茂庭照幸
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| 茂庭 照幸 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | モニ | |
| カタカナ | モニワ テルユキ | |
| ラテン文字 | MONIWA Teruyuki | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1981年9月8日(28歳) | |
| 出身地 | 神奈川県厚木市 | |
| 身長 | 181cm | |
| 体重 | 77kg | |
| 血液型 | O型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | FC東京 | |
| ポジション | DF | |
| 背番号 | 2 | |
| 利き足 | 右足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1999-2001 2002-現 在 |
湘南ベルマーレ FC東京 |
52 (0) 163 (1) |
| 代表歴2 | ||
| 2003-2006 | 9 (1) | |
| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年12月8日現在。 2. 2006年12月30日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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茂庭 照幸(もにわ てるゆき、1981年9月8日 - )は神奈川県厚木市出身で、Jリーグ・FC東京所属のプロサッカー選手。神奈川県立大秦野高等学校(現・神奈川県立秦野総合高等学校)卒業。ポジションはディフェンダーで、主にセンターバック。2006年ドイツW杯の日本代表メンバーとして途中選出される。
目次 |
[編集] 来歴
1993年、小学校時代は厚木市のゴールプランダーズ(GP)に所属し、6年生の時に神奈川県代表として全日本少年サッカー大会に出場しベスト8。
1999年にベルマーレ平塚ユースに籍を置いたままトップチームに招集されJ1初出場。翌2000年、J2降格・体制変更とともに改称し湘南ベルマーレとなったクラブのトップチームに昇格し、第3節大分トリニータ戦でスターティングメンバーに起用されると、その後もコンスタントに出場を重ねた。また同年、U-19日本代表としてアジアユース選手権に出場。2001年にはU-20代表としてワールドユースアルゼンチン大会のメンバーにも選ばれたものの、負傷により帰国。
2002年、J1のFC東京に1年間の期限付き移籍。当初は慣れないサイドバックにしかポジションがなかったが、次第に本来の定位置であるセンターバックのポジションを与えられるようになった。またこの年、U-21日本代表としてトゥーロン国際大会、釜山アジア大会に出場。
2003年にはFC東京に完全移籍し、センターバックの定位置を獲得。以後2006年まで在籍したジャーンとのコンビは堅守速攻スタイルのチームの軸となった。また、U-22日本代表として活動するかたわら、フル代表に選出され親善試合の対チュニジア代表戦で初の代表キャップを記録した。同年の東アジアサッカー選手権でもフル代表に選出。
2004年、日本代表候補合宿に参加するも、アテネオリンピック優先という方針でU-23代表に合流。この直後、合宿期間中に大久保嘉人らと共に無断外出していたことが発覚し(キャバクラセブン)、フル代表からは排除される格好になった。アテネオリンピック日本代表として3試合にフル出場したが、グループリーグ突破はならなかった。
2005年には辞退選手の代替として急遽コンフェデレーションズカップの日本代表に追加選出され、無断外出による排除措置は事実上解消された。続く東アジアサッカー選手権では、A代表としての初ゴールを記録した。
当初、2006年ドイツW杯の日本代表メンバーには選ばれなかったが、開催地のドイツ・ボンで本番前調整中に負傷の田中誠(ジュビロ磐田)の代替として5月30日に追加選出された。その際休暇でホノルルにおり、現地時間の午前4時に強化部長からの国際電話で叩き起こされ、代表選出を知らされたという[1]。急遽休暇の予定を繰り上げハワイから一旦日本に帰国、その後ドイツへ赴き合流した。アテネオリンピック代表からは駒野友一に続く選出となった(アテネオーバーエイジ枠の小野伸二は除く)。背番号は所属クラブと同じ2番が与えられた。グループリーグ初戦のオーストラリア戦で坪井慶介の負傷交代により急遽出場。このように「急遽」尽くしで出られないと思っていたワールドカップのピッチを踏む事になった展開に茂庭本人は「俺はこういう何か(強運)を持っているタイプなんだなと思った」。
[編集] プレースタイル・人物
ディフェンダーとしての茂庭の魅力は、恵まれた体格を生かした対人守備能力の高さに集約されている。高い身体能力を有しエメルソンのスピード、ワシントンのパワーに対抗できる日本人としては稀有な存在である。プレシーズンマッチではあるがロナウドに対して互角以上に戦い、2005年シーズンにおいては得点王を独走していたアラウージョに対してシュートすら打たせずゲームから消す事に成功している。また、ファウルを与えることが極めて少なく、センターバックでありながら2005年にフェアプレー賞を受賞する事からも分かるようにイエローカードもほとんど無い。茂庭自身がセンターバックとしては大きい方ではないため、以前コンビを組んでいたジャーンのように空中戦を得意とするセンターバックとのコンビが相性が良い。欠点はフィードが不安定なことであり、改善が望まれる。近年は怪我がちで本来の力を発揮しているとは言いがたい。明るいパーソナリティでスポーツ系テレビ番組にも出演する目立ちたがり屋であるが、FC東京の応援番組等でチームメイトに語られる実際の性格は、非常にシャイな青年との事で、実際にファンと接する際には「あえてめんどくさそうに対応している」と同僚の石川直宏に指摘されている。
[編集] トピックス
- 小学校の頃キックベースが流行っていたので「ゴールプランターズ」というクラブチームに入った。しかしそこはサッカークラブだったというのがサッカーをはじめたきっかけ。
- 湘南時代の背番号は2番、22番、FC東京では2番と「2」にこだわりがある。
- 当時在籍したパラシオスに厳しく指導をされていた。「モニー!ウェーーークアーープ!」と試合中に叫ばれたことも。
- クラブチームおよび日本代表における茂庭への応援スタイルは、「も・に・わ!」と連呼しながら「わ」の所で両腕を使って頭の上に輪を作る、世界にも類を見ない独特のものである。
- 石川直宏とは小学校時代から県大会や選抜・代表チームなどで常に顔を合わせており、親密であるとともに、同じプロサッカー選手として良きライバルと見なしていることを、各種のインタビューで語っている。
- アテネ五輪予選では阿部勇樹の蹴った得点になりそうな直接フリーキックが茂庭の体に当たってしまい得点を逃したことがあった。この珍事は、「週刊サッカーダイジェスト」に連載されていた4コマ漫画『スーパーさぶっ!!劇場』で「どんな状況でも茂庭がシュートをブロックする幻影が見えてしまう阿部」という格好のネタにされていた。
- 2003年10月8日にチュニジア戦でA代表初キャップ。この試合での柳沢敦へのアシストが決勝点になった。その試合中「そこはおまえがいけ」と中田英寿にコーチングをするが「なんでだよ」と言い返される。それ以前にも中田英に挨拶に行った際「ベルマーレにいた茂庭です」と言うと「そうなの?」と返されたり(もっとも、中田在籍時の茂庭は二種登録でユースが主戦場だった為、練習で顔を会わせる事は少なかった)、試合中に「おい、モ!モ!」と「茂」だけ連呼されていた(実際は中田が茂庭をからかっていたと宮本が後に語っており、ベルマーレの後輩と言う事なのか、中田には珍しく茂庭個人を集中的にからかう節があった)。
- 2003年12月7日の東アジア選手権香港戦。ナイジェリアから帰化したローレンス・アカンドゥを見て「アイツ絶対香港じゃない!」と思ってそれを試合中にどうしても伝えたくなり、プレーが中断した時に宮本恒靖に「ツネさん!ちょっときてください!アイツ香港人じゃないっすよね?絶対違いますよ!」と伝えた。当然、試合中でマークの確認だと思った宮本は拍子抜けし「…お、おう」の 生返事の後、自分の位置に戻っていった。
- 2005年10月26日に、愛車のトヨタ・ランドクルーザーV8が盗難にあった。12月に監督を退任した原博実からはお別れイベントの際「クルマの事はもう忘れろよ」との言葉を置き土産にもらった。翌年4月20日にはナンバープレートだけが見つかり、茂庭の元に戻った。(ちなみにそのナンバープレートは茂庭という名前を意識したものだった)。戻ったナンバープレートと一緒に写真に写っている茂庭は無駄にはしゃいでいる。
- 「人生の3分の1は寝てる時間だなぁ…そうだ!高級ベッド買おう!」と安直な発想で高級ベットを購入した。
- 後輩には自らの胸をこぶしで叩きながら「痛がるんじゃねえ!ハートだ!ハートが強ければ痛くない!」という名言を残す。しかしその茂庭がチームの誰よりも痛がり屋で、原監督から「あいつはちょっとした事ですぐ痛がるから・・・」と言われ続けている。
- JOMOオールスターサッカー2006で回りに誰も居ないことを確認してから意味のないまたぎフェイントを行うという伝説をつくる。
- 肉離れを「ミートグッバイ」という。この他にも、伊集院光を思わせる謎の英語(日本語を直訳した不思議なカタカナ)をよく使う。また、ベルマーレユース時代に「キャプテンマークって日本語でなんて言うんだ?」と言うチームメイトの疑問に「大将印だろ」と真顔で答えた。
- 2007年、「今年は絶対怪我をしないでフル出場」と宣言していたが、開幕前に肩を脱臼し早々に目標が崩れてしまった。
[編集] 所属クラブ
- - 1993年 厚木ゴールプランダーズ
- 1994年 - 1996年 ベルマーレ平塚ジュニアユース
- 1997年 - 1999年 ベルマーレ平塚ユース
- 2000年 - 2001年 湘南ベルマーレ
- 2002年 - FC東京 (※2002年は期限付き移籍)
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1999 | 平塚 | 24 | J1 | 11 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 13 | 0 |
| 2000 | 湘南 | 2 | J2 | 12 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 |
| 2001 | 湘南 | 22 | J2 | 29 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 33 | 0 |
| 2002 | FC東京 | 2 | J1 | 19 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 21 | 0 |
| 2003 | FC東京 | 2 | J1 | 27 | 0 | 7 | 0 | 1 | 0 | 35 | 0 |
| 2004 | FC東京 | 2 | J1 | 22 | 1 | 6 | 0 | 1 | 0 | 29 | 1 |
| 2005 | FC東京 | 2 | J1 | 32 | 0 | 6 | 0 | 2 | 0 | 40 | 0 |
| 2006 | FC東京 | 2 | J1 | 24 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 28 | 0 |
| 2007 | FC東京 | 2 | J1 | 17 | 0 | 3 | 0 | 3 | 0 | 23 | 0 |
| 2008 | FC東京 | 2 | J1 | 22 | 0 | 7 | 0 | 2 | 0 | 31 | 0 |
| 2009 | FC東京 | 2 | J1 | 3 | 0 | 0 | 0 | ||||
| 通算 | 日本 | J1 | 174 | 1 | 38 | 0 | 11 | 0 | 223 | 1 | |
| 日本 | J2 | 41 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 47 | 0 | ||
| 総通算 | 215 | 1 | 42 | 0 | 15 | 0 | 270 | 1 | |||
- 1999年は平塚ユース所属。
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 2000年 AFCユース選手権
- 2004年 アテネオリンピック
- 2003年 東アジア選手権
- 2005年 東アジア選手権
- 2006年 FIFAワールドカップ
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 9試合 1得点(2003-2006)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2003 | 2 | 0 |
| 2004 | 1 | 0 |
| 2005 | 4 | 1 |
| 2006 | 2 | 0 |
| 通算 | 9 | 1 |
[編集] 個人タイトル
- 2005年 - Jリーグフェアプレイ個人賞
[編集] 参照記事
[編集] 外部サイト
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最終更新 2009年11月15日 (日) 16:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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