藤波辰爾

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藤波 辰爾
プロフィール
リングネーム 藤波 辰爾
藤波 辰巳
本名 藤波 辰巳
ニックネーム 炎の飛龍
ドラゴン
身長 186cm
体重 104kg
誕生日 1953年12月28日(55歳)
出身地 大分県東国東郡武蔵町(現、国東市
所属 ドラディション
スポーツ歴 陸上競技
トレーナー アントニオ猪木
カール・ゴッチ
デビュー 1971年
  

藤波 辰爾(ふじなみ たつみ、男性、1953年12月28日 - )は、日本プロレスラー。本名は藤波 辰巳大分県出身。血液型はO型。ニックネームは「ドラゴン」もしくは「ドラゴン藤波」。第77代NWA世界ヘビー級王者。一時期、リングネームをドラゴン藤波、ドクター(ドクトル)藤波としていた。

目次

[編集] 来歴

[編集] デビューまで

1953年12月28日、大分県国東郡に産まれる。中学時代にアントニオ猪木に憧れ、プロレスラーを目指す。

一旦は中学卒業後地元の自動車整備工場に就職したが、1970年にプロレスへの夢を断ち切れず別府温泉に湯治に来ていた同郷である日本プロレス所属のプロレスラー北沢幹之に直談判、そのまま巡業について行き日本プロレスに入門する(入門同期は、佐藤昭雄キラー・カーンら)。

猪木の付き人となり1971年5月9日にデビュー。デビュー戦の相手は北沢が務めた。

[編集] 新日本プロレス旗揚げ

1972年アントニオ猪木新日本プロレスに旗揚げより参加。

1974年、若手の登龍門たるカール・ゴッチ杯を制し(決勝の相手は小沢正志、後のキラー・カーン)、初の海外遠征で木戸修と共に西ドイツへ、その後アメリカに渡って、カール・ゴッチの元で修行、木戸の帰国後ノースカロライナ州をサーキット、その後メキシコを転戦。

[編集] ドラゴン・ブーム

1978年1月23日ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでカルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスで破りWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級タイトルを獲得し凱旋帰国。

3月3日の凱旋帰国第一戦でマスクド・カナディアン(ロディ・パイパー)を相手に同じくドラゴン・スープレックスで勝利、「ドラゴン・ブーム」を巻き起こし「シンデレラ・ボーイ」とも呼ばれた。

ビルドアップされた見事な体とドラゴンロケット等の飛び技、そしてゴッチ仕込みのテクニックで、従来のプロレスファンに加え、女性やこどものファンも獲得し、猪木、坂口征二に次ぐ新日No.3の座につく。

藤波はチャンピオンとして日本のみならずアメリカ、メキシコでも防衛戦をこなしていた。

1979年にはダブルタイトルマッチにてスティーブ・カーンを破り、NWA認定世界ジュニアヘビー級インターナショナルタイトルを獲得。ジュニアヘビー級の二冠王となった。

この頃のライバル、チャボ・ゲレロカネックダイナマイト・キッド、スティーブ・カーン、木村健悟剛竜馬らとの戦いで日本のプロレス界に「ジュニアヘビー級」というジャンルを確立した。

[編集] ヘビー級転向

1981年10月にヘビー級転向のためジュニア王座を返上。翌1982年1月より「飛龍十番勝負」が始まる。ボブ・バックランドハルク・ホーガンアブドーラ・ザ・ブッチャージェシー・ベンチュラらと闘うも、「飛龍十番勝負」は中途で終わることになった。

同年8月30日マディソン・スクエア・ガーデンでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルを獲得。

この年の10月、長州力と抗争が始まり、さらに長州率いる維新軍団との抗争で新日本に黄金期をもたらす。長州との一連のシングルマッチは「名勝負数え歌」と呼ばれ1983年4月3日のWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチはその年のプロレス大賞ベストバウトを獲得した。

しかし、同年8月のタイガーマスクの引退、1984年には長州力ら維新軍団の新日本プロレス離脱、さらにUWF旗揚げによる前田日明らの離脱、と新日本は冬の時代と呼ばれるようになる。原因は猪木のサイドビジネスにあり、一時は「藤波も離脱秒読み」と報道されたが藤波は残留を決めた(藤波が離脱していればその時点で新日本は潰れただろうと言われている)。

残留を決めて以降は猪木、坂口、木村健吾らと共に新日本プロレスの低迷期を支え、1985年12月12日のIWGPタッグリーグ優勝戦でタッグとはいえ師匠・猪木からドラゴン・スープレックスで初のフォール勝ちを達成。その年の「プロレス大賞」でMVPを獲得した。

1986年1月から前田らUWF勢が新日との業務提携により参戦。UWF勢のキックに新日勢は当初逃げ腰だったが藤波は真正面から受け止め、特に6月12日大阪城ホールIWGP公式リーグ戦での前田日明との試合は前田の厳しい攻めを(前田の大車輪キックで大流血になりながらも)受け止め名勝負を展開した(結果は両者KOによる引き分け)。この試合はこの年のプロレス大賞ベストバウトを獲得し、試合後前田は「無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた。そしてその仲間とこれから大きな国を作っていく...そんな心境です。」と藤波に賛辞を送った。

1987年4月には長州力らジャパン・プロ勢が新日にUターン。新日本プロレスは猪木、坂口、マサ斎藤らナウ・リーダーと藤波、長州、前田らニュー・リーダーの闘いで人気を博すも、その後の前田の長州蹴撃による離脱、二度に渡るファンの暴動事件などで再び新日の人気は陰りを見せ始めた。

[編集] 飛龍革命

1988年4月22日沖縄県奥武山体育館で、いつまでもメインを張り続け後進に譲ろうとしない猪木に対して、自らの前髪を切って現状改革を訴える。この行動は前年に天龍源一郎全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれたが、反権力的な長州、天龍の維新、革命と比べて本体側に属する藤波の革命についてのファンの支持はもう一つで、前記2者に比べるとプロレス史には(ネタとしてはともかく)残らず、尻すぼみの結果となった。

5月8日有明コロシアムIWGPヘビー級王座ビッグバン・ベイダーとの王座決定戦の末に獲得。

8月8日には、猪木が挑戦者として藤波に挑む形で、横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を行い、60分フルタイムの名勝負の末引き分ける。試合後、猪木が藤波の腰にIWGPのベルトを巻いてやり、共に涙するシーンは感動を呼んだ。

以後、新日本プロレスのエースとなり10月15日にアメリカ・オレゴン州ポートランドでザ・グラップラーからPNWヘビー級王座を、12月9日には後楽園ホールケリー・フォン・エリックからWCWA世界ヘビー級王座を奪取し日米に渡る三冠王となった(後にWCWA、PNW両王座は返上)。これと同時期に、IWGPヘビー級のベルトを携えてアメリカなどを転戦、海外でもIWGPヘビー級王座の防衛戦を行っている(当時、猪木が提唱していた「世界戦略」に対して、「藤波流世界戦略」とも呼ばれた)。

[編集] 腰痛による欠場、復帰後

1989年6月22日、ビッグバン・ベイダーとのシングルマッチで腰を負傷。椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となった。その間、帝拳ジムでボクシングの練習にも取り組んだ。

1990年9月30日越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰。リングネームを「藤波辰巳」から「藤波辰爾」へ改名。

この頃、プロレス界での部屋別制度を提唱、「ドラゴンボンバーズ」を結成(メンバーは越中、獣神サンダー・ライガー飯塚孝之ブラック・キャット南海龍ワイリー・テイラー)したが、軌道に乗ることはなかった。

同年12月26日浜松アリーナで長州を破りIWGPヘビー級王者に。

1991年3月21日東京ドームリック・フレアーをグランド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となったが、WCW側からのクレームもあり正式なNWA世界王者とカウントされるかどうかは議論が分かれる(ただしNWAの公式HPには、歴代チャンピオンに藤波の記載あり)。

1993年8月7日両国国技館馳浩を破りG1 CLIMAX優勝。

その年1月から参戦し、新日勢を連破していた天龍源一郎9月26日大阪城ホールで初対決。セコンドの馳の介入にクレームを付ける天龍の虚をついてグランド・コブラで勝利した。

1994年4月4日広島グリーンアリーナ橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦。橋本の爆殺キックで蹴りまくられながらも逆転のグランド・コブラで王座を奪取。

腰痛からの復帰以降、闘魂三銃士の台頭もあり、藤波は徐々に第一戦から退くようになる。

1995年10月27日、クラシックなプロ・レスリングを復活させるため独立興行「無我」を旗揚げ。イギリスビリー・ライレージムと提携。

1998年4月4日の猪木引退・東京ドーム興行で佐々木健介を数年ぶりに見せるジャーマン・スープレックスで破りIWGPヘビー級王座を獲得。師の引退に花を添えた。

かねてから「ジャンボ鶴田選手と1回戦ってみたかった」と公言している。かつて、ジャイアント馬場と猪木の対戦が望まれた時期、猪木は何度も馬場に対戦を望んだが、馬場は「僕達の旬は過ぎているから」と拒否し、代わりにお互いの団体の次期エースである鶴田と藤波の対戦を申し出たり、当時全日本プロレスに参加権があって新日本プロレスには認められていなかったNWA世界ヘビー級のベルトの挑戦権を藤波に与えてもいい、などと発言したこともあった。だが、猪木は馬場との対戦に拘り続け、そして鶴田の死去もあり、ついに藤波は鶴田と対戦することはできなかった。

2003年から欠場が続いていたが、2005年3月26日に2年3ヶ月ぶりに復帰し、5月のドーム大会でジャンボ鶴田の付き人を務めたことのあるNOAH三沢光晴とタッグを組み、「楽しかった。次は三沢選手と戦いたい」と話した。また、同年のG1 CLIMAXにも久々に出場した。川田利明との初対決が実現するも敗れる。試合後に握手し、川田は「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの一人であるから」とコメントを残す。

1999年から2004年まで新日本プロレス社長を務めた。副会長に就任して以来、引退カウントダウンを撤回し現役にこだわり続けた。2006年6月30日付けで新日本プロレスを退団。その際に社員に挨拶に回ったが、ことごとく無視された、とインタビューで当時の様子を語った。社長就任後引退時期に関する釈明が二転三転したため渾名を捩り「ホラゴン。」と揶揄されたことがある。

元新日本プロレスで藤波の愛弟子である西村修田中秀和リングアナウンサーの新団体「無我ワールド・プロレスリング」の旗揚げ戦で第1試合に出場した。その後無我の代表取締役に就任。2007年1月28日には約30年ぶりにグラン浜田と対戦した。6月1日師匠であるアントニオ猪木と1年振りに会談したことが明らかとなり、その席で猪木が旗揚げするイノキ・ゲノム・フェデレーションへの協力を表明した。9月9日、NOAH日本武道館で、三沢との夢のタッグ戦が実現(三沢、潮崎vs藤波、西村)。パートナーの西村が潮崎に足四の字で勝利。

2008年、団体名を『ドラディション』に変更した(無我の商標権を持つ西村が団体を離脱したため)。

[編集] 得意技

自らのキャッチフレーズである“ドラゴン”の名を冠した多くのオリジナル技を持つ。これらは総じて「ドラゴン殺法」と呼ばれ、プロレスファンの能く知るところとなっている。

ドラゴン・スープレックス(飛龍原爆固め)
1978年1月23日、藤波がアメリカWWWF(現WWE)遠征中のマディソン・スクエア・ガーデンで行なわれたWWWF世界ジュニアヘビー級選手権戦でカルロス・ホセ・エストラーダを相手にフィニッシュとして使用。この時の映像が新日本の「ワールドプロレスリング」中継で流されたことで衝撃を与えた。藤波はこの技を引っさげて凱旋帰国。ドラゴン・ロケットと共に「ドラゴン殺法」と呼ばれ、それまで日本には無かったジュニア・ヘビーならではのスピーディーで小気味良いレスリングとあわせ、藤波を一気にスター選手の道へと駆け上っていった。
ジュニアヘビー級時代は割と多用していたのだが、フルネルソン状態で真後ろに投げられるという習慣が当時のレスラーには殆ど皆無だったこともあり、受身を取りそこなうレスラーも多く(特にタッグ戦でアーマンド・ゲレロ相手に見舞った一発は強烈で、アーマンド・ゲレロは舌を出して失神、そのまま試合放棄となった)、当時新日本が提携していたWWF(現WWE)からの禁じ手とする旨の要請を受けて、この技は封印された。
その後ヘビー級に転向し、ほとぼりが冷めた頃、ビッグマッチでこの技に入ろうとする振りだけはするものの不発になることが多い。例外的に、スーパー・ストロング・マシンには2度成功し、一度は3カウントをとっている。なお、一方の一度は 猪木・藤波vsストロング・マシン1号2号のタッグマッチの際、2号にカットされてしまい3カウントは奪えなかったものの切れ味のあるブリッジで魅了した。また、アントニオ猪木から初めてフォール勝ち(タッグマッチで)を収めたのもこの技である。1986年6月12日大阪城ホールで行なわれたIWGP公式リーグ戦、前田日明とのシングルマッチで逆に前田にこの技を決められてしまったシーンは、ファンに少なからずショックを与えた。
ドラゴン・ロケット
ジュニア時代に多用。現代ではトペ・スイシーダとして有名。リング内から場外に一直線に飛ぶというムーブは、1970年代後半のプロレスでは珍しく、若き日の藤波の象徴とも言える技であった。また1978年チャボ・ゲレロ戦でこの技を避けられて失敗し、鉄柵に頭をぶつけて大流血するなど、記憶に残る場面も多い。ヘビー級転向をしてからも、カネックなどに数回しかけている。
ドラゴンスクリュー
相手の片足を両腕で取り、足首を抱えて自分の脇腹に押し付けて固定。自ら素早く内側にきりもみ状態で倒れこみながら相手の膝を捻り、靭帯をねじ切る。
元々藤波がジュニア時代から得意としていた技で、蹴り技に対する対抗手段として高頻度で使われていたのだが、あくまでつなぎ技でしかなく、それほど脚光を浴びることは無かった。藤波の場合、相手の足を痛めるというよりは、足を取っての巻き投げに近く、実際に藤波からこの技を受けた相手が、その後も足を引き摺るような場面はあまり見られない。
ドラゴン・バックブリーカー
かつてビル・ロビンソンダブルアーム・スープレックスと共にフィニッシュとして使用した技で、腰を痛めてからジャーマン・スープレックス等のスープレックス系の技を使えなくなった藤波が、新たな武器として選んだ。しかし、この技自体が腰のバネをかなり必要とし、また相手の全体重を膝に受けなければならないため、ダメージが蓄積してきたことからあまり使われなくなった。
ドラゴン・スリーパー(飛龍裸絞め)
尻餅状態に座らせた相手の後方から、相手の首を自分の脇に抱え込むように片腕で捕獲。空いている腕で相手の片腕を前方肩上から脇に通して背面で固定し、自分の両手を相手の背面でロック。自ら背を反るようにして脇に抱えた首の頚動脈を圧迫する。
当時藤波が出稽古に通っていた骨法の首落としをヒントに開発した技。1991年11月5日日本武道館におけるIWGPヘビー級王座防衛戦で、蝶野正洋がこの技をかけられた後、一度はオーバーヘッド気味のキックで逃れるも、再度この技をかけた藤波が、再びキックを出してきた足をそのまま掴み、足取りドラゴン・スリーパーとしてギブアップを奪ったことがある(技としては、別物ではある)。
ロープに飛んだ相手をカウンターでスリーパーホールドに捕え、そのままドラゴン・スリーパーに移行するのが定番ムーブ。
ジャーマン・スープレックス(原爆固め)
ドラゴン・スープレックス封印以降の大一番でのフィニッシュ・ホールド。フォールは奪えなかったが、ブルーザー・ブロディを投げたこともある。
猪木引退興行でのIWGP戦、不恰好ながら数年ぶりに見せフォールを奪った健介へのジャーマンはファンを狂喜させた。
ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ(後方回転足折り固め)
相手の背後からジャンプしながら脇下に両足を差し込んで、振り子の勢いで後方回転し、相手の体をエビ状にして相手の足を自分の両足でクラッチしながら自らはブリッジして固める。
ジュニアヘビー級時代によくフィニッシュに使っていた技。また、最後の固め方は同じだが、相手がうつぶせ状態のとき、その上から自分の両足を相手の両脇に引っ掛けるように差し入れて、相手を横方向にひっくり返しそのままジャパニーズ・レッグロール・クラッチに持っていく入り方を特にドラゴン・レッグロール・クラッチと呼んだ。
延髄斬り
師匠・アントニオ猪木の必殺技。直系弟子である藤波もまたこの技を継承している。藤波は「斬る」というよりも完全に後頭部を空中で蹴りつける感じで見舞う。
サソリ固め
度重なる長州力との抗争の中で身につけた技であり、通称「掟破りの逆サソリ」。本家である長州のサソリ固めは、対戦相手の足を固めて捻り、身体をうつ伏せ(反転)にさせてからステップオーバーするが、藤波は自分がステップオーバーする勢いで相手をうつ伏せにさせる。
ジャンピング・フットステップ
仰向け状態の相手のおでこを自ら軽くジャンプしながら両足の靴底でこする。フライングメイヤーで倒した相手に連続して見舞うのが藤波流。これもジュニア時代に頻繁に使っていた。
ドロップキック
独特の正面飛びドロップキック。バンプの上手い藤波ならではの出し方である。ジュニア時代はかなりのハイアングルで放ち、まさしく“矢のような”ドロップキックだった。
グランドコブラツイスト
リック・フレアー天龍源一郎らからフォールを奪った藤波の奥の手。腰を痛めてから使用し始めた。
ドラゴンリングイン
技ではないが、藤波の定番ムーブのひとつ。ネーミングも公式なものではなく、ファンがそう呼んでいるだけである。タッグマッチにおいて、パートナーからタッチを受けてリングインする際に、トップロープ最上段からリングインする。自軍がどんなに有利な状況でタッチを受けても、リングインした瞬間に攻撃を受けて劣勢に陥るという流れまで定番ムーブである。

[編集] タイトル履歴

NWA
  • NWA世界ヘビー級王座: 1回
  • NWAインターナショナルジュニアヘビー級王座: 1回
  • NWAパシフィック ノースウェストヘビー級王座: 1回
新日本プロレス
WWF
  • WWFインターナショナルヘビー級王座: 2回
  • WWFインターナショナルタッグ王座: 1回(&木村健悟)
  • WWWFジュニアヘビー級
その他
  • WCWA世界ヘビー級王座: 1回
  • CWAインターコンチネンタル王座: 1回
  • PNWヘビー級王座: 1回
  • UWA世界ヘビー級王座: 1回

[編集] エピソード

  • 「プロレスは、相手との信頼関係があるからこそ、やれるんです。」という藤波の言葉が表すように、相手選手の持つ良さを引き出すことに長け、名勝負製造機とも言われた。その技量はフレアー、マードック、武藤といった多くの選手たちから絶賛されている。また、ストロング・スタイルの正統派レスラーと見なされているが、流血や乱入といった荒れた試合も自然にこなせる力量も兼ね備えていた。
  • カール・ゴッチに指導を受けていた頃、ゴッチの自宅にはマットが無く庭の芝生の上で練習をしていた。ゴッチが課すスープレックスの練習はサンドバッグを抱えてとにかく反り投げる動作を繰り返すというもので、固い芝生で後頭部を強打し続けた藤波は連日脳震盪を起こし「このままでは俺は技を憶える前に頭がおかしくなる」と内心心配になってしまったという。
  • 藤波が新日本の若手でWWWFのジュニア時代の若手の伸び盛りである1979年頃、ホープである藤波を盛り上げようとするイベントが蔵前国技館であり、テレビ朝日で中継した。そのイベントでは番組公募の子供達がリング上でサンドバッグに体当たりするという催しがあったが、そのサンドバッグを押さえる役だったのが吉田光雄からファン投票で選ばれたリングネームに改名して間もなかった当時の長州力であった。また同イベントは歌謡ショーもあり、藤波の大ファンだと本人のデビュー当時から公言していた、当時アイドルだった井上望(現在エド山口夫人)がこのショーのゲストの一人で、この藤波の応援イベントの出演に感激しきりで泣いてしまう一面もあった。
  • 相手の必殺技を盗む「華麗なる盗人」と言われ、「名勝負数え歌」と言われた長州力戦でみせる長州力の得意技“サソリ固め”は、当時実況の古舘伊知郎をして“掟破りの逆サソリ”と言わしめた。
  • パートナーからタッチを受けた後コーナーポストにのぼり何もせずにリングに飛び降りる「ドラゴンリングイン」(別名:雪崩式リングイン)、その他独特の呼吸法なども有名。
  • 両足を揃えたまま完全な仰向け状態にジャンプして放つ昔ながらのドロップキックスタイルは、失敗するとバックドロップを受けたように背中から後頭部にかけてをキャンパスに強打(一人バックドロップ)するため、「ジバック(自爆)ドロップキック」と言われ、ファンに失敗を期待させた。また、藤原喜明限定のブレーンバスターをしかける→脇固めに返される、逆エビ固めをしかける→レッグシザースで返される、マードック限定のリング内に入ろうとするマードックを半ケツ状態にする、というお約束ムーブも持っており、会場を大いに沸かせた。
  • 1985年5月17日の熊本大会で、スーパー・ストロング・マシンに「お前平田だろ!」とマイクアピールをした。覆面レスラーの正体を明かすのはタブーとされている上、当日の試合は「ワールドプロレスリング」で生中継されており、藤波の正体暴き発言は全国のプロレスファンに知れ渡ることになった。ちなみにこの発言は藤波のおとぼけであるという説と、平田にマスクを脱がせたかった会社が藤波に代弁させたという説がある。(2009年9月19日放送の「タモリ倶楽部」では「マイクを向けられた時に話すことが無いのでつい言ってしまった」と発言している。)なお、この発言のずっと後に平田はマスクを脱いで正体をさらしたが、その後も素顔で試合に出場する一方で「魔界1号」「ブラック・ストロング・マシン」と名前を変えながら覆面レスラーとしても出場することもあり、その時には観客から「おまえは平田だろ〜」という声を浴びている。
  • 1985年11月1日に、入場テーマ曲であったエディ・グラントの「Boys In The Street」のカバー曲である「マッチョ・ドラゴン」というレコードを本人のボーカル入りで発売している。しかし歌唱力に関してはお世辞にも良いとはいえず、コサキンソングとして取り上げられるなどある意味で伝説的な曲となってしまった。関根勤も「とんねるずのみなさんのおかげでした」の中で「小学生が歌ってるみたいなんだよね」とコメントしている。その後は藤波本人がCD化を断ったこともあり、永らくその存在が封印されていたが(入場テーマも当初はボーカル版を使用していたが、後にインストゥルメンタル版に変更した)、2005年のG1でケンドー・カシンが入場曲にボーカルバージョンを使用し再び脚光を浴びた。子供への人気を狙った童謡風の「ドラゴン体操」も迷曲としてカルトな評価を得ている。なお、作詞は森雪之丞である。
  • なお、この「マッチョ・ドラゴン」発売について、当時タッグパートナーであり、先に「らしくもないぜ」というレコードを発売していた木村健悟より「(歌唱力でも売上枚数でも)片手、片足、さらに口を半分閉じるハンディがあったとしても藤波選手には絶対負けない」と酷評されたが、この発言を聞いた猪木が「うまさと人気はまた別だから」と予言した通り、歌唱力はともかく売上は大差で藤波の勝ちだった。
  • 発言の趣旨が日によって変わってしまうため、ファンだけでなく、一部の選手からも「コンニャク(社長)」と揶揄されている。特に、頻繁に引退宣言をしては撤回することが多い。本来、引退へはカウントダウンだがカウントアップしており、この点において師匠のアントニオ猪木の回数を上回っている。
  • 長年ライバル視していたジャンボ鶴田は、藤波に対して「彼はいつもマスコミを使って対戦を主張してくる。直接僕に電話なりしてくれればよかったのに」と発言しており、また「(鶴田はヘビー級で当時の藤波はジュニアヘビー級ということもあり)元々体格が違うから」とも発言し、積極的に対戦したかったわけではないようだ。だが後日、鶴田は藤波に「失礼な発言をしてしまった」と、FAXで謝罪した。
  • 2001年のドーム大会の橋本vs長州戦において、橋本・長州とも互いにフォールしようとせず打撃技のみのKO勝ちを狙おうとしたため、試合中TV解説席からリング上のタイガー服部レフェリーに両手を×の字にクロスして試合中止を決めた。この藤波の裁定が、一部ファンから「ドラゴンストップ」と呼ばれた。以後、団体側の都合で強引に試合を中止にしてしまうことを「ドラゴンストップ」と揶揄して呼ばれることがある。この一件は試合の実況中同席していた解説者の山崎一夫が「二人とも潰れちゃいますよ!藤波さん、止めなくていいんですか!藤波さん!」と何度も呼びかけて、その後ストップさせたものであった。藤波は「我々は殺し合いをしているんじゃないんだ」と語った。その後も天山広吉獣神サンダー・ライガーは「ぶち殺す」や「ブっ潰す」といった発言が定番化していることから藤波の発言には矛盾が生じてしまった(とはいえ、これらの発言はプロレスにおける常套句でもある)。この時の「ドラゴンストップ」は事前に勝敗を決めかねたことによる「台本」通りにやっただけであり、藤波一人に責任を負わせるのは不適当だ、とする意見もある。ちなみにこの「我々は殺し合いをしているんじゃないんだ」は声がこもっていたため中継時は何を言っているのかよく分からず、ユリオカ超特Qのネタにされたことがある。
  • タレントとしては、1989年TBS系の特別番組・ウルトラマンを作った男たちに、科学特捜隊のムラマツキャップ役で出演したのをはじめ、同じくTBS系の世界ウルルン滞在記、NHKの生活ほっとモーニングおーい、ニッポンひるどき日本列島等に出演。1996年には朝の連続テレビ小説ひまわりにも出演(主演松嶋菜々子{南田のぞみ役}の家の近所で空手の道場を開いている師範代の“タイガー原田”役)。1998年には、映画「新宿少年探偵団」に、加藤あいの父親役で空手家として出演。なお、最初にタレントとしてテレビ登場したのは1983年三枝の国盗りゲームだった。
  • NHK総合テレビの「生中継ふるさと一番!」(月〜木曜・昼12:20)のレギュラーゲスト(不定期)として全国各所から出演する。
  • 2007年11月28日NHK「スタジオパークからこんにちは」に出演。馬場と猪木と入門時の藤波3人が写っている貴重な珍しい写真が公開された。また同番組中、ファンからのFAXメッセージに答え「嫁さんとの出会いのきっかけにもなった、大阪寝屋川でのチャボ・ゲレロ戦は私にとってのベストバウトです」と明言した。
  • マニアで有名である。以前工務店に藤波城の見積もりを頼んだ所100億円した。上記のスタジオパークで藤波は「いつかは建てたいという願望はまだ持っている」とコメントした。また、「芸能人のお宅拝見」的コンセプトの「俺の城」という番組の出演依頼を受けた際、「城のことならいくらでも語れます。まかせてください」と番組趣旨を履き違えてオファーを受けてしまった、と番組内で夫人が語っている。好きな城として姫路城彦根城熊本城松本城大阪城を挙げている(2009年9月19日放送の「タモリ倶楽部」で発言)。
  • 1997年には、法務大臣より藤波の青少年育成活動に対して感謝状が贈られた
  • 藤波の青少年育成活動に影響されて、親交のあったKONISHIKIがタレントに転向したと言われる。
  • 口癖は「ある部分では〜」。
  • 伽織夫人は女優顔負けの美貌の持ち主(ジュディ・オング似)。資産家の娘でもあり、資金難に喘いでいた新日本プロレスは随分と夫人の実家にお世話になったらしい。かねてより藤波一家(娘と息子)水入らずで土曜スペシャルテレビ東京系)旅番組に出演。また最近は伽織夫人単独でも土曜スペシャルの旅番組の出演が多い(共演者は女優の山口いづみが多い)。また同番組では夫人単独の場合でも「プロレスラー藤波夫人」等と紹介が無いため、「あの美女は誰だ」といった問合せが局にあるらしい。
  • ビッグバン・ベイダー戦でバックドロップによって腰を痛めて長期欠場と言われていたが、実は長年の腰痛の原因は椎間板ヘルニアである。
  • 長年広島ファンと思われていたが、本人は「僕は長嶋さんに憧れた世代で、昔から巨人ファン」とテレビで言った。また、千葉ロッテマリーンズの鹿児島キャンプにも棚橋弘至と一緒に参加した。
  • 温厚な性格で、1982年2月14日のメキシコにおけるブッチャーとの試合で、ブッチャーに凶器攻撃をされ血だらけになり、試合後ブッチャーに襲いかかった観客を見て、ブッチャーの救出をしたことがある。
  • 飛龍革命の中で猪木に張り手を食らった後に猪木に張り手を打ち返した際、何かを叫んでいたのだが、何を叫んでいたのかが長年解明されずファンの間で憶測を呼び、後にビビる大木がVTRを見せながらなんと叫んでいたのかと尋ねたが、藤波は「俺もわかんないんだよね」と言ったため、真相は解明されずにある。
  • 非常に性格が良くファンを大事にしたと言う。川田利明小橋健太獣神サンダー・ライガーと彼に憧れてレスラーに成った人物も多い。

[編集] 政界進出断念

  • 自民党からは幾度と無く立候補を打診されるも、その都度発言は二転三転し、結果的には立候補までには至らず。
  • 新日本プロレス社長時代も、オーナーのアントニオ猪木に相談したところ、自民党公認であること(猪木はスポーツ平和党=会派は民社党と組んだ)に難色(実は強く反対された?)を示され断念した経緯がある。

[編集] 入場テーマ曲

  • ドラゴン・スープレックス
  • マッチョ・ドラゴン(インストゥルメンタル版)
  • RISING
  • 超飛龍
  • ROCK ME DRAGON(1987年松岡直也作曲による。藤波自身もRAPとして参加。また松岡は退場テーマ曲「DRAGON THE CHAMPION」も作曲しており、両曲は12インチ・シングルとして発売された)

[編集] 著書

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月3日 (火) 03:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【藤波辰爾】変更履歴

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