藤原不比等

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藤原不比等(菊池容斎・画、明治時代)

藤原 不比等(ふじわら の ふひと、 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日720年9月13日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿藤原鎌足の次男。文献によっては(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑分脈」などの史料では天智天皇の「御落胤」と書かれる。諡号文忠公、国公は淡海公

目次

[編集] 概要

藤原不比等は、天智天皇から藤原の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の姓である中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる[1]

不比等という名前は「他に比べることができるものがいない程優れている」というような意味である。

[編集] 略歴

11歳の時、父鎌足が死去。父の生前の関係から、近江朝に近い立場にいたが、壬申の乱の時は、数えで13歳であったために何の関与もせず、近江朝に対する処罰の対象にも天武朝に対する功績の対象にも入らなかった。だが、中臣金をはじめとする鎌足の同族(中臣氏)の有力者が近江朝の要人として処罰を受けたこともあって、天武朝の時代には中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された形となっており、有力な後ろ盾を持たない不比等は下級官人からの立身を余儀なくされたと考えられている。

草壁皇子の息子、697年軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくる。また後室の橘三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(聖武天皇)を産ませている。さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の人臣皇后の例となった。

不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めた。また、大宝律令の編纂にも関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に病死、作業は中途する。

不比等とその息子の藤原四兄弟によって、藤原氏の繁栄の基礎が固められるとともに最初の黄金時代が作り上げられた。

[編集] 経歴

[編集] 系譜

  • 父:藤原鎌足(ただし、一書に天智天皇の皇子と記される[要出典]。)
  • 母:車持与志古娘(車持国子の女。ただし、不比等の母は鏡王女とする説が有力。)
  • 兄:定恵(または定慧。俗名は真人)

[編集] 脚注

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  1. ^ 高島正人は鎌足が藤原姓を授かったのは1代限りであり、不比等ら一族が藤原を名乗ることが許されたのは八色の姓施行後の天武天皇14年(685年)頃とする説を唱えている。その説を採ると鎌足の没後、暫く藤原氏は中絶していたことになる(高島正人「藤原朝臣氏の成立」(初出:『政治経済史学』第164号(1980年1月)/所収:同『奈良時代の藤原氏と朝政』(吉川弘文館、1999年))。
  2. ^ 尊卑分脈・賀茂系図による。但し、近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』では、年代が合わないとして小黒麻呂の祖父蝦夷の女に比定している。
  3. ^続日本紀』による。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月8日 (日) 10:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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