米西戦争

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米西戦争

ハバナで爆沈したUSS ACR-1 メイン
戦争:米西戦争
年月日1898年4月25日 - 8月12日
場所西インド諸島太平洋
結果:アメリカ合衆国の勝利。パリ条約の締結。米比戦争の勃発。
交戦勢力
アメリカ合衆国
キューバ共和国
フィリピン第一共和国
スペイン帝国
指揮官
ネルソン・A・マイルズ
ジョージ・デューイ
マクシモ・ゴメス
エミリオ・アギナルド
パトリシオ・モントーホ
パスクアル・セルベラ

米西戦争(べいせいせんそう)は、1898年アメリカ合衆国スペインの間で起きた戦争である。結果としてカリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。20世紀のキューバの歴史家は1868年から独立運動を続けてきたキューバ独立軍との関係から、この戦争をスペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西キューバ戦争)と呼び、1946年にキューバの議会はこの名称をキューバにおけるこの戦争の正式名称とすることを決議した。[1]

目次

[編集] 背景

世界的な強国としてのスペインの地位は19世紀後半までの数世紀の間に低下し、太平洋アフリカおよび西インド諸島でのほんの少数の散在した植民地しか残らなかった。その多くは独立し、また多くの地域は独立のための運動を繰り広げていた。フィリピンではエミリオ・アギナルドにより、キューバではアントニオ・マセオやマクシモ・ゴメス、ホセ・マルティなどにより既に数十年に渡るゲリラ戦争が展開されていたが、スペイン政府はこれらの脅威に対する金融あるいは人的資源を持っていなかった。そこでキューバに於いてキャンプを構築し住民と独立軍を分離し支援を止めさせる作戦を布告した。スペインは、さらに反逆者と疑わしい人々の多くを処刑し、村々に残酷な扱いを行った。1898年にはキューバ島の約半分がマクシモ・ゴメス将軍の率いる独立軍に支配され、結局スペインの立場は完全には回復しなかった。

キューバでのこれらの出来事は、アメリカの新聞が読者数を伸ばそうとしていた時期と一致した。各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激した。そしてキューバへの介入を求める勢力の増大を招いた。

そのため開戦への他の圧力、アメリカ海軍は開戦の一年以上前にフィリピンでスペイン軍を攻撃するための計画を作成していた。西部への拡張およびアメリカインディアンとの大規模交戦の終了は陸軍の任務を減少させ、軍の指導陣は新しい任務を望んだ。早期からアメリカ人の多数はキューバが彼らのものであると考えており、マニフェスト・デスティニーに関する理論はちょうどフロリダの沖合に非常に魅力的に見える島を作った。キューバの経済の多くは既にアメリカの手にあり、ほとんどの貿易(その多くは闇市場だった)はアメリカとの間のものであった。何人かの財界人は、開戦を同様に要求した。ネブラスカ州上院議員ジョン・M・サーストンの言葉:「スペインとの戦いは、すべてのアメリカの鉄道ビジネスおよび所得を増加させるだろう。それは、すべてのアメリカの工場の出力を増加させるだろう。それは、産業と国内通商のすべての流通を刺激するだろう。」

[編集] 戦争の始まり

1898年2月15日にハバナ湾で米海軍の戦艦メイン (USS Maine, ACR-1) が爆発、沈没し 260 名の乗員を失う事故が発生した(この中には 8 名の日本人コックとボーイが含まれていた)。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったが、ニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの 2 紙を始めとした当時の米国のメディアは、スペイン人による卑劣なサボタージュが原因であると主張した。「メインを思い出せ!くたばれスペイン!」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。この愛国的で好戦的な風潮はスプレッド・イーグリズムあるいは主戦論として知られている。

爆発原因に関する専門家の見解は現在も定まっていないが、燃料の石炭の偶然の爆発によるものとするのが一般的であり、コンピューター・シミュレーションによって確認もされている。一方石炭自体にその原因を求めるものや、米国を戦争に引き込もうとするキューバ人革命家によるサボタージュによるものとする異論も存在するが、スペインが戦争に消極的であっただろうという点では一致している。

マッキンレー大統領は開戦に同意せず世論に対して長い間持ちこたえた。しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成した。スペイン首相サガスタ (Praxedes Mateo Sagasta) は、キューバから職員を撤退させてキューバ人に自治を与えるなど、戦争を防ぐ為の多くの努力をした。しかしながらこれはキューバの完全独立には不十分なもので有り、大きく現状を変更するには足りなかった。

4月11日、マッキンレー大統領は内戦の終了を目的としてキューバへ米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出。4月19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認した。これを受けて、スペインはアメリカとの外交関係を停止。4月25日に連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月21日以来存在することを宣言した(議会はその後、4月20日に戦争の宣言をさかのぼらせる議決を承認した)。

[編集] フィリピン

太平洋での戦い

フィリピンでの最初の戦闘は5月1日のマニラ湾の戦いである。香港を出港したジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリコ・モントージョ将軍率いる 7 隻のスペイン艦隊を攻撃した。6 時間でスペイン艦隊は旗艦を含む 3 隻が沈没、4 隻が炎上するなど壊滅状態に陥ったが、アメリカ艦隊の被害は負傷者 7 名のみとほぼ無傷であった 。 エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの国家主義者は米艦隊とともに独立運動を再開し、スペイン軍の多くは降伏した。フィリピンの革命軍は多くの戦闘においてアメリカ軍と共闘したが、マニラに入城する際アメリカ軍がフィリピン兵の入城を妨害する事件が起こり、米比戦争の原因の一つとなった。

[編集] キューバ

5月19日、大西洋側のキューバではパスクアル・セルベラ提督率いるスペイン大西洋艦隊がサンティアゴ湾に入港した。ウィリアム・サンプソン提督率いるアメリカ大西洋艦隊はサンティアゴ湾を封鎖し、陸海軍共同でスペイン艦隊を攻撃することになる(この状況を観戦武官として秋山真之が視察しており、このサンチャゴ閉塞作戦は後に日露戦争における日本海軍旅順港閉塞作戦の参考とされた。)。

キューバに駐屯していたスペイン軍は約 10 万を数えたが、サンチャゴ湾付近には 14,000 人ほどしか配置されていなかった。アメリカの陸上兵力は義勇騎兵隊であるラフ・ライダーズ(荒馬乗り隊)連隊を含む約 17,000 人である。陸上での大きな戦いは7月1日だけだったが、要所であるサン・ホアン高地が陥落するなど一日で決着がついた。この時ラフ・ライダーズ連隊の中佐としてサン・フアン高地(サン・フアン・ヒル)の戦いを指揮し、戦争の英雄となったのがセオドア・ルーズベルトである。米軍はガルシア将軍 (Calixto Garcia) によって率いられた独立支持者によってキューバで援助された。

7月3日にスペイン艦隊が湾外に脱出したところ、アメリカ海軍に捕捉され攻撃を受け沈没、座礁、降伏などで全滅した。米軍はスペイン艦隊を撃破しキューバ周辺のスペインに管理された水路を破った。これはスペイン軍の再補給を妨げ米軍が相当兵力を安全に上陸させることを可能にした。

地上戦は、スペイン軍に対するよりも熱および疾病への対処の方が問題であった。一か月以内に米軍は島を入手した。

7月25日に、米軍はプエルトリコに上陸した。

[編集] グアム島

1898年6月20日アメリカ海軍巡洋艦チャールストンおよび輸送船3隻の艦隊が当時スペインの植民地だったグアム島カノン砲で砲撃し、これを占領しようとしたがスペイン側の司令官は戦争が始まったことを知らず、司令官自身がチャールストンに現れて降伏の意思を伝え、島にいた54名のスペイン兵は捕虜となり、グアムは占領された。

[編集] 戦争の終了

スペインは、太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。交戦状態は8月12日に停止した。形式上の和平条約は1898年12月10日にパリで調印され(パリ条約)、1899年2月6日にアメリカ上院によって批准された。アメリカは、フィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置いた。以降、アメリカの国力は飛躍的に拡大していき、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され、代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つという、覇権の移譲とも取れる流れになっている。スペインは戦後、植民地を失ったために国力が低下し、新興国家アメリカにあっけなく敗れたことから、欧州での国際的地位も発言力も同時に失った。ルネサンスから始まったポルトガルスペイン帝国主義が破綻し、産業革命に支えられた新しい帝国主義へ完全に移り変わった瞬間とも取れる。

[編集] 余波

米比戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。

1898年8月14日に、11,000 人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。アメリカがスペインに代わって国の統治を始めると同時に、アメリカとフィリピンの戦争が始まった(米比戦争)。戦争はフィリピン国家主義者の独立に対する望みを絶つために行われ、何千もの軍人、民間人の死傷者が生じた。

連邦議会は開戦前に、キューバの独立を支持してこれを討論の後承認した。アメリカ軍は1909年1月28日までキューバを占領した。アメリカはスペイン植民地のプエルトリコ、フィリピンおよびグアムを併合した。外国に植民地を持った「アメリカ帝国」についての考えは、マッキンレー大統領と帝国主義賛同派の間で、国内で激しく討議された。アメリカの大衆の大部分は植民地の所有を支持した。しかし、マーク・トウェインのような多くの率直な批評家もいた。

さらに、米西戦争はイエロー・ジャーナリズムの影響が大きかったことで有名である。ウィリアム・ランドルフ・ハーストのニューヨーク・ジャーナル紙とジョーゼフ・ピューリツァーのニューヨーク・ワールド紙の 2 紙は発行部数競争で熾烈な争いを行い、無責任なニュースをでっち上げたりもした。このような競争の結果、ワールド紙が 15,000 部、ジャーナル紙が 1,500 部程度の発行数だったのが、マニラ湾の戦いの時には 160 万部まで伸びた。オーソン・ウェルズは、映画市民ケーン』の中でこの様子を皮肉った。

この短い戦争の、もう一つの興味深くほとんど注目されなかった影響は、アメリカの北部と南部の関係を固める役目をしたということである。この戦争は、1865年南北戦争の終了以来初めて両側に共通の敵を与えた。1890年代は北軍支持者と南部連邦支持者の間の和解の期間で、北部と南部の政治家の政治的な調和を増加させた。1890年代はさらに、北部における人種差別の再燃とジム・クロウ法の可決による白人と黒人の分離を増加させた。それは1896年プレッシー対ファーガソン裁判の最高裁判所による判決で最高潮に達して、その「分離すれども平等」主義を法律の中へ成文化した。

アメリカ退役軍人協会からのデータによれば、退役軍人の最後の生き残りネーサン・E・クック (Nathan E. Cook) は、1992年9月10日に 106 歳で死去した。

[編集] 脚註

  1. ^ 加茂雄三『世界の歴史 第23巻 ラテンアメリカの独立』pp.304

[編集] 参考文献

  • 加茂雄三『世界の歴史 第23巻 ラテンアメリカの独立』 講談社、1978年

[編集] 関連項目

最終更新 2009年9月7日 (月) 11:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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