聖宗 (遼)
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| 聖宗 耶律文殊奴 | ||
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| 遼 | ||
| 6代皇帝 | ||
| 王朝 | 遼 | |
| 在位期間 | 982年 - 1031年 | |
| 姓・諱 | 契丹名 : 耶律文殊奴 漢名 : 劉隆緒 |
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| 諡号 | 天輔皇帝 | |
| 廟号 | 聖宗 | |
| 生年 | 971年 | |
| 没年 | 1031年 | |
| 父 | 景宗(長男) | |
| 母 | 睿智皇后蕭綽(承天太皇后) | |
| 年号 | 乾亨 : 979年 - 982年 統和 : 983年 - 1012年 開泰 : 1012年 - 1021年 太平 : 1021年 - 1030年 景福 : 1031年 |
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目次 |
[編集] 略歴
12歳の幼齢で即位したため、治世前半は母の承天皇太后(睿智皇后蕭綽)や父時代からの家臣団の補佐による執政体制であり、30代より親政を開始する。智勇兼備の名君と伝わり、東辺では女真族を、西辺では西夏と協力しウイグル人の西域諸国を服従させた。
ただ、高麗について宋との断交と遼の年号を使用することを取り付けたが、その代償として江東六州を割譲しなければならなかった[1]。その後、江東六州の奪還を目指して、何回か兵を送ったが、1018年に高麗の名将姜邯賛に大敗し、侵攻を諦め1020年に両国で講和が結ばれた[1](契丹の高麗侵攻も参照)。
1004年には大軍を率いて親征を行ない北宋領の黄河河畔に侵攻(現在の河北省)する。これに対して宋は皇帝・真宗の親征軍が迎撃したため、両軍は黄河を挟んで対峙した。しかし膠着状態が続いたため同年に澶淵の盟を締結して両軍は撤退した。これ以降宋と遼に対し兄事する関係となり、遼に毎年貢物を入貢することとなった。
治世後半においては国内の内政・軍事の組織化に尽力し遼の中央集権化を推進し、遼の全盛期を招来した。1031年に61歳で崩御すると子の興宗が皇位を継承した。墓地は慶州近郊にある。
聖宗の中央集権化により国力を充実させた遼は興宗、道宗の時代まで全盛期が続いたのである。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 仁徳蕭皇
- 欽哀蕭皇后
- 李宗妃
[編集] 子女
- 耶律宗真(興宗)
- 耶律重元(耶律涅魯古の父、後に自害する)
他に2人の男子あり
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- 秦晋国大長公主(諱は岩重菫)
- 南陽公主(諱は崔八)
- 金郷公主(諱は賽哥)
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
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最終更新 2009年8月7日 (金) 12:44 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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