芳春院

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芳春院(ほうしゅんいん、天文16年7月9日1547年7月25日) - 元和3年7月16日1617年8月17日))は加賀国石川県)の戦国大名前田利家の正室。名はまつ。篠原一計の子。法名は芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼。母が利家の母の姉である為、利家とは従兄妹関係にあたる。女性でありながら学問や武芸に通じた女性であった。

目次

[編集] 生涯

天文16年(1547年)、 尾張国海東郡(現在の愛知県海部郡七宝町)に篠原家の娘として生まれる。

天文19年(1550年)に父の篠原一計が没し、母が尾張守護斯波氏の家臣高畠直吉と再婚すると、まつは利家の父前田利昌に養育されることになる。永禄元年(1558年)、数え12歳で従兄弟である利家に嫁ぐと、

など2男9女を産む。なお、女性1人が産む子供の数が多かったとされる戦国時代にあっても11人の実子がいる女性は稀有であり、記録が残る限りでは最も数が多い。

慶長4年(1599年)に利家が病により没すると出家し、芳春院と号する。慶長5年(1600年)、前田家に徳川家康から謀反の嫌疑がかけられた際には、交戦を主張する利長を宥め、それを解消させるため自ら人質となって江戸に下り、14年間をそこで過ごした。この間、関ヶ原の合戦で西軍についた次男・前田利政の赦免や、養育していた利孝の大名取り立てを幕府に直訴するなど前田家のために奔走する。ところが、利政の赦免の約束は土壇場で反故にされ、ショックから重体となり、幕府の命により伊勢で保養。しかし、金沢へは立ち寄りすら認められなかった。慶長19年(1614年)に利長が死去し、ようやく金沢へ帰国。元和3年(1617年)に金沢城内で死去、享年71。

墓所は金沢市野田山墓地京都市北区大徳寺芳春院(分骨)。

[編集] 高台院との関係

豊臣秀吉の正室高台院(北政所、おね/ねね)とは懇意の間柄であったことは著名である。

安土城城下に住んでいた頃は、屋敷の塀を隔てた隣同士に秀吉・ねね(「おね」とも言われる)夫妻が住んでおり、ねねとまつは毎日のようにどちらかの屋敷で話し込んでいたという。

ねねだけでなく、秀吉の母・なか(大政所)とも懇意の仲であり、なかの畑の手伝いをしたり、なかが前田家を訪れ、栽培した野菜をまつに与えた事もあったという。

天正10年(1583年)、利家が賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家方について敗れると、秀吉と和議を持つため越前府中において会談し、和睦を許される。

蒲生氏郷急死後の蒲生家の跡目相続について、夫・利家が秀吉に氏郷の子・鶴千代にするよう話を進めて了承されたが、石田三成に秀吉に鶴千代の跡目相続を取り消すよう攻め立てられ、鶴千代の跡目相続は白紙となる。これに怒った利家は、大坂城への出仕を拒否してしまい、秀吉との仲が悪くなる。見かねたまつは、北政所の元に赴き、利家との約束を守ってほしいと頼んだ結果、鶴千代の跡目相続が決着した。

利家が豊臣秀頼の傳役となったことから、秀吉から化粧領を拝領し、醍醐の花見でも秀吉の妻妾と共に列席するなど、一家臣の妻としては異例の扱いを受けている。この花見で松の丸殿淀殿の席次争いを仲裁したことはまつの聡明さを示すとされ、非常に有名な逸話である。

[編集] 芳春院を演じた女優

[編集] 関連項目

ゲーム

最終更新 2009年11月7日 (土) 04:20 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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