自由党 (大韓民国)
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| 自由党 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 자유당 |
| 漢字: | 自由黨 |
| 片仮名: (現地語読み仮名) |
チャユダン |
| 英語: | The Liberal Party |
自由党(じゆうとう)は、第一共和国時代の韓国に存在した政党の一つで、李承晩大統領の与党。1952年に行われる大統領選挙に向けて結成した。
目次 |
[編集] 概要
朝鮮戦争直前に行なわれた1950年5月の第2代総選挙で反李承晩の姿勢を明確にした中間派と南北協商派が国会の多数議席を占めたことで、現行の国会議員による間接選挙での再選が危うくなった李承晩は、自身を支持する政党を結成した上で、選挙制度を間接選挙から国民の直接選挙制に改正する必要性に迫られた。そして、李承晩は1951年8月15日の光復節祝辞を通じて政党を組織するという立場を明らかにして、8月25日に新党組職に関する談話文を発表した。8月31日に、駐華大使であった李範奭が帰国して、李承晩は李範奭に自由党創党を任せた。この事を受けて李範奭は、自身の盤石な支持組織である朝鮮民族青年団の基盤を利用して、最も組職が大きい 5つの社会団体(大韓国民会、大韓青年団、大韓労働組合総連盟、農民組合総連盟、大韓婦人会)を自由党傘下機関団体[1]として編入させた。
こうして1951年12月17日、李範奭を中心にした自由党(院外自由党)が誕生した。しかし、憲法改正を巡って院外勢力と院内勢力が対立、同年12月23日に少壮派議員達が中心になったもう一つの自由党(院内自由党)が誕生した[2]。憲法改正を巡る問題で李承晩と袂を分かつことになった院内自由党の勢力は後に自由党を離脱して野党の民主国民党と共に1955年に「民主党」を結成し、党内で新派勢力を形成した[3]。
行政機構と一体化した「政府党」として絶大な権力を誇っていたが、1960年3月に行われた大統領選挙における行政ぐるみの不正選挙への抗議に端を発した四月革命による李承晩の退陣と国外亡命に伴い、解党した。
[編集] 党勢推移
| 年 | 代 | 候補者 | 当落 |
|---|---|---|---|
| 1952年8月5日 | 第2代大統領選挙 | 李承晩 | 当選 |
| 1956年5月15日 | 第3代大統領選挙 | 李承晩 | 当選 |
| 1960年3月15日 | 第4代大統領選挙 | 李承晩 | 当選[4] |
| 年月日 | 代 | 議席 | 得票率 |
|---|---|---|---|
| 1954年5月20日 | 第3代総選挙 | 114 | 36.8% |
| 1958年5月2日 | 第4代総選挙 | 126 | 42.1% |
| 1960年7月29日 | 第5代総選挙 | 2 | 2.7% |
[編集] 脚注
- ^ これらの団体は、独立以降活力を喪失しており、李承晩の新党勧誘に敏感に反応し、李承晩の意志-即ち大統領直接選挙制改憲を経ての李承晩大統領再選-を積極的に主張することとなった。木村幹『韓国における「権威主義的」体制の確立-李承晩政権の崩壊まで-』ミネルヴァ書房 130頁
- ^ 1952年に行われた地方議会議員選挙に立候補・当選した自由党員の多くは院外自由党であった。
- ^ 第二共和国において国務総理を勤めた張勉は新派のリーダ的存在であった。彼は李承晩政権初期に駐米大使や国務総理を務めるなど、政府の一員として活動していたが、釜山政治波動をきっかけに李承晩大統領と袂を分かって、民主党に入党した。
- ^ 選挙後、不正選挙だとして当選は無効になった。
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年10月18日 (日) 13:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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