英国法
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英国法(えいこくほう)又はイギリス法は、連合王国における法体系(UK law)を指すが、その中の一法域であるイングランド及びウェールズにおける法体系(English law 又は the laws of England and Wales)を指すことも多い。
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[編集] 概要
いわゆる「イギリス」は、大ブリテン島の南半分以上に位置する「イングランド」、その北に位置するスコットランド、その西に位置する「ウェールズ」と、大ブリテン島の西に位置するアイルランド島の北にある北アイルランドから構成されている王国である。
「イギリス」(英吉利)という言葉は、ポルトガル語に由来する日本式の呼び名で極めて問題の多い言葉で、その意味で「イギリス法」ないし「英国法」という呼び名も問題が多いが、ここでは、一応概念を広くとり連合王国における法体系を(カギ括弧付きの)「英国法」として解説することにする。
ウェールズがイングランドの州になったのは1282年と歴史は古く、1536年には正式に併合したことから、イングランドとウェールズは単一の法域における一つの法体系をなしている。そのため連合王国のうちの他の法域に属する法体系と区別する意味でEnglish law 又は the laws of England and Walesと呼ぶこともあるので注意が必要である。この意味での英国法ないしイギリス法は正確にはイングランド及びウェールズ法と呼ぶべきであるが、以下では(カギ括弧なしの)英国法との表記で統一することにする。
英国が、スコットランドと合併したのは1707年で、アイルランドと合併したのは、1800年になってからのことであり、英国法とは別個の法域に属している。合併に至る経緯の詳細は、イギリスの歴史を参照。
英国法は、ゲルマン法の一支流であるアングロ・サクソン法を背景として成立した法体系であるが、イングランドは、ドイツのアンゲルン半島から来たアングル人の国という意味でゲルマン系であるのに対し、ウェールズ、スコットランド、アイルランドはケルト系の先住民の国で、後にノルマン人によって征服された歴史をもつ英国は、成立の始めからして多民族国家であって言語も宗教も異なる。このことが「英国法」の歴史に深い影響を及ぼしている。
英国法は、大英帝国時代植民地へ継受され、大陸法(シビル・ロー)と対置される英米法(コモン・ロー)をとる世界中の国々の法制の基礎となり、(ルイジアナ州を除く)アメリカ合衆国のアメリカ法の伝統と政策にも多大な影響を与えている。
[編集] 「英国法」の歴史
[編集] 英国法の歴史
英国には、日本国憲法やアメリカ合衆国憲法のような成文憲法典はない。のみならず、そもそも英国には、国家権力を一般的包括的に把握する機能を有する概念としての「国家」という概念が存在せず、その代用物として国王(King,Queen)ないし王位(Crown)という概念が便利なシンボルとして機能してきた。英国は、すべての権力が一応は国王にあるとされつつも、実質的にはそれぞれの機構が行使するという立憲君主制をとっている。このような政治体制がとられるようになったのは、英国の歴史そのものが国王との権力闘争によって、国王から徐々に権力を奪い、王権(royal prerogative)を制限してきた歴史にほかならないからである。
その意味で、英国法の歴史は、1066年のウィリアム征服王による封建制の確立に始まるといってよい。
ウィリアム1世は、国王と国王を補佐するバロンと呼ばれる貴族からなる「王会」(Curia Regis)を設置し、強固な封建的支配体制を確立しつつも、古来からのゲルマン的慣習を尊重するという妥協的な政策がとった。そのためコモン・ローは慣習から発見されるものであり、人の手によって変更することができないものとされた。このように、英国法における「法」(Law)とは、成文化された「法律」(a law,Laws)のことではなく、不文の慣習法であり、判例が第一次法源とされる点に特徴があるとされ、中世慣習との歴史的継続性が強調されるのである。
1154年にヘンリー2世が神判を禁止して陪審制を復活させ、各地方に国王直属の多数の裁判官を派遣する巡回裁判(assize)制度を創設したことがコモン・ローの発達を促し、これが英国法固有の(その後英米法系の国々に引き継がれる)特徴を形成していった。その意味で英国法の歴史は、コモン・ローの歴史でもある。詳細はコモン・ロー#歴史、英米法#特色を参照。
1215年のマグナ・カルタは、コモン・ローが王権に対しても優位することを確認するものであるが、あくまでその内容はバロンの中世的特権を保障するものにすぎなかった。にもかかわらず、これが後に歴史的継続性の強調によって法の支配と結びついて復活し、市民的自由を保障する近代立憲主義の理論として重大な役割を果たすようになった。
その後、王会は、大評議会と小評議会に分かれ、大評議会は、後に貴族が王宮の議事堂で会議するようになったことから、これが貴族院(House of Lords)に発展し、他方で、庶民はウエストミンスター大修道院の食堂で会議を開くようになり、これが庶民院(House of Commons)に発展した。このことが貴族のみならず、庶民(commoner)の政治的権限が増大していくきっかけとなった。
一方、小評議会は、後に国王評議会(King's council)に発展した上で、財務府と、大法官に分かれ、1272年にエドワード1世が即位すると、国王自身が裁判所を主宰することもなくなったことから、財務府は「王座裁判所」(Court of King's Bench)[1]、「財務府裁判所」(Court of Exchequer) 、「人民間訴訟裁判所」(Court of Common Pleas)に分かれて発展し、コモン・ロー裁判所(common-law court)と呼ばれるようになった。
13世紀から15世紀にかけて法曹のギルドである法曹院ができると、高度な専門的教育がなされるようになり、法廷弁護士が事務弁護士との職域争いで勝利していく過程で、法曹一元制が確立して、コモン・ローの王権に対する優位を根拠に、国王から徐々に独立して権限を行使するに至った。他方で、このことがコモン・ローの形式化・硬直化という弊害を生みだし、これがエクイティを発展させることとなり、現在のコモン・ローとエクイティの法の二元性を形成するきっかけとなった。
また、法曹院による専門教育と一般素人による陪審員制度という正反対の性質の制度が組み合わさることによって現代にいたる様々なコモン・ローの特色が形成された。陪審員制度の下では、素人でも適正な判断をすることができるようにする必要があり、そのための一定の判断基準が判例によって徐々に形成され、その結果、英国法では、実体法が手続法を通じてその隙間からにじみ出てくる性質を有するに至り、大陸法系における総則規定や抽象的な法律行為等の専門的な概念を嫌うようになった。同様に、素人にも適性な判断ができるようするという見地から、当事者主義(adversarial system) 、口頭主義、直接主義、伝聞法則等に支えられた高度で専門的な法廷技術が発展したのである。
1688年メアリーとその夫でオランダ統領のウィリアム3世(ウィレム3世)をイングランド王位に即位させた名誉革命が起ると、これを受けて、1689年に権利章典、1701年に王位継承法が成立することによって、国王との権力抗争で国会が最終的な勝利を手に入れた。その結果、国会の意思が国内において絶対的な効力を有するものとされ、「国会は女を男にし、男を女にすること以外は何でもできる」と表現された「国会主権」(Parliamentary Sovereignty)が確立された[2]。国会主権は、日本のように国民主権概念が当然とされている国からみればわかりにくい概念であるが、主権をもつ国会(King in Parliament)とは、国王と貴族院と庶民院の三者からなるものとされ、立憲君主制とは矛盾しない概念とされていることを念頭に置けば、英国の歴史に即した概念であることが容易に理解できる。
また、1701年王位継承法が裁判官の身分保障を規定したことによって法の支配が現実の制度として確立されて、法の前の平等の下、通常裁判所を通じて市民的自由[3]を保障することが必要とされ、その結果、司法権の役割が重視されることになった。以後法の支配は、国会主権と並ぶイギリス憲法の二大原理とされるようになった。
英国では、権力分立は、日本やアメリカ合衆国の三権分立のように、立法権、行政権、司法権の三権で考えるのでなく、国王、貴族院、庶民院の3つの権力の国会内部の均衡と抑制によって、市民的自由を保障する原理であると考えられている。
英国では、立法権と司法権の分立が厳格でなく、議会が裁判所の機能を併有してきた歴史があり、英国において、日本における最高裁判所に該当する機関は、議会である貴族院であり、日本における最高裁判所長官は、貴族院の議長であり、内閣の一員でもある大法官が勤めることになっていたことも英国独特の権力分立のあり方といえる[4]。
貴族院の判決は、先例として貴族院自身および全ての下級裁判所を拘束し、議会による立法によってしか修正又は廃止することができないという厳格な先例拘束性の原理がとられている[5]。例えば、謀殺はコモン・ロー上の犯罪で、裁判所の憲法上の権限及びその先例によって謀殺は違法とされる。したがって、謀殺を違法とする成文化された制定法は存在しない。以前は謀殺には死刑が許容されていたが、今日では、議会による修正を受け、謀殺は無期刑が義務付けられている。今も効力を遺している最古の法律は1267年マールバラ法(Statute of Marlborough)の一部(52 Hen. 3)Distress Actである。マグナ・カルタの3つの節は元は1215年に調印され、英国法の発達にとって大きな出来事であったが、1297年に改正されている。
内閣(Cabinet)は、17世紀後半に、国王を補佐する枢密顧問官が集まって国の方針を定めたことから始まり、1714年ジョージ1世が即位すると、国王自身が出席することもなくなり、ウォルポールが閣議を主宰するようになったことから、徐々に首相という地位が形成されていった。
以後「国王は君臨すれど統治せず」との慣行が憲法的習律として不文の憲法となって英国の立憲君主制は完成するのである。
[編集] スコットランド法の歴史
スコットランド法の歴史は、コモン・ロー裁判所を整備したエドワード1世による侵略に始まる。詳細は、スコットランドの歴史を参照。
1292年にエドワード1世は、スコットランドに侵略し、これを一時的に隷属下に置くことに成功した。このことがきっかけでスコットランドはコモン・ローの影響を受け始める。英国では、国王が直接登用した有意な人物を全国各地に派遣するシェリフ制度があったが、これが現在も存在するシェリフ裁判所に発展する。
その後、スコットランドでは、英国に対する数々の反乱が起こり、14世紀初頭までに再び独立を果たし、15世紀には現在とほぼ同じ領域で政治的に統一された。そのため、スコットランドは、英国に対抗する必要上、たびたびフランスと同盟を締結したことから、その文化交流によって大陸法を知ることになる。
16世紀になると、英国の法曹院に対抗するかのように、法曹のギルドであるファカルティ・オブ・アドヴォケイドが高度な法曹教育を行うようになる。スコットランドでは、英国と同様に法廷弁護士と事務弁護士が区別されていたが、多数のアドヴォケイド候補生がボローニャ大学やパリ大学に留学し、大陸法を学んだことから、一時的にコモン・ローから分離して大陸法化する傾向が顕著になる。
英国で宗教改革が起ると、英国に対抗する必要から、オランダとの交流を深め、オランダ法を積極的に取り入れるようになった。
1707年にスコットランド王ジェームズ4世は、イングランド王ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーの婚姻によりスコットランドとイングランドは同盟的な関係へ移行した。このことをきっかけに再びコモン・ローの影響が強くなり、併合に至らぬ同盟関係という微妙な距離感がスコットランド独自の慣習を残した独特の法体系を形成する契機ともなる。
[編集] 北アイルランド法の歴史
アイルランド法の歴史は、コモンロー発展のため英国全土に統一的な司法制度、裁判システムを創設したヘンリー2世のアイルランド侵略に始まる。詳細は、アイルランドの歴史を参照。
12世紀にヘンリー2世がアイルランド侵略に着手すると、息子のジョンは「アイルランド卿」を名乗り、アイルランドを支配するようになった。もっとも、その支配権は、到底完全なものとはいえず、英国本土と同様アイルランド古来の慣習を尊重するという妥協的な政策を強いられた。このことがアイルランドにも英国同様長い時間をかけて徐々にコモン・ローが根付くきっかけとなった。
1541年ヘンリー8世は「アイルランド王」を自称し、この後もアイルランドへの出兵を断続的に継続して、ジェームズ1世の治世に、英国のアイルランド全島の支配が確立した。アイルランドのケルト系先住民はカトリックに改宗し、徐々に英国のアイルランドへの影響は大きなものとなって、17世紀から18世紀にかけて英国のアイルランド支配は確立するが、それでもアイルランドは英国が完全に同一化することはなかった。アイルランドでは、宗教改革後もカトリックを固持したため、プロテスタントに改宗し、国教会を樹立していた英国から、カトリック信者のアイルランド人は、選挙権・被選挙権を制限され、ながらく差別と抑圧の日が続くが、1800年アイルランド合併法によって英国と合併するに致る。その間、アイルランド議会は停止されることとなる。
1920年にアイルランド統治法が制定されることにって 1922年 にアイルランドの北部アルスター地方の6州は、英国にとどまることなって現在の北アイルランドになるが、南部26州はアイルランド自由国となって英国の自治領となり、後に独立してアイルランド共和国になる。
北アイルランドでは、1920年アイルランド統治法によって北アイルランド議会が設置され、英国国会から広範な立法権が委譲された。議会は、英国同様に、国王の代理としての総督、上院、下院の三者で構成されており、北アイルランド執行委員会と呼ばれる内閣が組織され議院内閣制がとられるようになった。
[編集] 英国法の現在
[編集] 憲法
詳細は「イギリスの憲法」を参照
英国には、成文憲法典はない。いくつかの法律と憲法的習律によって構成されている。
[編集] EU法
イングランド及びウェールズは連合王国を構成するが、連合王国は欧州連合(EU)の構成国であるためEU法がイングランド及びウェールズにおいても通用する。EUの国々は主にシビル・ロー(大陸法)を用い、イングランド及びウェールズでもシビル・ローの体系はこの形で存在する。ほぼシビル・ロー系の裁判所である欧州司法裁判所は、EU法の下でイングランド及びウェールズの裁判所を監督することができる。
[編集] 英国の刑事司法
英国の警察は、地方自治体の警察委員会、警察本部長、内務大臣の3つの機関が警察の権限を分割するという三極構造の下、警察官は法にのみ拘束されるが、何人からも独立して権限を行使するという警察官独立の原則が伝統的に認められてきた。 警察官は、合理的な理由があれば被疑者の身柄を拘束でき、取調べをすることができる。身柄を拘束された被疑者は、ソリシタを選任して相談する権利があり、取調べにソリシタを立ち会わせることもできる。 警察は、被疑者を告発しようとするときは、ソリシタの資格を有する者から選任される「公訴官」に事件と証拠を引き継ぐ。英国は、法曹一元制をとっており、大陸法におけるような検察官制度はなく、私人訴追主義がとられている。
公訴官は、告発すべきと判断した場合は、被疑者を警察へ引致した時から原則として24時間以内に治安判事裁判所へ告発する。治安判事裁判所は、略式手続で処理できる軽罪を除き、被告人の答弁を聞き、被告人が訴因を否認するときは事件を刑事法院へ正式起訴する。
刑事法院で、被告人は、ソリシタから引き継ぎを受けたバリスタの弁護を受ける権利を有し、公開の法廷で、陪審の審理を受ける。伝統的に判例によって黙秘権が認められてきたが、1995年の法律により一定条件下で黙秘権を行使した場合は、その逆の推定をすることができるとされ、黙秘権が制限された。
英国の刑法は、ゲルマン法の伝統の下、生じた結果を重視し、犯人の主観的要素を重視しないものとなっており、公判を維持するの自白を必要としない。例えば、殺人(murder)は、日本の殺人と傷害致死を含む客観的要素が成立要件となっており、法定刑は情状にかかわらず一律無期拘禁刑である。日本法でいう責任能力は、被告人の抗弁(defence)で,その挙証責任は被告人側にあり、しかも抗弁が認められても無罪になるわけでなく、危険な人物として拘禁その他の処分がなされる。
[編集] 英国の契約法
判例を補完するものとして詐欺防止法が制定されている。
[編集] 英国の不法行為法
[編集] 英国の財産法
[編集] 英国の相続法
[編集] 英国の家族法
英国の家族法(family law)は、現在伝統的な家族概念を離れ相当複雑な内容になっている。離婚時における財産分与を同棲者に認めるなど婚姻外関係の法的保護が認められるだけでなく、社会保障関連でも同様の保護が進められている。1989年の児童法では、離婚における「子どもの福祉」を図る観点から、離婚後の親責任の継続と子どもとの面接交渉権が認められ、第三者的立場に立つコンタクトセンターが活用されている。
[編集] 英国の労働法
英国の労働法の特徴は、労働組合と使用者との自立的な関係に法が介入を控える「集団的自由放任主義」にあるが、近時EU法の影響によって動揺している。
[編集] スコットランド法の現在
[編集] 北アイルランド法の現在
[編集] 「英国法」の法域
[編集] イングランド及びウェールズ
連合王国は、異なった法体系を有する複数の法域に分かれているが、イングランド及びウェールズは両者で単一の法域を構成する。
[編集] スコットランド
スコットランドは、大陸法系の強い影響を受けただけでなく、教会法やスコットランド固有の慣習に基づく、混交した法体系を有している。現在では、英国法の影響を受け、スコットランド法に対するコモン・ローの優位が認められているが、イングランド及びウェールズとは別の法域に属するものとされている。
[編集] 北アイルランド
北アイルランドは、ウェールズと同様に、コモン・ロー法系を基本としている。にもかかわらず、議会が停止され、独自の立法が認められていない間もなおそれ自体がイングランド及びウェールズとは別の法域のままであった(参照:Northern Ireland (Temporary Provisions) Act 1972)。
[編集] その他の法域
Dicey & Morris(p26)によると、ブリテン諸島には、以上の他、マン島、ジャージー、ガーンジー、オルダニー、サークという5つの法域が存在する。これらは、連合王国に属しないが、連合王国との外交権を有する。なお、これらに加えて、海外領土の、例えばケイマン諸島もそれ自体が1つの法域とされている。
もっとも、法律によっては複数の法域を適用範囲とするものがある点には留意を要する。連合王国全体に適用があるものとして、Bills of Exchange Act 1882(1882年為替手形法)がある。グレートブリテン全体に適用があるものとして、en:Companies Act 1985(1985年会社法)がある。
[編集] 地方分権化の波
サッチャー政権下に地方分権の流れが始まり、1997年の住民投票の実施によりウェールズへの権限委譲が実施され、ウェールズ議会(National Assembly for Wales)にある程度の自治権が認められた。
その後、2007年ウェールズ総選挙によってウェールズ議会に独立した立法権が認められた。これは、2006年ウェールズ統治法(Government of Wales Act 2006)によりウェールズ議会政府(Welsh Assembly Government)の第1次立法権が認められたことによるものであるが、民事及び刑事の裁判所を通じて形成される法体系はイングランドとウェールズで統一されたままである。
ウェールズのイングランドとの大きな違いとして、ウェールズ語の使用もある。これは、イングランドを除きウェールズだけにおいて適用される法律によるものである。連合王国の議会制定法である1993年ウェールズ言語法(Welsh Language Act 1993)は、ウェールズ語をウェールズにおいて公共領域に関する限りで英語と等しい地位のものとしている。ウェールズ語はまたウェールズの裁判所においても使用することができる。
伝統的に、法域としてのイングランド及びウェールズは単にイングランドと呼ばれてきたが、この用法は、この数十年においては政治的に受け容れがたくなってきている。
[編集] 参考文献
[編集] 脚注
- ^ 王が不在で王のベンチだけがあるという意味である。なお、現在でも裁判官をbenchと表現することがある。
- ^ 参照:上掲『英米判例百選(3版)』92頁
- ^ 英国には、日本やアメリカ合衆国のように人権規定がないのみならず、カタログ的な意味での人権という観念そのものがなかったとされており、イギリス憲法によって保障されているのは、人権ではなく、市民的自由そのものであるとされている。
- ^ 2009年10月1日になってようやく貴族院とは別にイギリス最高裁判所が作られた。
- ^ 参照:上掲『英米判例百選(3版)』150頁


