細川内閣
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| 細川内閣 | |
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| 内閣総理大臣 | 第79代 細川護煕 |
| 成立年月日 | 1993年(平成5年)8月9日 |
| 終了年月日 | 1994年(平成6年)4月28日 |
細川内閣(ほそかわ ないかく)とは、細川護煕が第79代内閣総理大臣に任命され、1993年(平成5年)8月9日から1994年(平成6年)4月28日まで続いた日本の内閣である。在任期間は263日間。非自民・非共産連立政権のこの内閣の発足により、1955年(昭和30年)の結党以来38年間政権を維持し続けた自由民主党は初めて野党に転落した。
目次 |
[編集] 発足
1993年(平成5年)7月18日に実施された第40回衆議院議員総選挙において、自民党の獲得議席数は選挙前の勢力を維持したものの、単独過半数には達しなかった。自民党を離党した羽田派が結成した新生党、同じく武村正義らのグループが結成した新党さきがけ、前熊本県知事の細川護煕が前年に結成した日本新党の3新党は計100議席余りを獲得。そのあおりを受けた日本社会党は70議席と勢力を半減させた。
新生党が速やかに社会党・公明党・民社党・社会民主連合・民主改革連合の各党派と連立政権を樹立することで合意する一方、日本新党とさきがけは統一会派を結成し、自民・非自民双方と政治改革の実現を条件とする連立交渉に入った。双方とも条件の受け入れを表明したが、「細川首相」を提示した非自民側が結局取り込みに成功する。連立政権においては、通常第一党から首相が出ることが通例だが、この時の日本新党は第四党であり、異例の首相への抜擢であった。細川は参議院議員を2期、熊本県知事を2期、その後日本新党を結成して再び参議院議員を1年間務めていたものの、衆議院議員初当選にしていきなり内閣総理大臣の座に着くことになった。これは、理念や政策、政治手法についての考えがバラバラな8党・会派をまとめて行くためには、細川の政界再編・新党運動の先駆者としての立場、旧熊本藩主・侯爵細川家や元首相・公爵近衛文麿の孫息子という血筋の権威、国民的人気等が有効と考えた新生党代表幹事小沢一郎の判断の結果である。総理大臣の孫息子が首相となったのは、内閣制度創設後初めてである[1]。
組閣後の閣僚記念撮影は、歴代内閣恒例の官邸1階西階段の赤絨毯では行わず、中庭の芝生の上でワイングラスを片手に懇談の後、新閣僚が生け垣の前に並ぶ目新しいスタイルで行われた。閣僚には、さきがけ代表武村正義(官房長官)、新生党党首羽田孜(副総理・外相)、社会党委員長山花貞夫(政治改革担当相)、公明党委員長石田幸四郎(総務庁長官)、民社党委員長大内啓伍(厚相)、社民連代表江田五月(科技庁長官)と連立与党各党首が顔を揃えた。ただし、山花は総選挙敗北の責任を取って9月に社会党委員長を辞任し、替わって委員長に就いた村山富市は入閣しなかったため、政権と社会党執行部との間に距離感が生じることとなった。
また、連立与党側の運営は各党書記長・代表幹事らの「与党代表者会議」によって行われたが、特に新生党代表幹事小沢一郎と公明党書記長市川雄一の「一・一ライン」が中心となった。
9月はじめの朝日新聞の世論調査では、内閣支持率は空前の71%に達した。
[編集] 政治改革政権
当時の世論は、自民党長期政権の下での政官業の癒着構造、カネがかかり政権交代が行われない選挙システム、政治腐敗等に対する不満が高まっていた。自民党もまた数年来、カネがかからず政権交代を容易にする選挙制度改革や政治資金規制強化などのいわゆる政治改革に取り組んでいた。しかし、党内は守旧派と後の新生党・新党さきがけ・自由改革連合などにつながる改革派に分かれて激しく対立し、結局これを実現できなかった宮澤前内閣は内閣不信任決議を突きつけられ、新生党・さきがけの離党、衆議院における過半数割れによって下野することとなった。
本来理念や政策が異なる連立与党各党は、世論の最大の政治的関心事で自民党政権が成し遂げられなかった政治改革の実現という日本新党・さきがけの条件を受け入れ、これを一致点として政権を発足させたため、細川内閣はこれを唯一最大のテーマに掲げて年内の法案成立を目指した。細川は政治改革が年内に実現できなければ政治責任をとると明言した。
選挙制度改革について、連立政権側は、小選挙区・比例代表(全国単一)各250・2票制(小選挙区・比例各1票)の小選挙区比例代表並立制を主張。これに対して自民党は、小選挙区300・比例代表(都道府県単位)177・1票制を主張した。社会党の中には本音では現行制度の存続を望む議員も少なくなく、連立交渉の条件を呑んだはずの自民党もまた同様であり、審議拒否を繰り返した。小選挙区274・比例代表(全国単一)226とする譲歩案を自民党が拒否したため、与党は10月18日に元の案を衆議院で通過させた。参議院での実質審議は11月24日にようやく始まったが、参議院は自民党と社会党の勢力が大きく、年内可決の目処は立たなかった。
連立与党各党は年明けの1月4日にそれぞれ議員総会を開いて政治改革実現の決意を固めた。5日からの参議院政治改革特別委員会は自民党の欠席戦術にもかかわらず連立与党の結束は固く、自民党も成立を前提とした修正論議に傾き始めた。1月21日、社会党からの造反があり参議院で法案が否決されるが、細川は自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開き、あらためて政治改革関連法案成立の機運を盛り上げた。自民党総裁河野洋平も細川とのトップ会談に応じ、急転直下、小選挙区300・比例代表(全国11ブロック)200・2票制、企業団体献金は1団体50万円までとする妥協が成立。両者は1月29日の午前1時、共同記者会見を行った。この合意に基づく改正公職選挙法や改正政治資金規正法、政党助成法などの政治改革四法は3月4日に成立、5年以上の年月を経てようやく政治改革は実現した。
[編集] 国民福祉税構想
高い支持率を背景に、細川は引き続き行政改革、規制改革、地方分権、景気対策等の懸案に取り組んでいく姿勢を見せた。
細川は就任当初から税制改革にも意欲を示していた。また、9月に始まった日米間の経済問題を協議する日米包括協議でアメリカは内需拡大とそのための所得税減税を日本に求めており、11月の日米首脳会談で細川は所得税減税を翌年実施する考えをクリントン大統領に対して示した。このとき、次期首脳会談を翌年2月11日に開き、それまでに日米包括協議の合意を図ることも決められ、日本側は所得税減税分を埋める財源確保の必要に迫られることになった。
赤字国債を発行しないことが細川政権の公約の柱の一つだったこともあって新生党の小沢代表幹事と大蔵省は財源を赤字国債に頼らず消費税の増税に求めることにしたが、社会党は消費税増税に絶対反対の姿勢だった。同時期、細川内閣が至上命題に掲げる政治改革の実現は難航しており、そのため例年であれば12月に終わる予算編成を年明けまで続けるという異例の方針を取ることになった。政治改革は年が明けた1月29日にようやく細川・河野合意にこぎつけるが、日米首脳会議までの時間はわずかとなっていた。
2月2日晩の政府・与党首脳会議で社会党や武村官房長官は消費税増税に強硬に反対するが、細川は3日午前1時に会見を開いて国民福祉税構想を発表した。3年後に消費税を廃止して福祉目的の7%の国民福祉税を導入するというものだった。しかし、この構想は厚生大臣や官房長官にも知らせていないもので、政権内外の反発を呼んだ。4日の連立与党代表者会議で撤回が合意された。日米首脳会談は決裂し、結局3兆円余の赤字国債発行を盛り込む平成6年度予算案が2月15日に編成された。
[編集] 退陣
連立の一致点であった政治改革が曲がりなりにも実現したこともあり、政権は国民福祉税構想の頓挫以降急速に求心力を失っていく。早期からあった「一・一ライン」とさきがけ代表の武村官房長官との対立も、政権運営の手法や政治改革の方法などに加え税制改革をめぐって深刻化。武村は悪化が明らかになってきた景気へのてこ入れを優先し政治改革法案は継続審議にすべきと主張する自民党に同調し、幹部とも頻繁に接触していた。細川は、小沢の内閣改造断行・武村更迭の進言を受け、政治改革法案の成立を一区切りとして改造内閣を発足させる意向だったが、社会党が政権離脱をちらつかせるため3月2日に断念。
また、自民党は細川の佐川急便グループからの借入金処理問題を前年10月以来徹底的に追及し続けていた。自民党が予算審議拒否を行なったため政権は立ち往生状態に陥り、4月8日に細川が辞意を表明。細川内閣は4月25日の閣議で総辞職(親任式が同月28日午前8時55分となったため、それまで職務執行内閣として存続)し、約9か月の短命政権に終わった。
[編集] 与党
日本社会党、公明党、新生党、日本新党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合である。(民主改革連合は当時、参議院院内会派。)
[編集] 閣僚
- 内閣総理大臣 - 細川護煕(日本新党)
- 内閣総理大臣特別補佐 - 田中秀征(新党さきがけ)【‐1994年1月31日】
- 法務大臣 - 三ヶ月章(非議員)
- 外務大臣兼副総理 - 羽田孜(新生党)
- 大蔵大臣 - 藤井裕久(新生党)
- 文部大臣 - 赤松良子(非議員)
- 厚生大臣 - 大内啓伍(民社党)
- 農林水産大臣 - 畑英次郎(新生党)
- 通商産業大臣 - 熊谷弘(新生党)
- 運輸大臣 - 伊藤茂(日本社会党)
- 郵政大臣 - 神崎武法(公明党)
- 労働大臣 - 坂口力(公明党)
- 建設大臣 - 五十嵐広三(日本社会党)
- 自治大臣 - 佐藤観樹(日本社会党)
- 国家公安委員会委員長 - 佐藤観樹(日本社会党)
- 内閣官房長官 - 武村正義(新党さきがけ)
- 総務庁長官 - 石田幸四郎(公明党)
- 北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官、国土庁長官 - 上原康助(日本社会党)
- 防衛庁長官 - 中西啓介(新生党)→愛知和男(新生党)【1993年12月2日‐】
- 経済企画庁長官 - 久保田真苗(参、日本社会党)
- 科学技術庁長官 - 江田五月(社会民主連合)
- 環境庁長官 - 広中和歌子(参、公明党)
- 国務大臣(政治改革担当) - 山花貞夫(日本社会党)
[編集] 政務次官
- 法務政務次官 - 佐々木秀典(日本社会党)
- 外務政務次官 - 東祥三(公明党)
- 大蔵政務次官 - 北側一雄(公明党)、中村正男(参、日本社会党)
- 文部政務次官 - 安倍基雄(民社党)
- 厚生政務次官 - 岡島正之(新生党)
- 農林水産政務次官 - 木村守男(新生党)
- 通商産業政務次官 - 遠藤乙彦(公明党)、和田貞夫(参、日本社会党)
- 運輸政務次官 - 二階俊博(新生党)
- 建設政務次官 - 伊藤英成(民社党)
- 労働政務次官 - 永井孝信(日本社会党)
- 自治政務次官 - 冬柴鉄三(公明党)
- 総務政務次官 - 小池百合子(日本新党)
- 北海道開発政務次官 - 菅野久光(参、日本社会党)
- 防衛政務次官 - 山口那津男(公明党)
- 経済企画政務次官 - 古賀一成(新生党)
- 科学技術政務次官 - 乾晴美(参、民主改革連合)
- 環境政務次官 - 山元勉 (日本社会党)
- 沖縄開発政務次官 - 田村秀昭(参、新生党)
- 国土政務次官 - 増田敏男(新生党)
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月13日 (金) 03:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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