素盞嗚神社 (福山市)
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| 素盞嗚神社 | |
|---|---|
素盞嗚神社正面 |
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| 所在地 | 広島県福山市新市町戸手 |
| 主祭神 | 素盞嗚尊 |
| 社格等 | 式内社(小)・備後国一宮・県社 |
| 例祭 | 7月15日 |
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)は、広島県福山市新市町戸手にある神社である。式内社(小社)、備後国一宮を名乗り、旧社格は県社。
目次 |
[編集] 祭神
素盞嗚尊(すさのをのみこと)を主祭神とし、稲田姫命(くしなだひめ)、御子神の八王子(やはしらのみこ)を配祀する。
[編集] 歴史
社伝によれば天武天皇の治世であった西暦7世紀(679年?)ごろに創建したとされており、遣唐使であった吉備真備が唐から帰国した後の天平6年 (734年)に備後から素盞嗚命を播磨の広峯神社に勧請したという。また『釈日本紀』巻七(卜部兼方 鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文(奈良時代?)の「蘇民将来」説話に「疫隈國社(エノクマノクニツヤシロ)」とあるのは当社とされるが、本来は摂社である「蘇民神社・疱瘡神社」であるとされる。卜部兼方が逸文の解説に「これすなわち祇園の本縁なり」と記しているため、京都祇園八坂神社の縁起譚であるとも考察される。延喜式神名帳には「備後國深津郡一座・須佐能袁能神社」と記載されている。
後に神仏習合によって仏教系の神である牛頭天王を祭神とするようになり、「早苗山天竜院天王寺」という真言系の別当寺が作られた。本堂である本地堂(現・天満宮)には本尊本地仏として聖観世音菩薩が祀られた。一般に牛頭天王の本地仏は薬師如来であるが、当社の観音祭祀の理由は不明である。また脇侍に不動明王と毘沙門天が祀られた。「江熊(エノクマ)祇園牛頭天王社」が正式な社名であるが、天王社、祇園社などとも呼ばれるようになった。
明治の神仏分離により、神社の道を選んだ当社の別当僧は還俗して神官となり、祭神は本来の素盞嗚尊に改め、現在の社名に改称した。
[編集] 素盞嗚神社の祇園例大祭
普段は静かな神社であるが、福山市の新市(しんいち)地区・戸手(とで)地区と相方(さがた)地区、府中市の中須(なかず)地区という4つの地区の氏子衆全員が一致協力し、年に一度行われるのが祇園例大祭=祇園祭典(現地では「祇園さん」と呼ぶ)である。この祭りは少なくとも500年以上(一説には千年)続くもので、備後地区でも歴史と伝統があるうえに大変にぎやかな夏祭りである。「盆正月には帰らんでも、祇園さんにゃあ帰る」というほどに氏子衆(男衆や若衆)を熱狂させる。
府中ケーブルテレビ「ケーブル・ジョイ」の生中継が始まってから人気が上昇し、配信地区を中心に近郷近在からの参拝客数はうなぎ登りである。平成の大合併では中国地方の口火を切り、2003年2月3日芦品郡新市町は内海町とともに広島県第2の40万都市・福山市の一員となった(2008年現在46万人余り)。以降、市の広報で紹介されたり、地上波テレビのニュースや新聞の報道など、知名度はさらにアップし、福山市内は勿論のこと、広島県内や近県からのお祭り好きの参拝者も増え、毎年そう広くもない境内広場の周囲は、立錐の余地もない満杯状態である。最早備後地方の田舎町の鄙びた祭とは呼べなくなった。
かつては旧暦6月1日から17日にかけて執り行われていたが、毎年7月の第2もしくは第3の金・土・日に開催されている。近年は祇園祭の後に海の日が来るように第3金土日なっているもよう(現地では「海の日」を多くの氏子が「くたぶれ休み」と呼ぶ)。
初日の金曜日は午後8時から、祭神に祭典の開始を奏上する「前夜祭」で祇園例大祭が始まる。各地区総代は全員揃って、祭の無事を祈る。 福山市在住の蘇民将来の御子孫が、素盞嗚神社御本殿の扉の鍵を宮司に授けられるそうで、本殿の扉が開かないと祇園祭は始まらない。 この前夜祭は一般にはあまり知られていない。
当社の北辺に建つ神輿倉には、重量500kgという無骨な神輿が3基ある。担ぎ棒は井桁ではなく二本で、極めて不安定であるため、肩や腰の弱い担ぎ手や疲労困憊した担ぎ手が多いと、バランスを崩して簡単に横転・落下する。大体30〜40人程度で担ぐが、それでも祭りの後に肩は腫れ上がり痛みが数日残る。古老の話によると「たった4人で担いだこともある」という。
戸手・相方の神輿には鳳凰を戴き、新市及び中須の神輿には擬宝珠を戴いている。京都八坂神社の3基の神輿は牛頭天王・八王子・姫神だが、当社の神輿はいずれも素盞嗚尊を戴いている。これは概念上本殿の主祭神・素盞嗚尊の御魂を4等分し、一つは本殿に残し、残りを3基の神輿に振り分けるということである。なお、担ぎ歩く時のかけ声は「おいさ、おいさ(あるいは「よいさ、よいさ」時に「えっさ、えっさ」)」である。
土曜日の午前10時、神社本庁より献幣使が当社に参向、御例祭が執行される。正午から中須地区の太鼓奉納・相方地区の幟入れの儀が行われる。 午後から3基の神輿が祇園囃子に先導されてトラックで氏子域全体を隈無く巡幸したのち、氏子衆によりそれぞれの地元を練り歩く。 夜になると午後8時10分から30分置きに、中須、新市、戸手・相方の順に、傾斜最大45度の未舗装の坂(尾根道)を次々とお旅山に登御する「御山神事」(通称「おやま」)がある。手ぶらで登山しても草や土で滑ってつらいのだが、大勢の氏子衆の綱に曳かれながら、頂上目指してグングン登って行く姿はまさに圧巻である。時に神輿が傾ぐと、谷に集結した観衆から悲鳴やどよめきがあがる。登頂を果たした神輿は別ルートをくだり御旅所に至り、建物の周囲を2、3度周回して納まり一泊する。御旅所の前では備後神楽が奉納される。かつては夜明まで賑やかに笛や鉦・太鼓の音が響いていたが、昨今は日付が替わる頃には鳴りやむ。
日曜日の早朝に御旅所から下ろされた3基の神輿は、夕方までそれぞれの地区を地元の町内会の申し送りで一日中練り歩く。祇園囃子の山車トラックが先導したり、子供神輿が本神輿の先導を務める町内会もある。なお、御多分に漏れず当地域も少子高齢化が確実に進行し、複数の町内会が合同で巡幸するケースが増えている。
夜になると神社境内で神輿と神輿をぶつけあう、いわば祇園祭のメインイベント「重ね会い」神事が行われる。かつて町内の至る所で行われ、その名もずばり「けんか神輿」と呼ばれて、近隣に恐れられていた。度重なるぶつけ合いで屋根の天辺の擬宝珠が割れたり、屋根の四つ角の蕨手(「まがり」と呼んでいる)が折れたり千切れたり、朱塗りの鳥居や玉垣がみんな外れてしまい、屋根と台座の間には柱しか無く、胴体に納められた神籬(ヒモロギ)が丸見えで、おまけに柱が傾いで平行四辺形になるまでぶつけ合ったという。
境内広場の周囲には、安全上の措置で玉垣の柱(丸太)が立ち並び、その上端は注連縄で結ばれて結界が設けられ、さらに外側にはロープが張り巡らされて、観客とは完全に隔てられている。広さは長径30m、短径20m余りのいびつな楕円形。これは1999年の「重ね合い」で、迫り来る神輿から逃げた観客が転倒して捻挫したり、倒れた人の下敷きとなり骨折したりで、不幸にも十数名の重軽傷者が発生した。この事故を重く見た当時の所轄・府中警察署からの祭典中止勧告に対し、主催者側の対策として翌2000年に設けられたもので、「重ね合い」はその中でのみ許される。因みに境内以外での「重ね合い」はかなり以前から御法度である。
奇しくも新生・祇園祭の「重ね合い」の最中、夜空では皆既月食が観られた。月食は太陽(姉神アマテラスオオミカミ)と月(兄神ツクヨミノミコト)の間に地球(自然現象=弟神スサノヲノミコト)が割って入ることで起きる天文現象。
さて午後9時頃、一番手の中須神輿が石の大鳥居をくぐり、様々な屋台が軒を並べた参道を一直線に神社本殿へと還御したのち広場の一郭に下ろされると、伝統的・牧歌的な中須祇園囃子の演奏がある。午後9時40分、二番手の新市神輿が還御し、中須とは離れた一郭に下ろされると、新市祇園囃子の演奏が行われる。暫くすると大相撲の行司よろしく総代の「中須の神輿はそろそろ時間です。神楽殿に納めて下さい」とのアナウンスがある。あくまでも神楽殿に納めることを促す。これを合図に2基の神輿は立ち上がる。境内には一気に緊迫感が高まり、互いの側面を平行にしてジワジワと間合いをとり見合ったのち、ガツーンという鈍い音をたててぶつける。双方の外側からは氏子衆が二重三重四重に重なり合って押し合う。
基本的に相撲と同じで「先に土が付いた方が負け」あるいは「玉垣柱(土俵の外)に押しやられた方が負け」である。後者の場合、押しやられた時点で速やかに分かれるか下ろすのが取り決めである。負けた方が頑張って巻き返した場合、勝敗が判然としないまま両陣営がともに勝利の雄叫びを上げる。
中須が神楽殿に納まると、午後10時20分頃に戸手・相方神輿が還御し、待ち受ける新市と立ち合う。この時も「新市の神輿はそろそろ……」とのアナウンスが流れる。二度の「重ね合い」を済ませた新市の神輿が神楽殿に納まると、戸手・相方の神輿の一人舞台となり、腕を天に突き上げて神輿を支える「のし上げ」や、棒を腕に抱えて胴を中心にぐるぐる回転させる「まわせ」などの見せ場を披露し、参拝客を大いに湧かせてのち、名残惜しそうに本殿経由で神楽殿へと向かう。
「重ね合い」が終了した深夜11時過ぎ、新市町宮内にある備後一宮・吉備津神社から宮司と禰宜が参拝に来られる。かつて宮司一行は白い神馬に跨り、約2kmの道程を来られたという。沿道の住民は戸口や雨戸を閉め切り「決して見てはいけない」と言われた。現代はタクシーであり、神事を見守る参拝者も少なくない。
この参拝は当社よりも後の創建である吉備津神社が、先輩社の素盞嗚神社例大祭の終了を「言祝(ことほ)ぐ」ためのものである。神前に対する祝詞奏上以外、素盞嗚神社側に対し一言もしゃべらぬ珍しい儀式なので「無言の神事」と呼ばれる。この神事では両神社の間で「三三九度の杯」が取り交わされる。誠に不思議な神事である。これをもち祇園例大祭は滞りなく終わる。
本殿の鍵は来年の祇園祭まで蘇民将来の御子孫の下で大切に保管され、氏子衆は「祇園さん」に恋い焦がれつつ一年を過ごす。
[編集] 境内の建築物
境内の東端の石造りの大鳥居は、江戸時代中期元禄時代の建立で、柱には建立した別当僧の名が刻まれている。
隋神門をくぐり、石畳の参道の先に大銀杏の巨木と神楽殿が見える。祇園祭にはここに3基の神輿が納められる。ここでは平成10年に石見神楽団が当社御祭神素盞嗚尊縁の「をろち」などを奉納した。
神楽殿の向こう、拝殿は神社建築では珍しい瓦葺きで、入母屋造。拝殿と本殿の間に幣殿がある。
一番奥の本殿は、檜皮葺き入母屋造で、備後福山藩の初代藩主水野勝成の再建と伝わる。屋根は視線方向の棟の中央で一段高く別棟が直交している。千木は正面・左・右・奥の4つ、鰹木は正面と奥の千木の根元にひとつずつ、直交する棟に五つ。建物の平面は大社造りと同じくほぼ正方形である。江戸時代の初期、
本殿の南側に「蘇民神社」と「疱瘡神社」が長屋式で建っている。一説では、備後國風土記・逸文の舞台「疫隈國社」とは、素盞嗚神社の本殿のことではなく、摂社であるここが「疫隈國社」であるとされる。因みに当社の敷地は、武塔神(素盞嗚尊)に滅ぼされた弟将来(巨旦将来)の屋敷跡といわれる。本殿は兄の蘇民将来が葬った弟将来の亡骸の上に素盞嗚尊の御魂を鎮座させ、地中深く弟の怨霊を封じ込めた、という説もある。
なお本殿から大鳥居を抜けて延長線上の数km先(福山市駅家町万能倉)に、当社と同名の素盞嗚神社という小社が鎮座する。安倍晴明の編纂とされる金烏玉兎集第1巻に、蘇民将来は巨旦(弟)将来宅の東方に住んでいたとしているので、あるいはそこが蘇民の屋敷跡かも知れない。
境内の北西、広場に面して瓦葺き入母屋造りの仏式の建物がある。これは現在は戸手天満宮である。元々は当社の「本地堂」で、神仏習合時期の別当寺・早苗山天竜院天王寺の本堂であった。江戸時代中期の再建とされ、祇園社(素盞鳴命奉祀神社)に残っているのは全国でもここだけという貴重な建築物である。明治維新後、廃仏毀釈の嵐が吹きすさび各地で仏堂の取り壊しが進むなか、厚い信仰心をもつ当地の人々の手により、祭神に菅原道真を奉祀して守り通された。
その後時を経て、屋根は抜け天井は朽ちて甚だ老朽化が進み倒壊が危惧されたが、平成10年(1998年)広島大学の三浦教授監修のもと、本格的は修復がなされ現代に蘇った(平成の大修理)。
ここに祀られていた複数の仏像は明治期に周辺の真言寺院に散逸したが、後の調査で、本尊・聖観世音菩薩は、福山市内の某真言寺院に現存していることが判明した。この観音様は一説には奈良時代の高僧行基菩薩の作とされる大変古い仏像で、寺院の本尊として檀家から厚い信仰をえているそうである。
日本に僅か20棟位と言われる、日光東照宮などで有名な「鳴き龍」がある。
境内には戦国時代に、当社の南西にそびえる城山(じょうやま/標高199m)一帯に築かれていた山城相方城から移築されたという城門2棟と櫓があった。そのうち櫓は1970年代の火災で焼失してしまったが、城門は境内の北側を通る奈良時代の旧山陽道に面し通称「中門」「北門」として現存する。現存する戦国期の山城の城門としては最古級とされる。平成の大修理では、この城門にも補修が施された。
なお建築物ではないが、かつて境内の鬼門(北東の隅)に「神代之杉」がそそり立っていた。根元は大人数人でも抱えきれないほどの太さがあり、まさに神社のシンボルであったが、残念なことに数十年前落雷で幹が裂け枯死してしまい、倒壊事故回避のためにとうとう伐採撤去されてしまった。現存すれば間違いなく県内でも有数の巨木であるが、いまは石碑が残るのみである。
[編集] アクセス
(ただし祇園祭最終日19時からは交通規制により、バスの運行ルートが変更されるので注意が必要)
- 祇園祭期間中は混雑し、自家用車での参拝は極めて困難である。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年12月5日 (土) 00:11 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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