耶律堯骨
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| 太祖 耶律阿保機 | ||
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| 遼 | ||
| 2代皇帝 | ||
| 王朝 | 遼 | |
| 在位期間 | 927年 - 947年 | |
| 姓・諱 | 耶律堯骨(漢風姓:劉徳光) | |
| 字 | 徳謹 | |
| 諡号 | 孝武恵文皇帝 嗣聖皇帝 |
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| 廟号 | 太宗 | |
| 生年 | 902年 | |
| 没年 | 946年 | |
| 父 | 太祖(次男) | |
| 母 | 蕭皇后(述律皇后) | |
| 年号 | 神冊 : 916年 - 922年 天顕 : 927年-938年 会同 : 938年-947年 大同 : 947年 |
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耶律堯骨(やりつ ぎょうこつ)は、契丹帝国(遼)の第2代皇帝。
[編集] 生涯
太祖・耶律阿保機の次子として生まれる。生母はウイグル王国の王女の蕭皇后・月里朶(ユリド、述律皇后)。同母長兄は東丹国の懐王の耶律突欲(義宗・天譲帝)。
926年、父である耶律阿保機が死んだが、皇太子だった同母長兄の耶律突欲は生母に嫌われて廃嫡され東丹王国の王となっていたため、皇位は空白となった。この事態に述律皇后が称制を執った。
927年、述律皇后から後継者として堯骨が指名され、キタイ(契丹)帝国の皇帝として即位した。そのため、耶律突欲は沙陀族の王朝後唐に降伏し、李嗣源(後唐の明宗)の下に去った。
933年、李嗣源が崩御すると、後継をめぐって争いが表面化した。耶律突欲は堯骨に後唐への介入を促した。その後継争いの渦中にあった沙陀族の石敬瑭は、燕雲十六州を割譲することと引き替えにキタイの堯骨と手を結び、その援護をうけて後唐の皇位を継いだ李従珂を滅ぼし、後晋を立てた(この一連の混乱の最中に耶律突欲は李従珂によって暗殺された)。堯骨は燕雲十六州を来るべき南進の基点として整備する。
建国の経緯からも沙陀族の後晋は事実上キタイの傀儡政権であったが、942年の石敬瑭の死後は、キタイからの独立を図るようになる。これを懸念した堯骨は南進を開始、946年に一気に後晋の首都・大梁(現在の開封)を陥落させて華北を占領し、後晋を滅亡させた。翌947年正月元日、堯骨は開封に入城し、国号を中華風に「大遼」と改称。年号を大同とした。ただし、これ以後も「キタイ」と「遼」の国号は併存する。堯骨はしばらく開封にとどまったが、遠征によって兵站に支障を生じ、わずか3ヶ月後に開封を発して北の幽州に帰還を図る。しかしその途中、欒城で病没した。齢46。
[編集] 宗室
- 后妃
- 靖安蕭皇后
- 子
- 耶律述律(穆宗・劉璟)
- その他、多数
[編集] 参考文献
- 『東洋歴史大辞典 中巻』(1941年、縮刷復刻版、臨川書店、ISBN 465301471X)1016ページ「太宗」(執筆:田村実造)
- 『アジア歴史事典 6』(平凡社、1984年)43ページ「太宗」(執筆:田村実造)
- 『遼史』巻3 太宗本紀第三、巻4 太宗本紀第四
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最終更新 2009年10月18日 (日) 08:24 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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