最後に後楽園球場での試合開催が終了した為、後楽園球場にとっても最後の打者となった。

線審を廃し審判6人制から4人制になった1990年の開幕戦、ヤクルトに1対3と負けていた8回裏、好投を続けていた内藤尚行からライトポール際へのフライを放ち、1塁審判の大里晴信が本塁打と判定した。その年のバラエティ番組で上記の疑惑の本塁打についてコメントを求められ「あれはファウルでしたね」と発言している。原因はポールがボールと類似色の白い塗料で塗られていたためであり、この事件後ポールはオレンジに塗り替えられた。

晩年の1990年1993年は持病の腰痛の悪化や緒方耕一がセカンドを守る機会が多くなったことなどから300打席前後の出場となり、1991年は出場機会の減少に対しての不満から「必要じゃなければトレードに出して欲しい」と発言、球団から首脳陣批判の罰金処分を受けたためか、同年のオフには千葉ロッテマリーンズへのトレードの情報が出た(ロッテ側の交換要員の候補として牛島和彦の名前が挙がった)。シーズン中の罰金事件に加えて、翌年からロッテは本拠地を千葉へ移転させることが決定しており、地元千葉出身の篠塚の獲得に動いてもおかしくなかった(実際翌年同じく千葉出身の宇野勝をトレードで獲得している)のが根拠とされるが、結局巨人一筋のまま選手生活を終えるに至る。現在の和典への改名も1992年シーズン途中での突然の改名であり、この数年間は成績低下や出場機会減少などに悩んでいたと思われる。

1993年6月9日のヤクルト戦(石川県立野球場)では、8回2/3まで無失点、16奪三振(当時セ・リーグタイ記録)のピッチングを続けていた当時のルーキー伊藤智仁からサヨナラ本塁打を放った。2度タイムをかけて伊藤をじらせた上での狙い澄ました一撃で、試合後には「狙い通りの変化球だった」と述べている。

[編集] その他

プロ野球選手は一般にいかつい体型でスーツを着込むと近寄りがたい雰囲気を生むが、プロ野球選手らしからぬ細身の体型で、高橋慶彦などと同時期の当時のプロ野球選手のファッションリーダーのひとりだった。アイビールックなどを好んで着こなし、女性人気は絶大だった。若い時分には1979年に婚約不履行が問題となり、処分を受けるような「前科」も起こしている。
1999年10月、取締役に名前を連ねていた(いわゆる「名義貸し」)自動車販売会社社長が不正に人気の品川ナンバーを取得する、いわゆる車庫飛ばしで逮捕されてしまい、篠塚自身まで警視庁から家宅捜査を受けてしまった。のちにこの会社が暴力団関連会社だったことが判明したため球団は一時解雇も検討したが、当時の監督・長嶋茂雄の意向もあって、厳重注意のあと球団公式行事は一切参加できない謹慎処分とした。
2004年から日本テレビの野球解説者を務めたが、人前で話すのは苦手だったという。
高校時代はスラッガーだったが、肋膜炎を患ったことで巨人以外の球団に指名を回避され、さらに細身の体をカバーするため阪神藤田平のバッティングを盗み、その藤田平と首位打者を争ったエピソードは有名(2007年に小学生との指導経験から出版した「6歳からの広角打法」という指導書では、「阪神ファンだったので藤田平さんにあこがれていた」としている)。現役時代は中尾孝義金森栄治と並んで「プロ野球3大巨根」と呼ばれた。

[編集] コーチとして

試合前の練習風景では、原監督や村田真一打撃コーチが若手・中堅選手を担当しているのに対して、不調時の小笠原道大アレックス・ラミレスなどの主軸打者と笑顔でトスバッティングの相手を務める様子が映っている。

試合練習前2007年に膝を手術した小笠原道大の状態を、フリーバッティングのスイングの音を聞いただけで「今年は絶好調」と判断。現実の小笠原はフリーバッティングに近い「対右投手・非得点圏打率」は開幕1ヶ月ほど6割近くのペースで打ち続けた。膝の手術の後遺症が長引き、全体では7月下旬まで打率2割5分台に沈んだが、良くも悪くも見る目は確かだったといえる。

打撃理論・指導理論は、理想のフォームを綿密に固めたうえで「来た球を打つ」というスタイルである。評論家時代、社会人選手を対象とした講習会に招かれ、そこでも「バッティングは難しいものじゃない。配球は不要、ボール球でも打てる球を打てばいい」と語っており、対照的に配球を重視する野村克也(当時シダックス監督)に「やはり天才は違うね」と揶揄された。

篠塚の打撃スタイルが、2006年・2007年頃の巨人の選手の全体的な四球の少なさ、低出塁率に影響していたのではないかという説があるが、ここ10数年間のコーチの傾向(その頃のチーフ格だった内田順三打撃コーチにしても早打ち好みの人物だった)や、2軍の選手の数字、最近の選手の成長などをみると、ここ10数年抱えている巨人軍全体の問題だったと思われる。

長嶋監督時代には、長らく内野守備コーチを担当していた(現在もノックを打つことがある)。原監督(第一次)時代の2年間は野手総合コーチを担当、原監督と攻撃面・作戦面を統括していた。鈴木康友元コーチ、伊原現ヘッドコーチなどの西武出身のコーチの派手な活躍に隠れているが、三塁コーチも数度担当している。

[編集] 用具

現在でも篠塚の使っていたバット、グラブなどを基本にして自分モデルとして使用しているプロ選手も少なくない。 特にイチロー選手は篠塚モデルのバットをほとんど修正することなく使っている。

「プロの教えるバッティング入門」「6歳からの広角打法」などの児童向け指導書を出版している。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


最終更新 2009年10月22日 (木) 10:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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