耶律大石
耶律大石の最新ニュースをまとめて検索!
| 徳宗 耶律大石 | ||
|---|---|---|
| 西遼 カラ・キタイ | ||
| 初代皇帝 グル・ハン | ||
| 王朝 | 西遼 カラ・キタイ | |
| 在位期間 | 1132年 - 1143年 | |
| 姓・諱 | 大石 | |
| 字 | 重徳 | |
| 諡号 | 文烈皇帝 天祐皇帝 |
|
| 廟号 | 徳宗 | |
| 生年 | 1087年 | |
| 没年 | 1143年 | |
| 年号 | 延慶 : 1132年 - 1134年 康国 : 1134年 - 1143年 |
|
耶律大石[1](やりつたいせき 契丹音;ヤリュートタイシ)は西遼(カラ・キタイ)の創始者。
太祖耶律阿保機の末子(第四子)である耶律牙里果の7世の孫に当たる[2]。『集史』において、 تاشي طايفو Tāshī Ṭāīfū と表される。遼が滅亡するに当たり、契丹人を引き連れて西へ逃れ、その地で勢力を広げ、モンゴル時代前後にペルシア語でトルキスターン(Turkistān)と呼ばれていたモンゴル高原西部からスィル川東岸までの広大な地域を領有し、故地回復を望んで東征軍を出すが、途中で挫折した。
目次 |
[編集] 略歴
1115年に進士(契丹語では林牙(リンヤ)と呼ぶ)となり、翰林院に入る。これは『遼史』で確認できる唯一の契丹人による進士の記録である。
泰州(現・黒竜江省の肇源あるいは吉林省の前郭爾羅斯旗)・祥州(現・吉林省の長春東北)、平州(現・河北省の盧龍)の二州の刺史(または節度使)、遼興軍節度使を歴任。
1122年、女真人王朝の金から攻撃を受けた遼の最後の皇帝・天祚帝は、この攻撃を防ぐことができず中京から西の雲中(山西省)の陰山に逃亡した。この時、大石は宰相の李処温とともに南京(燕京、現在の北京)に於いて、七代興宗の孫の耶律淳(天祚帝の従父)を半ば無理やりに擁立して、天錫帝とし北遼を建国した。耶律淳は大石を軍事統帥に任じ、国家防衛を一任した。
大石は北遼の国力を以って宋、金二国を相手取って戦うことは困難であると考え、宋、金との和平を検討したが、結局宋は海上の盟に則り燕雲十六州攻撃を開始した。宋は童貫の指揮の下で20万の大軍を動員したが、大石はこれを白溝河において撃破した。その後、天錫帝が病死したため、北遼は秦王・耶律定(天祚帝の五男で皇太子)を立て、天錫帝の未亡人の蕭德妃が摂政するところとなり、宋はこれに乗じて再び侵攻してきた。宋は劉延慶将軍の指揮の下で南京(燕京)に奇襲をかけた。大石は南京において市街戦にまで追い込まれたが宋軍を再び撃破した。
童貫は自力での北遼攻撃は困難であると判断し、金に燕京攻撃を依頼した。阿骨打はこれを受理し、北方より三路から燕京を攻撃した。大石は居庸関で迎撃を試みたが失敗し、金軍に捕らえられた。阿骨打は大石らを厚遇した[3]。しかしながら、大石は秦王、蕭德妃など奉じて1123年、天祚帝の元へと逃亡した[4]。
天祚帝は大石に天錫帝を擁立したことを責めたが、大石は傲然と天祚帝が逃げたから擁立したのだと反論し、天祚帝も反論が出来なかったという。
大石は天錫帝の下で身の安全に不審を抱き、1124年、金軍が迫ると200人ほどの契丹族を引き連れて外蒙古、陝西に逃れて、現地の諸部族の力を借りて自立し、可汗に推戴された。1130年、金はこれに対して耶律余賭を派遣して攻撃をかけた。大石はこれと交戦したが、激戦にならない内に突然撤退し、さらに西に移動してアルタイ山脈西部に入りビシュバリクに向かった。ビシュバリクを首都とする天山ウイグル王国のビルゲ国王は、自ら国境に赴いて大石ら契丹王侯を迎え、大量の軍馬やラクダなどの贈物を贈るなどして改めて大石ら契丹王家に臣従することを承認したと伝えられる。この地で1132年に葉迷立(=イミル、現在のウイグル自治区額敏県=ハーミン)で即位して、天祐皇帝と名乗り、元号を延慶とした。これが西遼であるが、イスラーム側の史書では西遼はカラ・キタイ( قرا ختاىQarā Khitā'ī / قرا خطاء Qarā Khiṭā':カラー・ヒター(イー)「黒い契丹」の意味)、そして大石以降の君主たちをグル・ハン(=葛爾河汗, كور خان Kūr khān > Gür χan テュルク諸語で「全てのハン」、「全世界のハン」ほどの意味。ただし、13世紀半ばの『ナースィル史話』では「諸ハンの中のハン(khān-i khānān)」、『集史』では「偉大なる帝王(pādshāh-i mu‘aẓẓam)」の意味と説明する)と呼んでいる。またある説では、大石は隠れマニ教徒だったという。
1134年、ウイグルでテュルク系葛邏禄(カルルク)部族による反乱が発生すると、大石は出兵してこれを鎮圧し、この地の北辺を西遼の直轄地と定め、ベラサグン(八剌沙袞, بلاساغون Balāsāghūn 、現在のキルギスドクマク付近)へと遷都した。
このように地盤を固めた大石は天山山脈の南北のシルクロードルートを押さえ、東西に分裂していたカラ・ハン朝の軍を1137年に撃破して東部を領域に治めた。当時ベラサグンは東カラハン朝の君主(イブラーヒーム2世?)によって治められていたが、近隣のカルルク部族やカンクリ部族などへの支配力は低下し逆にこれらの周辺諸部族からの掠奪や反乱に見舞われていたため、耶律大石率いる契丹軍の侵攻に抵抗できる余力は無かった。この東カラハン朝の君主は、西進してきた大石に使者を派遣し、首都に招き入れて政権を移譲する意思を伝えたという。これによって東カラハン朝の君主は「ハン」の称号を剥奪され、代わりに「イリグ・トルカン」という称号を与えられたとされている。東カラハン朝を手中にした後、北西のカンクリやキルギスの諸部族の征服と帰順に成功し、さらに天山、パミール高原を超えたフェルガーナ地方まで支配を及ぼした。これによってマーワラーアンナフル]を領有していた西カラ・ハン朝の第20代君主マフムード・ハン(2世)は臣属し(1137年)、1141年にはホラズム・シャー朝のアトスズは歳貢としてを毎年金貨三千ディーナールを納めるよう誓約させ両王朝を臣従させた。
1141年、ついにカラ・ハン朝を支援していたセルジューク朝の第8代スルタン・サンジャルの率いる大軍をもサマルカンド近郊のカトワーン平原で撃破し、中央アジアに覇を唱えた。当時サンジャルは自らの封土であったホラーサーンを拠点としてセルジューク朝君主によるイラン全土の統一的な支配を目論んでいたが、この敗北によって計画は頓挫し、結果、間接支配ながらも中央アジアのイスラム政権は異教徒の傘下となり、これに連動してテュルクメン諸集団の統制が不可能になった。12世紀後半には活発化したテュルクメン諸集団によるイラン各地での騒乱とこれに伴うセルジューク朝諸王家の崩壊が生じているが、これらはこの耶律大石による中央アジア侵入とサンジャルを打ち破ったカトワーンの勝利に遠因と見る事ができる。
大石は更に故地の奪還を願って金に対する7万の親征軍を出発させるが、行軍中に病死した。齢58。
このため、東征軍は引き返さざるを得なくなった。大石死後、末子の夷列(=イリ、仁宗)が跡を継いで、西遼は中継貿易で栄え、軍事的には活発な運動を見せなくなる。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 感天后蕭塔不煙
[編集] 子
[編集] 女
- 承天太后・プスワン(普速完)(夷列の姉)
[編集] 脚注
- ^ 『松漠紀聞』(南宋の洪皓著)では、「達実」と記されている(原文「達実(大石)、深入沙子、立天祚之子梁王為帝、而相之 」※ 梁王とは、天祚帝の次男の梁王・耶律雅里のこと)。
- ^ 『契丹国志』(南宋の葉隆礼著)より。
- ^ 『北使記』(金の劉祁著)によると、大石は阿骨打から妻を賜ったと記されている(ただし、この女性が塔不煙(タプイェン)なのか、どうかは不詳)。
- ^ 『松漠紀聞』によると、大石の先妻はすでに何者かによって、5人の子と共に射殺されたという(原文「則棄其妻、携五子、宵遁 」)。
[編集] 参考文献
|
|
最終更新 2009年5月11日 (月) 09:29 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【耶律大石】変更履歴

