群馬県立前橋高等学校
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| 過去の名称 | 第十七番中学利根川学校 群馬県中学校 群馬県尋常中学校 群馬県前橋中学校 群馬県立前橋中学校 群馬県立前橋高等学校 |
|---|---|
| 国公私立の別 | 公立学校 |
| 設置者 | 群馬県 |
| 校訓 | 「質実剛健」・「気宇雄大」 |
| 設立年月日 | 1877年 |
| 共学・別学 | 男女別学 (男子校) |
| 課程 | 全日制課程 |
| 設置学科 | 普通科 |
| 高校コード | 10101A |
| 所在地 | 〒371-0011 |
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群馬県前橋市下沖町321-1
北緯36度23分50秒東経139度5分45.1秒 |
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| 電話番号 | 027-232-1155 |
| FAX番号 | 027-233-1046 |
| 外部リンク | 公式サイト |
群馬県立前橋高等学校(ぐんまけんりつまえばしこうとうがっこう)は、群馬県前橋市下沖町に所在する公立高等学校。男子校。
目次 |
[編集] 概要
正式名称は「群馬県立前橋高等学校」。通称は「前高(マエタカ)」。1877年(明治10年)の開校で、3万有余名の卒業生を輩出している。校訓は「質実剛健」「気宇雄大」。現在は1学年8クラス(1クラス約40名)で、3学年で24クラス、約960名の生徒(男子のみ)と、約60人の職員(他に非常勤講師、学校医等)から成る。
[編集] 交通アクセス
[編集] 沿革
[編集] 略歴
群馬県立前橋高等学校は、1877年(明治10年)9月、前橋市曲輪町の旧前橋城内に設立された公立の第17番中学利根川学校をルーツとする。その後、1879年(明治12年)6月に利根川学校を閉鎖し師範学校内に群馬県中学校を開設する。その後さらに名称、設置場所などの幾多の変遷を経て、1901年(明治34年)4月に群馬県立前橋中学校となる。その当時は、校舎は東群馬郡紅雲町分村(現在の前橋市紅雲町)に所在していた。1912年(明治45年)には、生徒定員は600名であった。1934年(昭和9年)8月には、昭和天皇の行幸に合わせて校舎を前橋市天川原町(現在は文京町)に新築・移転する。1939年(昭和14年)には、生徒定員1,000名となった。
1948年(昭和23年)、学制改革によって、群馬県立前橋中学校は群馬県立前橋高等学校と改称、改変された。その4年後の1952年(昭和27年)、失火によって前橋高校の校舎は、講堂と体育館を除いて全焼する。しかし校舎は多くの方面の努力によって再建された。ちなみにこの時、校舎復興のための多くの貢献をした生徒の母親達の組織が、「前橋高校母の会」として残り、PTAとは別に現在も活動を続けている。
子供の数の増加に伴って、定員も1956年(昭和31年)には1,200人、1964年(昭和39年)には1,350人と増加していった。1979年(昭和54年)、校舎を前橋市下沖町に移転する。この際、生徒達が前橋高校の校旗を先頭として、自分の使う机を担ぎながら、文京町から下沖町までの数キロを移動した話は、その世代の同窓生達の間の思い出話となっている。その後も第二次ベビーブームや、少子化の影響を受け定員やクラス数の増減が行われ、現在では1学年8クラス、合計約960名の生徒が在籍している。そして今日までに前橋高校は創立以来130年の歴史を刻み、2008年(平成20年)3月末日現在で、合計約32,000名の卒業生を輩出している。
[編集] 年表
- 1877年9月 前橋市曲輪町に、第17番中学利根川学校が設立される。
- 1879年6月 利根川学校を閉鎖し師範学校内に群馬県中学校を開設する。
- 1880年1月26日 開校式。
- 1880年12月 旧利根川学校校舎に戻る。
- 1882年4月 旧前橋城内から南勢多郡小暮村に移転。
- 1886年2月 群馬県会が中学校予算支出を否決、有志の寄付と授業料で運営される。
- 1886年9月 中学校令発布により、群馬県尋常中学校となる。
- 1887年11月 東群馬郡紅雲町に新築移転。
- 1890年 中学校予算全額が地方税支出に戻る。
- 1897年3月 群馬、甘楽、碓井、利根、新田、多野の6分校が置かれる。
- 1899年4月 群馬県中学校となる。
- 1900年4月 高崎(群馬)、富岡(甘楽)、太田(新田)の3分校独立に伴い、本校を群馬県前橋中学校とする。
- 1901年4月 群馬県立前橋中学校となる。安中(碓井)、藤岡(多野)の2分校独立。
- 1912年4月 沼田(利根)分校独立。
- 1933年8月 前橋市天川原町(現・文京町)に新築移転。
- 1948年4月 学制改革に伴い、群馬県立前橋高等学校となる。
- 1948年10月 定時制課程開設。
- 1952年12月22日 失火により講堂、体育館を除いて校舎が全焼する。
- 1969年3月 定時制課程廃止。
- 1979年6月9日 前橋市下沖町に新築移転。
[編集] 部活動
前橋高校では部活動が非常に盛んである。2002年春の硬式野球部の甲子園(センバツ)出場をはじめとして、サッカー部、剣道部、卓球部、陸上部、軟式野球部、ラグビー部、バレーボール部、弓道部、山岳部などが県内で好成績を挙げており、群馬県高校総体の総合成績では、2007年度の総合成績2位を筆頭に、ここ数年は総合成績で3位以内にランクインしている。また、全国大会に出場する部も毎年いくつもある。
また1978年春のセンバツ出場時には、対比叡山高校戦において松本稔投手が完全試合を達成(春夏を通じ甲子園大会史上初)。このことは高校野球ファンのみならず全国的に有名であり、『四番、ピッチャー、背番号1』(横尾弘一著)では、松本投手のその後の歩みが取り上げられている。なお、松本稔は2007年度まで前橋高校で体育教師・野球部監督を勤め、前述のとおり本校を24年ぶりの甲子園に導いた(2008年度より群馬県立中央中等教育学校に異動)。
また、文化部の活動も盛んで、吹奏楽部、全国の高校でも数少ない男声合唱に取り組んでいる音楽部、百人一首かるた部、書道部、美術部、演劇部、マンドリンに親しんでいたことで知られるOBの萩原朔太郎にちなんで結成された歴史を持つギター・マンドリン部、平成20年4月にNHKBS-2の番組「にっぽん熱中クラブ」の第1回で紹介された大道芸部(収録当時は大道芸同好会であったが、後に部に昇格)も実績を上げている。
[編集] 学習
1学年では、芸術(音楽・美術・書道から一つを選択)、格技(剣道・柔道から一つを選択)の選択の他は、全員が同じ教科・科目を履修する。2学年では文系と理系に分かれ、文系では理科で生物か化学の中いずれか一つを選択する他は、全員が同じ教科・科目を履修する。理系では理科において、化学を全員が履修するほか、物理か生物のいずれか一つを選択、及び地歴科において日本史か地理のいずれか一つを選択する。3学年では、文系では地歴科において、日本史または世界史6単位のいずれか一方または日本史3単位+世界史3単位(主として東京大学及び京都大学志望者向け)の3種類の中から一つを選択する。(他にも選択科目はある。)理系では2学年と同じ教科を基本的に選択するが、地歴科において、日本史及び地理の代わりに世界史を選択する者が例年数名おり、授業が開講されている。(なお、選択科目に関しての詳しいことは、前橋高校のHPを参照のこと。)この他、総合的な学習の時間もあり、1・2学年では、年間を通じて研究や調査を深め、研修旅行などの成果もふまえて、年度末に論文をまとめ、優秀な論文は論文発表会で発表されるとともに、論文集としてまとめられる。3学年では小論文執筆のための様々な学習を行う。各学年とも、自分の進路に密接に関わる調査・研究を通して学習を進めるのが特徴である。
授業は1年次から大学受験を明確に意識したものとなっている。そのため授業(65分×5コマ)の進度は速くハイレベルであり、定期試験の難易度は高い。宿題も数学などを中心にほとんど毎日課されており、週末にも週末課題と称して多くの課題が課されている。始業前や放課後には補習も行われている。さらに隔週土曜日には、土曜登校学習と称して午前中3時間の補習が行われている。夏期休業中にも、1期、2期(3年生のみ)、3期にわたってそれぞれ5日間ずつ補習が行われる。冬季休業中、春季休業中にも、1,2年生対象にそれぞれ5日間の補習が行われる。なお、夏期休業中には、志賀高原方面において学習合宿が実施され(3年生が6泊7日、1, 2年生が合同で4泊5日)、多くの生徒が参加し、1日10時間以上の学習に取り組んでいる。また、冬季休業中を中心に、冬季集中学習会と称する自学自習を行う行事が3年生において行われ、毎年多数の3年生が受験直前の実力養成に励んでいる。
[編集] 行事
前橋高校における特徴的な行事としては、2年に1度開催される文化祭である蛟龍(こうりょう)祭と、高崎高校との対抗スポーツ大会で、毎年9月下旬~10月上旬に行われる定期戦、音楽三部による定期公演・優曇華(うどんげ)が挙げられる。他に、校内競技大会、研修旅行、遠足、OB講演会なども開催されている。
- 蛟龍祭 : 文化祭である。文化部や各クラスの主催による展示や、実行委員会が主催するのど自慢大会、ミス・マエタカコンテスト(女装コンテスト)、前橋市内の商店街を練り歩く仮装行列、模擬店、招待試合などが2日間にわたって行われ、近隣の他校の生徒や地域住民が多数訪れる。蛟龍祭の名は後述の凱旋歌の歌詞に由来する。
- 定期戦 : 高崎高校の生徒とさまざまなスポーツ種目の対抗戦を行い、その雌雄を決するもので、その始まりは戦後間もない頃まで遡る。両校の生徒達がしばしば利根川の両岸に対峙して石投げをしていたのを、もっと平和的な対決方法を模索する中で始まったものであるという説が有力である。例年両校の生徒がどちらか一方の高校に集まって開催され、ホーム・アウェーは一年ごとに交代する。競技は両校共に部活動として存在する種目の各部に所属する者同士による部対抗(硬式野球、軟式野球、陸上、バスケットボール、バレーボール、柔道、剣道、サッカー、ラグビー、テニス、ソフトテニス、空手道、卓球、弓道)とそれ以外の生徒が出場する一般対抗(水泳、駅伝、陸上、テニス、バレーボール、バスケットボール、卓球、ソフトボール、玉入れ、綱引き、長縄跳び)とがある。中でも綱引きは定期戦の目玉種目となっている。勝敗は両校の一般対抗と部対抗の総合得点によって決定する。
- 優曇華 : 毎年7月中旬~下旬に前橋市民文化会館大ホールにて行われる吹奏楽部、ギター・マンドリン部、音楽部の3部による合同コンサート。優曇華とは3000年に一度花を咲かせると言われる想像上の花の名前であり、後述の応援歌の歌詞に由来する。
- 校内競技大会 :1学期の期末テスト後と、3学期の学年末テスト後に行われる、クラス対抗による競技大会である。1学期末は夏季大会として、水泳、駅伝、バスケットボール、バレーボール、卓球、綱引き、玉入れ、ソフトテニス、陸上競技が行われる。この競技大会は、秋に行われる高崎高校との定期戦の選手選考も兼ねている。3学期末は春季大会として、サッカー、ソフトボール、バドミントン、柔道・剣道(1年生のみのオープン種目)等の種目が、1, 2年生において行われる。成績は夏季大会のものと合算して決定される。
- 研修旅行 : 平成18年度から修学旅行が実施されなくなり、その代替として東京方面にて1泊2日で実施された。旅行の内容は、大学の模擬授業の受講や、企業・研究所・博物館等を見学するものである。研修の成果は総合的な学習の時間におけるレポート作成に反映される。なお、平成20年度からは、1年生で関西方面へ2泊3日で出かけ、2年生で東京方面へ日帰りで出かけるという形式に変更された。
- 遠足 : これまで5~6月に実施されてきたが、平成21年からは10月に実施される。遠足と称しているが、実際は登山である。赤城山・榛名山・湯ノ丸山・荒船山・平標山などの山に学年毎に別の山に登る。かつては尾瀬に出かけたこともあった。雨天時には上野の博物館などに変更される。
- OB講演会 : 前橋高等学校OBによる講演会。例年10~11月に、開校記念式典とセットで行われている。ここ数年は安部一郎(講道館柔道十段・創立130周年記念講演)、三村明夫(講演当時新日本製鐵社長)、高井健二(講演当時群馬県教育長)、宮川秀之(ジョルジェット・ジウジアーロとともにイタルデザイン社を設立)、斎藤公男(日本建築学会会長・蛟龍館の設計者)らを講師として迎えている。
過去に約8kmのコースを走る全校マラソン大会が行われていたが、ベイシア前橋モール店が同校に隣接してオープンし、周辺の交通量が激増したことで安全面の問題から平成12年度を最後に中止されている。また、平成9年まで、毎年1月に予餞会が行われてきた。これは、群馬県民会館、後に前橋市民文化会館で実施され、かつては芸能人を招いてのコンサート、後にはお笑い芸人等を招いてショーやコントを鑑賞する会であった。これは開校記念式典とセットで行われていたが、諸事情から平成10年より実施されなくなった。(なお、開校記念式典は毎年秋に時期を移し、OB講演会とセットで体育館で実施されている。)
[編集] 記念館
校内の西、正門を入って右手に位置する建物。1979年(昭和54年)の前橋市天川原町(現在は文京町)から現在の下沖町への校舎移転(後述)の際、天川原町の旧校舎にあった第二体育館を移築したものである。なお、この第二体育館は、1934年(昭和9年)に校舎が紅雲町から天川原町に移転した際に建てられた生徒控所(朝礼などが行われた)で、1952年(昭和27年)に校舎が全焼した際も焼け残り、新校舎の完成までは仮教室として使用されていた。下沖町に移築後の現在では記念館と呼ばれ、卓球部の活動場所としての他、体育の授業や学年単位の集会等に使用されている。
[編集] 蛟龍館
校舎の東に設置されている。昭和55年に下沖町移転に伴って、同窓生の寄付金を元に新築された(設計は同窓生の斎藤公男)。1階が学生食堂、2階が会議室兼自習室、3階が各種文化部の活動室と部活動などの合宿施設として使われている。
[編集] 校章と校歌・応援歌と凱旋歌
校章はアルファベットの「MAEBASHI」を図案化したものである。旧制中学校時代はその中央上に漢字の「中」を、戦後学制が改まり新制の高等学校になってからは、「中」の文字を漢字の「高」に改めている。
校歌は1917年(大正7年)に、生徒の発議によって作られることとなり、初め生徒から歌詞を募ったものの秀作はなく、かつて前橋中学校に在籍し、当時は小説の執筆や民謡の作詞等で名を知られた平井晩村に依頼することとなった。平井晩村は八方から依頼されている原稿をさしおいて作詞に専念し、作曲は平井晩村の紹介で、大須賀乙字氏を通して依頼された東京音楽学校の中田章(唱歌「早春賦」の作曲で知られる。「夏の思い出」の作曲で知られる中田喜直の父)の手で為された。
こちらも校章と同じく学制改革の際に4番(最終章)の「我等が前橋中学校」の部分が「我等が前橋高等学校」と改められた。
応援歌と凱旋歌は、1918年(大正8年)に野球部が甲子園出場を賭けて北関東大会に出場し、決勝まで進出した際、茨城県竜ヶ崎中学校(現・竜ヶ崎第一高等学校)との決勝戦が行われる竜ヶ崎まで後輩の応援にやって来ていた前橋中学校野球部OBの屋代周二(当時東京帝国大学在学中)が、やはり応援に来ていた当時の桜田広利校長の依頼で一夜のうちに作詞したものである。メロディーは当時旧制高等学校や大学の応援団などで歌われていた応援歌等のメロディーを即席で拝借したものであると、「前橋高校百三年史」に寄せられた屋代の文にある。(この時の決勝戦では惜しくも敗退して甲子園出場はならなかった)応援歌と凱旋歌の歌詞には「枚を銜みて」「優曇華」「鎧袖一触」「百錬」「降魔」「あはれ燕雀」(応援歌)「益荒男」「蛟龍遂に雨を得て」(凱旋歌)などの、和漢の古典を出典とする語が多用されているのも特徴である。
校歌は1番より4番まであるが、野球応援時などは1番と4番のみ歌われることが多い。式典時などは全番歌われる。入学直後に応援団による校歌指導という伝統行事があり新入生は校歌と応援歌、凱旋歌を覚える。当校のWEBページにて校歌(1番のみ)と応援歌、凱旋歌を試聴することができる。
[編集] 著名な出身者
- 政治家・官僚・軍人・社会運動家・革命家
- 鈴木貫太郎 - 第42代内閣総理大臣
- 田辺誠 - 第11代日本社会党委員長
- 山口鶴男 - 前日本社会党書記長・元総務庁長官
- 佐田玄一郎 - 衆議院議員。前内閣府特命担当大臣(規制改革担当)
- 宮崎岳志 - 衆議院議員。
- 木暮武太夫 - 元参議院議員、運輸大臣(第2次池田内閣)
- 内山岩太郎 - 元神奈川県知事・外交官
- 伊能芳雄 - 元群馬県知事
- 清水一郎 - 元群馬県知事
- 堤富男 - 元通商産業事務次官
- 田島秀雄 - 元経企庁国民生活局審議官、元中部通商産業局長
- 鈴木孝雄 - 陸軍大将・靖國神社第四代宮司。貫太郎の弟
- 岩佐直治 - 海軍中佐、軍神。特殊潜航艇を考案し自ら真珠湾攻撃に出撃
- 東宮鉄男 - 陸軍大佐。大尉のとき張作霖爆殺を実行
- 井上日召 - 血盟団指導者
- 高畠素之 - 社会思想家。日本初の『資本論』全訳に成功
- 高木仁三郎 - 脱原発運動活動家
- 企業家
- 芸術家・スポーツ選手・その他有名人
- 萩原朔太郎 - 詩人、作家
- 平井晩村 - 詩人
- 萩原恭次郎 - 詩人
- 浅田晃彦 - 作家、医師
- 佐藤垢石 - エッセイスト
- 鷲田旌刀 - 作家
- 南城一夫 - 画家
- 大塚保治 - 美学者。『吾輩は猫である』の登場人物・迷亭のモデルといわれる
- 小栗康平 - 映画監督
- 糸井重里 - コピーライター
- 大島保彦 - 駿台予備学校英語科講師
- 小林桂樹 - 俳優
- 天田俊明 - 俳優
- 立川談之助 - 落語家・立川談志一門・1992年真打
- 生方恵一 - 元・NHKアナウンサー
- 渡邉卓哉 - 元フジテレビアナウンサー
- 増田和也 - テレビ東京アナウンサー
- 鈴木惣太郎 - 日本のプロ野球の生みの親
- 中利夫- 元中日ドラゴンズ外野手・監督
- 宮田征典 - 元読売ジャイアンツ投手・コーチ。スポーツキャスター。元祖「8時半の男」。
- 井野修 - プロ野球審判員(セ・リーグ審判部長)
- 松本稔 - 春夏合わせて、高校野球の甲子園史上初の完封勝利を達成した投手。
- 鈴木保巳 - 元競輪選手。元競輪評論家。名選手として鳴らした福島正幸の師匠。
- 吉永賢一 - 勉強法研究家。
- 学術関係
- 浦野匡彦 - 元二松學舍大学学長・日本遺族会副会長。「上毛かるた」の生みの親。
- 住谷悦治 - 第14代同志社大学総長
- 大熊毅 - 化学者、北海道大学大学院教授
- 野島美久 - 群馬大学大学院医学系研究科教授(群馬大学医学部附属病院 腎臓・リウマチ内科、血液内科診療科長)
- 高山清茂 - 群馬大学医学部教授、検査技術科学
- 山中昇 - 和歌山県立医科大学耳鼻咽喉科教授
- 矢部喜正 - 東邦大学医学部教授
- 斎藤公男 - 日本建築学会会長、日本大学理工学部名誉教授、『空間・構造・物語』
- 網野武博 - 上智大学文学部社会福祉学科教授
- 今井勝人 - 武蔵大学経済学部教授、『現代日本の政府間財政関係』
- 中澤勝三 - 弘前大学人文学部教授、『アントウェルペン国際商業の世界』
- 白石昭夫 - 前橋国際大学教授
- 田所作太郎 - 群馬大学名誉教授、『毒と薬と人生』
- 中井戸靖明 - 元群馬大学工学部教授
- 町田三郎 - 九州大学名誉教授、『明治の漢学者たち』
- 高橋八郎 - 元岩手大学学長
- 村中祐生 - 大正大学学長、『天台小止観をよむ 仏教の瞑想法』
- 保原充 - 名古屋大学名誉教授
- 白石英秋 - 京都大学大学院生命科学研究科准教授
- 宗教家
- 泰永二郎 - 在家日蓮宗浄風会会長、『自分と向き合う―法華経の生き方 』
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年9月8日 (火) 00:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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