艦砲射撃

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朝鮮戦争において北朝鮮に対して艦砲射撃を行う戦艦アイオワ1952年

艦砲射撃(かんぽうしゃげき)は、軍艦を浮き砲台として使用し、搭載された大砲で陸上の目標を海上から攻撃する方法である。上陸前支援や沿岸部での戦闘における支援射撃に活用された。

目次

[編集] 概要

戦艦主砲など、陸上の野砲などと比べ口径の大きな大威力の大砲が使用できるため、支援射撃としてはかなりの効果があった。2006年に戦艦アイオワを最後に世界の戦艦が全て退役したため、第二次世界大戦時における戦艦の主砲で行ったような大打撃力の艦砲射撃はできなくなった。

第二次世界大戦で有名なものではドイツ海軍ポーランド侵攻時にドイツ準弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」で行ったが同大戦最初の艦砲射撃である。有力な敵勢力に対し行ったものであればフランス海軍が行った「ジェノヴァ砲撃」が世界初である。続いてアメリカ海軍太平洋戦争朝鮮戦争ベトナム戦争及び湾岸戦争で戦艦を利用し、アメリカ海兵隊の上陸前支援として行ったものなどが挙げられる。

第二次世界大戦後は、各種ミサイルの発展により、地対艦ミサイルによる沿岸防御、巡航ミサイルという攻撃手段の獲得により水上艦艇による艦砲射撃は終焉を迎えようとしていたが、1982年フォークランド紛争で上陸部隊の支援の為に艦砲射撃が何度か行われている。その戦訓を取り入れてイギリス海軍は艦砲を搭載していなかった22型フリゲートの後期建造艦へ114mm砲を搭載している。

アメリカ海軍アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の後期建造艦(DDG-81以降)ではロケットモーターを使用し射程を100キロ以上に延長する対地攻撃用誘導砲弾(ERGM)の使用が可能な127mm(5インチ)砲(Mk45 Mod4)を搭載していて、2010年頃から就役予定のズムウォルト級ミサイル駆逐艦CG(X)では新型の155mm砲の搭載が計画されている。ズムウォルト級ミサイル駆逐艦に搭載される155mm砲の誘導砲弾では精度の高い長距離射撃ができるようになり、艦砲射撃の精密性が向上した。

[編集] 有名な艦砲射撃

[編集] 日本における鉄道建設と艦砲射撃

[編集] 歴史

日本の歴史上、初めて艦載砲による陸上施設への攻撃が行われたのは17世紀江戸時代島原の乱で、オランダ船デ・ライプ号が江戸幕府からの支援要請により、原城に対して艦砲射撃を行っている。

時代が下って19世紀1853年(嘉永6年)のアメリカ合衆国マシュー・C・ペリー提督の黒船来航以降、艦砲射撃対策が国防上の重要な課題となり日本国内の各所に沿岸砲台が築かれた。有名なのが東京臨海副都心で地名として残っているお台場である。しかし、この当時の日本は、大砲の運用を想定した築城技術が未成熟だった事と、大砲技術の違いから、1863年(文久3年)7月の薩英戦争では薩摩藩が、翌1864年(元治元年)9月には長州藩が艦砲射撃で攘夷の不可能を悟るほどの損害を受ける(下関戦争)。このように重量のある大砲を多数積み、速く移動できる軍艦による艦砲射撃は、海岸線が長い日本にとっては脅威となった。

しかし、さらに時代が下り、20世紀にはいると艦砲射撃の価値が低下した。日露戦争では203高地を占領した日本軍からの28cm榴弾砲を中心とした陸上からの砲撃で旅順港にいたロシア第1太平洋艦隊(旅順艦隊)に壊滅的な打撃を与えた事で、沿岸砲台とその射程距離内において撃ち合うことは、頑強な要塞で保護され、絶対に沈まない沿岸砲台に軍艦は勝てないとして戦術上のタブーとなった。

太平洋戦争では島嶼の争奪戦という性格上、多数の上陸作戦が日米双方によって行われた。それに伴い、艦砲射撃も頻繁に行われた。この頃になると軍艦の大砲の射程よりも遥か遠方から航空機による空襲が待ち構えており、制空権無しでの艦砲射撃は無謀とされた。実際にミッドウェー海戦では空母機動部隊が先行し、遥か後方に戦艦部隊が配置されていた。アメリカ軍もまず空襲で制空権を確保してから艦砲射撃を行っていた。戦争後期の島嶼での戦いにおいて、アメリカ軍は海兵隊の上陸前に徹底的な艦砲射撃を行った。ほとんどの守備隊が伝統的な水際撃退戦法を用いていた日本軍は、艦砲射撃に対して有効的な対策を編み出すことが出来ず、島嶼攻防戦での一方的敗北に繋がった。ただし、日本軍守備隊が強固な地下陣地を敷いていた硫黄島の場合は、艦砲射撃も十分な効果を発揮することはできなかった[2]。太平洋戦争では、上陸支援以外にも艦砲射撃が行われた。特に有名なのは、1942年に日本海軍によって行われたヘンダーソン飛行場への艦砲射撃である。また、戦争末期には、アメリカ軍は日本沿岸の制海権・制空権も確保し、室蘭室蘭艦砲射撃の項を参照)や浜松などに直接艦砲射撃を行った。

[編集] 鉄道建設

明治時代の鉄道建設黎明期、日本では海岸沿いよりも内陸を経由する鉄道の建設を優先する傾向があった。この原因について「艦砲射撃を危惧して日本陸軍が内陸回りにさせた」と指摘されることがあるが、実際のところは、当時はまだ海運が大きな役割を担っており、むしろ内陸部の輸送改善が急務だったこと、また海岸部は当時の技術で建設困難な箇所が多かったことが主因とされる。

八代駅以南の鹿児島本線はまず現在の肥薩線ルートで建設され[3]、また東京・京都を結ぶ幹線も、当初は東海道ルートではなく中山道ルートで計画されていた。

[編集] 参考文献

[編集] 脚注

  1. ^ 沖縄本島では、艦砲射撃で地形が変わったとも言われ、沖縄戦で生き残った戦後の沖縄を指して「艦砲のくぇーぬくさー(艦砲射撃の食い残し)」という言葉がある。
  2. ^ 硫黄島への艦砲射撃は特に激しかったことが知られており、その威力は島の沿岸部の地形を変えるほどであった。
  3. ^ 1927年に海岸回りを鹿児島本線とし、旧ルートは肥薩線と改称。それまでは海岸回りが肥薩線・川内本線と呼ばれていた。
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最終更新 2009年5月14日 (木) 06:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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