小山よし姫

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小山よし姫(おやまよしひめ)は小山氏第11代当主、小山義政の正室に対する現代での呼び名。南北朝時代の女性であり、小山義政には小山隆政という子があったことから妻がいた事は確かだが、この女性についての詳しい事は判っていない。芳姫と表記される例もある。

目次

[編集] 概要

彼女の出自のヒントになるかもしれない関連事項として、小山氏と、この時代の近隣の豪族宇都宮氏の間には、少なくとも彼女の時代から見て数代前の鎌倉時代には、「一定の姻戚関係と、協力体制があった」とされている事柄がある。他方出自の間接的な方法による推定を困難にさせる要素としては、彼女の時代には、この地方の豪族、宇都宮・小山両氏とも、「宗家の他、複数の庶家に分かれていた」という事態がある。

更に「よし」という女性名がその頃あったかもしれないが、南北朝期に「姫」という接尾語が一般に使われたかどうかは不明。夫が「義」の字のついた名前であるが、「よし」との関係も不明である。ちなみに、宇都宮氏綱の兄弟に「義綱」という名の者が居たとする藤原氏(北家)道兼流系図が存在する。(その子は「氏家」だけが記載されている。)なお、地元の碑では「芳姫」の字をあてている。

埼玉県北葛飾郡鷲宮の鷲宮神社の1372年頃の再興時に、夫と共に寄進を行い、(「官位があるかそれに近い身分の女性である」)藤原氏女(ふじわらのうじのによ)という名で棟札に記載されているのが、彼女についての唯一確かな史料であるとされる。

[編集] 伝説

「夫である義政が鎌倉府との三度目の戦いにおいて、現在の鹿沼市にあった小山氏の粕尾城に籠城して苦戦していた。よしはこの粕尾城へ向かう途中、現在の栃木市星野に至った。そこで一晩の宿を提供し、なおかつ道案内をかって出た村人に、持っていた携帯食料の容器を金品に間違えられ、こっそりと殺されてしまった。」という、やや不自然な伝説が残っている。このため、実際にはよしは夫や子供とともに粕尾城に籠っており、落城後に落ちのびる途中で夫や子供とはぐれて事件に巻き込まれたとする見方もある[1]

栃木市星野の大応寺に母堂が建てられ、碑に上記の伝説が記載されている。また、殺害されたとする下記の地点に、母堂とは別にもある。

すなわち現在の墓の位置は、戦いの際、鎌倉公方軍が永野川や思川沿いに攻めてくれば目視で発見のしやすい、小山城と粕尾城を結ぶ30km程度続く街道のうち、粕尾城まで約8kmの地点、古道の大越路峠(林道・寒沢線)の山の尾根の、見張りに適した位置から至近の距離にある。事実そこから星野側に100m程度降りれば、眼下に墓の周りの地形が見えてくる。

[編集] 脚注

  1. ^ 江田郁夫「小山氏の乱―若犬丸と『安犬』-」(所収:「中世小山への招待」小山市・同市教育委員会、2006年)

[編集] 関連項目

最終更新 2009年10月9日 (金) 04:24 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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