細川幽斎

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細川幽斎 / 細川藤孝
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文3年4月22日1534年6月3日
死没 慶長15年8月20日1610年10月6日
改名 萬吉(幼名)、細川藤孝、幽斎玄旨(号)
別名 与一郎(通称)、長岡藤孝
戒名 泰勝院殿前兵部徹宗玄旨幽斎大居士
墓所 熊本県熊本市の立田自然公園(泰勝寺跡)
京都府京都市の南禅寺
官位 従五位下・兵部大輔、従四位下・侍従
正二位・大蔵卿法印
幕府 室町幕府
主君 足利義輝義昭織田信長豊臣秀吉
氏族 三淵氏、細川氏
父母 父:三淵晴員、母:清原宣賢の娘
養父:細川元常
兄弟 宮川尼、三淵藤英
姉(佐々木越中守室)、玉甫紹琮、
梅印元冲、長岡好重
姉(土御門久脩)室、藤孝(幽斎)
正室:麝香(光壽院)
忠興興元、伊也、幸隆、千、孝之、
加賀、栗
  

細川 幽斎 / 細川 藤孝(ほそかわ ゆうさい / - ふじたか)は、戦国武将歌人である。幽斎玄旨と号す。足利将軍家連枝三淵氏の生まれ。奉公衆三淵晴員の次男で、母は著名な儒学・国学者清原宣賢の娘・智慶院。晴員の兄の和泉守護細川元常の養子となったとされる。

初め13代将軍足利義輝に仕え、その死後は15代将軍足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となる。後に豊臣秀吉徳川家康に仕えて重用され、近世細川氏の祖となった。

また、藤原定家歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け近世歌学を大成させた文化人でもあった。後に、正統伝承者である三条西公国(実枝の子)、その子三条西実条に返し伝授をする。

目次

[編集] 生涯

[編集] 幕臣時代

天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となったとされる[1]。しかし、近江佐々木氏の一門出身で将軍近臣であった細川高久や、淡路守護家細川晴広が養父であった可能性も指摘されている[2]

天文15年(1546年)、将軍足利義藤(後の義輝)から「藤」字の偏諱を受け、藤孝を名乗る。天文21年(1552年)、従五位下兵部大輔に叙任され、天文23年(1554年)、養父元常の死去により家督を相続した。

幕臣として将軍義輝に仕えるが、永禄8年(1565年)の永禄の変で義輝が三好三人衆松永久秀に暗殺されると、幽閉された義輝の弟である一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を兄三淵藤英らとともに救出し、近江六角義賢若狭武田義統越前朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走した。その後、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張織田信長に助力を求めることとなる。

[編集] 織田信長時代

永禄11年(1568年)9月、藤孝は義昭を奉じて織田信長が入京するのに従い、さらに山城国勝竜寺城(青竜寺城)を三好三人衆の岩成友通から奪還し、以後大和筒井城の戦い)や摂津を転戦した。

義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。このとき、兄藤英は義昭側についた。義昭が追放された後の7月に山城国桂川の西、長岡一帯(現長岡京市向日市付近)を与えられ、以後、長岡姓を称する。8月には池田勝正とともに岩成友通を山城国淀城第二次淀古城の戦い)の戦いで滅ぼすという功績を挙げ、以後信長の武将として畿内各地を転戦した。石山合戦紀伊雑賀攻めのほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力として活躍した(黒井城の戦い)。天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和国信貴山城を光秀とともに落として(信貴山城の戦い)功績を挙げた。

天正6年(1578年)、信長のすすめによって嫡男忠興と光秀の娘・玉(細川ガラシャ)の婚儀がなる。山陰道進攻軍総大将の明智光秀の与力として天正8年(1580年)に細川家単独で丹後に進攻するも守護一色氏に反撃され失敗。のちに光秀の加勢によってようやく半国を平定し、信長から丹後半国の領有を認められ宮津城を居城とした。

[編集] 本能寺の変以後

天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は織田の山陰道平定軍の上司であり、親戚でもある光秀の再三の要請を断り、剃髪し幽斎玄旨と号して田辺城に隠居し、忠興に家督を譲った。

この後も、光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、天正14年(1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州征伐にも武将として参加した。また、梅北一揆の際には上使として薩摩に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。この功により、文禄4年(1595年)には大隅に3000石を加増された(のち越前府中に移封)。

幽斎は千利休らとともに秀吉側近の文化人として寵遇された。忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。一方、徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近した。

幽斎が籠った丹後田辺城(舞鶴城)

慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津上杉景勝)征伐に軍勢を引きつれて参加し、幽斎は500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興夫人・ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自殺した。田辺城は小野木重勝前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城軍の抵抗は激しく、また攻囲軍の中に幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲が乏しかったこともあり長期戦となった。幽斎の歌道の弟子である八条宮智仁親王は7月、8月の二度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。使者を通じて古今集証明状を八条宮に贈り、源氏抄と二十一代和歌集を朝廷に献上した。ついに八条宮が兄・後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条中院通勝烏丸光広勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。

忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前小倉藩39万9000石の大封を得たが、幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。 

幽斎の所領6000石やそのほかの資産は死後に整理され、次男の細川興元の茂木藩一万石立藩の足しとして、あるいは慶長9年(1604年)に父忠興から廃嫡された幽斎孫の長岡休無(細川忠隆)への細川家からの京都隠居料(三千石)として、受け継がれた。

[編集] 墓所

京都市左京区南禅寺福地町の瑞竜山太平興国南禅寺の搭頭寺院である天授庵に墓がある。忠興の子・細川忠利以降、子孫は肥後熊本藩54万石の藩主となったため、熊本市黒髪の立田自然公園(泰勝寺跡)にも廟所がある。

また、幽斎の菩提所として忠興により大徳寺山内に建立された塔頭が高桐院である。

[編集] 家族

父母
兄弟・姉妹
  • 宮川尼(武田信高 (若狭武田氏)* [3]室); 雄長老(永雄長老、英甫永雄 ・ 本名: 永雄英甫 1535年1602年) の母。
  • 三淵藤英
  • 女子(佐々木越中守[4]室)
  • 玉甫紹琮(高桐院開山)
  • 梅印元冲
  • 長岡好重
  • 女子(土御門久脩室)
  • 正室:沼田光兼の娘・麝香(光壽院)
子女

[編集] 人物・逸話

  • 12代将軍・足利義晴落胤であるという説がある。この説が事実なら、足利義輝義昭の庶兄にあたることになる。
  • 永禄の変の後、義昭に従って流寓していたころ、貧窮して灯籠(灯篭)の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴するほどであったという。
  • 織田信長に臣従したときに山城長岡を拝領し長岡(ながおか)を称した。関ヶ原の戦いの後は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。
  • 幽斎は、剣術等の武芸百般、和歌茶道連歌蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁料理猿楽などの造詣にも深く(戴恩記ほか)、当代随一の教養人でもあった。剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘、吉田雪荷から弓術印可を、弓馬故実(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸にも高い素質を示した。膂力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もある。また、息子・忠興と共に遊泳術にも優れたという。
  • 三条西実枝古今伝授を受け、三条西公国に伝えるまでの間、二条派正統を一時期継承した。当時唯一の古今伝授の伝承者であり、関ヶ原の戦いのときに後陽成天皇勅命で幽斎を助けたのも古今伝授が途絶える事を恐れたためと言われる。
  • 門人には後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王、公家の中院通勝烏丸光広などがおり、また松永貞徳木下長嘯子らも幽斎の指導を受けた。島津義久は幽斎から直接古今伝授を受けようとした一人であり、幽斎が義昭に仕えていた頃から交流があった。
  • 八条宮が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」は、幽斎の孫で熊本藩主となった細川忠利が造営した水前寺成趣園(熊本市)に大正時代に移築されている。
  • 妻麝香を愛し、側室を置かなかった。親友ともいえる明智光秀も同じく、正室ひとりにとどめて側室を置かなかった。

[編集] 主な著作物

  • 古今若衆序
  • 衆妙集
  • 詠歌大概抄
  • 古今和歌集聞書
  • 百人一首抄
  • 九州道の記
  • 東国陣道の記

[編集] 脚注

  1. ^ 『寛永諸家系図伝』
  2. ^ 「日本歴史」2009年3月号『細川幽斎の養父について』[[山田康弘 (歴史学者)|]]
  3. ^ 寛政重修諸家譜には武田宮内少輔信重室とあるが、『福井県史』では若狭武田氏武田元光の子で、武田信豊の弟の武田信高(宮川殿、宮内少輔)室としている。『福井県史』-武田氏の文芸 小浜文芸の一支柱
  4. ^ 詳細は不明であるが、越中守は高島氏代々の当主の名乗りである。高島氏は高島七頭(湖西地方の佐々木氏系領主七氏)の惣領家。ただし高島(嶋)は奉公衆などを勤めた庶流家が称し、室町幕府外様衆の嫡流家は佐々木越中守を代々名乗っていることから、この嫡流を佐々木越中氏・越中氏ともいう(西島太郎 『戦国期室町幕府と在地領主』 八木書店、2006年。)。近江国清水山城主。

[編集] 関連項目

[編集] 関連書籍

  • 「戦国の細川一族」(戸田敏夫-新人物往来社)
  • 「細川幽齋」(細川護貞-求龍堂)
  • 「幽斎玄旨」(佐藤雅美-文藝春秋)
先代:
細川元常
細川氏(和泉上守護家)
細川幽斎(藤孝)
次代:
細川興元
先代:
-
細川氏(丹後細川家)
1573年 - 1582年
次代:
細川忠興

最終更新 2009年11月2日 (月) 14:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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