自然哲学
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自然哲学(しぜんてつがく、philosophia physice フィロソフィア・ピュシス )とは、ピュシス、すなわちものごとのnature[1](本性、自然)に関する哲学のこと。人間の本性の分析を含んでおり、神学、形而上学、心理学、道徳哲学とも連携している[2]。(現在の意味での「哲学」に近い面がある。)。
アリストテレスは、自身の『形而上学』において、神学と形而上学を「第一哲学」と位置づけ、自然哲学を「第二哲学」と呼んだ[3]。ここにおけるphilosophia physiceという表現が、「自然哲学」という表現が現れた最初のものである。アリストテレスは、philosophia physiceを「physica(自然学)」とも表現した。
形而上学が物質世界の背後にある原理、すなわち神などを扱うのに対し、自然哲学は物質的世界を研究する学問である。現代の自然科学の前身ともなったものである。
かつて、自然科学の歴史の研究などにおいては、すなわち広範囲に及ぶ自然哲学の中から現在の自然科学と重なる部分だけを限定的・恣意的に抽出して考察することを行いがちで、そこでは「自然哲学」は「自然科学」のほぼ同義語として用いられることになる。抽出されているのは、主にルネサンス以降の"近代自然科学"の確立期から19世紀初頭までの間の"自然"(現在自然科学者が言う意味での「自然」)に関する諸考察などである。これは自然哲学のごく一面を描いているにすぎない。現代の自然科学関係者が解説すると、どうしても現代の自然科学(端的には現在の自分の説)につながった部分だけを美化・称揚し、あるいは現在の自然科学の説・自説に合致しない部分を抽出しこきおろすことによって現在の自分の位置を美化する、ということになりがちだが、このような態度では自然哲学のありのままの姿を描き出すことはできない。最近の学問ではそのような手法は批判されている[誰によって?]。
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[編集] 起源
古代ギリシャにおいては、physice(ピュシス、本性、自然)が一体として扱われていた。ヘシオドスの自然哲学においては、人間の生き方が神々の秩序および自然の秩序と一体で追求されている[4]。
自然哲学の由来をタレスらミレトス学派の「始原に関する問い」(→アルケー)に求めることができる、と述べる人もいる[誰?]。紀元前6世紀、イオニア的伝統の始原に位置するタレスは、一方で自然のアルケーを水に求め、他方で「万物は神々に満ちている」とも述べた[5]。
前5世紀、同じくイオニア的伝統の終わりに位置するデモクリトスは、原子論も提唱し、同時に人間の快楽・不快、幸福・不幸、正義・不正義などについても述べた。
また紀元前6世紀、ピュタゴラスは弟子らとともに教団を作り、魂の浄化も目指し、数学論や宇宙論の研究も行った。
紀元前4世紀、アリストテレスは、自身の『形而上学』において、神学と形而上学を「第一哲学」と位置づけ、自然哲学を「第二哲学」と呼んだ。というのは、自然哲学が、対象としている形相の説明も行っているからである[6]。ここにおけるphilosophia physiceという表現が、古代ギリシャ語文献の中に「自然哲学」という表現が現れた最初のものである[7]。
ストア派、エピクロス派、アカデメイア派において自然哲学(自然学)は哲学の三部門の一つとして扱われた。
後1世紀、後期ストア派に属するセネカの『道徳書簡』においても自然哲学を論じた。これはラテン語文献にphilosophia naturalisの語が登場した最初のものである。そこでセネカは学問分類について論じつつ、自然哲学を理性哲学(=現在の論理学)と道徳哲学との間に位置づけ、「事象の自然本性を探求する」ものだと定義した[8]。
[編集] 中世 - 近代
中世ヨーロッパのキリスト教影響下の、キリスト教的な自然哲学においては、神と自然と人間は、階層的、目的論的に区別され、秩序づけられるようになった。例えば、人間は神のために存在し、自然は人間のために存在する、と位置づけられた。この位階においては、自然は恩寵に対する対立的存在であるともされ、自然の主人である人間によって支配されるべきもの、ともされた[9]とも言われる。
16世紀-17世紀は、ルネサンス期および近代の初頭にあたるが、この時期には、現代で言うところの"魔術的"な自然哲学が繁栄し、同時に"近代科学的"な哲学が成立しはじめた。前者には医科学(錬金術的な医科学)などがあり、後者には数学的な物理学などがあった。これらのものには当時の自然哲学の特徴がよく現れており、その世界観は、「大宇宙としての自然macro cosmos」と「小宇宙としての人間 micro cosmos」が照応し一体である、と見なすものである。この世界観を自然探求と医療に活用した最初の人がパラケルススである。この時期の著名な医科学者らは、皆パラケルスス派に属し、その世界観、自然観を共有していた[10]、ともいう。例えば、R.フラッドやファン・ヘルモントなどが挙げられる。
フランシス・ベーコンは自然哲学と自然史とを対比して、自然史は記憶により記述する分野であると規定、それに対し自然哲学は理性によって原因を探求する分野、とした(『学問の進歩』)。
ルネ・デカルトは1644年出版の『哲学原理』において、自然哲学と同義で扱われることのある自然学physicaを形而上学と倫理学等の実践哲学との間に位置づけた。
1687年、ニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)を出版し、超越的な神によって宇宙が統治されている[11]ことを示すために、その数学的な秩序を説明してみせた。また、錬金術の研究にもいそしんだ。
ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』は(中でもその第3巻は)、キリスト教(なかでもニュートンが信仰したタイプのキリスト教)擁護の学問的基礎として大いに活用された[12]。例えば、1692年からロンドンで連続的に開催された「ボイル・レクチャーズ」が知られている。このボイル・レクチャーズはニュートンの友人であったボイルの遺産をもとに行われたものであり、ニュートンの弟子らが講師を務めた[13]。そこでは『自然哲学の数学的諸原理』で説明された秩序立った数学的な宇宙像によって、たしかに神が存在していることを説いた[14]。
ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』はその後、「近代自然科学の最高傑作」[15]などともされ、"古典力学"が初めて体系的に開陳されたもの[16]、ともされるようになった。
ドイツでは超越論哲学的な自然哲学と形而上学的な自然哲学が展開した。超越論哲学的なそれとは、カントによって始められた、自然科学の基礎付けの試みであり、今日「科学哲学」と呼ばれるものを先取りしたものである。後者の形而上学的なそれは、さらに大きく二つに分けることができ、ひとつは精神に対する自然の根源性を説くもので「ロマン主義的自然論」とも呼ばれることがあるものであり、シェリング、エッシェンマイヤー、オーケン、バーダー、ノヴァーリス、リッター、ゲーレス、シューベルトらのそれを挙げることができる[17]。もうひとつは、このロマン主義的自然論とは一線を画しているヘーゲルの思弁的な自然論が挙げられる[18]。
シェリングの自然哲学は、生命原理、有機体原理に基盤を置き、カントの動力学の批判を行った[19]。
[編集] 現在主義的な描写
中世において、アルベルトゥス・マグヌスによってアリストテレスの『自然学』的自然観が検証紹介された。
"以降にほぼドグマ化したスコラ学の下で自然哲学は停滞した"[要出典]、などとされる。
ルネサンス期を経て、ベーコンやデカルトらによって近代科学的方法が確立されると、哲学的諸問題に対する自然哲学の重要性はさらに増した。一方で、それは自然哲学と自然科学とが分離する前触れでもあった。ドイツ観念論における自然哲学は分離しつつあった両者を哲学的原理から統合しようとする試みとして捉えることができる。
[編集] 生物学
生物学において、この時期に盛んであった比較解剖学が、多くこの流れを受けている。
ゲーテもこの分野に多くの影響を与えた。彼は植物において花弁や顎がいずれも葉の変形であることを見出し、このような変形を変態と呼んで、生物の構造の発展に重要なものと考えた。 さらに後の研究者はこのような観点から、多様な生物の形態にはその基本となる『型』が存在すると考えた。このような考えは例えば相同器官、相似器官といった概念を生み出し、あるいは同一構造の繰り返し構造(体節など)を認めることで動物の体制の理解などを推し進めた。しかしそれは往々にして恣意的な想像を広げることとなり、たとえばサン・ティレールは節足動物の付属肢と脊椎動物の肋骨を相同とする論を述べた。これには実証主義を掲げて比較解剖学を刷新したキュビエが強く反対し、大論争の末にキュビエが勝ったことは知られている。
他方、キュビエは実証主義にこだわって思想性を失った結果、天変地異説を唱えてラマルクの進化論に反対する等、大局的には大きく見誤ったといえる。むしろ自然哲学の流れの最後尾に属するラマルク(彼は当時から『最後の哲学者』といわれた。これには揶揄の意が込められていた)が内容は誤っていたが進化論を創造した点は重要であると八杉竜一[20]は述べた。
なお、比較解剖学の思想的な流れは19世紀に発生学に受け継がれる。発生学の中で比較発生学という流れが起こり、この分野が比較解剖学が生んだ相同性などの考え方の裏付けを作り始めた。同時にこれらの分野が生んだ進化論が表舞台に出ると、比較発生学はそれを裏付けると同時に、それを適用することで系統論を生み出した。その方向の頂点に立つヘッケルはこの視点を徹底化することで全動物群の系統を論じることを可能にしたが、その過程で事実の様々な歪曲を行った。これが後の世代から批判されることとなったのは、観念論的解剖学がキュビエの餌食になったことの二の舞を演じているように見える。ちなみにヘッケルが生物学の歴史を論じているものの中で、彼は観念論的解剖学を高く評価するとともにキュビエの立場をつまらない、低級なものとこき下ろした。
[編集] 近代 - 現代
19世紀以降、近代科学の発展や細分化などに伴い、これまで区別が曖昧であった自然科学と自然哲学の両者は完全に分離して考えられるようになった。現在では自然科学諸分野の知識を包括的・全体的に捉えた(哲学的)考察に限定して用いられることがあるが、「自然哲学」を標榜する哲学者は極めて少ない。
しかし、これは「自然哲学」の消滅や哲学と自然科学とが相反するものであることを示すものではない。現在においても自然科学の成果を踏まえる形での哲学的考察は多くの哲学者によって不断に行われており、現在においても両者の親和性は高い。そうした意味では現在でも自然哲学は生きていると考えられる。
[編集] 出典
- ^ (英・仏: nature、独: Natur)
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.650
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.651
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.651
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.651
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.651
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.651
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.651
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.650
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.650
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』p.650
- ^ 八杉竜一、『進化学序論』、(1965)、岩波書店、p.29
[編集] 関連項目
- ジョルダーノ・ブルーノ
- アイザック・ニュートン
- パラケルスス
- イマヌエル・カント
- フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング
- ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
- ゲーテの色彩論
- コペンハーゲン学派
- ヴァイシェーシカ学派
[編集] 参考文献
- 八杉竜一,『進化論の歴史』,(1969),岩波新書
- 八杉竜一、『進化学序論』、(1965)、岩波書店
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最終更新 2009年11月21日 (土) 20:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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