若乃花幹士 (初代)
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| 若乃花幹士 (初代) | |
|---|---|
若乃花幹士 (1956)
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| 本名 | 花田 勝治 |
| 生年月日 | 1928年3月16日(81歳) |
| 出身 | 青森県弘前市青女子 |
| 身長 | 179cm |
| 体重 | 103kg |
| 所属部屋 | 二所ノ関部屋、花籠部屋、二子山部屋 |
| 成績 | |
| 最高位 | 第45代横綱 |
| 幕内戦歴 | 546勝235敗4分55休 |
| 優勝 | 10回(全勝1回) |
| 賞 | 殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回 |
| データ | |
| 備考 | |
| 現在 | |
初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ、本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年(昭和3年)3月16日 - )は、大相撲の力士、第45代横綱。所属は入門当時は二所ノ関部屋、1953年に花籠部屋の独立とともに移籍。青森県弘前市青女子(あおなご)出身。身長179cm、体重103kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれた。
引退後二子山部屋を創設し、弟である大関・初代貴ノ花、横綱・2代若乃花(現:間垣)、横綱・隆の里(現:鳴戸)、大関・若嶋津(現:松ヶ根)を育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。
第65代横綱・貴乃花、第66代横綱・3代若乃花は甥にあたる。 愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が藤島部屋に入門したが、幕下止まりで1997年に廃業している。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 誕生から横綱昇進まで
青森の林檎園農家の長男として生れた。1934年の室戸台風のため作物が全滅、北海道室蘭に移住した。沖仲仕などの仕事で家計をささえていたが、1946年二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加、本職の力士を数名倒してみせた。このことが大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まり、働き手を失いたくない父親の反対を押し切って入門。条件は「3年で関取になれなければ帰る」というものだったという。
「若ノ花」の四股名は大ノ海の若いときの名を譲られたもの。このため後年、「若ノ花・若乃花は全部で何人か」という問題が取りざたされた。もちろん、彼を初代とする数え方が一般的ではあるが、自身は「師匠が初代、自分は二代目」と数えていたらしい。
入門後は「二所一門の猛稽古」によって力をつけた。最も彼をしごいたのは後にプロレス入りする力道山で、これは成績不振に陥った場所後に景気付けに兄弟子と蕎麦を食べに行こうとしたところを力道山に見つかり、夜逃げと勘違いされて目をつけられたからであるという。ある時、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなったが、それでも容赦がなく、このままでは殺されると力道山の脛にかみつき、廻し姿のまま部屋から脱走して近くの隅田川に飛び込んだという逸話がある。一説には、のちのプロレスラー力道山のトレードマークである黒タイツは、この時の古傷を隠すためだったともいう。本人も力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。
後に大関となる琴ヶ濱との稽古も凄まじいものだったという。当時は高砂と二所ノ関で合同の巡業を打つことが多かったので、東富士にも可愛がられた。鏡里もまた若乃花によく稽古をつけていた。
入門当時は敗戦直後の混乱の中で相撲人気が大きく衰えた時期であり、相撲協会は旧両国国技館をGHQに接収され興行も各地を転々として行われた。1947年6月場所は明治神宮外苑で行われたが、そのとき隣の明治神宮野球場で開催された学生野球の方に客が集まるのを見て以来、「野球は商売敵」と言って、頑として野球はやらなかったという。
1946年11月場所の初土俵から各段優勝に近い成績で、1949年5月場所には十両に昇進。家族と約束した3年より約半年早かった。
関取昇進を祝って弟弟子たちと夜通し祝杯をあげていて、金が足りなくなりあわてて東富士に金の無心をした。東富士としては、上述の通り可愛がっていた相手であり、すぐに金を出してやって店の方とはそれですんだが、後で相撲協会の側で「新十両の分際で横綱に借金を申し込むとは」と問題視された。中には除名まで主張する意見もあったが、羽黒山のとりなしもあってすくわれた。「あの2人(東富士と羽黒山)には脚を向けて寝られません」と後々まで語っていたが、やがて入幕してこの恩人2人から金星を奪い恩を返している。
下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。脚の筋肉の付き方は見事であり、これは室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きいとされる。その必殺技として名高い「呼び戻し」を実際に食った体験者である鳴門海などが、「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」と証言している。
この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。のちに「ウルフ」のあだ名を持つ千代の富士が出世する際にこのあだ名がクローズアップされた。角界には“動物のあだ名がつくと出世する”という言い伝えがあるが、若ノ花はその言い伝えを証明するかのように番付を上げていった。
1953年、師匠の大ノ海が引退とともに二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設するとそれに従うが、当初は小部屋ゆえの苦労が絶えなかった。巡業も引き受け先が見つからず、辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けたという。
1955年9月場所、西関脇で10勝4敗1分。この1引分は横綱千代の山と水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲の末だった。この相撲を評価され場所後松登とともに大関に昇進する。昇進前3場所の通算勝ち星は28勝(引分が2回あるので事実上29に等しいが)なので、現在の基準で言えば甘い昇進だったことになる。当人も大関になれるとは思いもよらず、番付編成会議の朝、家族とともに旅行に出かけようとしたところを、新聞記者にあわてて呼び止められたという逸話が残る。しかし、新大関の1956年1月場所は他の2大関が負け越す中優勝した鏡里に1勝差の13勝、大関推挙が失敗ではなかったことを自ら証明してみせた(ちなみに同時に大関に昇進した松登は後に3場所連続負け越しで大関を陥落することになるが、大関陥落決定となる黒星をつけたのは若乃花である)。
翌場所も12勝で優勝決定戦出場(優勝は関脇朝汐)、次の5月場所12勝3敗で大晃との決定戦を制して初優勝、翌9月場所に横綱をかけたが、場所前長男がちゃんこ鍋をかぶって火傷で亡くなるという悲運に見舞われる。
稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行、愛児の名を記した数珠をさげて場所入りし、支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は鬼気迫るものであった。水入りの苦戦を強いられることの多かった出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝、連続優勝と横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、扁桃腺炎を発症、高熱に襲われ13日目を休場、千秋楽には出場の意欲を見せ栃錦と割が組まれたが当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗、結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗[1])に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。翌1957年には日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作、若ノ花自身も出演した。
同年9月場所より「若乃花」に改名。画数占いですすめてくれる人があったのと、愛児の一周忌を機に心機一転をはかるためと言われている。
1957年11月場所は12勝3敗の優勝次点で、翌1958年1月場所は13勝2敗で優勝。場所後45代横綱に推挙される。丁度昇進場所となる1月に「2場所連続優勝、もしくはそれに順ずる成績」という横綱昇進の内規を制定した横綱審議委員会の一部委員からは反対も出たが、相撲協会がこれを押し切った形だった。昭和生まれで最初の横綱である。
横綱が衰えれば引退より他に道はないため、自分が養う家族のことを考え推挙は受けるかどうかかなり悩んだという。結局受けることにしたが問題があった。横綱は三ツ揃えの化粧廻しが揃うまでは一門の先輩横綱から借りるのが通例だが玉錦以来実に20年ぶりの横綱、しかも玉錦の廻しは空襲で焼けたのか使えない。さらに困ったことに土俵入りを指導する先輩横綱も一門にはいなかった。困っていた若乃花を助けたのは理事長の時津風とその弟子鏡里だった。事情を知った時津風は土俵入りの指導を引き受け三ツ揃えの廻しも唯一焼けずに完全な形で残っていたものを貸し出してくれた。
[編集] 栃・若時代
「栃錦清隆#横綱昇進と「栃若時代」」も参照
初対決がいきなりの大勝負、次の対戦も水入りの末二番後取り直しと、栃錦との取組は常に大熱戦であった。技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了し、当時登場したテレビの魅力を発揮するのにもふさわしいものであった。
初土俵が遅かったこともあって、番付面では常に栃錦が上を行っており、大関、横綱とも、つねに惜しいところで栃錦のために星を落として逃してきた。一方の栃錦にとっても何度も全勝や優勝を阻まれた相手である。お互いに横綱となってからも、この最大のライバルと常に名勝負を展開、特に年六場所となった1958年以降は毎場所のように二人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である「栃・若時代」を実現する。現在でもこの2人で築き上げた一時代に対する評価は高くこれを上回るものはまだない(朝潮、大内山など強くて個性的な力士が多数居た事も含めて)と考える人も多い。
1959年5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦にもちこみ、逆転優勝。これは史上初めてのケースだった。
1960年3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を寄り切りで制して、初の全勝優勝を達成。当時この取組は「相撲史始まって以来の世紀の決戦」といわれた。その前夜、若乃花は映画館へと向かった。中に入るとやけに大きな体をしたのがいる、頭に髷があったのでもしやと思ったら栃錦だったという。後日談として、この時の映画は若乃花は「西部劇だった」、栃錦は「ドイツの恋愛映画だった」と、証言が食い違っている。一説にはジョン・ウェインの「アラモ」だったのではないかとされている。
栃・若はともに優勝10回、全勝1回、連勝記録24、直接の対戦でも若乃花の15勝19敗(うち1敗は前述の1956年9月場所の不戦敗)とほぼ互角だった。大関昇進までは11勝が最高だったが、大関昇進以後皆勤した場所は全て二ケタの勝ち星を残し、大関時代の勝率が.785、横綱時代には.794と地位が上がるにつれて強みを増していった。
しかし、忘れてはならないのが、同時代に横綱を張った朝潮の存在である。1956年3月場所、最初の優勝決定戦進出の際に、関脇だった朝汐(当時)に敗れてから、微妙なところで朝汐と縁があった。1958年11月場所には、12勝1敗1分で迎えた千秋楽、13勝1敗の大関朝汐と対戦、勝てば3連覇と、(結果的に)全6場所制覇をなしとげるところだったが、敗れてしまう。1958年9月場所は初の全勝優勝を目指し千秋楽に朝潮と対戦したが敗れてしまい、優勝こそ既に決まっていたが夢の全勝は阻まれた。1959年5月場所には、千秋楽に逆転を可能にしたのは実は13日目に若乃花が朝潮に敗れて1敗となったからだし、1960年3月場所の全勝対決も、朝潮が途中休場したために両者の対戦が千秋楽になったためである。影の存在を強いられた朝潮あってこそ、栃若時代も際立ったのだ。
そんな「土俵の鬼」と云われた若乃花が引退を決意したのは1962年1月場所、関脇だった栃ノ海に負けた相撲であった。倒れそうになったら足を出して負けた方がましと考えるほど土俵で倒れることを極端に嫌っていた若乃花が、栃ノ海の見事な連続技(蹴手繰り・巻き落とし・突き落としを一瞬のうちに繰り出す)で土俵中央で転がされたのだった。「何しろ、それまで土俵の真ん中でこけたことは無かったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんと思った」と若乃花は語ったといわれる。
[編集] 主な成績
- 幕内在位:57場所(うち小結3場所、関脇8場所、大関10場所、横綱26場所)
- 幕内通算成績:546勝235敗4分55休 勝率.699
- 引分が減少した戦後の力士の中にあって4分けは多い部類に入る。そのうち3度までが出羽錦との取組であり、残り1度は前述の延べ17分15秒もの大相撲を取った千代の山戦である。
- 横綱通算成績:254勝66敗1分54休 勝率.794
- 年間最多勝(1957年設立):1958年(75勝14敗1分)
- 幕内最高優勝:10回(全勝1回)
- 三賞:殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回
- 金星:6個(羽黒山2、東富士2、千代の山2)
- 各段優勝:序二段1回(1947年11月場所)、三段目1回(1948年6月場所)
[編集] 幕内での場所別成績
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 1950年 (昭和25年) |
西 前頭 #18 11–4 敢 |
x | 東 前頭 #9 10–5 |
x | 東 前頭 #4 4–11 |
x |
| 1951年 (昭和26年) |
東 前頭 #7 11–4 敢 |
x | 東 前頭 #1 8–7 ★ |
x | 東 小結 7–8 |
x |
| 1952年 (昭和27年) |
西 小結 5–10 |
x | 西 前頭 #4 5–10 |
x | 西 前頭 #9 10–5 |
x |
| 1953年 (昭和28年) |
西 前頭 #3 8–7 ★★★ |
東 前頭 #1 8–7 ★ |
東 前頭 #1 8–7 ★ |
x | 西 小結 8–7 |
x |
| 1954年 (昭和29年) |
西 関脇 8–7 殊 |
東 関脇 9–6 |
東 関脇 9–6 |
x | 西 関脇 11–4 殊 |
x |
| 1955年 (昭和30年) |
東 関脇 7–7–0 (引分1) |
西 関脇 10–4–0 (引分1) |
西 関脇 8–7 |
x | 西 関脇 10–4–0 (引分1) 技 |
x |
| 1956年 (昭和31年) |
東 大関 13–2 |
東 大関 12–3 |
東 大関 12–3 |
x | 東 大関 12–2–1 |
x |
| 1957年 (昭和32年) |
東 大関 11–4 |
東 大関 10–5 |
東 大関 11–4 |
x | 東 大関 11–4 |
東 大関 12–3 |
| 1958年 (昭和33年) |
東 大関 13–2 |
東 横綱 12–3 |
西 横綱 11–4 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 12–2–0 (引分1) |
| 1959年 (昭和34年) |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 12–3 |
東 横綱 14–1 |
西 横綱 11–4 |
西 横綱 14–1 |
東 横綱 11–4 |
| 1960年 (昭和35年) |
西 横綱 0–3–12 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 5–4–6 |
| 1961年 (昭和36年) |
西 横綱 12–3 |
休場 | 西 横綱 10–5 |
東 横綱 3–4–8 |
西 横綱 10–5 |
東 横綱 11–4 |
| 1962年 (昭和37年) |
東 横綱 11–4 |
西 横綱 0–2–13 |
東 横綱 引退 0–0–15 |
x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 |
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[編集] 引退その後
引退すると年寄二子山として花籠部屋から独立、この際に師匠花籠とは連れて行く弟子について話をつけていたのでついて行きたいと志願しても連れて行けない弟子数名を泣く泣く突き放したともいう(その中にのちの龍虎がいた)。部屋での指導の厳しさは大変なもので、稽古の時間になっても起きない弟子がいれば布団を剥がして起きるまで竹箒で殴り、それでも起きなければ布団が赤くなるまで殴りつけたという。親方としてはまだ若かった頃は自らもまわしをつけて稽古土俵に降りて指導をしたこともある。一方で糖尿病を患った隆ノ里に対し、まだ幕下以下の力士であった頃から糖尿病治療食のメニューを認めるというきわめて異例な計らいを行う等、弟子思いの一面もあった。
実弟である大関貴ノ花が横綱北の湖と優勝決定戦の末に初優勝(1975年3月場所)した際、当時まだ審判部副部長であったが、高砂審判部長(元横綱朝潮)のはからいで、優勝旗授与の代役をまかされた(公式には、高砂の発熱によるものとされていた)。
1976年理事に当選すると、かつてのライバル春日野理事長は二子山を重用し、両国新国技館建設の頃は、春日野理事長、二子山理事長代行として相撲協会を引っ張り、幹部の栃・若時代と呼ばれたこともある。
両国国技館が完成すると、春日野は停年まで余力を残して、あっさり相談役に退き、二子山に理事長を禅譲した。出羽海一門が何人も就任した理事長に二所ノ関一門のしかも傍流の二子山が理事長になったことは画期的なことだった。理事長としての業績は、土俵の美を追求して立合いの正常化に努め、「待った」の制裁金導入(後に廃止)や行司に「手をついて」と掛け声させたことが特筆される。
クライマックスは理事長最後の場所で甥であり孫弟子にあたる貴花田が初優勝、実弟大関貴ノ花の初優勝の時のはからいと違い、理事長として堂々と自らの手で天皇賜杯を孫弟子に授与することができ、「夢のまた夢」と語って理事長の有終の美を飾った。停年後は相撲博物館館長に就任するが、1996年9月に所得税の申告漏れを理由に辞任し、相撲界から去った。
現役時代のライバルが、還暦前後で次々逝去する中で、無事停年を迎えた。弟子として手をかけた末弟貴ノ花に先立たれてしまったが、横綱経験者として鏡里を抜いて長寿第2位となった。今後は初代梅ヶ谷の持つ横綱最高齢記録(83歳)を更新できるかが話題になるだろう。
長男を亡くした後から霊友会に入信しており、他の花田一族も信徒であるという。
[編集] 演じた俳優
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 実弟貴ノ花も1場所2度の不戦敗を記録したことがある。
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最終更新 2009年10月31日 (土) 03:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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