細川護熙
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| 細川 護煕 (ほそかわ もりひろ) |
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| 在任期間 | 1993年8月9日 - 1994年4月28日 |
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| 生年月日 | 1938年1月14日(71歳) | |
| 出生地 | 東京都千代田区 | |
| 出身校 | 上智大学 | |
| 学位・資格・称号 | 法学士 | |
| 前職 | 新聞記者 熊本県知事 |
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| 世襲の有無 | 家族・親族参照 | |
| 選挙区 | 熊本1区 | |
| 当選回数 | 衆2回、参3回 | |
| 党派 | 日本新党 (内閣総理大臣辞任後: →新進党→無所属 →フロムファイブ→民主党) |
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細川 護熙(ほそかわ もりひろ、1938年1月14日 - )は、日本の政治家、陶芸家。肥後熊本藩主だった肥後細川家の第18代当主。学歴は上智大学法学部卒業。学位は法学士(上智大学)。
内閣総理大臣(79代)、衆議院議員(2期)、参議院議員(3期)、熊本県知事(第4代、2期)、日本新党代表、フロムファイブ代表を歴任。
1993年7月の第40回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選して非自民連立政権の首班となり、38年ぶりに自由民主党からの政権交代を実現させた。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 生い立ち
関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国武将細川忠興の子・熊本藩主細川忠利から数えて15代目の細川護貞と、首相経験者近衛文麿の娘である温子との間の長男として東京都千代田区に生まれる(本籍地は熊本県熊本市)。清泉女学院小学校から栄光学園中学校、学習院高等科を経て、京都大学を受験するが失敗。一浪して再び京大を受験するがまたも失敗し、上智大学法学部を卒業後、朝日新聞社に入社。鹿児島支局を経て社会部記者となり、金嬉老事件などを取材した。
[編集] 政界へ
その後、朝日新聞社を退職。かねてから政界進出の意志を持っていたが、松前重義(社会党)に「自分は次の選挙に出ない。いい機会だから、胆(はら)を決めて出たらどうか」と勧められ、1969年に行われた衆議院議員総選挙に熊本1区から無所属で出馬した。しかし父の護貞は、政界入りに反対し、「そんなヤクザな道に入るのなら、家とは縁を切ってくれ。カネも含めて今後一切の面倒は見ない」と勘当を言い渡した。
細川自身は保守系無所属としての出馬を選んだ(社会党は松前の後継に藤崎久男を擁立したが落選)。佐藤榮作首相に面会すると、田中角栄に会うよう勧められ、田中には「当選ラインは6万票。選挙までに3万軒、戸別訪問しろ」といわれ、どぶ板選挙を行った。しかし細川家の末裔とはいえ、家の支援は望めず、有権者にとっては無名に近い存在だった。結果、戸別訪問も目標の半分しかできず38,632票で落選したが、戸別訪問で回った地域は、不思議なくらい票が伸びたという[1]。1971年の参議院議員選挙で全国区から出馬し、石原慎太郎などの支援を得て当選するが、後に石原とは袂を分かち田中角栄の七日会(田中派)の旗揚げに参加、2期目は熊本県選挙区から出馬し当選、大蔵政務次官などを歴任した。
[編集] 地方自治へ
その後、熊本県知事選挙への出馬を表明、現職の沢田一精と自民党の公認を争った末の調整で公認候補となり、1983年に当選、2期8年勤める(当時全国最年少の知事)。この間、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進。また知事在任中、何をするにも国(中央省庁)に権限を握られていることを痛感し、地方分権を推進するためには国の中枢に入って改革をする必要があると考えるようになる。引き合いとしてよく使った「バス停の設置場所を数メートル移動させるだけでも運輸省の許可を得るのに大変な手間がかかる」という例は話題になった。
[編集] 新党結成
3期目の知事選も当選確実と誰もが考えていたが、「権不十年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え2期8年で知事を辞めた後、1991年2月に活動の本拠を東京に移して、「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長を務めた。
1992年、文芸春秋で「自由社会連合」結党宣言を発表。東西冷戦終結の国際潮流とリクルート事件をはじめとする政治腐敗、既成政党不信、政治改革・行政改革の遅滞を背景に、政権交代の可能性がほとんどなくなっていた保守政党(自民党)と革新政党(社会党)の二大政党制(1.5大政党制)を捨て、政権交代可能な保守の二大政党制を打ち立てるべきだと訴えた。新党は公募により党名を「日本新党」とし、10年以内に政権獲得を実現するという目標を掲げた。同年、参議院選挙に比例区から立候補し、日本新党は細川を含めてミニ政党としては過去最高の4議席を獲得した。
一方中央政界では、リクルート事件や金丸信の東京佐川急便事件などによってますます強まる国民の政治不信を背景に、政治腐敗防止のために政治資金規正や政権交代を容易にする小選挙区制度導入といった政治改革の期待が高まっていたが、自民党内の激しい対立によって関連法案は廃案となり、海部内閣は退陣に追い込まれていた。続く宮沢内閣の下でも一向に実現の目途は立たず、1993年5月、ついに宮沢首相がテレビの特別番組で「政治改革を必ず実現する」「どうしてもこの国会でやる」と決意を示したものの党内のいわゆる「守旧派」の反対の前に再び断念に追い込まれた。自民党からは改革推進派議員が離党して新生党、新党さきがけを結成し、宮沢内閣に対する不信任案が衆議院で可決された。これを受けて宮沢は衆議院を解散した。
この間、細川は日本新党代表として全国を遊説して政治改革・地方分権を訴え、無党派層の支持を集めていった。6月、総選挙の前哨戦と位置付けられた東京都議会議員選挙で、一気に20議席獲得と大躍進した。
[編集] 細川内閣
衆議院の解散による第40回衆院選で日本新党は躍進し、細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選。この選挙で野党第一党の社会党は大敗し、与党で第一党の自由民主党も過半数に達していなかったため、日本新党と新党さきがけがキャスティングボートを握る。新党さきがけ代表の武村正義は、細川とは滋賀県知事時代以来のつきあいがあり、その縁で日本新党を引き込み自民党との連立政権を模索したが、新生党代表幹事小沢一郎がこれに対抗して「細川首相」を提示。細川は「自民党を政権から引きずり下ろすためには悪魔とも手を結ぶ」と言って非自民連立政権の首班となることを受諾した。
1993年8月9日、政治改革を最大の使命として掲げる細川連立内閣が誕生した。公選知事経験者の首相就任は史上初(2009年現在唯一)。また、衆議院議員当選1回での首相就任は1948年の吉田茂以来45年ぶり、閣僚を経験していない政治家の首相就任としては1947年の片山哲以来46年ぶりである。細川政権誕生によって、1955年から38年間続いた、自民党長期政権、55年体制は崩壊した。日本新党、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社民連、民改連の8つもの政党・会派が連立を組んだ細川内閣は連立各党間の調整の困難が予想され、「8頭立ての馬車」「ガラス細工の連立」と揶揄されることもあった。しかし、マスコミ各社の内閣支持率は軒並み7割を超え、史上空前の支持率を得た。この記録は小泉内閣によって塗り替えられるまで保たれることになる。
細川は、折からの冷夏によって起こった記録的米不足を背景に、食糧管理法を改正し所謂ヤミ米を合法化し自民党政権下で長年の懸案でもあった日本のコメ市場の部分開放を決断した。ただしコメのブレンド米の緊急輸入に関しては就任直後には慎重な姿勢を見せていたのにも関わらず結果として認めたため記者会見で「断腸の思いだ。」と発言するなど一部から批判を浴びた。米の11月にはAPEC首脳会議に参加した。
その一方で政治改革四法案の成立は難航した。連立与党の衆議院選挙制度改革案は、当初の小選挙区250、比例代表(全国区)250、計500議席を、小選挙区274、比例代表(全国区)226と自民党へ譲歩したものの受け容れられず、民意を正確に反映しない小選挙区制の導入に反対する社会党の一部参議院議員も造反したため、1994年1月に廃案となる。ここで細川は、一度否決されたにもかかわらず、自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開き、再び改革案成立への意欲をアピールした。細川は、河野洋平自民党総裁との党首会談で修正を話し合い、今までよりもさらに自民党案に近い小選挙区300、比例代表(地域ブロック)200の小選挙区比例代表並立制とする案を呑むことで合意を取り付けた。こうして長年にわたり何度も頓挫してきた新たな選挙制度を実現させた。結果的には、羽田孜や小沢一郎が自民党を割って出てまで推進してきたこの選挙制度改革の成就が、細川内閣で数少ない実績の一つである。
政治改革関連法案が曲がりなりにも成立し、高い内閣支持率もそのまま維持した。2月、これに意を強くした小沢一郎と大蔵事務次官斎藤次郎のラインに乗った細川は、消費税を福祉目的税に改め税率を3%から7%に引き上げる国民福祉税構想を発表した。しかし、これは深夜の記者会見で唐突に行われたもので連立与党内でも十分議論されていないものであったため、世論はもとより官房長官武村正義など与党内からも反対の声が沸き上がり、すぐに撤回することとなった。さらに政権を支える与党実力者小沢と武村の対立が表面化。細川は内閣改造によって武村外しを図るがこれも実現できず、さらに細川自身の佐川急便借入金未返済疑惑が野党・自民党に追及される。細川は熊本の自宅の門・塀の修理のための借入金で既に返済していると答えていたが返済の証拠を提出することが出来ず、国会は空転。政権は一気に下り坂に向かった。4月5日、参議院議員コロムビア・トップ、同西川きよしとの会食の席で「辞めたい」と漏らしたことが報じられ、一旦は否定したものの政権はもはや死に体となってしまい、8日に退陣を表明。1年に満たない短命政権となった。総予算審議に入る前に予算編成時の首相が辞めるのは極めて異例。
[編集] 首相退陣後
28日には、細川内閣で副総理であった羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。このとき社会党と新党さきがけを除く連立各党が新選挙制度への対応と政権安定化のために院内統一会派「改新」を結成したが、かえって両党は反発して連立を離脱。羽田内閣は少数与党政権としてスタートした。与党が少数となった国会は借入金未返済についての細川の証人喚問を決定、6月に喚問を受けた。
1994年6月、羽田内閣総辞職・村山内閣誕生により、統一会派「改新」に参加する日本新党・新生党・公明党・民社党などは野党に転落したが、新選挙制度の下では中小政党は不利になることに鑑みて、12月、新進党を結成した。1995年7月の参院選で、細川は党首海部俊樹、羽田孜とともに首相経験者3人組で政権交代可能な二大政党の一つであることをアピール(三総理作戦)、勝利に導いた。しかし、この選挙で新進党比例候補として当選した友部達夫がオレンジ共済組合事件で逮捕されると、その比例名簿順位の決定に関わった細川は追及を受けることとなる。
新進党では12月に新たに党首に就任した小沢一郎の党運営が強権的であるとの不満が大きくなり、1996年の総選挙前には鳩山邦夫・船田元・石破茂らが離党し、敗北後はさらに離党者が続出。細川も1997年6月18日に離党、新進党解党直前の12月には新党「フロム・ファイブ」を立ち上げた。
さらに1998年1月には、旧民主党、新党友愛、太陽党、国民の声、民主改革連合とともに野党共闘を目指す勢力として院内会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」を結成。それからまもなく同じ民友連を構成する羽田孜らの太陽党、国民の声との三党合併により民政党を結成。その後も、新進党解党後の二大政党の一翼を担いうる新党の結成を目指し、旧民主党、新党友愛、民主改革連合との新党設立を協議する政権戦略会議の議長を務める。協議は難航したが、4月、「民主党」の名称をそのまま呑むことでとりまとめ、面目を躍如する。
しかし、新 民主党の結党を見届けた後の1998年5月7日、還暦(60歳)を迎えたことを区切りとして衆議院議員を辞職した。
[編集] 現在
1998年還暦を機に政界を引退し、主に陶芸家、茶人として活動し、祖母の住まいがあった神奈川県足柄下郡湯河原町宮上の邸宅に、茶室「不東庵」を設えている。執筆活動しながら、2003年から春に茶器等の作品「個展」を開いている。陶芸の師は辻村史朗。また細川家当主として財団法人「永青文庫」理事長を務める。『細川護熙 閑居に生きる 和樂ムック』(小学館、2009年6月)に詳しく紹介されている。茶室の設計は建築史家の藤森照信がしている。
現在唯一政治に関わる活動としては、「女性のための政治スクール」顧問を務める(名誉校長は妻の細川佳代子)。
[編集] 人物
- 熊本県知事時代に国民体育大会のアルペンスキー競技の大回転に出場したことがある。またNHKアナウンサーを退職した鈴木健二を熊本県立劇場館長として迎えている。勅使河原宏監督の映画「利休」(1989年)に、細川幽斎役で一カットのみ出演している。
- 上智大学出身者では、今の所唯一の総理大臣である。
- 首相就任時に密室とのイメージを避けるために「料亭政治」の廃止と国会の外では議員バッジを外すと宣言した。これに対し、料亭業界からは「料亭というのは悪いところじゃございませんからね。細川さんによくおっしゃっておいてください」と苦言を呈され、バッジ業界からは「特定の業界の存在意義を否定するかのごとき発言は許されない」と抗議された。またこの影響で料亭には閑古鳥が鳴いたという。(2007年9月26日付産経新聞わたしの失敗(2)より)
- 記者会見では立ったままで会見したり、プロンプターを導入したりしてマスコミの注目を集めた。また、ボールペンで人を指しながら喋ることもしばしばだった。この一連の動作は嘉門達夫の『ハンバーガーショップ(国会篇)』でネタにされている。それまでの首相記者会見が、椅子に座りながら机上のメモを読む姿であったのに対して対照的であったのでこれ一つだけでも大きく取り上げられた。
- 1993年8月15日「戦没者追悼式典」で首相として初めて「日本のアジアに対する加害責任」を表明する文言を挿入した辞を述べた。
- コメ市場の部分開放、河野洋平自由民主党総裁(当時)との政治改革4法案の修正合意、国民福祉税構想等重要な発表をする際の記者会見が何度も深夜に行われマスコミはその度に振り回された。当時社会党委員長だった村山富市は細川の一連の記者会見について「深夜に騒ぐ男じゃのう」と呆れていたという。また、当時日本商工会議所会頭だった稲葉興作からは「夜寝て、朝起きて満員電車に揺られて仕事をするのが普通の姿。そういうときに正常な判断ができる」と一連の記者会見に苦言を呈した。
- 国民福祉税導入を記者会見で発表した際、税率の根拠について尋ねられ、「腰だめの数字」と答え、物議をかもした。一部では「やっぱりお殿様だ」といわれた。
- 政府専用機の左右主翼の上下と垂直尾翼の両側の計6ヵ所につけられているやたらと大きな日の丸を見て、細川総理は「どこかの七つ紋みたいだね」と漏らしたという。
- 大の焼き鳥好きであるが首相在任中にコロムビア・トップ、西川きよしとの会食の際「総理大臣という立場で焼き鳥屋にも花見にも行けない」、「辞めたくなるときもありますよ」と漏らしたことで退陣表明かと大騒ぎになったことがある。
- 退陣があまりにも突然だったため、週刊誌などでは当時さまざまな憶測が流され、中には「退陣劇の裏には、細川に対する“決定的な弱み”を握られ、捜査当局による事情聴取などの噂が飛び交い、『現職首相』の刑事訴追を避けるために政界引退と引き換えのある種の司法取引がなされた」とするものまであった。この突然の退陣、いわば政権の投げ出しを、細川の外祖父の近衛文麿が戦争を止める道筋を立てられぬままに辞職したことと重ねて批判する人もいる。
- 「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」(首相就任時に流布されたジョーク)※実際には、上記発言は細川の父である細川護貞のジョークである。
- 父護貞は総理に就いた時には、喜ばず「あれの性格では、何れ投げてしまいます」といった意味のことを言って、周りを唖然とさせたがその通りになった。父よりも祖父細川護立の影響が強いとされる。なお祖父は青年時は白樺派の一員だった。母温子は幼少時に病没しており、戦後に父は旧熊本藩重臣家の「松井家」と再婚したことも距離がある一因とされる。
- 風貌も似ているせいか、外祖父近衛文麿によく比せられる。家柄のよさ、貴公子然とした身なり、政治改革の期待を一身に受け国民から圧倒的支持を受けたこと、にもかかわらず突如政権を投げ出したことは風貌どころか政治手法も似ていると揶揄される。
- 政界引退後、TBSラジオ「細川護煕・この人に会いたい」でパーソナリティを務めたこともある。
- 軽井沢にある別荘の隣邸は女優の吉永小百合のものである。
- 毛並みの良さが言われるが、朝日新聞記者時代のあだ名は数日間も入浴も着替えもせず、支部の記者室に寝泊りをしていたことから「野蛮人」。
- また、彼が野党連立政権の首班に小沢一郎から選ばれたのは「混乱期にこそ、血統の良さがモノを言う」という理由からだった。
- 2005年郵政解散直後のインタビューで、沈黙を破り時評を行い「私は議員在任中は中国との軋轢を避けるため一度も靖国には参拝していない」「郵政解散は政治的空白を作る」、「小泉君はアメリカのいいなりだ、私は決していいなりにはならなかった」などの批判を行う一方でリーダーシップそのものは評価するとも語った。
- 安倍晋三首相の電撃辞任後にもインタビューに応じた。連立与党内の亀裂や金銭スキャンダルにより唐突に退陣した細川でさえも、安倍の辞任には驚愕したそうである。
- 総理就任直後、テレビ番組にて小学生に志村けんに似ていると言われていた。その為か総理辞任当時スポーツ新聞で「バカ殿」と揶揄されていた事があった。
[編集] 家族・親族
- 本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の子 源義国を祖とする足利氏の支流 細川氏の一門・細川奥州家の流れを汲む肥後細川家の当主。明治期に侯爵家となった。
- 母・温子の父は、五摂家筆頭で第二次世界大戦前に首相を3度勤めた公爵・近衞文麿。
- 父・細川護貞は、近衞文麿首相時の内閣総理大臣秘書官を務めた。
- 弟に日本赤十字社社長で近衞家を継いだ近衞忠煇がいる。
- 妻・佳代子は、スペシャルオリンピックス日本の理事長を務める。
- 長男・護光は大学時代に興味を覚えて父親と同時期に陶芸の道に入り福森雅武氏に師事した後、現在は熊本県南阿蘇村を拠点に活動している。
- また、遠い親戚に細川隆一郎(細川忠隆〔=細川忠興の嫡男だが後に廃嫡〕の子孫)がいる。戦国時代末期の大名として知られる細川忠興(細川輝経の養子で細川藤孝の実子)・ガラシャ(明智光秀の子)夫妻が祖先。(男系では上記忠隆系のみが明智家と血が繋がっており、肥後藩主系では途中他家養子が入っている)。
- 肥後細川家の人物であるため、細川家嫡流・京兆家の細川頼之・細川勝元・細川政元らの血は引いていない。
- 子供は、佳代子夫人との間に一男二女あり。
[編集] 系譜
清和天皇…<略>…輝経━忠興━忠利━光尚━綱利=宣紀━宗孝=重賢━治年=斉茲━斉樹=斉護━韶邦= =護久━護成=護立━護貞━護熙━護光
別説
清和天皇-貞純親王-源経基-源満仲-源頼信-源頼義-八幡太郎=源義家-源義国-足利義康-足利義兼- 足利良氏-足利秦氏-足利頼氏-足利家時-足利貞氏-足利尊氏-足利義詮-足利義満-足利義教-足利政和- 足利義澄-足利義晴-細川忠興-細川立孝-細川行孝-細川有孝-細川興生-細川興文-細川斉茲-細川立之- 細川斉護-細川護久-細川護立-細川護貞-細川護熙-細川護光
[編集] 略歴
[編集] 経歴
- 1938年
- 1月14日 出生(父・護貞、母・温子)。
- 1953年
- 1956年
- 3月 学習院高等科卒業。
- 1963年
- 1968年
- 11月 朝日新聞社退社。
- 1969年
- 12月27日 第32回衆議院議員総選挙(旧熊本1区・無所属)落選。
- 1971年
- 6月22日 第9回参議院議員通常選挙(全国区・自民党公認)当選。
- 1977年
- 7月10日 第11回参議院議員通常選挙(熊本地方区・自民党公認)2期目当選。
- 1983年
- 2月 熊本県知事選挙(無所属)当選。
- 1991年
- 1992年
- 5月22日 日本新党結成、党代表就任。
- 7月26日 第16回参議院議員通常選挙(比例区・日本新党公認)3期目当選。
- 1993年
- 7月18日 第40回衆議院議員総選挙(旧熊本1区・日本新党公認)当選。
- 8月9日 内閣総理大臣就任、細川内閣発足。
- 1994年
- 1996年
- 10月20日 第41回衆議院議員総選挙(熊本1区・新進党公認)当選。
- 1997年
- 1998年
[編集] 文献
[編集] 著書
- 『景観づくりを考える』中村良夫との共著、技報堂出版、1989年10月、ISBN 4-7655-1498-6
- 『地方の経営 : シナリオとその戦略』内外情勢調査会、1989年
- 『鄙(ひな)の論理』岩國哲人との共著、光文社、1991年1月、ISBN 4-334-05180-4
- 『明日はござなくそうろう : リーダーの条件』ダイヤモンド社、1991年3月、ISBN 4-478-70061-3
- 『権不十年』日本放送出版協会、1992年1月、ISBN 4-14-008803-6
- 『日本新党責任ある変革』東洋経済新報社、1993年4月、ISBN 4-492-21048-2
- 『The time to act is now : thoughts for a new Japan』NTT Mediascope、1993年、ISBN 4-87221-023-9
- 『細川内閣総理大臣演説集』日本広報協会、1996年12月
- 『不東庵日常』小学館、2004年6月、ISBN 4-09-387507-3
- 『Seeing Japan』Whipple・Charlesとの共著、Kodansha International、2005年、ISBN 4-7700-2337-5
- 『晴耕雨読 細川護煕作品集』 新潮社、2007年、ISBN 4-10-304331-8
- 『ことばを旅する』 文藝春秋、2008年8月、ISBN 4-16-370500-7
- 『細川護煕展』壺中居、2003年 以下各.作品図録
- 『細川護熙展』壺中居、2004年
- 『細川護煕展』壺中居、2006年
- 『細川護熙展』壺中居、2009年 全国数ヶ所で「展覧会」をしている
- 『五周年記念 細川護熙の作陶 図録』 茶道資料館、2005年
[編集] 関連項目
- 華族
- 細川氏
- フォーリン・アフェアーズ
- 細川内閣、非自民・非共産連立政権
- 第40回衆議院議員総選挙
- 自由民主党
- 見城美枝子
- 松野頼三
- 園田直
- 田中秀征
- 小沢一郎、羽田孜
- 武村正義、松岡満寿男、小池百合子
- くまもとアートポリス
- 湯河原町在住
- 自虐史観
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ^ 『産經新聞』 【わたしの失敗】元首相・細川護熙さん(69)(1) (2/2ページ) 2007.9.25 07:27
- ^ 卒業が1年遅れているのは数学で赤点を取って落第したためである。産経ニュース2007年9月27日【わたしの失敗】元首相・細川護熙さん(69)(3)を参照。
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代: 宮澤喜一 |
第79代:1993年 - 1994年 |
次代: 羽田孜 |
| 先代: 沢田一精 |
熊本県知事第4代:1983年 - 1991年 |
次代: 福島譲二 |
| 党職 | ||
| 先代: 結成 |
フロムファイブ代表 初代:1997年 - 1998年 |
次代: 解散 |
| 先代: 結成 |
日本新党代表 初代 : 1992年 - 1994年 |
次代: 解散 |
| 歴代内閣総理大臣 | ||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 第78代 宮澤喜一 |
第79代 1993年 - 1994年 |
第80代 羽田孜 |
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最終更新 2009年11月23日 (月) 11:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【細川護熙】変更履歴




