藤村富美男
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 広島県呉市山手町 |
| 生年月日 | 1916年8月14日 |
| 没年月日 | 1992年5月28日(満75歳没) |
| 身長 体重 |
173cm 79kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 三塁手、二塁手、投手 |
| プロ入り | 1936年 |
| 初出場 | 1936年4月29日 |
| 最終出場 | 1959年3月2日(引退試合) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 1974年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
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この表について
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藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、日本広島県出身のプロ野球選手・監督。
20世紀の日本プロ野球を代表する強打者であり、また大阪タイガース(現:阪神タイガース)の黎明期を支え、戦前から1950年代までのプロ野球創成期を代表するスター選手。初代「ミスタータイガース」。
目次 |
[編集] 来歴・人物
鶴岡一人と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学、野球を始める[1][2]。1932年、大正中学2年(5年制)、14歳で早くもエースとなり県内のライバル、鶴岡の広島商業や濃人渉、門前眞佐人、白石勝巳らのいた広陵中学を退け、春夏の甲子園に6度出場。明石中学の楠本保、京都商業の沢村栄治、中京商業の吉田正男、県立岐阜商業の加藤春雄ら中等野球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ、甲子園の申し子と呼ばれた。藤村登板の試合では外野スタンドで、空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったという。
中学3年(5年制)、3度目の甲子園出場だった1933年夏選手権では準々決勝で三連覇を狙う中京商業と対戦し、完封負けを喫した(中京商業は続く準決勝で中京商対明石中延長25回を勝ち抜き、三連覇を達成)。
藤村のワンマンチームと思われがちな大正中学だが、呉港中学に校名変更した翌1934年夏選手権では、田川豊、塚本博睦、橋本正吾、保手浜明、原一朗らを揃え、高い総合力で全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇を果たした。決勝では藤村が熊本工業を2安打14奪三振で完封、川上哲治も3連続三振に捻った。川上は「ヒゲをはやし、一人だけ大人が混ざっているようだった」と述懐する。以後、川上とは「永遠のライバル」となる。深紅の大優勝旗を手に凱旋した呉港中ナインを歓迎する呉市民の熱狂ぶりは、連合艦隊入港以上のものだったという。藤村が駅で優勝旗を掲げようとした瞬間、旗の柄が折れてしまったという逸話も残る。
翌1935年夏には現在も大会記録として残る1試合19奪三振を記録している(対飯田商業戦)。藤村が2年生の14歳から5年生の17歳まで、4年間一人で投げ抜いて奪った三振は甲子園で12試合通算111個である。1936年、藤村が呉港中学を卒業した年は、職業野球連盟が結成された年であった。設立されたばかりの大阪タイガースは、甲子園最大のスター選手であった藤村を熱心に勧誘し、前年末に投手として入団させた。背番号10。
ただし、藤村自身及び学校側は、法政大学進学のつもりでいたのを阪神のスカウトが藤村の父親を口説き、何も知らぬ藤村に判子を渡し、契約書に押させて契約を成立させたと言われる。藤村の反対にあって契約が不成立となるのを恐れた藤村の父とタイガーススカウトの判断でこのような暴挙を行い、藤村は法政大に進学できないのを悔しがったという(なお、その後藤村の長男・哲也と次男・雅美が法政大に入り、雅美は主将を務めチーム初の4連覇に貢献した)。学校側と藤村家の関係は険悪となり、藤村は野球部の出入りを禁じられた。六大学野球全盛の当時において、創設されたばかりでリーグ戦も開催されていなかったプロ野球の立場は低く、藤村のように有力な旧制中学生がプロ球団と契約・入団する事は、人生を誤るようなものと思われていたためである。
[編集] ミスタータイガース
1936年、プロ野球リーグ(日本職業野球連盟)が開幕。タイガース最初の公式戦である第1回日本職業野球大会4月29日の対名古屋金鯱軍戦に開幕投手として登板、1安打完封勝利(プロ野球におけるデビュー戦シャットアウトの第1号である[3])をあげる。また7月15日に山本球場で行われたタイガースにとって初の東京巨人軍との試合では若林忠志のリリーフという形で勝利投手となり、大阪タイガースにとって対巨人戦初の勝利投手となった[4]。好成績を収める傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手としても出場し、同年秋季には本塁打王に輝いた。1937年からは、本格的に二塁手に転向し、2番打者としてチームの二連覇に貢献したが、当時のタイガースは景浦將、山口政信、松木謙治郎、藤井勇などリーグ屈指の強打者が数多く在籍していたため、藤村の立場は完全に脇役であった。
1939年から1942年までは兵役のため出場できなかった。1943年に除隊し夏のシーズンから復帰。その年は長い軍隊生活で思うように体が動かず、34試合で2割2分、本塁打0とプロ入り以来最悪の成績に終わる。しかし翌1944年は戦力の落ちた阪神で主軸となり、4番打者に定着して打点王を獲得、優勝に貢献した。この年夏のシーズンから若林忠志監督の指示で本格的に三塁手へコンバートされた。
戦後は復員後早々の1945年11月23日に行われた戦後初のプロ野球公式戦、神宮球場の東西対抗戦に西軍3番で先発出場。5回表に東軍の白木義一郎投手から放ったセンターオーバーのランニングホームランは、戦後のプロ野球初本塁打といわれている。リーグ戦が再開した1946年には監督を兼任。クリーンアップ(5番)に座り、打率.323をマークする傍ら、戦後の投手不足のため投手としても登板した。試合の後半、ピッチャーが四球を連発したりすると、じっとして守れなくなり、負け試合でもサードからウォーミングアップもろくにせずリリーフ登板した。この年リリーフだけなら8勝0敗、トータル13勝2敗の成績を残している。シーズン終了後監督は若林に交代した。
1947年以降は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。打点王として1947年の優勝に貢献、同年設立されたベストナインの三塁手に選ばれると、以後6年連続で同賞を受賞している。1948年からはゴルフのクラブからヒントを得た(本人いわく笠置シヅ子のショーを観て触発されたとも)といわれる通常の選手のそれよりも長い37〜38インチの長尺バットを用いて、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘とともに本塁打を量産した。このバットは「物干し竿」と呼ばれ、藤村のトレードマークになると共に3年連続打点王の原動力となった。この年の10月2日、対金星スターズ戦で日本プロ野球史上初のサイクル安打を記録。1949年には187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという驚異的な記録を残したが、惜しくも首位打者は小鶴誠に譲り三冠王にはなれなかった。藤村の大活躍は甲子園に入場できない人もでる大盛況でプロ野球の隆盛を招き、そのスポーツマンとしての功績は現在でも評価が高い[5][6]。チームが6位だったにも関わらず、MVPを獲得。この頃から「ミスタータイガース」と呼ばれ、ファンから絶大な支持を得ている。
[編集] プレーイングマネージャー
1949年末から1950年始にかけての2リーグ分立の際には、若林忠志、別当薫、土井垣武等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、藤村はタイガースに残留して弱体化したチームを支えた。1950年、前年藤村の三冠王を阻んだ小鶴が本塁打、打点の二冠を手にすると、藤村はセリーグ最初の首位打者を獲得し、小鶴の三冠王を阻んだ。この年記録した191安打は、イチローに破られるまで44年間日本記録であった。また、1953年に再び、本塁打、打点の二冠王となるなど、常にタイトル争いに加わり、1955年まで一線でプレーした。1951年までは投手としても登板し通算34勝11敗を記録している。
しかし、1955年に就任した岸一郎監督は世代交代を目指して、藤村等ベテラン選手より若手選手優先の起用を行った。そのため主力選手の反発を招き、岸監督がシーズン中に更迭されると藤村が兼任監督となった。1956年には兼任監督としての仕事を優先してレギュラーを譲ると、日本球界2人目の代打満塁逆転サヨナラ本塁打の快挙を達成した(もちろんプレイングマネージャーでは藤村が唯一の達成者である)。この本塁打が藤村の現役最後の本塁打であった。この年限りで引退して監督に専任することとなった。1958年に監督を辞任して現役復帰したが同年末に引退し、ついにタイガースから完全に離れた。1950年の毎日への主力選手移籍の折に「出てったもんと、残ったもんと、どっちが勝つかはっきりさせようじゃないか」と語り、日本シリーズに出場することが悲願であったが、その夢は果たされることなくユニホームを脱いだ。
現役引退後、1963年に国鉄スワローズのコーチ、1964年から1965年には東映フライヤーズのコーチをつとめ、1967年から1968年にも東映のコーチをつとめた。
また、読売テレビや大阪スポーツで野球解説者(野球評論家)として活躍。俳優としても、「必殺シリーズ」に出演した。
大阪タイガース結成時から藤村が付け続けた背番号10は、球団初の永久欠番となっている。1974年野球殿堂入り。1992年5月28日、糖尿病による腎不全のため、75歳で死去した。死去時、甲子園球場には半旗が掲げられてミスタータイガースを追悼した。
[編集] 選手としての特徴
[編集] プレースタイル
闘志をむき出しにするタイプで、「阿修羅の藤村」とも表現され、赤鬼のような顔で審判の判定にもクレームをつけた。1948年10月3日の対巨人戦で逆転サヨナラのランナーとして本塁に突入し、捕手・武宮敏明に体当たりして脳震盪させたプレーは、捕手への体当たり第1号といわれる。それまでは捕手が先にミットを構えたら走者は止まってアウトになっていた。
打撃だけではなく強肩を生かした華麗な三塁守備でも知られた。藤村はメジャーリーグの三塁守備によく見られる、三塁線の打球の素手取りを、スタンドまで掴む音が聞こえるような猛ゴロであっても平然とやってのけ、「猛人藤村」ともいわれた。三塁手以外のポジションを守っても平均以上の守備をみせ、捕手以外の全ポジションを経験した。特に、投手、二塁手、右翼手、三塁手、一塁手では、1シーズン以上にわたりレギュラーを務めた。
投手のときには股の間から二塁走者を伺う珍無類な牽制で笑わせたり、実際に股の間から一塁へ牽制球を投げた。こうした見せる野球、ショーマンシップに目覚めたのは『東京ブギウギ』の笠置シヅ子のレヴューを見てからともいうが、お客さんを喜ばそうと、試合前の練習から曲芸のような捕球や打ち方をやって見せた。試合が公式戦でも紅白戦のようなオープン戦であろうとも手を抜くことはなく、土井垣らと内野のボール廻しを途中からボールを使わず、いかにも続けているかのように見せるシャドゥプレイで観客を沸かせたり、本塁打を打って両手を振ってダイヤモンド一周をしたり、砂煙を上げる猛烈スライディングをわざとしたり、内角の厳しいところを突かれると大仰にひっくり返ったりした。娯楽に飢えていたファンは藤村のこうしたプレーを堪能した。左足のケガのため代打出場となった試合で本塁打を放ったときには、片足(いわゆるケンケン)でダイヤモンドを1周した。
当初は2番を打つなど、打撃面では脇役だった藤村が、ホームランバッターになった理由は、戦中・戦後に地方遠征などで試合前に余興で行われたホームラン競争がきっかけと言われる。戦力の落ちたチームで、別当薫のあと声がかかりホームラン競争をやっているうちにコツを覚えたという。並のバッターならチャンスで萎縮するものだが、藤村はチャンスだと嬉しそうに打席に入った。
1948年、鳴り物入りで入団してきた慶應義塾大学出身の別当に異様な闘争心を燃やし、真偽は不明ながら風呂に入っていた別当の頭の上をまたいで浴槽に入ったという話がある。また、藤村が「物干し竿」を使うようになった理由は、長打力を持つ別当への対抗心からだという説も存在する[7]。別当が前(3番)で先に快打を連発すると思い切り機嫌が悪かったという。もっとも、土井垣武や本堂保次などの証言では「別に機嫌が悪くなったとか無かったですよ。よく別当を連れて飯食いに行ってました」ともいわれている。
[編集] 記録面での話題
タイガースの公式戦第1戦に開幕投手として1安打完封勝利を挙げた藤村は、第3戦も先発し同点から延長で、センター・平桝敏男のエラーによりサヨナラ負け。タイガースの勝利・敗戦とも第1号となった。
上記の通り1948年に日本で最初のサイクル安打を記録。このときは内野安打と通常の単打を含む5安打の猛打であった。1950年に2回目を記録し、1991年に松永浩美が記録するまでは唯一の「一人で二度」の記録の持ち主でもあった。ただ、当時はサイクル安打という概念が日本には紹介されておらず、藤村はまったく意識せずに記録を樹立した。このため、1965年にこれを記録した阪急のダリル・スペンサーが話題にして初めて過去の記録が見直され、藤村が日本で最初に記録していたことが判明するまでは「隠れた記録」であった。
大阪タイガース創設と同時に入団したため阪神の背番号10は藤村しか着用したことがない。「1選手しかつけなかった背番号」は、全永久欠番のなかでも唯一の事例となっている[8]。
[編集] 試合でのトラブル
上記のように闘志をあらわにする性格のため、審判などとのトラブルがしばしばあったが、その中で球界や球団まで巻き込む騒動となった以下の事件がある。
- 1954年7月25日の対中日ドラゴンズ戦(大阪球場)で、杉村正一郎球審に退場を宣告されたが、そのことを理解していなかった藤村が再び打席に立とうとしたため、ファン千人の大群がグラウンドに雪崩れ込んで乱闘が起こり、タイガースの没収試合となった。杉村球審が藤村を刺激するのをおそれ、退場の宣告を「風呂でも入って来なさい」とマイルドに言ったのを藤村は退場宣告ととらず、少し休めばまた出ていいものと思い、再び打席に立ったといわれている。実際に風呂に入った訳ではない。藤村は出場停止となり、連続試合出場の記録が1014試合で途絶えた。「連続試合出場」の記録が注目されたのはこの事件から[9]。なお、この事件を大和球士は、『真説日本野球史7』(ベースボール・マガジン社刊)の中で「難波事件」と呼び、『「平和台事件」と並ぶプロ野球史上、双璧をなす大騒動』と記している。
- 1955年4月7日、沼津市営球場での対大洋ホエールズ戦、7回二死の場面で四球を選び出塁すると、岸一郎監督は代走を告げた。しかし、藤村はこれに反発し、交代を拒否しようとした。この事件が岸監督更迭に大きく影響した。
[編集] 「別格のミスター・タイガース」
「ミスタータイガース」としては、他に村山実、田淵幸一、掛布雅之がそう呼ばれた時期がある。しかし、藤村を別格と見て、ミスタータイガースに初代も2代目も3代目も存在しない、藤村富美男だけがミスタータイガースとするファンもいる。野球関係の書物に同時期活躍した小山正明、吉田義男ら同僚選手、青田昇らライバル選手やマスコミ関係者から同様の意見が多く聞かれる[10][11]。青田は「ミスタータイガースはあのおっさんしかいない。あの2リーグ分裂で、藤村のおっさんまで阪神を出て行ったら、今の阪神はないし、いまのプロ野球もないぞ。プロ野球がここまでのびたのは、東の川上、大下、西では藤村が頑張ったからだ。村山、田淵、掛布がミスタータイガースなどといわれたが、とてもとても藤村のオッサンには及ばないよ。ミスタータイガースは藤村のおっさんだけ」「とにかく阪神と戦って、巨人の選手が9人がかりで、あのおっさんを潰すしかなかった」と話している。また入団時に藤村の用具係を務めた吉田義男は「いろんな面でミスタータイガースは、藤村さんだけやと私は今も思っています」と述べている[12]。
安藤統男・阪神OB会長は「ガキの頃に見た藤村さんの顔は、ユニフォームのソデにあったトラの絵にそっくりだった」。球団創設からあったトラのエンブレムのイラストに、いかつい藤村の顔が重なったという。南信男・阪神球団社長は「阪神が今こうしてあるのは藤村富美男さんのお陰と、どのOBの方に聞いても、そう話される。ミスタータイガースといえば、やっぱり藤村さん」と話している[13]。藤村の葬儀で当時のOB会長・田宮謙次郎は、「チームの大黒柱で、あこがれの存在でした。先輩はプロ野球の歴史そのものです。引き継がれていく猛虎魂はこれからも消えることはありません」と弔辞を読んだ[14]。
2010年開幕前に「阪神タイガース歴史館」をリニューアルしてオープン予定の「甲子園歴史館(仮称)」は、永久欠番である藤村、村山実、吉田義男の3人に対しては、特に手厚く残した功績を伝える内容にするという[15]。
[編集] エピソード
[編集] 兵役からプロ野球再開まで
1939年1月、召集を受け郷里の陸軍広島第5師団に23歳で入営。連隊砲(小型の大砲)要員となったが、幹部候補生の試験に落ち[16]、最前線に動員されて国内外を移動した。1939年9月、まずノモンハン事件への出撃が命じられるが、行く途中で停戦になり唐津に戻る。しかし、ノモンハン事件で惨敗した事実が国民に広まるのを恐れた軍部は兵員を内地に帰還させず、最も危険な最前線へ向かわせた。このため藤村も本土上陸はせず、そのまま海南島を経て南寧作戦に向かった。この戦闘以降常に最前線に立ち何度も死にかけた。中国華南では谷に転落、左大腿部に重傷を負い切断が必要と言われたが、イチかバチかの手術で切断は免れた。
この後マレー作戦に参加。1941年クアラルンプール近郊のジャングルでの戦闘では、英国軍に至近弾を浴びた。戦友の肉片が顔じゅうにかかったがこれも凌ぎ、シンガポール戦線では、最前線で英国軍の砲火にさらされながら、電話線をかける作業をした。砲火を避けるためヘッドスライディングの連続だった。藤村は砲弾の直撃を受けて死んだ戦友の左腕をナイフで切り落して三角巾で巻いて首から吊るし、後にそれを遺骨にして遺族に送っている。1942年2月14日の戦闘では英国軍の白旗を最初に発見したといい、「英国降伏の第一報を山下奉文らの司令部に送ったのはワシや」と誇っていたという。シンガポール陥落の後、輸送船でジャワ島からニューギニアに向かう途中、バンダ海で潜水艦に撃沈される事態に遭遇した。この時はフカがたくさんいる海を半日泳いで助かった。戦後、この話を子供や孫達にマッチ箱などを使ってよく自慢して話していたという。
1943年2月2日、アンボン島に辿りついた藤村に内地帰還の命令が下る。アンポン島からスラバヤまで、いつ撃沈されるか分からない輸送船の上で数日間眠れない夜を過ごし、その後スラバヤ-シンガポール-下関のルートを計半年がかりで無事帰還。すぐ除隊になり呉の実家に帰ったときには27歳だった。既にこの時点で4年半を兵役に費やした。
同年夏に復帰したときには敵性語の規制によりチーム名は「阪神」となっていた。多くのチームメイトは戦地にとられ、ライバル巨人の沢村栄治も戦地で無数の手榴弾を投げさせられた扱いにより肩を壊して往年の球威はなかった。軍隊生活の影響で藤村も精彩を欠き、景浦と一、二塁を組んだが「一、二塁間狙え!」「藤村狙え!」と厳しい野次が飛ばされた。打撃もふるわずに終わる。しかし翌1944年春には打棒が戻り、3割1分5厘で打率5位、打点25で打点王を獲得。秋のシーズンは戦局悪化のため中止となったため、夏のシーズンが戦前最後のシーズンとなり、これを阪神はプロ野球最後の勝率8割台(8割1分8厘)で優勝を飾った。
1945年初頭の正月大会に出場。この大会は戦前最後のプロ野球と呼ばれている。第3戦の5回に警戒警報が発令されて中止。この後神戸大空襲で破壊された電車の復旧工事をしている時、広島の連隊に再召集された。ここで本土決戦に備え塹壕掘りなどに従事。同年4月、連隊は福岡県折尾(現・北九州市八幡西区)に移動。今度は山の中で軍用犬の教育をしていた。このため8月6日の広島の原爆投下には遭わなかった。敗戦後は呉の実家に帰っていたが、進駐軍の雑役に駆り出され、人間魚雷「回天」の解体作業をやっていた。11月、球団から「スグカエレ」の電報が届き、再び野球をやれる喜びで体が震えたという。既に30歳となっていた。当時は30歳を過ぎるとロートルと見られていた。結局プロ野球選手として一番脂の乗り切ったほぼ7年間を兵役と戦時中の混乱に取られた格好になった。
[編集] 物干し竿
赤バットの川上哲治、青バットの大下弘に対抗して「物干し竿」を使ったが、藤村曰く「色を塗るだけなら誰でもできる、自分は他人の真似のできないバットを使おうと考えた」という。ゴルフのドライバーをヒントに運動具店に長尺バットを作らせた。このバットを振り切るため、バーベル代わりに漬物石を持ち上げて腕力を鍛え、夫人の鏡台をストライクゾーンに見立ててバットを振った。「これならボール球もホームランに出来るわい」とほくそ笑んだ。ONの時代まで、選手たちはバッグの中に7つ道具として、バスタオルに包んで軍手、牛骨、厚いガラス片を持っていた。バットのささくれや木目が裂けるのを防ぐため、ロッカールームで軍手を着用し牛骨で擦って脂肪分を浸み込ませ、ガラス片で握り部分を削り微調整した。またバットはアンモニアで乾燥させるといいというので、いつも自宅の便所に10本近くぶら下げていた。当時は汲み取り式でアンモニア臭いっぱいだった。その浸み込んだバットで本塁打を量産した。このバットの更に左手の小指を外して握り、外角高めの少々ボール気味の球でも手を出した。
[編集] 兼任監督時代と藤村排斥事件
1946年と1955途中から1956年の兼任監督時代は打てる投手の時に「代打わし」と告げ逆に打てない投手の時に出ないというケースがあり同僚選手が高打率をマークすると「今に見ておれ!!」という態度をとっていた。それまでも数々のスタンドプレーを快く思わない選手も多く、打撃練習もファンを意識してわざと遅れてやる、一人長々やる、などの蓄積が、ナイン全体の反感を買い1957年に専任監督に棚上げされるという事態を招いてしまった。これが有名な藤村排斥事件である。藤村排斥事件をスクープしたのはデイリースポーツだが、藤村は自身を排撃したデイリースポーツを終生憎んでいたといい実際引退してからデイリーの評論家にならなかった。
こういった排斥運動などのイメージで監督としては無能だった、という評価が定着しているが、監督4シーズンで勝率5割8分3厘という成績を残している。特に1957年は首位巨人と1.0ゲーム差、流感による主力選手の離脱がなければ優勝できたとも言われた。
[編集] 現役引退とその後
監督を解任され、42歳で平選手にされた1958年は、先発は1試合のみ、7番ファーストで途中交代。結局26打数3安打、シングルヒットが3本の打率1割1分5厘で、生涯打率3割を保つため出場をやめた。引退の記者会見は、甲子園球場の食堂で行われた。しかし翌1959年3月2日、甲子園球場で『藤村富美男引退試合』(オープン戦、対巨人)が行われた。これは日本球界で初の『引退試合』だった[17]。この試合で村山実がプロ初登板している。引退後の藤村は口が重い、怒りっぽい、むくれると、腫物を扱うように関係者・新聞記者達からも嫌われ、この後の評論家・解説者もうまくいかなかった。ただ浜崎真二、水原茂ら他チームの監督からは請われてコーチに就任している。国鉄コーチ時代には徳武定祐らを育て[18]東映打撃コーチ時代は、大杉勝男の入団を促すなどの成果を挙げたものの1968年、野球界からは完全に離れ、藤村ファンという社長の経営する水道工事の会社に勤務した。この事について藤村自身は「野球だけしか出来ない人間と思われたくないから、野球界から完全に離れた」と言っていた(ただし、1985年のタイガース優勝時には、大阪スポーツ専属野球評論家として日刊スポーツに優勝コメントを寄せたことがある)。終生のライバルだった川上や鶴岡が、指導者としても大きな名声を得たのと比べると淋しい引退後だった。藤村の同僚だった田宮謙次郎(後の東映監督)は「巨人と違ってOBを大事にしないのも阪神の悪しき伝統。藤村さんあたりが球場に顔を出してもみな知らんぷりだったよ」と発言している。
本人が球界を退いた後に放映されたアニメ版『巨人の星』に東映の二軍監督として登場(声優は内海賢二)、星飛雄馬の球質の軽さを見抜いてみせ、試合後にそれを知った星一徹を震え上がらせる場面がある。
1977年に俳優としてテレビ時代劇『新・必殺仕置人』の元締・虎役でレギュラー出演。中村主水(藤田まこと)・念仏の鉄(山崎努)ら江戸中の全仕置人を束ねる闇の殺し屋組織『寅の会』元締という役柄で、特に寅の会の掟を破った外道仕置人を物干し竿を一振りで仕置するシーンには現役時代のフィルムがカットインするなどの演出も盛り込まれた。
藤村がタイガース選手引退時に進呈された西宮市の家は、1995年の阪神大震災により修復不可能となって現在は更地になっている。震災後、未亡人は仮設住宅に長く暮らした。また入団時の契約金で建て直した呉の実家も、2001年の芸予地震で倒壊した。
[編集] プライベート・家族
東映打撃コーチに就任したとき、猛者揃いの東映選手も恐ろしい人が来る、と戦々恐々だったが、旅館で「ビールでもどうですか」と言ったら「ビールはいらん、それよりあんパンくれ」と言って周囲を驚かせた。
酒にはめっぽう弱く、甘党であったため、あんパンと炭酸飲料(オロナミンC)が好物であった。こういった事が糖尿病を悪化させ死期を早めたのでは、といわれる。
甲子園のスター選手であった藤村富美男だが、弟・隆男(後にタイガース等で選手・コーチ)、長男・哲也(育英)、次男・雅美(三田学園)、そして哲也の子・一仁と賢(共に三重・海星、賢は現在 愛知ベースボール倶楽部)、雅美の子・光司(育英〜立教大学、当時の育英監督は雅美)の孫3人が相次いで甲子園に出場し、話題となった。広島、兵庫、三重の3県4校に跨る、全く他に類を見ない「親子3代の兄弟出場」となった。
なお、藤村は最初の妻を早くに失い(一女あり)、哲也・雅美は再婚した妻との間の子息である。
[編集] 影響
長嶋茂雄は「藤村に憧れて三塁手になった」と公言している(1998年12月6日放送『知ってるつもり?! 藤村富美男』(日本テレビ)での長嶋のインタビューや2006年、読売新聞に連載された「時代の証言者 長嶋茂雄」での記述による)。ただ実際に三塁手となったのは成長痛による遊撃手からのコンバートであり、ある場所では尊敬する選手は鶴岡一人とも答えている。吉田義男は著書『阪神タイガース』の中で「あの方(藤村)のプレーは、面白かったんです。他の選手たちがマジメに野球をやっている中で、藤村さんのプレーには、何とかしてファンを楽しませようという心配りがありました」という長嶋の言葉を紹介しており、ポジション以前にプレースタイルに憧れたことが伺える。
また、王貞治がまだ二本足打法で打撃不振だった折、監督の川上哲治は最大の欠点であった体重移動の悪さが原因と見て、打撃フォーム改造を荒川博コーチに頼んだ際に、藤村の打撃フォームからヒントを得たという(2007年6月1日、日刊スポーツ連載「王貞治すべてがアンビリーバブル」での川上哲治のインタビューによる)。川上によれば、藤村のフォームは一本足打法の変形で、王にもっと球を呼び込んで打つよう指導したという。
水島新司の野球漫画、「男どアホウ甲子園」の主人公の名前が、藤村富美男から取った藤村甲子園である。「ドカベン」岩鬼正美の豪快・奔放なキャラは、藤村のそれが多大に影響を与えているらしい[要出典]。また「あぶさん」こと景浦安武は、名前を景浦將、「ものほし竿」を藤村、連載開始時の大きな構えは土井正博と、三人の豪打者を組み合わせて創ったものに永淵洋三の酒豪エピソードを加えたもの[19]で、藤村も2度だけ作中に登場した。ルーキー時代のあぶさんに「物干し竿」を使い始めるきっかけを与え、またこれは偶然ではあるが、「二代目物干し竿」のあぶさんが作中で三冠王を獲得した(1991年)のを見届けてから、翌年に他界している。
[編集] 略歴
- 1931年 大正中学(後に呉港中学に改称)入学
- 1935年末 大阪タイガース入団
- 1946年 監督代理を兼任。同年限りで監督代理を辞任
- 1950年 兼任コーチに就任
- 1954年 兼任助監督に就任
- 1955年 途中から兼任監督に就任
- 1956年 現役引退
- 1957年 監督辞任
- 1958年 現役復帰。同年限りで現役引退
- 1963年 国鉄スワローズコーチ就任。同年辞任
- 1964年 東映フライヤーズコーチ就任
- 1965年 コーチ辞任
- 1967年 東映フライヤーズコーチ就任
- 1968年 コーチ辞任
- 1977年 新・必殺仕置人に元締・虎役で出演
[編集] 受賞タイトル、表彰、記録
- 最高殊勲選手:1回(1949年)
- 首位打者:1回(1950年)
- 本塁打王:3回(1936年秋、1949年、1953年)
- 打点王:5回(1944年、1947年 - 1949年、1953年)
- 最多安打:2回(1949年、1950年) ※当時はタイトルではない
- ベストナイン三塁手 6回(1947年 - 1952年)
- サイクルヒット:2回(1948年10.2、1950年5.25)
- 連続試合満塁本塁打:2(1953年4月28日 - 1953年4月29日)日本記録
- 三塁手シーズン刺殺:209(1950年)日本記録
- 三塁手シーズン補殺:484(1950年)セ・リーグ記録
- 三塁手シーズン併殺:60(1950年)セ・リーグ記録
- 三塁手シーズン守備機会:728(1950年)日本記録
- 通算1000試合出場 1951年9月30日(8人目)
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1936年春夏 | 大阪 阪神 |
13 | -- | 37 | 6 | 11 | 0 | 2 | 0 | 15 | 5 | 1 | -- | 1 | -- | 4 | -- | 0 | 2 | -- | .297 | .366 | .405 | .771 |
| 1936年秋 | 25 | -- | 52 | 13 | 18 | 1 | 1 | 2 | 27 | 13 | 3 | -- | 0 | -- | 7 | -- | 1 | 4 | -- | .346 | .433 | .519 | .953 | |
| 1937年春 | 40 | -- | 105 | 13 | 25 | 10 | 2 | 0 | 39 | 15 | 1 | -- | 0 | -- | 17 | -- | 1 | 13 | -- | .238 | .350 | .371 | .721 | |
| 1937年秋 | 40 | -- | 126 | 20 | 40 | 8 | 4 | 0 | 56 | 16 | 1 | -- | 0 | -- | 8 | -- | 2 | 7 | -- | .317 | .368 | .444 | .812 | |
| 1938年春 | 35 | -- | 146 | 32 | 44 | 7 | 6 | 0 | 63 | 20 | 4 | -- | 0 | -- | 15 | -- | 1 | 4 | -- | .301 | .370 | .432 | .802 | |
| 1938年秋 | 40 | -- | 164 | 25 | 43 | 11 | 3 | 1 | 63 | 34 | 4 | -- | 0 | -- | 19 | -- | 2 | 11 | -- | .262 | .346 | .384 | .730 | |
| 1943年 | 34 | -- | 124 | 10 | 25 | 4 | 1 | 0 | 31 | 11 | 2 | 2 | 1 | -- | 14 | -- | 0 | 8 | -- | .202 | .283 | .250 | .533 | |
| 1944年 | 35 | -- | 130 | 12 | 41 | 2 | 3 | 0 | 49 | 25 | 2 | 2 | 1 | -- | 19 | -- | 1 | 3 | -- | .315 | .407 | .377 | .784 | |
| 1946年 | 96 | -- | 375 | 65 | 121 | 31 | 12 | 5 | 191 | 69 | 11 | 5 | 0 | -- | 48 | -- | 1 | 22 | -- | .323 | .401 | .509 | .910 | |
| 1947年 | 119 | -- | 481 | 60 | 132 | 36 | 6 | 2 | 186 | 71 | 10 | 6 | 1 | -- | 34 | -- | 5 | 14 | -- | .274 | .329 | .387 | .716 | |
| 1948年 | 140 | -- | 572 | 69 | 166 | 38 | 13 | 13 | 269 | 108 | 15 | 7 | 2 | -- | 31 | -- | 4 | 28 | -- | .290 | .331 | .470 | .801 | |
| 1949年 | 137 | -- | 563 | 116 | 187 | 35 | 3 | 46 | 366 | 142 | 12 | 4 | 0 | -- | 47 | -- | 4 | 44 | -- | .332 | .388 | .650 | 1.038 | |
| 1950年 | 140 | -- | 527 | 130 | 191 | 41 | 3 | 39 | 355 | 146 | 21 | 2 | 0 | -- | 100 | -- | 1 | 36 | 16 | .362 | .465 | .674 | 1.139 | |
| 1951年 | 113 | -- | 410 | 71 | 131 | 27 | 3 | 23 | 233 | 97 | 7 | 3 | 0 | -- | 69 | -- | 5 | 24 | 11 | .320 | .424 | .568 | .992 | |
| 1952年 | 120 | -- | 475 | 74 | 149 | 29 | 1 | 20 | 240 | 95 | 5 | 1 | 0 | -- | 59 | -- | 3 | 44 | 13 | .314 | .393 | .505 | .898 | |
| 1953年 | 130 | -- | 459 | 62 | 135 | 28 | 0 | 27 | 244 | 98 | 1 | 3 | 3 | -- | 60 | -- | 4 | 51 | 10 | .294 | .380 | .532 | .912 | |
| 1954年 | 114 | -- | 422 | 42 | 115 | 15 | 0 | 21 | 193 | 78 | 2 | 0 | 1 | 9 | 32 | -- | 4 | 43 | 13 | .273 | .323 | .457 | .781 | |
| 1955年 | 112 | -- | 349 | 41 | 94 | 12 | 0 | 21 | 169 | 63 | 1 | 2 | 1 | 5 | 35 | -- | 8 | 51 | 11 | .269 | .345 | .484 | .829 | |
| 1956年 | 51 | -- | 105 | 10 | 23 | 4 | 0 | 4 | 39 | 19 | 0 | 2 | 2 | 0 | 9 | -- | 2 | 9 | 4 | .219 | .293 | .371 | .665 | |
| 1958年 | 24 | -- | 26 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | -- | 0 | 6 | 1 | .115 | .233 | .115 | .349 | |
| 通算:17年 | 1558 | -- | 5648 | 871 | 1694 | 339 | 63 | 224 | 2831 | 1126 | 103 | 103 | 16 | 14 | 631 | -- | 49 | 424 | 79 | .300 | .374 | .501 | .876 | |
[編集] 通算投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 通算 | 76 | -- | 14 | 4 | -- | 34 | 11 | -- | -- | .756 | 1457 | 345.1 | 293 | 6 | 149 | 183 | -- | -- | -- | 90 | 2.34 | -- | |||
[編集] 監督としてのチーム成績
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1946年 | 大阪 | 3位 | 105 | 59 | 46 | 0 | .562 | 7 | 28 | .288 | 3.23 | 30歳 |
| 1955年 | 3位 | 130 | 71 | 57 | 2 | .555 | 20.5 | 51 | .251 | 2.49 | 39歳 | |
| 1956年 | 2位 | 130 | 79 | 50 | 1 | .612 | 4.5 | 54 | .224 | 1.77 | 40歳 | |
| 1957年 | 2位 | 130 | 73 | 54 | 3 | .573 | 1 | 68 | .240 | 2.38 | 41歳 |
[編集] 監督通算成績
- 462試合 266勝190敗6分 勝率.583
[編集] 脚注・出典
- ^ ミスター・タイガース―藤村富美男伝、1992年、十乗院潤一著、データハウス、17、163頁。
- ^ 鶴岡の通った五番町小学校と藤村の通った二河小学校は、現在は統合されて呉中央小学校となっている(呉市立呉中央小学校ホームページ)。
- ^ 公式戦初登板を開幕戦で完封、さらに二桁奪三振を高卒(旧制中学卒)新人で挙げたのは藤村一人。打っても4打数3安打2打点。
- ^ 公式戦でない巨人軍との最初の試合(同年6月27日のオープン戦)も若林をリリーフして巨人戦初勝利(ミスター・タイガース―藤村富美男伝、50、51頁)。
- ^ ミスター・タイガース―藤村富美男伝、165、166頁。
- ^ 殿堂一覧|財団法人野球体育博物館 藤村富美男
- ^ 吉田義男が著書『阪神タイガース』(新潮新書)や『牛若丸の履歴書』(日本経済新聞社)で紹介している。
- ^ サンケイスポーツ、2008年9月29日、28頁。
- ^ 別冊宝島1493号「プロ野球&メジャーリーグ大記録のウラ側」2008年8月11日、宝島社、131頁。
- ^ 金本"5代目ミスタータイガース"や!/タイガース/デイリースポーツonline
- ^ 2008年、双葉社から出版された『阪神タイガース猛虎列伝―藤村富美男から藤川球児まで』は、藤村を"最初で最後のミスタータイガース"と紹介(138頁)。
- ^ 日刊スポーツ「連載 我が野球人生 吉田義男 徹」2007年12月22日、3頁。
- ^ デイリースポーツ、2009年4月10日、3頁。
- ^ 真虎伝、南萬満著、新評論、1996年、274頁
- ^ デイリースポーツ、2009年4月10日、3頁。
- ^ 中学時代に教練の時間があり、授業に出てよい点を取っておかないと幹部候補生試験に落されたという。
- ^ サンケイスポーツ、連載「タイガース血風録 猛虎水滸伝」、水本義政、2009年8月24日、4面。
- ^ 真虎伝、南萬満著、新評論、1996年、265頁
- ^ ベースボールマガジン9月号、2007年No4、ベースボール・マガジン社、112-113頁
[編集] 著作・参考文献
- ミスター・タイガース―藤村富美男伝(1992年10月 十乗院潤一著 データハウス)
- 真虎伝(1996年12月20日 南萬満著 新評論)
- 大阪タイガース球団史 1992年度版(松木謙治郎、奥井成一著 ベースボール・マガジン社)
- 猛虎の群像 そして星野(2003年3月18日 政岡基則 デイリースポーツ社)
- 昭和20年11月23日のプレイボール(1978年8月 鈴木明 綜合社)
- プロ野球 豪傑伝(1986年10月 大道文著 ベースボール・マガジン社)
- プロ野球人国記 中国編(2004年4月 ベースボール・マガジン社)
- サンケイスポーツ、連載「タイガース血風録 猛虎水滸伝」、水本義政、2009年3月ー9月継続中
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
- 広島県出身の人物一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- 兄弟有名人一覧
- PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球 - 野球解説者として出演していたテレビ番組(読売テレビ・日本テレビ系列のプロ野球中継)の現行タイトル。
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月12日 (木) 20:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【藤村富美男】変更履歴

