若草町
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2003年4月1日に中巨摩郡の白根町、芦安村、八田村、櫛形町、甲西町と合併して南アルプス市となった。
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[編集] 地理
県中央部、郡東部、甲府盆地の中南部に位置。御勅使川扇状地の扇端や滝戸川扇状地に属する平坦地で、東部はかつての釜無川氾濫原。西部は畑作に適した「原方」に属し、旧氾濫原の東部の釜無川・滝戸川添いは稲作に適した「田方」に属した。
やや縦長の町域で、東部は釜無川を境に昭和町、田富町と接し、西部は櫛形町と接し、南部は甲西町と接し、北部は白根町と接する。
[編集] 歴史
釜無右岸の峡西地域では各時代を通じて数多くの公庫遺跡が分布しているが、若草町では1986年に『若草町誌』編纂に伴う分布調査で86か所の遺跡が確認され、以来甲西道路や中部横断自動車道の建設工事など開発に伴い発見が相次いでいる。縄文時代の遺構・遺物は町域では見られないが峡西地域では西部の山地や台地に分布し、縄文中期の集落である市之瀬台地の鋳物師屋遺跡などが知られる。
縄文後期から弥生時代に至ると、峡西では山地・台地から扇状地域へ進出傾向を示し、弥生時代には扇状地上や微高地上に立地する弥生中期の油田遺跡や大師東丹保遺跡などが知ら、町域でも弥生中期の遺物が出土している二本柳遺跡がある。古墳時代にも弥生以来の分布傾向を示し、峡西では東海系土器を主体とし5世紀初頭の物見塚古墳を築造する勢力が出現するが、町域でも30カ所を超える遺跡が分布している。
律令制下では巨麻郡大井郷に属し、平安後期には代々京都青蓮院門跡の荘園である加賀美荘に含まれ、のちに加修寺領となる。奈良・平安時代の遺跡も数多く分布し、条里制地割も見られる。中世には甲斐源氏が進出し、加賀美氏が分出して土着する。加賀美遠光は西郡地域において勢力を持ち、館跡には法善寺があるほか、光遠創建を伝える寺社も多い。室町時代には、加賀美荘の東部に隣接する大井庄に拠り西郡に影響力を持った大井氏の勢力が及んでいたとも考えられている。
田方と原方の中間に位置する十日市場は中世には市場が成立。近世には正月とお盆の7月に縁日市が立った。市では農具や古着、農産物や金物などの日用品や農閑期に生産された木工品など地元の産物のほか甲府や信濃からも人や物が往来した。(なお、七月市は近代に消滅したが、現在でも年に一度、2月10日から11日に十日市が開かれている。)
江戸時代には寺部、加賀美、十日市場、鏡中条、下今井、藤田、浅原の7か村が成立。浅原村のみが中郡筋に属し、他の6か村は西郡筋に属した。原方では畑作のほか、野菜や雑穀、木綿などを栽培。釜無川添いの鏡中条や浅原はしばしば水害を被り、平地の水田地帯であるため森林が少なく、入会地が利用できる地域以外では燃料としての薪や肥料を購入することで賄っていた。また、甲府盆地特有の産業である養蚕や果樹栽培も行われている。また、粘土層の土壌を活かした瓦生産は近代にも地場産業として、原材料の枯渇をみるまで存続した。
1945年(昭和20年)7月6月の甲府空襲では鏡中条において焼夷弾による被害があったといわれ(『若草町誌』)、7月30日の空襲では百田、鏡中条で小型爆弾による被害があり、死者や被害家屋が出ている。太平洋戦争中の戦没者数は264人(山梨県福祉保険部国保援護課調べ)。
[編集] 行政区域の変遷
- 1875年(明治8年) 巨麻郡三恵、鏡中条、下今井、藤田、浅原の5か村が成立。
- 1889年(明治22年) 藤田村と浅原村が合併して藤田村が成立。鏡中条村と下今井村が合併して鏡中条村が成立。
- 1896年(明治29年) 三恵村と藤田村と鏡中条村の合併で若草村が成立。
- 1959年(昭和34年) 若草村が町制移行、若草町となる。
- 2003年(平成15年)4月1日 中巨摩郡の白根町、芦安村、八田村、櫛形町、甲西町と合併して南アルプス市が成立。
[編集] 姉妹都市
- 北村 (北海道) 北村の村名の由来となった開拓功労者、北村雄治が若草町出身である縁から。現在は両町村とも合併により消滅しており、合併先である南アルプス市と岩見沢市が姉妹都市として提携している。
[編集] 教育
合併後、小・中学校は南アルプス市立となっている。
- 中学校
- 若草町立若草中学校
- 小学校
- 若草町立若草小学校
- 若草町立若草南小学校
[編集] 交通
[編集] 道路
[編集] 出身有名人
- 五味釜川
- 五味可都里
- 矢崎光圀
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 山田厳子「交通と市」『山梨県史民俗編』第一編第五章第一節



